金色の龍は、黄昏に鎮魂曲をうたう

08


 昨日小六と訪れた時は深い霧に覆われていた、龍神の谷。

 今、その場所には一片の霧もなく、目の前に広がるのは荘厳な自然の造形美だ。

 険しくも美しい切り立った岩壁を轟々と音を立てて流れ落ちる壮麗な大瀑布。飛び散る飛沫に反射して煌く陽光。滔々(とうとう)と流れゆく、清流の響き……。

 再びその地に足を踏み入れたオレの傍らにあるのは小六の姿ではなく、水神より授かりし神刀と、それに取り憑く蒼い物の怪だった。

「これが龍神の谷か……」

 感慨深げな口調でアオはその光景に見入った。三角の耳をそばだて、鼻をヒクつかせて、まるで全身でその全てを感じ取ろうとするかのように首を伸ばす。

「見覚えがあるのか?」

 その仕草にそう言って肩のアオを見やると、いつもと同じ不確かな答えが返ってきた。

「分からん。だが、何やら心の底に深く感じ入るようなものがある。……しかし、ひどい淀みようだ。これがかつて神域と謳われた場所とは……」

 淀み?

 オレは内心首を傾げながら辺りを見渡した。

 視界には美しい雄大な自然の風景が溢れ、空気も澄んでいて、普通の人間のオレにはアオの言うような淀みは感じられない。

「……そうか? まぁ神域って言うよりは禁域ってカンジだけど……」

 辺りに満ちる独特の張り詰めた雰囲気をそう表現した時、その濃度が一気に高まった。

(くく……せっかく拾った命を、自ら捨てに来たのか?)

 水龍……!

 肩に乗ったアオが姿勢を正し、滝の向こうを凝視する。オレは蒼影牙の柄を握りしめ、怒りに震える声を吐き出した。

「それを見越してこういうお膳立てをしたんじゃねぇのか……! ご丁寧に霧まで消し去って……!」

(誘われていると知りながらやってきたか。よほど那由良が大事らしいな……)

 揶揄するような響きと共に、大瀑布を割り、水龍がその巨大な体躯を現した。瞬間、アオの身体に電流が流れるにも似た衝撃が走ったのをオレは感じた。

(大した期待はしていなかったが、こうも思い通りにいくとは……。くく、よくぞ目障りな刀を抜き、ここまでのこのこと持ってきてくれたものだ……)

 オレの手の中の蒼影牙に邪悪な意思を注ぎ、水龍はうっすらと嗤った。狙い通りと言わんばかりのその言い草に、冷たい予感が背筋を駆け抜ける。

 まさか……最初から、それが狙いだったっていうのか!?

(そしてこの舞台に相応しい、実に面白い客を連れて来たものだ……)

 禍根を孕んだ禍々しい視線がアオを射る。

(久しいな、“蒼の”……随分と惨めな姿になったものだ。お前のチカラを小僧から感じた時は、少々驚いたぞ。未練たらしく、まだこの世にしがみついていたとはな)

 やっぱり水龍は、アオを知っていた。

 息を飲むオレの肩で、怒りからか、慄きからか、蒼い炎のように揺らめく全身を逆立てながらアオが唸る。

「……お前は」

(くく……どうした? 昔のように呼んではくれぬのか? もっともお前同様、ワシの姿も以前とはだいぶ変わってしまったがな……しかし、それが分からぬお前ではあるまい? 記憶でも失くさぬ限りはな)

 明らかにそれを確信している様子で、水龍は悪意に満ちた言葉を綴った。

(くくく、図星か。でなければ今までお前が出て来なかったことへの説明がつかぬからな。記憶を失くし、その刀の側で養生でもしていたか?)

 無言でにらみ上げるアオを愉しげに見やり、水龍は酷薄な笑みを浮かべた。

(哀れなものだ……かつてのお前を知る者としては、気の毒でたまらんよ。そうそう、面白いものを見せてやろう。お前達がここへ来た目的でもあるものだ……)

 滝壷から水飛沫が上がり、球体の薄い水の膜に閉じ込められた長い黒髪の少女が現れた。

「―――那由良!」

 水の檻に囚われた少女は膝立ちで球体の膜に手を押し当てるようにした状態で、目を瞠るオレ達を見つめていた。

「彪……!」

 水の檻の向こうから、くぐもった彼女の声が聞こえてくる。

「那由良、待ってろ! 今助ける!」

 叫ぶオレの耳に、思わぬ声が飛び込んできたのはその時だった。

「……水那―――……!」

 驚いて視線をやるオレの目に映ったのは、猫のような瞳をいっぱいに見開き、愕然とそう呟いたまま、彫像のように硬直するアオの姿だった。

 ―――アオ?

「お前、水那を知って―――?」

 そう問いかけたオレはアオの身体が細かく震えていることに気が付いた。次第に大きくなっていく震えに伴い、途切れ途切れにこぼれ落ちる、言葉。

「いや……あれ、は―――那……由、良……」

 食い入るように那由良を見つめるアオの口から続いてもたらされた衝撃的な発言は、オレを心の底から仰天させた。

「―――あれは那由良、私の娘……!」

 ―――娘!?  那由良が、アオの!?

 ウソ、だろう!?

 那由良にもアオのその声は届いたのか、耳を疑う表情で、茫然とオレの肩の蒼い物の怪を見つめている。

(くくく、そうだ……お前の娘の、那由良だよ。どうやら思い出したようだな……)

「―――お前は……“翠の”……」

 呻くように呟き、水龍に牙を剥いたアオの身体に変化が起こった。蒼い炎のような毛並みが勢いよく逆立ち、そこから蒼いオーラが立ち上る。

「よくも、私の娘を……許さぬぞ……!」

 深い怒りに燃える、蒼の双眸。立ち上るオーラの勢いと共に、まるでそれに溶け込むようにして、アオの身体の輪郭が歪み、その形をなくしていく。

(懐かしい呼び名だ、“蒼の”……だが、その言葉は少々心外だな。ワシはお前の代わりに、ここまで立派に娘を育ててやったのだぞ。感謝こそされ、なじられる筋合いなどないな)

「戯れ言を……! 全ては貴様のくだらぬ思惑の為だろう……!」

(くく……伝わってくるぞ、お前の怒りの波動が―――無念だろう? 悔しかろう? 愛しい女との間に儲けた子がワシの手駒と成り下がり、お前が愛し護り続けたこの地で、何百年もの間、血の粛清を行っていたのだ……)

「そう仕向けたのは、貴様だろう!」

 声を振り絞るようにして叫ぶアオ。水龍は凄惨な笑みを浮かべ、巨大な口を大きく耳元まで裂けさせた。

(どんな気持ちだ? かつての力を失い、“自分の姿を纏った仇敵”に大切な娘を囚われ、どう足掻いても敵わないと思い知らされる現状は! ぜひ聞かせてもらいたいものだな!!)

 自分の姿を纏った!? どういう意味だ!?

 混乱するオレの前で、アオの身体から放たれるオーラが一層の眩さを増した。

「アオッ……!」

 たまらず目をつぶりその名を呼ぶオレの耳に、蒼い光の中に溶けてゆく、揺るぎない決意を湛えた蒼い物の怪の声が響いた。

「彪……私の全てを、お前に託す。刺し違えてでもあやつを倒せ」

 うっすらと開けた視界の向こう、眩い蒼の光の氾濫する中、蒼い焔(ほむら)と化した龍が、蒼影牙に飛び込んでくる瞬間を、オレは見た。



 
*



 凄まじい勢いで、膨大な映像が流れ込んでくる。

 流れゆく水……萌える緑……茜色に染まる大地……大空を舞う、龍達の飛影……人々の祈りの声……移り変わる季節。巡りゆく歴史。そんな中、ふと心の琴線を震わせた、一際清涼に響く、美しい声音―――……。

『光栄です……水神様にお会い出来て』

 目の前で清楚な微笑みを浮かべる、長い黒髪を結い上げた美しい女性。

 ―――那由良!? いや……。

 よく似た造作。けれど違う。その女性は彼女より少しだけ大人びていて、身に着けているものは巫女の衣装だった。

 辺りに響く滝の轟き―――今とは若干風景が異なるけれど、場所は龍神の谷だ。

 ―――水那……!? これは―――アオの記憶!?

 映像が移り変わり、桜の花びらが舞う季節、同じ場所で、また少し大人びた彼女が頬を染めながら、こちらを見上げて報告をしている。

『貴方の子を……授かりました』

 そう伝えられた人物の受けた衝撃と、喜びと、憂いと……様々な想いがない交ぜになった感情が、伝わってくる。けれど、その中で一番大きかったのは、喜びだった。

 愛しい者との間に授かった、新しい生命の喜びを分かち合う二人の胸に続けて去来した想いは、同じものだった。

 人と、人在らざる者。種族の枠を超えて奇跡的に結ばれた二人は、決して一緒にはなれぬ運命にあることを知っていた。

 純潔を失った彼女は巫女としての資格を失い、霊域であるこの地を訪れることが出来なくなる。一方の相手の男は人間達の間にあるその仕来りを理解しており、そして、この地を離れるわけにはいかない理由があった。

 お互いに添い遂げることが叶わないと分かっていながらも求め合わずにはいられなかった、熱く深い、切なる想い。二人に後悔の念はなかった。

『那由良……。良い名前ですね。この子もきっと、喜びます……』

 寂しさを押し隠して微笑むそんな彼女に、その人物は一振りの刀を手渡した。

『これは……』
『蒼影牙。蒼い影の牙と書く。私の牙より造り出した刀だ……』

 響いたのは、悠然とした、聞き覚えのある声音。

『これを持ってゆけ。側に在らずとも、この刀がお前と那由良を護る』

 仄青い輝きを放つ神刀を受け取り、水那はそっとそれを抱きしめた。

『気高くて温かい、貴方の力を感じます……ありがとう。この刀の恩恵を、村のみんなにも分けてあげてもいいですか?』
『……それは既に、お前のものだ。お前がどう扱おうとも、私に否はない―――』

 場面が再び移り変わり、飛び込んできたのは、凶悪な様相の翠銀の鱗の龍―――その襲来を迎え撃つ蒼銀の鱗の身体が見える。

 暗雲渦巻き雷光の走る中、人智を超えた龍神達の激突に、山は砕け、火柱が吹き上がり、緑は薙ぎ払われ、眼下にはこの世の地獄のような光景が広がっている。その中で、ぼんやりと蒼い光に包まれた一角が見えた。

(くくく、強い、強いなぁ、“蒼の”! 老いた身体には堪えるわ……)

 血にまみれた翠銀の龍が、しわがれた声で哄笑する。

 ―――これが地龍!? でもこの声は……。

(お前が本気を出せば、ワシのような老いぼれなどもっと簡単に叩き伏せられように……躊躇する理由は、人間か? あの結界を破壊しかねないのが心配なのか?)
(退け、“翠の”。何故戦いを望む。最後の龍族たる我らが争って何になるのだ。龍族の絶滅が早まるだけだぞ)

 冷静にそう返す相手に、老いた翠龍は狂気の灯った赤黒い眼差しを向けた。

(最後の、か……くく、いつからか、我ら龍族には女が生まれず、子を成すことが出来なくなった……神とやらの意図が、ワシには分からんよ。知にも力にも秀でた我らを淘汰し、何故愚鈍な生物だけを残そうとする。ワシは逆らうことに決めたのだ……)

 その意図を計りかね黙する相手に、地龍は卑しい笑みを浮かべた。

(このワシが何の策もなくお前を相手にすると思ったか? 人間の女などに心を奪われた愚かな若造……)

 凶悪な翠の光弾が老龍の口の中に生まれた。

(! 貴様ッ……!)

 蒼い結界に向かって放たれた光弾の前に立ちはだかった蒼銀の身体を、灼熱の衝撃が襲う! 目も眩むような光と共に耳をつんざく大爆音、吹き荒れる凄まじい衝撃波―――!

 それを割って、鋭い牙を剥いた地龍が襲いかかる。深い傷を負いながらもそれをすんでのところでかわした蒼き龍は、残る全ての力をもって老龍の喉笛に喰らいついた。

(く、くくく……惜しかったな、“蒼の”……お前の牙が欠けてさえいなければ、この一撃で、ワシの首を落とせたものを……!)

 口から血反吐を吐きながら、老いた龍は嗤った。

(かかったな! この時を待っていたぞ!)

 相手の牙が食い込んだ喉笛を自ら引き千切り、鮮血を噴き上げながら、地龍は驚きに眼を剥く蒼銀の首筋にその牙を突き立てた。

 そこから流れ込む、おぞましい気配。体内を異質なモノに侵食されていく、危機的な感覚―――それは瞬く間に全身へと広がり、とっさに彼は、己の自我と、残ったわずかなチカラとを外に逃がした。それが精一杯だった。

 引き寄せられるようにして眼下に迫る、蒼い結界。その中心に佇む小さな社―――暗く狭まる視界の中、地に墜落する抜け殻となった地龍の姿を最後に、世界は闇に閉ざされた。



*



 アオと一体化し、神々しい輝きに包まれた蒼影牙―――そこから流れ込む強い力と共にそれが伝わってきていたのは、ほんの何秒間だったのか。

 その短い時間の中でオレが垣間見たものは、紛れもないこの地の真実の歴史だった。

 アオの正体は、水龍。この地に古くから住まう、水の護り神。そして、その牙から造り出された蒼影牙。その名の通り、愛しい者を影から見守る為に生み出された、蒼き龍の刀。

 那由良は、水龍と人間の巫女との間に生まれた、ハーフ。

 そして―――。

 オレは目の前に立ちはだかる、全ての悲劇の根源である邪悪な龍をにらみ上げた。

「てめぇは……地龍!」

(くくく、ヤツの記憶でも覗き見たか?)

 赤黒い瞳を妖しく細め、アオの肉体を乗っ取った諸悪の権化は顔を歪めて嗤った。

「地龍……?」

 話の展開についていけない那由良が不安そうに眉をひそめて、蒼銀の鱗の龍を仰ぐ。

(くくっ、那由良……当事者であるお前だけが知らぬというのも酷な話だ。いい機会だ、本当のことを教えてやろう)

「本当、の……?」

 呟く彼女の声に本能的な恐れが宿る。

(あぁ。お前の父親は、母親を強姦した村人の誰か―――そういう設定だったな。だが、本当は違う。お前のチカラも、ワシの能力を分け与えたものではない。あの刀と同化した先程の蒼い妖、あれがお前の本当の父親……この肉体の元の持ち主だ)

 見えない何かに打ちのめされたように、那由良は大きく身体を震わせた。

(お前と母親を心から愛し、この地を護る為、命懸けでワシと戦い、あげく肉体を奪われた哀れな輩―――本物の水龍がお前の父親だ)

 凛とした那由良の瞳が歪んで揺れる。その頬を、一筋の涙が流れ落ちた。

「ず……ずっと、騙して、たの……? ずっと、こんな……何百年、もっ……!」

(くくっ、そう怒るな。悪気があったわけではない……お前の生きる理由をより明確にしてやろうという親心だ。村の連中がお前の母をこの谷に投じたのは、紛れもない事実なのだからな。ワシはお前の命の恩人……言うなれば父親も同然だ。瀕死の水那の腹を引き裂き、お前を取り上げてやったのは、このワシなのだからな!)

「いっ……いやあぁぁーッ!」

 地龍の口から語られる、あまりにも残酷な真実―――耳を塞ぎ、那由良は慟哭した。

 手の中の蒼影牙が、オレの怒りに同調してドクン、と脈打つ。

「―――地龍ッ!」

 怒りの咆哮を上げ、オレは駆け出した。

 有り得ないスピードで足が大地を蹴る。手にした蒼影牙はしっとりと掌に吸いつくように軽く、漲る力をオレに注ぎこんでくる。

(くくく……!)

 不敵な笑みを浮かべ、地龍はそれを迎え撃った。

(哀れな末路よな、“蒼の”! 強大な力を誇った貴様が脆弱な人間などに縋り、一縷の望みを託すしかないとは! 引き際を誤るとは残酷で醜きことよ!!)

 凶器と化した水の飛礫が飛んでくる。蒼影牙の結界でそれを回避したオレに、風切り音を伴ってしなった尾が襲いかかる!

「彪ッ!」

 悲鳴のような那由良の声―――重々しい音を立てて大地が陥没し、土煙が舞い上がる。

 宙に、オレは跳んでいた。すぐそこに、地龍の顔がある。人間にあるまじき跳躍をオレはしていた。

「オリンピックに出たら金メダルだぜ……」

 そんなことを言っている場合じゃなかった。

 目の前で開く、巨大な口。そこから覗く鋭利な牙の中、三本しかない、犬歯。

 やりきれない想いを噛みしめながら、オレは蒼影牙を握る腕に力を込めた。

 ―――行くぞ、アオ!

「―――だぁッ!」

(宙に舞うとは愚かな……叩き落してくれる!)

 気勢を上げて刀を振り下ろすオレの頭上から、地龍の腕が迫る!

 ごく普通の高校生のオレは、もちろん剣術の心得などない。刀を持ったこと自体が初めてだ。型も何もあったもんじゃない。

 けれど迷いはなかった。構わず、目の前の蒼銀の首筋に全体重を乗せた一撃を叩き込む!

 しかし、濁った血飛沫が上がったのは地龍の肩からだった。かわされた!

 地に降り立ったオレを叩き潰す勢いで、龍の腕が地面に激突する! 当たっていないはずなのに風圧で皮膚が裂け、頬から鮮血が噴き出した。

(ほぉ、避けたか……ひ弱な人間如きにそれだけの力を与えるとは、さすがだな。だが、所詮は付け焼刃……水龍の成れの果ての力を宿した、たかが一振りの刀で、人間如きがこのワシに敵うと思うか!)

「ひ弱な人間を、ナメんなよ……!」

 蒼影牙を構え直しながら、オレは呼吸を整えつつ、地龍との距離を取った。

 あの時、アオから全てが伝わってきた。

 蒼影牙は那由良と水那を護る為に造り出された刀。想いの強さが、力となる刀……!

「『極上』を通り越して、『究極』のいい匂いになってやる……!」

(くくっ、ワケの分からぬことを……恐怖で気でも触れたか?)

 赤黒い瞳を妖しく輝かせる地龍の背後で、奇妙な音を立て、滝が瞬く間に凍り始めた。目を疑うオレの前で、完全に凍りついたその滝から、無数の鋭い槍が作り出されていく!

(死ね!)

 繰り出された氷の槍が、幾つものの直線を描いてオレに襲いかかる!

「くっ!」

 降り注ぐ氷の槍の中、オレは必死に蒼影牙を振り回した。硬質な音を立てて砕け散る槍はひとつひとつがずっしりと重く、危機的な衝撃を掌に伝えてくる。

 こんなの、喰らったら……絶対に死ぬ!

 氷の槍に手一杯のオレに、地龍が牙を剥いて襲いかかった。

「! しまっ……!」

 側面から鋭い爪の一撃をもろに喰らい、勢いよく弾き飛ばされる! 大地が陥没するほど激しく地面に叩きつけられ、もんどりうったオレは呻き声を上げた。

「がっ……は、あっ……」
「彪―――ッ!」

 蒼白になった那由良の絶叫が耳に響く。

 いってぇ……腹―――オレの腹、は……。

 ざっくりと裂けたTシャツ。皮膚が赤くなり血は滲んでいたけれど、抉り取られてはいない。どうやら骨も無事のようだ。蒼影牙の不可視の盾がなかったら、間違いなくオレの脇腹はなくなっていたことだろう。

 体勢を整える間もなく、再び氷の槍が襲いかかった。

 くそっ……また今のパターンで来る気か!?

「やっ……やめて―――ッ!」

 張り裂けるような那由良の叫びと共に、何かの破裂音が響き渡った。瞬間、氷の槍が水に戻って辺りに飛び散り、オレは驚きに目を見開いた。

 ―――!?

(な……!?)

 それは地龍も同様だったらしい。振り返った視線の先には、自力で水の檻を打ち破った那由良がいた。肩で大きく息をつきながら、乱れた髪もそのままに、彼女は頬に力を込め、濡れた瞳で地龍をにらみつけた。

「これ以上っ……これ以上彪を傷付けたら、許さない……!」

 那由良……!

 この時、オレはある可能性に思い至った。

 地龍は、水龍(アオ)の肉体を乗っ取ったとはいえ、元々は水を操るチカラを持っていなかったはずだ。一方の那由良は、水龍(アオ)と稀代の水の巫女、水那との間に生まれた娘。

 もしかしたら……!?

(許さない、だと? くくく……)

 赤黒い双眸をギラつかせ、地龍はその鎌首を那由良に向けた。

(どう許さないと言うのだ? お遊び程度のワシのチカラを偶然凌いだだけで、鬼の首でも取ったつもりか? くだらん……だがな、これほど矜持を傷付けられたのは初めてだ!)

 大気を震わせる怒りの咆哮―――那由良はそれを受け止め、水の神に毅然と立ち向かった。

「たくさんのウソで塗り固めて、憎ませて、苦しめて、傷付けて、愉しんで……! この上彪まで奪うというなら、あたしは全力でそれを阻止する……!」

(小娘が!)

 凍ったままの滝から新たに生み出された氷の槍が、空気を切り裂き那由良に迫る!

「水に戻って!」

 那由良が叫ぶが、冷たく輝く槍に変化は起こらない。

「きゃあっ!」

 着物を貫かれ、彼女はまるで昆虫の標本のようにして大地に縫いつけられてしまった。

「那由良!」

(くくっ、どうした那由良……ワシが少し本気を出すと、手も足も出ぬか)

「く……!」

 どうにか自由を取り戻そうともがく彼女の両の首筋、皮一枚を裂いて、大地に氷の槍が突き刺さる。

 冷たい余韻に呼吸を止め、身体を強張らせる那由良。そんな彼女に冷酷な視線を注ぎ、地龍は冷んやりと笑んだ。

(非力とは、悲しいなぁ……どれほど悲壮な決意をもって臨もうが、絶対的な力の前には、弱者は惨めに屈するしかない―――くく、小僧を傷付けることは許さぬ、だと? 血染めの巫女が、いっぱしの愛でも語るつもりか? とんだ笑い種(ぐさ)だ! この地には、お前が屠った者達の血と怨念が染み付いている……ワシの道具として働いてきた殺戮者のお前に、そんな資格があると思うか!)

 那由良の瞳が、揺れる。そんな彼女を見下ろし、地龍は傲然と言い捨てた。

(道具が主に逆らうとどうなるか、たっぷりと教えてくれる。よぉく見ておけ―――お前のせいで愛する者が死んでいくその様をな!)

 那由良の整った顔が恐怖に歪んだ。

「―――やめ、て……。あたしはどうなってもいい、だから、彪は―――彪だけは……!」

 かすれた声が、彼女の震える喉から漏れる。

(なぁに心配するな。悲しいのは一瞬だ……ヤツが死に、忌々しい刀を始末したら、お前もすぐにあの世に送ってやる。くくく、血塗られたお前の運命に相応しく、父親も母親も、愛する男さえも失って慟哭するがいい!)

 言い終わるや否や、氷の槍が飛んできた。それを蒼影牙で叩き折り、全身でオレは叫んだ。

「フザけんな! 何がこの地の絶対者だ……てめぇのその神様ゴッコのせいで―――那由良が、村の人達が、どんだけツラい思いをしてきたと思ってる!」

 激しい憤りが全身を支配する。これほどの怒りを覚えたのは、生まれて初めてだった。

「オレが断ち切る! この地から、てめぇをな!!」

 たぎる血のままに、きつく蒼影牙を握りしめ、オレは駆け出した。

(ふはは、やれるものならやってみろ!)

 絶対的な優位を確信する地龍の意に操られ、氷の槍が飛来する!

「だあぁ―――ッ!!」

 気合一閃、蒼影牙から巻き起こった剣圧に弾かれ、透明な槍が砕け散る!

(な……!?)

 意外な光景に目を瞠る地龍。氷の槍を突破したオレはそのまま跳躍し、巨大な敵の頭上から蒼影牙を振りかぶった。

(ち……!)

 オレを叩き落そうと振り上げられる頑強な腕。

 ヒイィィ……ン!

 蒼影牙が呼応する。渾身の力を込めて、オレはそれを振り下ろした。

「―――いっ……けえぇぇーッ!!」

(……―――な!?)

 余裕のあった地龍の顔に驚きが入り混じった。次の瞬間、硬い肉を斬り裂く感触と共に、その右腕の指三本が宙を舞っていた。

(バ、バカなっ……!)

 驚愕と屈辱に彩られた地龍の声。

「―――もう、充分だろうが!」

 再び蒼影牙を振り下ろしながら、突き上げる怒りのままにオレは叫んだ。

「父親の肉体を乗っ取って、母親を死に追いやって、何の罪もない子供をだまして! 充分すぎるくらい苦しめて、愉しんで……那由良の人生滅茶苦茶にして! これ以上どうしようってんだ!!」

(ぐっ……!)

 蒼銀の身体から血飛沫が飛ぶ。

「いい加減にしやがれッ!!」

(ぐああっ!)

 苦痛の声を上げ、ぐらり、と地龍の巨躯が傾いた。

「とどめだ!!」

 大きく蒼影牙を振りかぶったその刹那、今にも倒れそうだった地龍の眼がぎらりと光った。

(―――かあッ!!)

 ハッ、とした時には遅かった。地龍の発した波動のようなものをもろに受け、不意を突かれた形になったオレは勢いよく吹っ飛び、岩壁に嫌というほど叩きつけられた。

「がふっ!」

 目の前に火花が散る。硬い岩壁にめりこむほどの凄まじい衝撃に、思わず蒼影牙を取り落としてしまった。

 しまった……!

(やってくれたな、小僧……油断したわ)

 狂気の灯った赤黒い眼差しがオレを射る。

「……くっ!」

 オレは急いで蒼影牙を拾おうとしたが、氷の槍の牽制にあいそれを妨げられてしまった。

(よくもこのワシに消えない傷を……覚悟は出来ていような?)

「ンなモン、出来っかよ……」

 じり、と後退りながら、オレは大地に転がる蒼影牙を見やった。

 アオ……!

(では、覚悟が出来るまでの時間をやろう。まずは貴様らの希望であるこの刀を粉々にして、絶望のどん底へと突き落としてくれる。万にひとつの光も失って、死の恐怖に怯えるがいい……くっくっくっ)

 コイツ、マジで性根が腐ってやがる……。

「そんなコト、出来んのかよ。蒼影牙につけられた傷は、治せないんだろ? お前」

 冷や汗を浮かべながらそう言うと、地龍はあっさりとそれを肯定した。

(確かにな。ワシの力では破壊出来ぬ)

 てっきり反論してくるものだと思ったのに、あまりにも素直にそれを認めたので、オレは逆に気味が悪くなった。

(……だが、それ以外の力ではどうかな?)

「何ッ!?」

 その瞬間、辺りの温度が急激に下がった。

 ―――な……何だ!?

 説明のつかない薄ら寒さに全身を粟立たせるオレの前で、ふわり、と見えない力で蒼影牙が浮かび上がり、地龍の元へと引き寄せられていく。

 ただならぬ雰囲気に息を飲んでそれを見やりながら、得体の知れない危機感を覚えたオレは、地龍の様子を窺いながら那由良の元へと駆け寄った。

「彪……!」

 異変を察しながらも身動きの取れない彼女が、もどかしそうにオレの名を呼ぶ。氷の槍を引き抜きながらオレは彼女に尋ねた。

「那由良、ヤツが何をしようとしているのか、分かるか!?」

 オレに抱き起こされながら異様なその光景を目の当たりにした彼女は、蒼白になった。

「……! 殺された者達の霊を集めて、その念であの刀を壊そうとしているんだ!」
「何だって!? そんなコトが……!?」
「この地で殺された者は、あの世にも行けず永遠にこの地に縛られ、苦しみ続けるの……。地龍はきっとこういうことを想定に入れて、人間達の負の感情を煽り、死者の魂を拘束していたんだ……」

 その頃には、オレの目にも白い物体がぼうっと映るようになっていた。地龍を中心に、とぐろを巻くような形で集まっている。

「ウソだろ……シャレになんねーよ……」

 こんなところでキモダメシをするハメになるとは思わなかった。

(さぁ霊どもよ……貴様らの怨念をこのワシに託せ。積年の恨みつらみをあの刀に向けるのだ……)

 地龍の命を受けて、霊達がひとつの光に集束していく。

(あの刀こそが、貴様らを苦しめる全ての元凶。あれさえ滅ぼせば、貴様らはこの無限地獄から解放されるやもしれんぞ……)

 ざわり、と霊達の放つ光が殺気を帯びたものに変わった。乳白色の光が、赤黒い禍々しい色へと変化していく。

「やっ……やめろ―――ッ!!」

 オレは身を乗り出して叫び、霊達に訴えた。

「思い出せよあんた達! 人として生きていた頃、何を思っていた!? 日々祈りを捧げていたものは……あんた達を護り、支えていたものは何だった!? 目の前のそのカタナ……蒼影牙だろう!?」

(……小僧!)

「あんた達を無限地獄に縛りつけている張本人は、死ぬ直前にその瞳に焼き付いてるのは、目の前のコイツだろう!? 思い出せ! 思い出して、抗えよ! 死んでまでこんなヤツに利用されて、悔しくねぇのかッ!!」

 魂(こころ)からの叫びが、何も伝えないはずがなかった。霊達の中に迷いが生じ、赤黒い光が薄れだす。

(―――黙れッ!)

 ザクッ、と冷たい衝撃が右胸を貫いたのは、刹那のことだった!

「ごふっ……」

 何が起こったのか、とっさには理解出来なかった。

 真紅の熱い塊が口を突いて出る。ゆっくりと後ろに重心が傾いていく中、オレは自分の胸に突き刺さる濁った水晶のような槍を見た。

「ひっ……彪―――ッ!」

 絶叫し、オレに向かって腕を伸ばす、那由良。一拍置いて、激痛が脳天まで突き抜けた。

「っ、が、あぁぁっ……!」

 仰向けに倒れこんだ自分の口から迸る、獣じみた苦痛の声。あまりの痛みに転がることも出来ず、オレは天を仰いだまま、ただ激痛に喘いだ。

(くく、刀の加護失くしては反応することすらままならんか。すぐには殺さん……そこで無様に転がりながら、相棒の最期を見届けるがいい)

「彪っ! 彪、しっかりして……!」

 那由良がオレの傍らに膝をつき、その傷を確かめる。

(くっくっくっ……那由良、どうするつもりだ? 槍を抜いたら、その男は失血死するぞ。我らは体液の流れを調整して傷を癒すことは出来るが、失われた血を元に戻すことは出来んのだからな。槍を抜くことなく傷を癒せればいい話だが、その槍にお前のチカラは及ばない。さぁ、困ったな……!)

 相手を傷付け、なぶることだけを目的とした言葉。

 溢れそうになる涙を堪えながら唇を噛みしめる那由良の腕を、オレは握った。

(さぁ霊どもよ、力をひとつに集束させろ)

 オレの言葉で動揺していた霊達が、地龍によって再び統制されていく。

 いつの間にか上空を包み込むようにして広がった黒い雲を朦朧とした視界に映しながら、オレは途切れ途切れに那由良に語りかけた。

「那由良……お前は、水龍の娘だ……水龍の肉体を乗っ取ったアイツより、多分、水を操るチカラは……強い……」

 那由良が涙に濡れた瞳を見開く。

「傷を……治してくれ。あんなクソヤローに……負けられ、ねぇ……!」

 言葉を発する度、激痛が走る。遠のきかける意識と戦いながら、オレは声を絞り出した。

「自分を、信じろ……! さっき、ヤツのチカラを凌いだのは、マグレじゃない……!」

 翳っていた那由良の瞳に光が甦る。彼女はオレの手を握り返し、決意を湛えた表情で、唇をきつく結び頷いた。

「やってみる……!」
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