金色の龍は、黄昏に鎮魂曲をうたう

06


 村の人達の行為は、決して許されることじゃない。

 那由良の気持ちを思えば、復讐を選んだとしても、不思議じゃない。

 けれど……こんなことを続けていて、この先にいったい何が待っているっていうんだ?

 お互いに傷付けあって……結局、笑うのは水龍だけだ。

 そもそも水龍は、どうして豹変してしまったんだろう? 地龍との戦いで、いったい何があった? だいたい、どうして龍神達は戦うことになったんだ……?

 全ての始まりとなったそれについて、那由良は何か、知っているんだろうか。

 複雑な思いと様々な疑問を胸に抱きながら、オレは再び例の小川まで足を運んでいた。

 昨日はあんな別れ方をしてしまったけれど、今日もここで会うことを一応は約束していたから、止める小六達を押し切って、オレは一人そこを訪れていたのだった。

 ……来ないのかな。

 薄暗くなり始めた空を見上げ、オレは那由良のことを想った。

『人は……やはり、あたしには関わらない方がいい……』

 傷付いた彼女の後ろ姿が脳裏に甦る。

 このまま……終われねぇよ。オレ、お前に言いたいこと……言わなきゃいけないこと、いっぱいあるんだ……。

 小川の縁に腰を下ろし、オレは透明な流れに触れた。

 このまま二度と会えないなんて、嫌だ。

 那由良……。どこにいるんだ? 頼むから来てくれ……!

 その想いに応えるかのように、小川の水面がゆらりと揺らいだ。

 ハッと目を瞠るオレの前に、いつかのように粗い映像が映し出される。意識すると映像の鮮明度が上がり、それを確認したオレは驚愕に息を飲んだ。

 瞳を閉じ、ぐったりとした那由良がそこに映し出されていたからだ。

 霧が立ちこめるこの山のどこかで、岩肌を背に、両腕を上げた状態で縛り上げられた彼女は力なくうつむき、垂れた長い黒髪がその表情を覆い隠している。

「那由良!? どうしたんだ!?」

 狼狽して、オレは叫んだ。

 彼女を縛り上げているのは縄の類ではなく、水だ。水の縄と呼ぶべきモノで、彼女は拘束されていた。

「那由良! 那由良、おいっ……しっかりしろ!」

 大声で呼びかけるオレの声が届いたのか、彼女の長い睫毛が震え、微かに瞼が開いた。

「那由良! 聞こえるか!? いったい何があったんだ!」
「……。彪……?」

 かすれる声で呟いた彼女は、次の瞬間、目を見開いて、肉声ではなく意思の力でオレに呼びかけてきた。

(ダメだ……逃げて!)

「何で!? お前、どこにいるんだ!?」

(お願い、早く……!)

「那由良! どこにいるんだよ!?」

 圧倒的な力を持つ何者かが割り込んできたのは、刹那のことだった。

(―――貴様が、那由良を惑わせる者か)

 ―――!?

「やめて! 水龍ッ……」

 引き千切られるような那由良の声―――映像が歪んで消え去り、それと同時に、目の前の川の水面がまるで生き物のようにうねりを上げて立ち上がった。

 なッ……。

 立ちすくむオレに向かって、龍のような形へと変貌した『水』が牙を剥き襲いかかる!

「うわッ……!」

 顔の前で両腕をクロスさせるようにしたオレの眼前で、何かのチカラが弾けた。

 パァンッ!

 巨大な水風船が割れたような音を立てて、不可視の障壁に阻まれた水が散っていく。

(―――ほう……?)

「……!?」

 何が起きたのか理解出来ず、ただ茫然とその光景を見つめるオレの頭の中に鋭い警鐘が響き渡った。

(彪、何をしている!? 早く逃げろ!)

 ―――アオ!?

 その声で我に返ったオレは、慌てて踵を返しその場から逃げ出した。

 逃げるオレの背を追って、愉しげな揶揄を含んだ水龍の低い『声』が響き渡る。

(小僧……今回の贄は、貴様に決めた。ワシの元へ来い……さもなければ、那由良を殺す)

 な、ん……!

 顔を強張らせ、視線だけを後ろに投げると、川の水を支配していた圧倒的な力の気配が弱まり、揺らめく水が元通りの姿を取り戻していくところだった。

(期限は明日いっぱいだ……)

 空気に溶け込むようにして、『声』が消える。

 足を止め、肩を大きく上下させながら振り返ったオレは、自分が滝のように冷たい汗をかいていることに気が付いた。

 ―――水、龍……。

 初めて接触した強大な存在に、本能的な慄きからか、全身が細かく震えている。

 どうして、那由良が? 水龍の仲間のはずの彼女が、どうして……!?

 パニック状態にあった脳細胞が次第に落ち着きを取り戻してくると、自分の置かれた状況がゆっくりと身にしみてきて、オレは青ざめると同時に、水龍への強い怒りが湧き起こってくるのを感じた。

 何なんだよ、これ……。

 考えれば考えるほど、その思いは爆発的に膨れ上がっていく。

 何なんだよ、これ! フザけんな!!

 水龍に囚われた、痛々しい那由良の姿が目に焼きついて、離れない。

 オレ達は―――この地の者は、お前のオモチャじゃねぇんだぞ……! その時の気分次第で、好き勝手に弄ばれてたまるか!!

 怒り心頭に発しながら、オレは強い決意を固めた。

 上等だ……こうなったら行ってやるよ。けどな、むざむざ殺されに行くワケじゃない。

 ―――那由良を、助け出す。

 その為に、行く!



*



 こんな気持ちになったのは、初めてだ。

 自分の中に息づく熱い想いを意識しながら、オレは社の扉を開いた。

 この感情を何て呼んだらいいのか、正直、自分でもよく分からない。漠然と思い描いていた恋心とは、それはあまりにも違っていた。

 臨界点の狭間でたぎる、熱い熱い感情の渦。刻一刻と増していく強固で揺るぎないその想いが、明確な意志をオレに告げる。

 ―――那由良を、助けたい!

 薄暗い社の中、神刀に絡みついた蒼い炎の化身が現れたオレを見つめ、ある種感慨深げにこう呟いた。

「お前ともう一度顔を合わせることになるとは、正直、思わなかったな」
「……オレもだ」
「ほとほと運の悪いヤツだ……」

 溜め息混じりの苦笑に近い微笑を浮かべ、アオはオレに問いかけた。

「彪。先程接触したチカラは……水龍か」
「あぁ。……今回の生贄はお前に決めた、って言われたよ……」
「……。その割には冷静なのだな」
「多分、冷静じゃねぇよ。変なふうにテンションが……気分が、盛り上がっちまってるんだと思う。もしかしたら、狂わない為の本能的な防衛反応なのかもしれないな」

 そう分析するオレの肩に音もなく降り立ち、アオはその首筋に鼻面をすり寄せた。

「コ、コラ、くすぐった……! また匂いが変わってるとか言うんじゃねぇだろな?」
「……あぁ、変わっているな」
「はぁ? マジか?」

 だとしたらどうなってるんだ、オレの匂いってヤツは。

「―――で、お前、どうするつもりだ? 大人しく贄としてヤツに喰われるのか。それともイチかバチか、外界への脱出を図るか?」
「どっちも取らねー……。あんなヤツに喰われるなんてゴメンだし、外界へ戻るのは那由良を助けてからだ」
「……例の娘が、どうかしたのか」

 オレから事情を聞いたアオは、そうか、と呟いて沈黙した。

「水龍と那由良の間に、いったい何があったんだと思う? いったい、何で……」

「……おそらくは、娘は贄を要求する水龍の命に逆らったのだろうな。そして逆鱗に触れ、拘束された。これまでの状況から察するに、そんなところだろう」
「え……」

 胸の奥が熱くて切ない、新たな熱を帯びてくる。多分その通りなのだろうと、何故か確信した。

 そんなオレの様子を見、アオはこう釘を刺した。

「あくまで予想、だぞ」
「わ、わぁーってるよ」

 頬を赤らめながらオレは居住まいを正した。

「アオ、聞きたいコトがある。さっきはお前のおかげで助かったけど―――お前のチカラで、水龍の攻撃を防ぐコトは可能なのか」
「さぁな。ある程度は可能だろうが、何しろ相手は水を司る神だ。本気を出されれば、ひとたまりもないだろう。……しかし、先程のあれは、本当に水龍だったのか」
「……? だと思うけど、何で? 気になるコトでもあるのか?」
「いや……大したことではない」

 アオはそう言って言葉を濁した。

 ? 変なヤツだな。

「那由良は水の縄で拘束されていた。あれを、お前のチカラで解くコトは出来るか?」
「試したことがないから何とも言えんが、普通に考えれば無理だろう。私がその場にいて、水龍の注意が他に逸れているならともかく、お前の身体を通してでは話にならん。まず不可能だ」
「そっか、無理か……」

 オレは口をつぐんで、じっと考えこんだ。

 蒼影牙が抜けない以上、アオの力は借りられない。

 どうすればいい? どうすれば那由良を助け出すことが出来る?

 まずは、何とかして水龍に那由良の拘束を解かせないと話にならない。ただ、うまく助けられたとして―――逃げこむ先は、この村しかない。那由良とこの村の軋轢を考えると、それも難しいことのように感じられた。

 ―――オレ一人の力じゃ、無理だ。

 必然的にオレはその結論に達した。

 そもそも、指定された龍神の谷の場所すら分からないのだ。

 那由良を助ける為には、村人達の協力が要る。

 時間がない。事情を話して、どうにか助力を仰がないと……!

「アオ、手間かけさせて悪かったな。……ありがとう」

 それを聞いたアオは意外そうに目を丸くした。

「……お前に、礼を言われるとはな」
「これからの分も込めて、だよ。出来る限り全力で、水龍の攻撃から護ってくれよ」

 アオはどこか呆れた様子でオレを見やった。

「本当に行くのか。お前を止める義理はないが、私から言わせれば正気の沙汰ではない。まず、死ぬぞ」
「お前に心配されるとはな」

 アオの口調を真似して笑うと、蒼い物の怪は少しだけ表情を緩めた。

「……お前とは妙な縁だ。まぁ、ここでじっとしているのも退屈だしな……そのくらいのことはしてやろう」
「恩に着るよ。じゃあ、またな」

 片手を上げるオレに、アオは何も答えなかった。ただ、その静かな眼差しに蒼い光を湛え、オレを見つめていた。



*



 オレから事情を聞いた村長は、重い腰を上げた。第三者であるオレに全てを語った彼は、ここが潮時だと悟り、密かに覚悟を決めていたらしい。

 緊急の召集を受け村長の家に集まった村人達は説明を聞き、大きく動揺した。そこから始まった協議は予想通り激しく紛糾した。

「冗談じゃねぇ、龍神の谷に行くだなんて!」
「自殺行為だ!」
「水那の娘には申し訳ねぇし、可哀相なことをしたと思っとる……でも、ワシらもあの娘にはだいぶ辛い目に合わされとるんだ」
「そうだ、それに助けたところで、どんな目に合わされるか分からん!」
「―――皆の言うことも分かる、でも少しだけ冷静に考えてみてはくれないか」

 村長が熱くなる村人達を諭そうとするけれど、恐怖に囚われた人々は切り捨てるばかりで新たな可能性を模索しようとしない。

「水龍と示し合わせて、オラ達を騙しとるのかもしれんぞ」
「そうだ、その可能性が高い。危険を冒してまで救う必要なぞ……ワシらが動かなければ娘は死に、氷上様はとりあえず助かる。水龍を怒らせてしまうこともない……」
「―――ちょっと待ってくれよ!」

 村人達のやりとりをしばらく黙って聞いていたオレは、たまりかねて口を挟んだ。

「那由良は、変わろうとしているんだ! この村への復讐を捨て、水龍の支配から逃れようとしている! だから、水龍に捕まって……殺されかけているんだ!」

 誰も知らぬところで密かにそう決意したに違いない彼女のことを想うと、切なくなった。

 どれほどの葛藤とどれだけの勇気を持って、彼女は一人、水龍にその意志を示したのだろう。

「そんなことを言われても、オラ達……」
「氷上様が仰ってるだけじゃ……オラ達はそれを聞いとらんし……」
「娘を救うということは、水龍に背くということなんですよ」
「―――叛意を翻さなきゃ、始まらない」

 オレは立ち上がって座する村人達を見渡した。

「あんた達、いつまでこんなコト続けるつもりなんだ!? 一生、水龍に怯えたまま生き続けるのか!? この連鎖は、村人が一人残らずいなくなるまで終わらない! このままじゃ絶対にいつか、自分の番が回ってくるんだぞ! 現実を見つめろよ! 先延ばしにしたところで、結果は何も変わらない!!」
「あ……あんたのような若造に、何が分かる!」

 真理を突かれたからか、村人の一人がたまりかねた様子で叫んだ。

「この村の何百年もの歴史が、積もり積もった我々の無念の思いが、あんたのような若造に、余所者に、分かるものか!」
「あぁそうさ、話を聞いただけのオレには、あんた達がどんな思いで、どんな気持ちで今日まで生きてきたのか、推し量る術もない。けどな、若造だから、余所者だからこそ分かるコトもある。こんな繰り返し、どこかで誰かが断ち切らなきゃダメなんだ!」
「あんたは、我々に死ねと言っているのか!」
「違う! 一緒に考えようって言っているんだ! 生き残る方法を!」

 何かに打たれたように、しん、と静まり返る室内。やがてその中から押し殺した声が上がった。

「そんな夢物語を……貴方様は、女を助けたい一心なだけだ」

 それに同意する声があちこちから上がる。オレは頷きながら、けれど力を込めて言った。

「もちろんオレは、那由良を助けたい! その為に村長に頼んで、あんた達にこうして話をしてもらっている! けどな、彼女を一時的に助けたところで、この状況が変わらない限り結局は同じコトなんだよ! オレはただの若造で、余所者で、力もなくて、だから、一人じゃ何も出来ない! あんた達の協力が必要なんだ!!」

 何人かの村人達は息を飲み、オレの言葉に耳を傾けた。けれど、どうしても目先の恐怖に気が行ってしまうらしい。

「し、しかし、水龍を怒らせて……水龍が本気になってこの村を襲ってきたら、果たして蒼影牙様の結界は持ちこたえられるのでしょうか」
「それは―――」

 口を開こうとした側から、別の質問が上がる。

「娘は、我々を許してはいないのでしょう?」
「水龍と結託して、我々を嵌めようとしているんだ。そうに決まっとる」

 オレは拳を握りしめて訴えた。

「そんなコトは、ない! 那由良は―――!」
「どうしてそう言い切れるんですか!」
「氷上様は、あの娘に毒されとるんだ!」
「違う! 彼女はっ……!」

 那由良の恐ろしいイメージしかない村人達には、オレの言葉が伝わらない。届かない。

 どうすれば伝えられる!? 彼女の本当の姿……オレ達とそうは変わらない、あの素顔を。

 興奮した村人達が次々と立ち上がる。

「やっぱり、龍神の谷に行くなんてバカげている!」
「氷上様、目を覚まして下せぇ! 貴方様はあの女に惑わされてらっしゃるんです!」
「お止めしろ! 氷上様にもしものことがあったら、蒼影牙様に顔向け出来ねぇ!」

 協議の間は、異様な雰囲気に包まれた。

「コ、コラッ! 皆、落ち着け……落ち着くんだ! 自分の場所に戻れ!」

 詰め寄る村人達に村長が両手を広げて制止の声を上げるけれど、感情の高ぶった彼らを抑えきることが出来ない。

「聞いてくれ! 時間がないんだ……!」

 村人達に囲まれながらそう訴えていたオレは、突然首の後ろに鈍い衝撃を受けて、その場に崩れ落ちた。

「何てことを……!」
「こうするしか、ねぇ!」
「この村の、蒼影牙様の為だ!」

 遠のく意識の片隅で、諍う村人達の声を聞いた。そしてそのまま、為す術もなく、オレの意識は闇に落ちていったのだった。



*



 ……ま。……さま。

 暗い海の中を揺蕩うオレの意識に、何かが響いた。

それを感じてぼんやりと瞼を開けた視界に、自分を取り巻く闇色の水が映る。

 ……み……さま。かみ……さま。

 夢のような現(うつつ)のような、ふわふわとした不確かな境界線。抱(いだ)かれる水の中。視線の先に、微かな煌きを放つ海面がある。そこから水を通して、くぐもった音が伝わってきていた。

 ひ……かみ……さま……。

 全身を包み込む闇色の水は蕩けそうなほどに心地良く、半覚醒しかけたオレの意識を再び闇の世界へと飲み込んでいく。

 ひか……みさま……!

 再び沈みかけるオレを許すまいと、『音』が響く。

 氷上様……!

 それが自身の『名前』だと認識した瞬間、海面から差す微かな煌きは眩い光となって世界を照らし出し、包み込む闇を打ち払って、オレを泡沫(うたかた)の海から掬い出した。



*



「氷上様……氷上様!」

 自分を呼ぶ誰かの声で、オレは意識を取り戻した。

「氷上様……しっかりして下さい!」

 すぐには定まらない焦点に素朴な顔立ちの青年が映る。そんなオレの様子を確認した彼はホッとしたような笑顔を漏らした。

「氷上様! 大丈夫ですか!?」
「―――小、六……?」

 ぼんやりと呟いて起き上がろうとしたオレは、自身が荒縄で拘束されていることに気が付いた。首の後ろに感じる鈍い痛みが、意識を失う前の記憶を怒涛のように甦らせる。

「……!」

 青ざめて、オレは小六に問いかけた。

「あれから、どのくらい経った!?」
「お静かに。夜が明けてもう昼を過ぎました」

 鎌で素早く縄を解きながら小六が言う。

 昼!? ウソだろ……!

 オレは激しい焦燥感を覚えながら、現況を把握しようと周囲に視線を走らせた。

 オレは見覚えのない小屋のようなところでがんじがらめにされ、床に転がされていた。

 状況から察するに、小六はオレを助けようとしてくれているらしい。彼の手によってオレを戒める縄は全て解かれた。

「村長が今もみんなの説得に当たっていますが、まだ時間がかかりそうです。……今ならまだ、間に合います。行きましょう、龍神の谷へ」

 オレは驚いて、手を差し伸べる小六の顔を見つめた。

「―――いいの、か……?」

 助けてもらっておきながら何だけど、思わずそう聞いてしまった。

 小六はわずかに微笑んでオレを促した。

「正直な話、自分の行動が正しいのかどうか、分かりません。でも、一緒に生きる方法を考えよう、と言って下さった氷上様の言葉に、オラは打たれました。いずれ水龍の牙にかかるのなら、たとえわずかな可能性でも、何か行動を起こしてみるべきじゃないかと思ったんです」

 差し出された小六の手は微かに震えていた。

「……このままで、いいはずがないんです。それはみんな分かっていて……でも、怖いんです。許して下さい……」

 オレは手を伸ばし、小六の手を取った。

「ありがとう」

 その手から、勇気をもらった気がした。

 いや、もらったのは勇気だけじゃない。

 彼の声がなければ、オレはあのまま、まだしばらく闇の海を揺蕩っていたことだろう。

 言霊、っていうのかな……自分の名前にあれだけの力があるんだっていうことを、初めて知った。

「急ぎましょう。同志が見張りを連れ出してくれていますが、いつ戻ってくるか分かりません」

 そう言って小六は用心深く小屋の戸を開けると油断なく周囲を見渡した。近くの物陰からおタキが手招きをしている。オレ達は小屋から素早く抜け出し、その物陰に移った。

「はい、これ。少ないけど、握り飯だよ。腹が減っては何とやらって言うからね」

 おタキがそう言いながら小六に小さな包みを手渡した。

「恩に着るよ、おタキさん」
「気を付けてね。……氷上様も、お気を付けて。サチの為にも、どうかこの村に違う未来を……。こんな仕打ちを、お許し下さい」

 深々と頭を下げる彼女にオレは首を振った。

「許すも許さないも……分かっている。全ては、水龍のせいなんだ」

 おタキは瞳を伏せて微笑し、それから毅然とした顔を小六に向けた。

「じゃあ、あたしが村の連中の注意を逸らすから、その隙に……」
「頼むよ」

 おタキは頷いて物陰から駆け出していった。

「大変! 今誰か、小屋から出て行ったよ!」
「何っ!?」

 すぐに大きな声がして駆けつけてきた見張りらしき男が小屋の中を確認し、慌てふためきながら叫んだ。

「た、大変だ! いねぇぞ!」
「何だと!? おいおタキ、どっちへ行った!?」
「社の方へ行ったよ!」
「マズい! 蒼影牙様に知れたら……!」
「すぐにみんなに知らせろ!」

 物陰でしばらく息を潜めていたオレ達はたくさんの足音が遠ざかっていくのを確認してから、村の外れへ向かって走り始めた。

 薄曇りの空から覗く太陽は既に真上を過ぎ、西へ向かって傾き始めている。

 那由良、待っていろ! 今行くからな……!
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