影王の専属人は、森のひと SS影王と専属人の日常

影王の専属人は、森のひと


 トクン、トクンと規則的なリズムを刻む、温かな音。

 誰かの心音を聞きながら目覚める朝は、久し振り……。

 ぼんやりと目覚めたわたしは、間近に感じる体温の心地好さに包まれながら、現実と夢の狭間をうとうとと揺蕩(たゆた)った。

 わたし、実家に帰って来たんだったかしら……? セレアかアレスがまた、ベッドに潜り込んできたの……?

 腕を伸ばしてその温もりを抱き寄せようとしたわたしは、思っていたのとはまるで違う大きくて硬い感触に驚き、跳ね起きるようにして身体を起こした。

 そしてそこに、上半身裸で横たわるヴァルターの姿を見出して、硬直する。

「……。え……?」

 呆然と呟いて、食い入るように目の前の光景を見つめるけれど、どうやらこれは現実らしく、その光景は揺らがない。

 え……あ、あれ……? 何でヴァルターが? 何で上半身裸で、何で一緒に寝てるの、わたし……?

 あせって周囲を見渡し、ここが目にするのが二度目である彼の寝室であることを確認しながら、この状況に至るまでの経過を思い出そうとするけれど、そこがごっそり抜けていて思い出せない。

 え? え?? ええ!? 何で!?

 何でわたし、上半身裸のヴァルターと、彼のベッドで一緒に寝てるの―――!?

 衝撃の事態に視線を彼から外せないまま、震える手を動かして自分の身なりを確認すると、きちんと服を着ていることが分かった。

 だ、大丈夫。“そういう展開”にはなっていない。充分おかしなことにはなってしまっているけれど、身体に違和感もないし、その点は心配しなくていいはず……!

 落ち着いて、落ち着いて思い出すのよ―――。

 自分にそう言い聞かせながら改めて昨日の記憶をたどっていくと、業務後にヴァルターから陛下からもらったお酒を一緒に飲まないか、と誘われたことを思い出した。

 あ、そうだ……確かマタタムブとかいう東方の国のお酒で、それを飲んだ後から急に身体が熱くなって、頭がぼーっとし始めて、それで―――それで……?

「―――思い出せた?」
「きゃあッ!!」

 寝ていると思っていたヴァルターから唐突に声をかけられて、わたしは飛び上がるくらい驚いた。

「スゴい百面相してた。どうしてこんな状況に至ったのか必死で考えていたみたいだけど、思い出せた?」

 いつの間に起きたのか、片手で頬杖をつきながらこちらを眺めている彼は、悪戯小僧みたいな顔でニヤニヤしている。

「ダ……ダメ、思い出せない! 説明してよ、あのお酒を飲んで何がどうなったのか! 何であなた上半身裸なの!?  目の毒だから、服を着てよ!」

 赤銅色をした健康的な彼の肌は白いシーツの上によく映えて、武人のように鍛えられ引き締まったその身体は大人の男の色香を感じさせて、わたしを戸惑わせた。

「オレが服を脱いだのは、リーフィのせいなんだけどな」
「わたしの!?」

 まさかそんな!?

 思わぬ回答に色を失くすわたしに、ヴァルターは少々大げさな素振りで頷く。

「酒に当てられた君の身体、懐炉みたいにあったかいのにオレにくっついて離れないから、もう暑くて暑くて敵わなくて。寝たと思って引き剥がしてもまたすぐくっついてくるし、服を脱ぐだけでもひと苦労だったよ」
「ウソ!?」
「ホント」
「ウソよね!?」

 ウソだと言って!

 瞳に切実な祈りを込めてヴァルターににじり寄ると、わたしに顔を覗き込まれた彼の視線は、何故かわたしの胸元へと落ちた。

「目の毒は、そっちじゃないかな」
「えっ?」

 ヴァルターの視線を追ったわたしは、ボタンが引き千切れるようにして開かれた襟元から覗く自分の胸の谷間を見て、驚愕した。

「きゃああぁッ!?」

 大慌てで胸元を隠し、真っ赤な顔で背を向けながら、かろうじて千切れていないいくつかのボタンを急いで留める。

 な、何、何、何でこんなことになってるの!?

「身体が火照って相当暑かったみたいで、オレがグラスに水を入れて戻ってきた時にはもうその状態だった」

 いやあああぁ! ウソ!?

 確かに……確かにひどく身体が火照って辛かったような記憶はあるけれど!

 何をやらかしているの、わたし!?

「ご、ごめんなさい。お酒を飲んで意識が飛んでしまったことなんて、これまで一度もなかったんだけど」

 あまりの恥ずかしさに、眩暈がする。

「は、恥を忍んで聞くけど……昨夜何があったのか、ひと通り、教えてもらえない? 何も知らないままなのは、気持ちが悪いから……」

 肩越しにヴァルターを振り返ると、近くにあった自らの上着を手に取って羽織っていた彼は、うっすらと口角を上げて意味深な物言いをした。

「いいけど……卒倒するなよ?」

 卒倒? まさか……いくら何でもそこまでのこと、わたしがするわけがないと思うんだけど……。

 けれど、ヴァルターの口から語られた内容は、本当に卒倒したくなるほどひどいものだった。

  ―――痴女! 痴女じゃない、わたし!!

 介抱しようとしてくれたヴァルターの首に腕を回して抱きついて、ベッドに倒れた彼の上に馬乗りになって、あまつさえ顔をこすりつけて離れようとしなかっただなんて!!

「ほっ、本当にごめんなさい……!」

 ベッドの上に正座したわたしは真っ赤な顔で平身低頭ヴァルターに謝った。

「全く覚えていないの? 断片的にも?」
「そ、それが、全く……全部綺麗に抜けちゃってて……。スゴく身体が熱かったことや、頭の芯がふわふわしてたことなんかは、おぼろげに覚えているんだけど」
「……ふーん。リーフィさぁ、イーファの後に付き合った人っているんだっけ?」
「え? いないけど……」

 その話、今、関係なくない?

 質問の意図を訝(いぶか)しむわたしの前で、嘆息したヴァルターは額に手を当て、軽く天を仰いだ。

「あっぶね……踏みとどまれて良かった」
「え?」
「危なかったよ? そんな胸がはだけた格好ですりすりされて、ひと晩中くっつかれてさ。健康な成人男性にとってその状況で手を出さずにじっとしているって、拷問以外の何物でもないからね?
君にそんな気がないのは分かってるし、例の約定(『ふとた懸念』参照)もあったから耐え忍んだけどさ、男心って結構危ういものなんだよ? 相手がオレじゃなかったら今頃アウトだ。
東方の国の酒はクォルフの体質に合わないみたいだから、金輪際全面的に禁止。正式な場で勧められても絶対に飲んじゃダメだ。いいね?
初めての色々は、本当に好きな人としたいでしょ? 女の子は」

 えっ……えっ……ええっ……。

 衝撃的な言葉の羅列に何て答えたらいいのか分からず、わたしは全身を紅潮させたまま固まった。

 何? わたし、危なかったの? ヴァルターはわたしに対してそういう気持ちになったってこと? ええ!?

 ぐるぐると、様々な事柄が目まぐるしく頭の中を駆け巡る。

 初めての色々は、それは本当に好きな人としたいに決まっている。でなきゃ嫌だ。

 そうか、ヴァルターはイーファの件を知っているから、彼以外の男(ひと)と付き合ったことがないと答えた時点で自動的に、わたしにはそういう経験が全くないのだということを彼に知られてしまったことになるのか。……ああ、余計なことを喋ってしまった。

「分かった?」
「わ……分かったわ」

 しまった、うかつだった……。どうしよう、かなり恥ずかしいんだけど……。

「まあ今回のことはリーフィに非があるわけじゃなくて全部マタタムブのせいだし、ひいてはこんなモン寄越したクリストハルトが悪い。ってことで、お互い災難だったね」

 ヴァルターが軽い調子で一連の話を切り上げてくれ、そんな彼の気遣いに感謝する。陛下もそういうつもりでマタタムブを渡したわけじゃないんだろうけど、落としどころが丁度良さそうだったので、申し訳ないけれどそれに乗らせてもらうことにした。

「そうね」

 頷きながら見合わせた、お互いの顔から苦笑じみた笑みがこぼれる。いつもの空気に戻ったのを感じてホッと息をつくわたしに、ヴァルターが思い出したように尋ねてきた。

「ああ、そうだ。ねえリーフィ、君にとって落ち着く匂いってどんな匂い?」
「? 何、急に?」
「ちょっと参考までに聞いておきたくて」

 何の参考?

「そうね……。生まれ故郷の森の香りとか、母親の匂いとか……?」

 少し考えてから答えると、彼は難しい顔になって考え込んだ。

「……。うーん? 自分の居場所的な匂いと解釈すればいいのかな?」
「まあそういう類じゃない?」
「ふーん……」
「何なの?」

 意味ありげな視線を向けられて問い返すと、ヴァルターは少しはにかんだような表情になった。

「いや、ちょっと喜んでいいことなのかなぁと思ってね」

 ちょっとじゃなくて、だいぶ嬉しそうに見えるけど。何なのよ。

「だから、何が?」
「ああいいんだ、こっちの話だから」
「何よそれ、人に意見を聞いておいて」
「はは、いい子だから膨れない」

 大きな掌があからさまに誤魔化すことを前提で、わたしの頭に伸ばされる。

 けれどわたしは敢(あ)えて、それを受け入れた。

 いつからだろう? こうされることに抵抗感を覚えなくなったのは―――。

 頭に置かれた無骨な掌が柔らかく往復して、長い指が、時折悪戯するように髪を緩くかき混ぜていく。

 ―――答えたくないなら、答えなくてもまあいいわ。

 職務上でもプライベートにおいても特殊な立場にあるこの男(ひと)には、こんなふうに話せないことがこれからもいくらだって出てくるのに違いない。

 ―――いちいち気にしていたら、キリがないもの。

 どこか悟りを開くにも似た気持ちになって、わたしは笑顔ではぐらかすヴァルターを見つめた。

 わたしは、あなたの専属人。

 軽薄に振る舞ってみせているあなたが、多分本当は義理堅くて、根は真面目な人なのだと気が付いているから―――。

 だから、あなたが嫌がるなら必要以上に踏み込んだりしないから、大丈夫よ―――。



<完>
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