金色の龍は、黄昏に鎮魂曲をうたう

01


 ひどい寒さで、オレは目を覚ました。

 さみ……何で、こんなに寒いんだ……。

 ぼんやりとした視界に映ったのは、朝露に濡れた緑の大地。

「……」

 何だ、これ……?

 オレは二、三度瞬きして、虚ろな面持ちでそれを見つめた。起きぬけの状態で、何だか頭が上手く働かない。

 しばらくして、オレは自分が草叢の中にうつ伏せで倒れているのだということに気が付いた。

 あれ……オレ、何で……。どこだ、ここ……?

 のろのろと身体を起こすと、全身に鈍い痛みが走った。

 いってぇ……何だ、これ? ワケ分かんねっ……。

 痛みに顔をしかめつつ起き上がったオレの視界に映ったのは一面の、霧の世界。

 あ……オレ……。

 意識を失う前の記憶が、怒涛のように流れ込んできた。全身の血の気が引いていくような衝撃に、脳が一気に覚醒する。

「っ……ケイタッ! ……田浦!」

 声を絞り出すようにして、オレは叫んだ。

「ハルカ! アヤノ! ミコ!」

 けれど、必死のその叫びに返ってくる声はない。オレの声だけが、こだまとなって辺りに無情に響き渡る。

「みんな……どこだよ!?」

 半分泣きそうになりながら、オレはみんなの姿を求めて辺りを探し回った。けれど、誰一人として見つけることが出来ない。車の残骸ですら、どこにも見当たらない。

 朝露でじっとりと濡れた身体は、凍えそうなほどに冷え切っている。夏とはいえ、深い山はTシャツとジーンズという姿で過ごすには無理がある。寒さと、言い表せない恐怖に、カチカチと歯が鳴った。

「そ、そうだ、スマホ……」

 声に出して呟きながら、オレはジーンズの後ろのポケットをまさぐった。けれど、いつもそこに入っているはずのスマホは、その姿を消していた。念の為前ポケットも探ってみたが、コンビニで買ったキャラメルしか入っていない。

「ちっくしょ……」

 急激に高まっていく底知れぬ不安感に襲われながら、オレは辺りを見渡した。

 あれから、いったいどれくらいの時間が経ったんだろう。明るさから昼間だということは分かるけど、深い霧が一面を覆い尽くしていて、今いる場所すら判然としない。

 みんな、どこにいるんだよ? 無事なのか? せめて、この霧が晴れてくれれば……!

 心細さが最高潮に達し、情けないけど本気で泣きたくなってきた。

 その時ふと、背後の霧が動いたような気配を感じて、オレは後ろを振り返った。

 ……何だ? 今、何か……。

 凝視する白い闇の向こうには、何も見えない。けれど確かに何かがいる気配を、オレは感じた。

 とっさに、足元にあった太めの木の枝を拾い上げる。

 まさか……熊じゃ、ねーだろうな?

 恐ろしいその想像に、全身が強張った。

 キリキリと胃が締めつけられるような、何とも言えない嫌な緊張感―――じっとりと掌が湿り、心臓が早鐘のように打ち始める。

 そのまま一秒、二秒……徐々に草を踏む音と、荒い呼吸音が聞こえ始めた。

 何かの獣がいるのは、間違いない。

 息を潜めて木の枝を握る腕に力を込めたオレは、霧の中に浮かび上がったその姿を目の当たりにした時、自身の目を疑った。

「……」

 ごくり、と喉が上下する。

 爛々と輝く、凶暴な瞳。犬に良く似た、けれどそれとは違う存在。鋭い牙を剥き出し、ぐるりとオレを取り囲んでいるのは―――絶滅したはずの日本狼の群れだった。

 昔、図鑑で見た姿そのままだ。間違いない。

 現在は生息しえないはずの生物の登場に、オレは言葉を失った。

 ウソだろ……何で……。

 茫然として、一歩後退(あとずさ)る。

 もしかして―――オレ、死んだのか?

 ここは、あの世ってヤツ?

 だから、みんな、いないのか?

 ぐるぐると、様々な憶測が頭の中を駆け巡っては消えていく。

 オレは……。

 その時、狼の一頭が咆哮した。それを合図に、狼達は一斉にオレに襲いかかってきたのだ!

「うわっ!」

 そこから先は考えている余裕なんてなかった。最初の一頭を、力任せに木の枝で殴りつける!

「ギャウン!」

 獣の悲鳴と共に、お粗末な武器はあえなくボッキリと折れてしまった。それを投げ捨てて、走る。走る、走る!

 方向感覚も何もない。オレは霧の中を闇雲に走り回った。すぐ後ろから、狼達の荒い呼吸音が追いかけてくる。

 この夏引退するまで、オレは陸上部に所属していた。中距離専門で足には自信があったけど、人間と狼の足とじゃ、狼の方に分があるに決まっている。

 しかもここは深い霧に覆われた、見知らぬ山の中だ。おまけにこちらは満身創痍でまったくの丸腰、生き残れる可能性がまるで見当たらない。

 腕に、足に、いたるところに、狼達の容赦のない牙が穿たれる。

 けど、死にたくねぇよ!

 足に噛みついた狼を蹴り飛ばし、背に飛びかかる狼を振り払い、足が動く限り、走り続ける。この足が止まった時が、間違いなくオレの最期だ。

 もうどこをどう噛まれたのかも分からない。傷口が焼けつくように熱い。肺が酸素不足を訴える。心臓が爆発しそうだ。脳が限界を、絶望を訴える……!

 く……そ……、もう……。

 あきらめかけたその時―――朦朧とした視界に、不意に、黒いものが飛び込んできた。

 白い景色にひと際映える、鮮やかな黒。

 その色が、沈みかけていたオレの意識に歯止めをかけた。

 それは緩やかな風にたなびく、長く美しい黒髪だった。深い霧に溶け込むようにして佇んだ白い着物姿の少女が、少し先でじっとこちらを見つめている。

 凛とした瞳が美しい、まるで絵画の中から抜け出してきたような少女だった。彼女を見た瞬間、オレはやはり自分が死んでしまったのだと理解した。

 死神? 幽霊? あぁ、やっぱオレ、死んじまったんだな……。

 その時、何故か狼達の追撃の手が緩んだことに、オレは全く気が付かなかった。

 くそ……だったらもう死んでんのに、何だってこんな目に……何でこんなに痛(いて)ぇんだ? いったいどうなってんだ、あの世ってヤツは……。

「逃げ……ねーと……」

 足は、まだどうにか動いた。

 白い着物を纏った少女はオレの進行方向に佇んだまま、何故か逃げだす気配を見せず静かにこちらを見つめている。

 何で……逃げねーんだ、この女? 状況分かってんのか? 狼に襲われてんだぞ!?

 反射的にオレは腕を伸ばし、彼女の手を取っていた。

「何、してんだ……逃げるぞ!」

 少女はハッと顔を上げ、オレの顔を見た。驚いたような黒い瞳が印象的だった。

 狼達は一瞬迷う素振りを見せた後、一定の距離を置いてオレ達を追いかけてきた。

 くそっ……しつっけー……!

 いったい、どこまで行けば終わるんだ? どこまで逃げたら……!?

 異変は、唐突に訪れた。

「!? は……れっ……!?」

 そんなつもりないのに。足から、勝手に力が抜けて。そんなことしたくないのに。オレは、その場に膝をついてしまった。

「なっ……」

 何、で……!?

 答えは、明白だった。

 オレの足は狼達にさんざん噛みつかれ、目を背けたくなるような状態になっていた。無残に噛み裂かれた傷口からは大量の血が溢れ出し、ひどいところは肉が抉れて骨まで見えている。この状態で今まで走れたことの方が驚きだった。火事場のナントカでどうにかもっていたものが、ついに限界に達し、動けなくなったのだ。

「血……ケガしてる……」

 澄んだ声に顔を上げると、表現しようのない複雑な表情で、少女がオレを見下ろしていた。

「痛い……?」

 小首を傾げて、オレに聞く。

「あ……ったりめー、だろっ……」

 息も絶え絶えにそう返すと、彼女は押し黙った。

「くっ……そ……」

 オレはどうにか立ち上がろうと試みたけど、いかんせん身体が言うことを聞かない。ガクガクと手足が震え、大量の出血のせいで、目の前がグラグラしてきた。

 狼達はもはやオレが力尽きるまで気長に待つ気になったのか、やや遠巻きにこちらの様子を窺っているだけで、すぐに襲いかかってくる気配はない。

「……逃げ、ろ……よ……あんた、だけでも……」

 目の前の少女にそう促すのが精一杯だった。

 軽く目を見開いた彼女の整った顔が、ぐにゃりと歪んで、視界が薄暗く狭まっていく。

 あ……やべぇ……オレ、マジで……死にそう……だ……。

 すでに死んでいるのに死にそうというのもおかしな話だったが、それにツッコんでいる余裕などない。

 狼に喰われて死ぬなんて……嫌……な最期、だぜ……。

 そう意識したのを最後に、世界が暗転した。自分の置かれた状況を冷静に判断することも出来ないまま、オレは意識を闇に手放したのだった。



*



 川のせせらぎが、聞こえる……。

 鳥のさえずりに……緑の匂い……。

 瞼に明るい光を感じて、オレはぼんやりと目を覚ました。

 古びた木造の梁(はり)と、穴だらけのかやぶきの天井が目に映る。そこから太陽の光が降り注ぎ、オレの顔をまだらに映し出していた。

「……」

 ……どこだ? ここ……。

 オレ……?

 その瞬間、鋭い牙を剥いた狼のアップが脳裏に甦ってきて、オレはガバッと起き上がった。

「あ……オレ?」

 汗の滲む額を押さえながら周囲を見渡すと、そこはまるで廃墟のようなボロ小屋だった。中央に囲炉裏があり、生活用品とおぼしきものが辺りに置かれていたけれど、そのどれもがひどく年季の入った代物で、その様子はさながら、時代劇に出てくる廃屋のようだ。

 オレはつぎはぎだらけのせんべい布団に寝かされていて、ボロボロの掛け布団を掛けられた状態で、枕元には水の入ったタライが置かれていた。

 着ているものは意識を失う前と同じTシャツにジーンズ。そのどちらにも狼に噛み裂かれた跡が生々しく残っていた。

 けれど、そこにあるべきはずの傷跡がない。目を背けたくなるほどひどい傷を負っていたはずのオレの足には、何故か傷跡ひとつ残っていなかった。足だけでなく、腕にも、背中にも―――驚くことに、身体中の傷が全て、消えてなくなっていた。

 恐る恐る立ち上がりあっちこっち動かしてみるけど、どこも痛くない。

「ウソ……だろ?」

 茫然と呟いてオレは、自分の身体をペチペチと叩いてみた。

 マジで、痛くねぇっ……。

 どうなってんだ!? まあ、死後の世界だから、何が起こっても不思議じゃないっちゃ不思議じゃないけど……。

「気が付いたみたいだね」
「うわっ!!」

 背後から突然響いた声に驚いて、オレは文字通り飛び上がった。

 身体全体で振り返ると、ボロ小屋の戸口のところにあの白い着物を着た少女が佇み、静かな眼差しをこちらに向けていた。

 しっ、心臓がっ……マジ、止まるかと思ったっ……!

 バクバクする心臓を手で押さえつつ呼吸を整えながら、オレはその少女を見つめた。太陽の光が少女の背後から小屋の中に差し込んで、彼女の輪郭をひどくおぼろげに見せている。

「あっ、あんた―――あんたがオレを、助けてくれたのか?」

 喘ぐような声でそう尋ねると、彼女の凛とした黒の瞳が微かに揺れたような気がした。

「―――何故、あたしを助けようとしたの?」

 オレの質問には答えず、彼女は逆にそう尋ねてきた。

「は?」

 一瞬その言葉の意味を理解することが出来ず間抜けな声を出してしまったオレは、すぐに彼女の言わんとしていることに気が付いて、戸惑いながらこう返した。

「あ、いや、何でって……何と、なく」
「何となく?」

 少女が驚いたように目を見開いたので、オレは何だか恥ずかしくなった。少し視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに呟く。

「……そうとしか言いようがない、っつーか。あの場合、何か考えてる余裕なんてなかったし……強いて言うなら、人として当然の行動っていうか……」
「人として……?」
「いや、フツー、さ。あの状況で、放っとけないだろ?」
「自分の命が危険に晒されているのに?」

 鋭い口調で、少女が切り返す。

「いや……そりゃ、そうなんだけどさ。てか、命も何ももう死んでるワケだし」
「え?」

 どう説明したらいいのか分からず、オレは自分の髪をくしゃっとかきあげた。

「何つーの? オレなんかの力でどうなるワケでもないんだけど、身体が勝手に動いちまったんだから……しょーがねーよ」

 それを聞いた少女は、瞳を瞬かせ、物珍しそうにオレを見やった。

「変わった人間だね……自分の生死が係った時、多くの者は、他者を思いやる余裕なんてないものなのに」
「生死が係ったも何も……結局、助けようとしただけで、実際は助けられなかったワケだし。逆に……状況から見て、あんたがオレを助けてくれたんだろ?」

 決まり悪くそう問いかけると、彼女はそれに沈黙をもって答えた。

 やっぱりな。オレ、実は何の役にも立ってねーんじゃん。カッコわりぃ……。

「今度は、オレの質問に答えてくれよ」

 情けなく思いながら、オレは目の前の少女に聞きたいことをぶちまけた。

「ここ、どこなんだ? 死後の世界だってことは、漠然と分かってるんだけど……オレはこれから、どうなるんだ? それに、あんたは? だいたいあんな狼達から、気を失ったオレを連れてどうやって逃げ切ったんだ?」

 矢継ぎ早のオレの質問を黙って聞いていた彼女は、瞳を伏せると、その口元をふっと緩めた。

「……三途の川を渡った覚えがあるの? 左胸に、手を当ててごらん」
「え……」

 まさか、と思いながら、オレは自分の心臓の位置に手を当ててみた。確かな鼓動が、掌を通して伝わってくる。

「え……、オレ、生きてんのか……? ウソ、だろ……?」

 茫然と呟くオレの言葉を少女が肯定する。

「そうだよ。お前は、生きている」

 言われてみれば、さっき彼女に声をかけられて驚いた時、心臓が跳ね上がったような気がしたけれど、気が動転していて全く疑問に思わなかった。

「は、マジ……!? だ、だって夢じゃないよな、日本狼、がいて―――それに、あんたみたいな白い着物を着た女が山の中にいるなんて、普通有り得ねっ……」

 言いかけてある可能性に思い当たり、オレは息を飲んだ。

「―――まさかオレ、タイムスリップしちまったんじゃ……」

 マンガとかドラマなんかで時々見る、現実離れしたあの状況が突然現実味を帯びてきて全身の血の気が引いたけど、それを聞いた少女は小首を傾げて不思議そうな顔をした。

「たいむすりっぷ? ……どういう意味? 外から来た人間は、理解不能な言葉を口にするね……。話す言葉も、何だか妙だし」
「外から来た人間?」

 オウム返しに呟くと、彼女は静かな清流のような眼差しで、オレの瞳の奥を見透かすように覗き込んだ。

「ここは外界から隔絶された場所―――悠久の刻(とき)を留める空間……あたしは、この地を守護する者……」
「外界から……隔絶? 守護……?」
「あたしの役目は、この地を変わらぬ姿のまま保つこと……お前のように、外界から迷い込んで来た者を排除するのも、あたしの役目……」
「排……」

 その言葉の意味するところに、オレは絶句して、目の前の少女を見つめた。

 よくよく思い返してみると、霧の中から現れた彼女は、見ようによっては、オレを待ち構えているようにも見えた。

「じゃあ、あんたは……」
「あたしは、人間じゃない」

 さらりと告げられた、少女の言葉。

 一瞬―――時が、止まったような気がした。

 サラサラと流れる川の音―――小屋の中に差し込む、穏やかな太陽の光……目の前の白い着物を着た少女は口をつぐんだまま、ただ深く冴え冴えとしたその眼差しをオレに向けている。

 ―――綺麗だな。

 何故か、そんな場違いなことを思った。

 一度は死んだと思った身だし、想像を超えた出来事の連続で、オレは頭がおかしくなってしまったのかもしれない。

 不思議と、彼女のことを怖いとは思わなかった。

「そっか……。人間じゃ、ないんだ。―――なぁあんた、名前は? オレは―――オレの名前は、氷上彪(ひかみひょう)」

 その反応が想定外だったらしく、彼女は呆気にとられた様子で、まじまじとオレの顔を見つめた。

「お前、今のあたしの話を聞いていなかったの?」
「聞いてたよ。あんたは人間じゃなくて、ここを守る為にオレみたいなヤツを排除しているんだろ?」
「……頭が、おかしいの? お前」
「あぁ、多分」
「……」

 絶句する彼女にオレはもう一度尋ねた。

「なぁ、あんたの名前は? オレ、あんたに色々聞きたいコトあるんだよ。名前知らねーと、何か不便じゃん」
「……。迷い込んできた人間の中で、あたしの名前を尋ねてきたのは、お前が初めてだよ……」

 彼女は何とも言えない表情で複雑そうな溜め息をこぼすと、素っ気なくこう告げた。

「那由良(なゆら)」
「那由良か、けっこう可愛い名前なんだな。物騒な仕事してんの、似合わねーカンジ」

 何気なく言ったオレの台詞に彼女は少しだけ頬を赤らめると、どう反応していいか分からない様子で瞳を彷徨わせた。

「お前は、あたしのことが怖くないの?」
「まぁ、とりあえず今んトコは」
「お前を、殺すかもしれないんだよ?」
「殺すつもりなら、わざわざ助けないよな? つーか、せっかく名前教えたんだから、名前で呼んでくれよ。那由良」

 教えてもらったばかりの彼女の名前を呼ぶと、那由良は息を飲んでオレの顔を見つめた。それがあんまり驚いたような顔だったので、オレも思わず、息を詰めて彼女の顔を見つめ返した。

 そのまま、どのくらいの時が経ったのか―――実際には多分、そんなに長い時間じゃなかったんだと思うけど。

「……彪」

 桜色の唇が微かに動いて、涼やかな声が、オレの名前を呼んだ。

 これが、オレと不思議な少女、那由良との出会いだった。



*



 那由良の話によると、この地一帯は遥か昔に外界から分断され、周囲を覆う霧の壁によって閉ざされているらしい。その閉ざされた空間の中で、時代の流れから取り残された生物達は、悠久の刻(とき)の中で食物連鎖の営みを繰り返しながら、当時と何ら変わらぬ姿を留めたまま今に至っているのだということだった。

 霧の壁の向こう側に、オレの居た世界がある。

 那由良からそれを聞いた時、タイムスリップしたわけじゃないんだと知って、オレは心の底から安堵した。

 そして彼女曰く、ここ数日の間で外界から紛れ込んできたのはオレ一人だけということだったから、ケイタやみんなは向こうの世界にいるらしい。

 みんなの安否も気になったし、それに無事であればみんなもきっと、行方の分からないオレのことを心配しているに違いない。

「早く帰りたいんだ、ここから帰る方法を教えてくれ」

 オレは那由良にそう訴えたけど、彼女の答えは、

「もう日が暮れる。夜の山は危険だよ……その話は明日にしよう」

 というものだった。

 それに口には出さなかったけど、那由良はオレの処遇を決めあぐねている様子だった。

 成り行きで助けてしまったものの、どうしたらいいものかと困惑しているらしい。その様子から察するに、今まで迷い込んできた者達は、あまり想像したくない末路をたどっているようだった。

「人間じゃないんなら、何なんだよ?」

 囲炉裏で炙った魚にパクつきながらそう尋ねると、那由良はピシャリとこう返してきた。

「それを話す必要は、ないね」

 小屋の外には夜の帳(とばり)が下りていて、虫の声と川のせせらぎが、月の光に照らされた静かな山を包み込んでいる。

「それにしても、この辺り一帯を分断、なんて―――そんなとんでもないコト、誰がやったんだよ。まさか、神様とか言わないよな?」

 冗談半分、本気半分でそう聞くと、那由良は凛とした瞳を向けてこう言った。

「生きて帰りたいんなら、余計な詮索はしない方がいいよ。知ってしまったら、後戻り出来ないこともあるんだからね」

 さらっと、怖いコト言ってるよなー。

 そして、それを平然と受け止めてしまっているオレ……。

 人間って、一度極限状態まで追い詰められると、ある時からそれを感じなくなってしまうみたいだ。そういう感覚が麻痺してしまうっていうか……。

 それにこうして向き合っている限り、那由良は人間の女の子にしか見えなかった。

 白い着物姿、っていうのがアレだけど、そうでなければ―――オレと同じ年頃の、とても綺麗な女の子だ。

 そんなオレの様子に気が付いた彼女の長い睫毛が、揺れた。

「何?」
「いや……那由良は、ずっとここに一人で住んでんの?」
「あぁ……そうだよ」
「怖く、ねぇの?」

 穴だらけのあばら屋を見回しながらそう聞くと、彼女は不思議そうな顔をした。

「怖い? どうして?」

 愚問だったな、と思いながらオレは言った。

「こんな山の中で一人きりってのは、オレ的には、かなり心細い状況だから」
「……彪は、怖がりなんだね」
「ちっ、ちげーよ!」

 オレは真っ赤になりながら慌てて弁明した。

「オレが特別怖がりなワケじゃなくて、那由良の言う『外界』のヤツらなら、大抵は怖がるシチュエーションなんだよ!」
「しちゅえーしょん?」
「え……あー、境遇っつーか、そういうカンジの意味」
「へぇ……じゃあ彪は、今も怖いの?」
「や、今は那由良がいるし……怖いってのは、あくまで一人だった場合の話だよ」

 半分ふてくされながらそう言うと、那由良は食べかけの魚の串に視線を落としながら、複雑な笑顔を浮かべた。

「あたしがいて、安心しているの? 本当に、変な男だね……」

 その時、彼女の唇は確かに笑みの形を刻んでいたと思う。

 けれど、オレの目には……何故だか今にも泣き出しそうな、そんな表情に映った。

「食べ終わったら、もう寝なよ……布団、使っていいから」
「え……那由良は、どうすんだよ」

 ボロボロの布団を見やりながらそう尋ねると、彼女は再び魚の串を口に運びながらこう答えた。

「あたしは床で寝るからさ。気にしなくていいよ」
「や……そういうワケには、いかねーだろ」

 オレだって、仮にも男だ。

 女の子を床に寝かせて、自分だけ布団で寝るっていうのは……。

 結局、話し合いの末、オレ達は布団を横にしてその上に二人で寝ることになった。

 布団が普通の状態だとどうしても密着するカンジになって気まずいけど、横にしておけばそこそこ距離を置くことも出来るし、足がはみ出るのさえ我慢すれば、とりあえず二人とも布団で寝ることが出来る。

 横たわったせんべい布団の上、穴だらけのかやぶきの天井の隙間から、星の煌く夜空に輝く月を望むことが出来た。
 月夜をこんなふうにして眺めるなんて、いつ以来のことだろう。

「綺麗だな……こうして夜空を見上げながら寝るなんて、贅沢なカンジもするけどさ、雨が降った日とか、これだと大変じゃね?」

 隣の那由良を見やりながらそう言うと、彼女は含みのある笑みを浮かべてこう答えた。

「なるように、なるものなんだよ」
「何だよ、それ?」

 月明りの下の彼女は意味ありげに微笑んだだけで、オレの質問には答えなかった。

 オレはひとつ溜め息をついて月夜に視線を戻した。

 まぁどうでもいいっちゃ、どうでもいいコトなんだけどさ。

 しばらくして再び那由良に視線を戻すと、彼女はうつ伏せの状態で顔をこちらに向けたまま、微かな寝息を立て始めていた。

 長い睫毛に月明りが降りて、彼女の整った顔を柔らかく映し出している。

 ずいぶんと、無防備だよな……。

 別に卑しい思いがあったわけじゃないけど、オレはそんなことを考えた。

 那由良にとっては、人間の男なんて、男のうちに入らないんだろうけど。きっと。

「……」

 しばらく無言でその寝顔を見つめながら、オレは人間ではないという彼女のことを考えた。

 細い肩に、たおやかな肢体。その外見からは儚げな印象さえ感じられる、長い黒髪の少女。

 こうして見ている分には、オレ達人間と全く変わらないように見える。

 ―――どこが、違うんだろう?

 それは知りたくもあると同時に、絶対に知りたくないことでもあるような気がした。

 せんべい布団の上、人外の少女と共に足を出して寝転がりながら―――いつしか、オレの意識は深い眠りの中へと誘われていった。

 寝ていたはずの那由良の瞼が静かに開いてそんな自分を見つめていたことを、心地良い眠りに沈んだオレは知る由もなかった。
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