私室のドアを閉め腕の中のリーフィアにそう伝えると、彼女は小さく頷いた。
「うん……」
「気になる? 害はないはずだから、早く鼻が慣れてくれるといいんだけど」
「ううん……落ち着く―――」
―――落ち着く? そう返ってくるとは思わなかった。
どういう意味か気になったが、こんな状態の彼女が口走ったことだ、深く考えない方がいいんだろうな。
そんなふうに思いながら自分のベッドへ彼女を横たえようとした時だった。
すり、とオレの顎の辺りにリーフィアが額を寄せるようにしてきて、どうしたのかと動きを止めたオレの首に、緩やかに伸ばされた細い腕が巻きついた。
……ん?
リーフィアが両腕を回してオレの首に抱きつくような体勢になる。何をどうしようというのか、彼女の様子を窺っていると、リーフィアは予測もしなかった行動に出た。彼女はおもむろに、オレの顔へ自分の額や頬をこすりつけ始めたのだ。
「ちょ、リーフィ? 何!? 急にどうした!?」
驚くオレに彼女は頬を寄せながら、とろんとした口調で呟く。
「分かんない……何か、こうしたいの」
「え……ちょ、ちょっと」
―――は、何!? 何だこれ、どうなっている!?
突然のすりすり攻撃に戸惑うオレのことなどおかまいなしに、リーフィアは一心不乱に自分の顔をこすりつけてくる。中途半端な姿勢で首に彼女の体重がかかったこともあり、オレはバランスを崩して彼女もろともベッドの上に倒れ込んでしまった。
とっさに身体を捻って彼女を下敷きにしてしまうことは免れたが、その弾みでオレの上に乗っかる形になった猫耳の専属人は、何事もなかったかのようにすりすり攻撃を続行してくる。
「ちょっと待ってリーフィア、どうしちゃったんだよ!?」
「こうしてると、落ち着くの。こうしてたいの……」
熱い吐息と共に紡がれる、ねだるような甘い声。頬や顎、首筋に彼女の熱を帯びた柔らかな肌が触れ、鼻先をビロードのような獣耳がかすめていく。さらさらした長い亜麻色の髪が彼女が動く度に肌の上を滑って、身体に感じる彼女の重みと質感に、急速に本能を駆り立てられた。
―――あれ……? マズいな。
予期しなかった覚醒の兆しにあせり惑う一方で、どこか冷静にその状況を見下ろしている自分がいる。
おかしいな。こういう状況には比較的耐性があるタイプだと自負していたんだけどな―――。
らしくもなく流されかけているのは、オレを魅了してやまない獣耳のせいなのか。火照った肌が纏う、微かな汗の香りに酔わされたせいなのか。
これは、マズいかもしれない。
「……オレはね、落ち着かないから。せめて上から下りてくれない?」
薄れかける理性を掻き集め、培った演技力で心身の動揺を押し隠してやんわりとお願いすると、顔を上げたリーフィアがオレの上をずり上がるようにしてこちらの瞳を覗き込み、小首を傾げた。
「……イヤ? ダメなの?」
しゅん、と下がりかけた三角耳と、熱で潤んだ琥珀色の双眸―――火照って艶めいた表情が、何とも言えない寂しげな色を帯びて、オレの胸に突き刺さる。
―――ああ、もう、取り繕った渾身の演技が台無しだ。
「その表情、反則だよ……」
オレは深い吐息をついて腕を伸ばし、リーフィアの後頭部を引き寄せて、彼女の顔を自分の肩口にそっと押し当てるようにした。
「そんな顔、見せちゃダメだろ……可愛すぎだし、普段とのギャップあり過ぎ。獣耳も、ずるいよ……」
どこか泣きたい気分にも似た感情に迫られながら、腕に抱え込むようにした彼女の頭をそっと撫でる。
―――こんな事故みたいな出来事で、今の関係性を壊したくないんだ。
毎日当たり前のように君が居る執務室のあの日常を、こんなことで壊してしまいたくない。そう思うほどには、君の存在に依存しているんだ。だから。
「困らせないでよ。ずっと傍にいてほしいのに―――」
指触りの良い亜麻色の髪を梳くように撫でながら、祈るような気持ちで囁く。
そんな願いが、通じたのだろうか。
オレの心音を聞くような体勢になってじっとしていたリーフィアは、顔をこすりつけることをやめ、代わりに小さな声で呟いた。
「……。気持ちいい……」
「……ん?」
「気持ちいいの……」
どうやら頭皮に触れるオレの指が心地好かったらしく、気持ち良さげに目を閉じたまま、うっとりと身を任せている。
「こうされるの、いいの?」
「うん……指が耳の付け根の辺り、撫でてくの、好き……」
まるで猫みたいだな。
陶然とした表情で大人しくされるがままになっている彼女は、大きくて綺麗な猫を連想させた。
―――ん? 猫?
そのワードが、唐突に記憶の片鱗を呼び覚ました。いつだったか、書庫で読んだ文献にあった東方の国の記述の中に、マタタムブとよく似た名前の植物の記載があったことを思い出したのだ。
確か―――マタタビという名の植物で、ネコ科の生物はその匂いに強い恍惚反応を示すと書いてあった気がする。その実は食用にも用いられ、彼(か)の国では塩漬けや果実酒として親しまれていると―――。
―――これか!
今回の原因に違いない事案に思い当たったその瞬間、オレは自分そっくりの顔をしたこの国の王に殺意にも似た感情を抱いた。
さては、マタタビの実を使った果実酒がマタタムブだな!? クリストハルト、あのヤロー! 知っててオレに渡しやがったな!?
だとすればリーフィアのこの状態にも納得だ。彼女は酩酊しているのではなく、恍惚状態に陥っているのだ。
彼女は猫型の耳を持つ亜人であってネコ科の生物ではないが、おそらくクォルフにはマタタビの成分に反応する何らかの素因があるのに違いない。
そのフェロモンに自分は当てられたのだ。
「あっのクソ国王……後で、シルフィールに言いつけてやる」
クリストハルトが一番ダメージを受けるであろう報復を口にしながら、オレはこっちの気も知らずにうとうととまどろみ始めている専属人の頭を、彼女が眠りに落ちるまで辛抱強く撫で続けなければならなかった。
―――何の拷問なんだろう、これ。
「リーフィア、懐炉(かいろ)みたいだな。あっついよ……」
聖人君子であることを強いられたオレは遠い目をしながら、熱くて柔らかい、息苦しさ覚える大切な重みをしばらく抱え続けていた。
いつだったか、彼女を抱き締めて眠れたら気持ちがいいだろうなと思ったことがあったけど―――これは予想外で、キッツいなぁ……。
<完>