そんな言葉と共にクリストハルトから手渡された一本の酒が、事の始まりだった。
*
「リーフィはお酒飲めるんだっけ?」
ある日の仕事終わり、そう尋ねたオレに専属人のリーフィアはデスクから頷きを返した。
「たしなむ程度なら」
「じゃあ、明日は休みだしちょっと一緒に飲まない? クリストハルトから珍しい酒をもらったんだ。東方の国の酒で『マタタムブ』っていうらしい。ついでにおつまみもせしめてきたよ」
「マタタムブ? 聞いたことないわ」
「一国の王様が珍しいって言うくらいだからね。何でも普通の酒と違って、飲むと薬効が得られるらしいよ。疲労回復に冷えの改善、それと様々な鎮痛効果だったかな?」
「疲労回復?」
そのワードが琴線に触れたらしく、リーフィアの瞳が輝いた。
「それが本当なら嬉しいわね」
「はは、スゴくまずかったりしてね。薬みたいな味だったら嫌だな」
そんな流れでグラスとつまみを手にソファーへ移動し、ローテーブルを挟んで向かい合う形で座ったオレ達は、どんなものかと少しワクワクしながら異国の酒瓶を開けた。
「匂いは別に悪くないな」
「そうね、スゴく甘い匂い」
「え、そう? 特別そんな感じはしないけど……」
「ホント? 甘い香りを強く感じるわ」
種族の違いか、クォルフのリーフィアにはマタタムブの匂いが強烈に感じられるようだ。
彼女の瞳の色に似た琥珀色の液体をグラスに注いで改めて香りを確かめてみるが、人間のオレにはやはり、さほど強い香りとは感じられない。
「苦手な感じだったら無理しなくていいからね」
「別に嫌な匂いというわけじゃないのよ。どちらかと言えば好ましい感じ」
「ならいいけど」
お疲れ、と軽くグラスを合わせてオレ達は乾杯した。
少し強めのアルコールの中に自然な甘みと、わずかなコクを感じる。独特な風味はあるが飲み口はさっぱりとしていて心配していた薬臭さもなく、まあまあイケるという印象だった。
「オレ的にはありだな。ちょっとクセになりそうな味」
そんな感想を述べながら正面のリーフィアを見やると、彼女は早くも頬を上気させていて、たしなむ程度に飲むと聞いていたオレはその様子を意外に思った。
「リーフィ、もう赤くなってる。飲めるけどあまり強くないタイプ?」
「えっ、顔に出てるの? 飲んだ瞬間、胃に沁み渡るような感じはあったけど……。変ね、普段はこのくらいで顔に出たりしないのに。思ったよりアルコールが強かったせいかしら」
「はは、女の子がほんのり赤くなっているのは色っぽくて可愛いけどね、もし強過ぎるようならやめときなよ。何なら少し水で割る?」
「大丈夫。味は美味しいわ。甘くて濃厚で、香りも芳醇で……」
「濃厚? どっちかっていうとさっぱりじゃない? 甘みも自然な甘さっていうか」
変だな? クォルフと人間にはそんなに味覚差がなかったはずだけど。
その違和感は彼女も感じたらしい。
「さっぱり? これが?」
小首を傾げて、もう一度味わいを確かめるようにグラスに口づける。口の中に含むようにして味わってから飲み込んだ彼女は、どこかうっとりとした表情になってそれを否定した。
「何でこれがさっぱりなの……? とろとろ甘くて、いつまでもコクが尾を引いて、頭の芯が蕩けそうな、いい匂い―――残る余韻が、たまらないわ……」
「リーフィ? 大丈夫?」
急に雰囲気が怪しくなってきた彼女を心配してオレが声をかけた時だった。何を思ったのか、彼女はグラスの中に半分ほど残っていた酒を一気にあおってしまったのだ。
「ちょっ……何してんの、やめときなって!」
明らかに様子がおかしいリーフィアに驚いて、オレは彼女の手からグラスを取り上げてテーブルへ置いた。
「もうやめとこう。この酒、クォルフには合わないのかもしれない。オレの感じた印象と君が感じている印象があまりに違い過ぎるし」
「ん……」
マタタムブを一気に飲んでしまった彼女の顔は先程よりも赤みを増して、いつも強い意思の輝きに満ちている双眸はとろんとして虚ろになり、萌黄色の獣耳は力なくだらんと下がってしまっている。
「ヴァルター……暑い……」
身体が火照るのか、リーフィアは額に滲んだ汗を拭いながらオレにそう訴えた。
「水持ってくるから、待ってて」
常備されている水差しからグラスに水を入れて戻ってくるとリーフィアはくったりとソファーにもたれていて、自力で身体を支えるのが難しい状態になっていた。余程暑いのか、着ていたシャツの詰襟のボタンを胸元まで引き千切るように外していて、合間からわずかにまろやかな胸の稜線が覗いている。
―――これは……眼福だけど、目の毒だな。
オレは意識的にそこを見ないよう努めながら、彼女を抱え起こすようにして口元にグラスをあてがった。
「んっ……」
「はい、水。飲める?」
瞬きを返して、リーフィアがゆっくりと水を飲み込む。とりあえずそのことに安堵しながら、オレは彼女に状態を尋ねた。
「どんな感じ? 頭痛や吐き気はある?」
「ううん……。頭の芯、ふわふわ、蕩けそう……。熱い……」
紅潮した頬で切ない吐息を紡ぐ彼女の表情は、辛そうだ。
意識があって受け答えが出来るのが幸いだが、クリストハルトのヤツ、何て酒(モノ)を渡すんだ。
何なんだ、あの酒? 同じものを飲んだのに、どうしてオレは平気で彼女だけが―――。
そんな疑問を抱きながら、テーブルの上にある異国の酒をねめつける。
リーフィアはマタタムブの匂いにもだいぶ反応していたから、その匂いが充満しているだろうこの場所にいること自体が良くないのかもしれない。
「ちょっとここから移動しよう、抱き上げるけど変なことしないから、少し我慢して」
そう言い置いて彼女の脇と膝裏に手を挿し入れて横抱きにする。思った以上に軽いのと、小さく上がった彼女の悲鳴に驚いた。
「リーフィ? 何もしないよ」
「……っ、違う……違うのっ……」
獣耳を横に伏せ、弱々しく首を振りながら、真っ赤になった彼女はオレの胸の辺りの衣服をくしゃっと握りしめている。
不謹慎にもその様子を可愛いと思ってしまったオレはクズかもしれない。
「わっ、わたし変なの。身体が熱くて、感覚が過敏になっている感じがするのに、上手く力が入らなくて、でも何かふわふわ、気持ちが昂って、じっとしているのが落ち着かなくて……」
「うんうん、君の様子がおかしいのは分かってるから大丈夫。全部アルコールのせいだよ。マタタムブの匂いがしない所の方がいいと思うから、オレの寝室へ連れて行くけど、いい? 妙な真似はしないから」
「ん……」
リーフィアがちゃんと状況を理解出来ているのかは怪しいが、とりあえずその承諾を得たオレは彼女を自分の寝室へと運び込んだ。