ドヴァーフ編

譲れない想い


 日の差し込まない、冷たい石造りの空間。

 厳重に封鎖され長らく閉ざされていた、人の手が入らなくなって久しい、今はもう使われていない、淀んだ闇を纏う地下の石室。

 地上の動乱に乗じていわくつきのその場所に潜入を果たしたシェスナは、室内にこもる禍々しい空気に細い眉をわずかにひそめた。

 あれから十年もの時が経っているというのに……ここにはまだ、胸の悪くなるような邪気の残滓(ざんし)が漂っている。

 意識を失ったままの黄金(きん)色の髪の少女の身体を部屋の中央に位置する台座跡に横たえ、シェスナは蒼白なその顔の上にそっと視線を落とした。佇む彼女の足元には、かつて台座を取り囲むようにして描かれていた魔法陣の名残がうっすらと見て取れる。

 室内には想像以上に負の遺産が残っていた。常人であれば、そう長くない時間ここにいるだけで身体と精神(ココロ)に変調をきたすだろう。世界の命運を握る“聖女”と謳われるこの少女にしても、今のこの状態で放置されれば無事では済むまい。ここの“主”が残していった不浄な空気は、それを清める神官も不在となった今、地下のこの空間を我が物顔で蹂躙していた。

 シェスナは胸元の銀色の鎖(シルバーチェーン)のついた笛を手に取り、それに静かに息を吹き込んだ。それに呼応して足元に光り輝く法印が現われると、その中から比較的小振りな、鈍色の鱗を持つ竜(ドラゴン)が出現した。

 大きさは人の二倍程度と竜にしては小柄だったが、ベルリオス同様その全身には呪紋(じゅもん)が施されており、眼窩(がんか)は空洞で、頑強な鱗に覆われた身体からは淀んだ白い陽炎のようなものが立ち昇っている。

「冥竜カラムス、私に祝福を」

 淡々とした口調で僕たる竜に命じると、カラムスの空洞の眼窩が妖しく輝き、シェスナの身体を眩い虹色の光が一瞬包み込んだ後、音もなく消えた。

 全身がざわつくような禍々しい負の気から解放され、自身の身体に幾重もの加護が降りたことを確認したシェスナは、続いて冥竜にこう命じた。

「ここでこの娘を護りつつ見張れ。決して逃がすな。そして-----私に万が一のことがあった場合は、殺せ」

 その言葉をなぞらえるようにカラムスの眼窩が再び妖しい輝きを帯びる。黄金色の髪の少女の身体が淡い白色の結界に包まれたことを見届けたシェスナは、淀んだ闇を纏う室内へゆっくりと視線を戻した。

 当時は近寄ることも出来なかったこの場所へ、十年後の今日、こんな形で足を踏み入れることになろうとは思わなかった。

「……。お父様……」

 深い静寂に包まれた空間に、かすれたようなシェスナの声が小さく響く。

 この地下の石室は、彼女にとっては非常に深い意味のある場所だった。

「……」

 もの思いに沈んでいたシェスナを、その時小さな異変が襲った。

「……! -----っ、う……、ふっ……」

 胸が熱い。激しく咳きこみ、口元を押さえていた掌が赤褐色に彩られているのを見た時、シェスナは自らの身体に代償が訪れていることを知った。

 やはり、来たか……。

 人の身に、魔のチカラを取り込んだ代償。脆弱な肉体に、後付けで異質のチカラを取り入れたのだ。いずれはこうなるだろうと、予期していたことだった。

 自らの全身に刻まれた禍々しい紋様に触れ、シェスナはしばし瞑目した。

 魔と契約した代償に得た二体の竜は、積年の目的を果たす為の礎(いしずえ)となった。後は-----。

 シェスナは腰の剣帯に収められた小剣に細い指を当て、唇を引きしぼった。切れ長の琥珀色(アンバー)の瞳が明確な殺意をもって、凍てつくような光を帯びる。

 後は、私が目的を果たすだけだ-----。

 冷たい石造りの無慈悲な檻に少女を残し、元ガゼ族の占い師は、かつて魔法王国ドヴァーフの秘宝が祀られていた地下の石室を後にした。

 十年前の惨劇、その発端となった闇の宝玉『真実の眼』の褥(しとね)に、この世の命運の鍵を握る少女を横たわらせて-----。



*



 凄まじいスピードで繰り出される、緑色の凶器。鋭い棘のついたそれが唸りを上げながら空気を切り裂き、獲物達を打ち据えんと迫り来る!

「くっ……!」

 熱い痛みが頬をかすめていくのを覚えながら、アキレウスはぎりっと奥歯をかみしめた。

 閃光のようなセルジュの攻撃は、どうにか目で捉えることが出来た。だが、結界の影響を受ける身体の反応がそれについていかない。

 それでなくとも敵の武器は剣よりも攻撃範囲の広いムチだ。懐に入り込むのが容易ではない上、まるでそれ自身に意思があるかのように動きを自在に変化させる。その為、軌道を読むことが出来ない。

 しかもそれを操る魔性自体の強さが桁外れときている。無遠慮に放たれる一撃全てが必殺級だ。喰らったらただでは済まない。

 後方からフリードが弓矢で射かけ、アキレウスが陽動し、パトロクロスが斬りこむという戦術を取っているが、ピンクの色彩を纏う美しい魔性はまるでつけこむ隙を与えてくれない。

「あのムチが曲者だよなぁ……」

 そうぼやきながら、フリードは全体的に射かけていると見せかけつつ、密かにセルジュの右肘に狙いを集めて弓矢を放っていた。だが、今のところそれはことごとく外されてしまっている。

「きっついなぁ……やるしかないけど」

 溜め息をつく彼の背後で、仲間達に守護の呪文を唱えながら、ガーネットはじりっとする思いで赤紫色の被膜に覆われた空に視線を走らせた。ロードバーンの聖なる光は侵食する範囲をじわじわと広げ、ようやく三分の二程度まで差しかかろうというところだ。

 ロードバーンがあの結界を消滅させるまで、自分達が持ちこたえることが出来るかどうか……全ては、そこに懸かっている。それが出来なければ、ドヴァーフは滅亡する。何が何でも持ちこたえねばならない。

「うふふ、なかなかやるじゃない。-----でも、だからこそ分かるでしょ? あたしには敵わないわよ……そろそろ絶望して?」

 うっすらと笑うセルジュの纏う気配が変わった。主から注ぎ込まれる力を受けたムチがドクン、と脈動し、妖しげな光を帯びる。

「……!」

 目を瞠る獲物達に向け、彼女は高らかにこう告げた。

「光栄に思いなさい。人間相手にコレを振るうのは初めてよ?」

 薔薇のような笑みと共に、凄絶な一撃が放たれた。

「流麗円空乱舞(グラディエラ)!」

 鋭い風切り音が響いた。流れるようなフォームから円を描くようにして繰り出された高速のムチの連打が、前衛にいたアキレウスとパトロクロスに牙を剥き襲いかかる!

「……ッ!」

 鋭利な打撃の洗礼が目に捉えきれないスピードで皮膚を切り裂き肉を抉り、更に鎧の上から肉体を破壊しかねない激烈な威力でもって二人を打ち据え、弾き飛ばす!

「パトロクロス王子、アキレウス様ッ!」

 その光景を目の当たりにしたオルティスが色を失くす!

「! パトロクロスッ!」

 その瞬間、ガーネットは青ざめた表情で叫び、駆け出していた。

 パトロクロスが弾き飛ばされた方向は壁が破壊されていた。アキレウスは大音響と共に壁に激突して床に崩れ落ちたが、パトロクロスは一度もんどりうった後、勢いが止まらないまま床の上を滑るようにして転がっていく。

 その先に待ち受けているのは、戦火の広がる王都のパノラマだ。ドヴァーフで最も高い建造物、その最上階に近い場所-----転落すればまず助からない。

「ガーネット!」

 珍しくあせりを含んだフリードの声を後ろに聞きながら、ガーネットは転がるパトロクロスの前に飛び出すようにして、彼の身体を身体全体で受け止めた。二人重なるようにして床の上を滑りながら破壊された壁際でようやく静止し、ぎりぎり転落を免れる。

「大丈夫、パトロクロス!?」
「っ……あぁ……すまない、助かった……」

 息せき切って覗き込むガーネットに切れ切れの言葉を返しながら、パトロクロスは眼下に広がる光景を見下ろした。地上から吹き上げてくる風が、本当に間一髪だったのだということを知らしめる。ガーネットが身を挺して止めてくれなければ、今頃自分は空中へとダイブしていたことだろう。

 呼吸を整えながら、パトロクロスは自身の状態を確認した。凄まじいまでの連続攻撃だった。身体の芯にズシンと響く重いダメージが残っているが、とりあえず骨や筋に異常はないようだ。だが打ち身がひどく、身体を起こそうとするだけで全身に鈍い痛みが走る。

 結界の影響を受けているアキレウスの受けたダメージは、パトロクロスのそれよりも遥かに大きなものだった。

 セルジュの攻撃と壁に叩きつけられた衝撃とで軽い脳震盪を起こし、それが治まると今度は強烈な吐き気が込み上げてきた。脳だけではなく内臓もひどく揺さぶられてしまったらしい。しかも、焼けつくような痛みを訴えている箇所があった。

 くそ……骨、がっ……。

 どうやら肋骨が何本かいかれてしまったらしい。激痛を堪えながらどうにか立ち上がろうと試みていると、冷酷な声が頭上から降ってきた。

「苦しそうね。もう一発喰らえば少しはしおらしくなるかしら?」
「!」

 振り仰いだ瞬間打ち下ろされた容赦のない一撃に、アキレウスはもんどりうって床の上を転がった。

「が、はっ……!」
「アキレウスッ!」

 パトロクロスが駆け出そうとするが、足がもつれてバランスを崩してしまう。思った以上のダメージが足にまで影響を及ぼしていた。思うように動かない身体に舌打ちするパトロクロスの傍らで、ガーネットが素早く回復呪文を唱える。

「“恩波の癒し手(レイティアー)”!」
「……邪魔しないでちょうだい」

 セルジュのピンク色の瞳が強烈な輝きを放った。その瞬間、それを目にした者達に見えない何かが襲いかかった。視界が一瞬ピンク色に染まり大きく震えたかのような錯覚、恍惚とした衝撃-----陶然とした空気が漂い、辺りは異様な雰囲気に包まれた。

「……っ、な……何だ……!?」

 今まさに弓矢を射かけようとしていたフリードはぐらり、と身体が傾くのを感じ、戸惑いの声を上げた。

「これ、は……!?」

 パトロクロスも自身の身体に異変を感じていた。

 眩暈、それに似た感覚。頭の芯が痺れ、ふわふわと身体が浮き立つかのような高揚感と、大きくたわみ歪んでいく視界-----意識にうっすらと、もやがかかっていく。酔っ払った時の酩酊感にも似ているが、それとは違う。危険だと、戦士の勘が全力で警告を発している。パトロクロスは固く目をつぶり、額を押さえた。

「あたしの邪魔をしないで。邪魔をするヤツがいたらソイツを始末して」

 響くセルジュの声が、やけに艶かしい。その声が幾度も頭の中に反響して、本能的に逆らいがたい甘い衝動が込み上げてくる。

 固く閉ざしていた目が声の主の姿を求めて我知らずに開く。その視界に映ったセルジュの姿は、波紋を描く水面に映った景色のようにゆらゆらと揺らめいて、燃え立つように光り輝くピンクの双眸が深く深く見つめる者を覗き込み、意識の奥底まで侵食していこうとする。

「さぁ……あたしの声に応えてみせて」

 周囲の全ての音が遮断され、甘く麗しい囁きだけが聞く者の心を震わせる。

 -----この存在は、あまりにも神々しく、美しい。

 茨の蔓に囚われ、屈服しかけていく心。

 何もかも投げ出して、この美しい存在に全てを捧げてしまいたい……。

 精神世界の底で目を閉じかけた時、根底に何かが引っかかった。

「……ッ!」

 引きずられかける心を理性の力で抑えつけ、パトロクロスはその誘惑を振り払った。

 途端に諍(いさか)う声が耳に飛び込んでくる。顔を上げると、目を疑うような光景がそこに広がっていた。

「やっ……やめろ! 貴公、何をする!?」
「…………」

 悲鳴を上げる相手に対し、無言で襲いかかる虚ろな瞳をした者達。そこかしこで味方同士が衝突し合い、血で血を洗っている。

 一瞬事態が飲み込めず茫然とするパトロクロスの背後から緊迫したガーネットの声が響いた。

「パトロクロス、フリード、平気!?」
「あ、あぁ……これはいったい……!?」
「まぁ何とかね。これってもしかして……」
「ええ……多分、魅了の類だと思うわ」

 言いながらガーネットが回復呪文を唱え始める。

「ガーネットのことで胸いっぱいのボクに他の女の魅了なんか効くかっての。でもみんな見事にヤラれちゃってるね……くそっ、やっかいだな。人数が多すぎる」

 憎まれ口を叩きながらフリードが状態異常を回復させる呪文を唱え始める。

 そういえばフリードも白魔法の使い手だったのだった、と思い起こしながら、パトロクロスは素早くフロア全体に視線を走らせた。

 老若男女問わず、セルジュの瞳を見てしまった者はそのほとんどが魅了の術に囚われてしまったらしい。レイドリックとオルティスはその魔の手を逃れたようだが、騎士と魔導士の何人かとフロアの片隅に避難していた文官達のほとんどはその手に落ちてしまったようだ。偶然か必然かアルベルトはどうにか魅了を免れたらしく、襲いくる家臣達から悲鳴を上げながら逃げ惑っている。

「殿下、こちらへ……!」

 エレーンの側から離れられないオルティスが襲いかかる部下を足蹴にしながらアルベルトに向かって叫ぶ。

 セルジュの魅了から逃れられた者はごくわずかだった。フリードはガーネットへの強い想いをもってそれを振り切ったらしいが、よほどの精神力がなければあれを回避することは難しいだろう。

 パトロクロスは精神世界の底でセルジュに囚われかけた時のことを思い浮かべた。あの時自分を踏みとどまらせたものは、何物にも屈してはならないという王族としての高い誇りだったのだろうか。

 味方同士の争いは凄惨さを増していく。魅了された者もされなかった者も、騎士達は先のセルジュとの戦闘で深手を負い、回復呪文でどうにか命を繋いでいるような重傷者ばかりだ。ガーネットも難を逃れた魔導士達も回復呪文を唱え続けているが、力を押さえ込まれた状況下では本来の治癒力は発揮出来ず、刻一刻と状況は悪化していく。流れる血の量があまりにも多すぎる……!

「ダメだわ……このままじゃ……!」

 回復がまるで追いつかない。ガーネットは唇をかみしめた。全滅、の二文字が脳裏をよぎる。

 反射的に、ガーネットは腰の道具袋の中から琥珀色の液体の入った小瓶を取り出していた。フリードからもらった“月の雫”という一定時間術者の魔力を高めるアイテムだ。

 これを使えば、回復力を大幅に高めることが出来る。けれど-----。

 一抹のためらいが脳裏をかすめる。それを振り払い、ガーネットは小瓶の栓を抜いた。

 そんな彼女に気付いたフリードが仰天して呪文の詠唱を中断する。

「ガーネット!? 何やっているんだよ! そんなの絶対に使っちゃダメだ!」
「でも……このままじゃ確実に全滅するわ!」
「だからって! この状況でそれを使ったら、君がどうなるか……! 魔力が高まれば高まるほど、君にかかる負荷は大きくなる! 危険だよ!」
「分かってる! でも、やるしかない!」

 そう言い切り、ガーネットは強い決意を湛えた瞳をフリードに向けた。

「決めたの」

 その毅然とした口ぶりにフリードは閉口した。この瞳をした時のガーネットは何を言ってももう聞かない。

 長年の付き合いでそれは分かっていた。だが、彼としてもここは譲るわけにはいかなかった。

 フリードにとってこの世で一番大切なのはガーネットなのだ。彼女を失うくらいなら、後でどれほど非難を浴びようとも、ドヴァーフの滅亡の方を彼は選ぶ。それはあくまで最終の最悪の場合の選択だったが、生命に危険が及ぶ可能性がある彼女の行為をみすみす見過ごすことは出来なかった。

「待ってよガーネット、冷静に考えて。いくら魔力を高めたって、そのせいで君自身が倒れちゃったら何の意味もないんだよ? むしろ状況はマイナスになる」
「やってみなけりゃ分からないわ。どっちにしろ、このままじゃ全員が倒れることになる。可能性がある限り、あたしは生き残る為の道を模索する」

 ガーネットの決意は揺るぎない。頑なな彼女の態度にフリードは困り果てた。

「あぁ、もう、パト様からも何とか言ってやってよ! ここで“月の雫”を使うなんて自殺行為だ!」

 断腸の思いで、恋敵である青年に助け舟を求める。癪だが、この際四の五の言っていられなかった。

 フリードに求められて、混乱している味方を剣であしらっていたパトロクロスが振り返る。だが、彼の口から出た言葉はフリードが期待していたものとはまるでかけ離れたものだった。

 パトロクロスは真っ直ぐにガーネットを見つめ、ひと言、こう尋ねたのだ。

「-----やってくれるか?」

 切れ長の淡い青(ブルー)の瞳と勝気に輝く茶色(ブラウン)の瞳とが交錯する。ガーネットは唇の端を上げ、不敵に頷いてみせた。

「ええ。任せて」

 何者も立ち入れないような濃密な空気が一瞬、見つめ合う二人の間に流れる。絶句しつつ、フリードが不本意ながらそれを感じてしまった次の瞬間、彼が止める間もなく、ガーネットは琥珀色の液体を飲み干してしまったのだ!

「なッ……」

 驚きの声を発し、フリードが険しい表情でパトロクロスを非難する。

「ちょ……! パト様、煽ってどうすんだよっ……!」
「フリード。ガーネットを任せたぞ」

 パトロクロスはそう告げると、襲いかかろうとしていた文官達を剣の柄で昏倒させ駆け出した。

「あ……あっんちくしょぉぉーっ!」

 やり場を失った怒りをもてあまし、フリードが絶叫する。

 何てずるい男だ。自分が本気の本気にならざる状況を作り出しておいて、置いてけぼりとは。

「ずいぶんと難しい宿題を出してくれるじゃないか……この状況でガーネットを守りつつ魅了の術を解除しながら援護しろって……ボクじゃなきゃ出来ないぞ!」

 憤慨しながらフリードは再び状態異常の回復呪文を唱え始めた。

 こうなったら少しでもガーネットの負担を軽くすることに努めなければならない。その為には魅了の術に囚われているうっとうしい輩共を正気に戻し、無駄なダメージを減らすことが先決だ。

 絶対に絶対に、パトロクロスには負けられない。あの男はやはり、ガーネットよりも大義名分の方を重んじるのだ。

 愛しい少女を守り抜けるのはやはり自分しかいないのだと確信して、フリードは精神を集中させ次々と呪文を放った。

「“六根清浄(キュアー)”!」

 そんな彼の傍らで月の雫を飲み干したガーネットは、一層強まった結界の呪力に呼吸を止め、整った眉を苦悶に歪めた。

「-----っ、はっ……」

 不当な力がこれまで以上に身体中を締めつける。内臓までもが圧迫されるような衝撃に、きつく閉じた瞼の裏側が赤く見えた。

「ガーネット、大丈夫!?」

 ふらつく彼女の腰を支えるようにしてフリードが心配そうに問いかけてくる。ガーネットは震える瞼をこじ開け、気丈に微笑み返した。その瞳が苦痛で潤んでいるのを見て、フリードの胸が切ない痛みを訴える。

「まったく、無茶しすぎだよガーネットは……」
「ごめん……心配してくれて、ありがとう」

 何度か大きく深呼吸を繰り返し、呼吸を整え、ガーネットが呪文の詠唱に入る。彼女の様子に気を配りながら、フリードは弓矢をつがえた。その先には、アキレウスに苛烈な攻撃を加えるセルジュの姿がある。

 ガーネットにこれ以上つらい思いをさせない為には何が何でも短期決戦に持ち込まなければならない。これまでも手を抜いていたわけではなかったが、今のフリードは本気の本気だった。

「そろそろ跪く気になった?」

 長い睫毛を伏せうっすらと笑いながら、セルジュが足元に横たわるアキレウスを見下ろす。

「誰、がッ……」

 傷だらけの身体を引きずり起こそうと試みながら、アキレウスが低く唸る。肋骨を折られ鮮血に染まった精悍な青年の姿は悲愴だがどこか艶めいていて、それがセルジュの欲望をたまらなくそそる。切れ切れの息の下からにらみ返す野性的な翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳は彼女の嗜虐心をことさらに煽った。

 例え殺されてもこの青年が自分に跪くことはないだろう。それが分かっていながら、愉しくてついついここまでなぶってしまった。

 だが、それもそろそろ潮時だ。セルジュの目的はこの青年をなぶり殺すことではなく、その精気をいただくことなのだから。これ以上傷物にしてしまう意味はない。

「! がッ……!」

 勢いよく折れた肋骨の上を踏みつけられ、アキレウスの口から苦痛の呻きがもれた。全体重を乗せぎりぎりとその部分を踏みにじりながら、セルジュがアキレウスを失神させにかかる。

 凛とした声が響き渡ったのはその時だった。

「“恩波の癒し手(レイティアー)”!」

 その瞬間、アキレウスの身体が強い癒しの光に包まれた。苦痛に歪んでいた翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳がギラリと見開かれ、鋭い警鐘がセルジュの中を駆け抜けた。反射的に後ろへと跳び退(すさ)った彼女の鼻先をアキレウスの豪剣がかすめていく! 同時に、死角から鷹のような斬撃がセルジュに襲いかかった!

「鷹爪壊裂斬(ようそうかいれつざん)!」

 狙い澄ましたように飛び込んできたその斬撃を、セルジュはかわしきれなかった。血飛沫を上げ、セルジュの左腕が飛ぶ!

「……!」

 目を見開きながら、更に突き込まれたアキレウスの剣をムチで防ぐセルジュの右肘に、風切り音を響かせ鋭利な矢が突き刺さる! そこから流れ込んだ電流のような衝撃に、セルジュはわずかに頬を歪めた。

「くっ……!」

 ただの矢ではない、魔力が込められている。神経を破壊し麻痺させるその威力に、セルジュは舌打ちした。

 何ということだ。もはや虫の息の人間達にこの自分が手傷を負わせられるとは。

 大失態だ。

 とんでもない屈辱だ。

 ピンクの両眼が激しい怒りに染まり、その怒りは妖気の爆発という形で人間達に還元された。



 その瞬間、大気が震えた。



「!!!」

 セルジュを中心に噴出した凄まじい妖気の渦に薙ぎ払われ、人間達が声にならない声を上げ吹き飛ばされる!

 ある者は壁に叩きつけられ、ある者は空中へと投げ出され、一瞬にして多くの者達がその犠牲となった。

「……!」

 階下でその衝撃音を耳にしたシェスナは息を飲み、上階を見やった。振動で震える階段を駆け上り、彼女が目的のフロアに足を踏み入れた時-----そこには、惨憺(さんたん)たる光景が広がっていた。

 戦場と化した広大なフロアの中心に、一人の女が佇んでいる。

 完全に破壊され、吹き抜けとなった天井。上空にロードバーンを戴き、聖なる光に照らし出されたその場所は、佇む女を軸にまるで竜巻が起こったような惨状を呈しており、瓦礫の散乱するフロアの隅に細かな破片をかぶったこの国の人間達が倒れ伏している。

「あら……シェスナ」

 ピンクの色彩を纏った見慣れない美貌の女が、ゆっくりとシェスナを振り返った。その左腕は根元から切り落とされ、均整の取れた肢体を赤く彩っている。

「遅かったわね」

 冷ややかに響く声。ピンクの双眸がギラついた薄暗い輝きを放っていた。

 知らず、ごくり、とシェスナの喉が鳴った。

「……セルジュ?」

 半信半疑でその名を呼ぶと、艶やかなパールピンクの唇が笑みの形に裂けた。身が凍るような緊張感に包まれながら、シェスナは唇を結び、姿を変えた魔性の女と向き合った。

「“イヴ”は、どこ?」

 射すくめるような響きをはらんだセルジュの声。その問いかけにシェスナが口を開きかけた時だった。突然の轟音と共に、光が弾けた!

 耳をつんざくような轟き。白い閃光が辺りを覆い尽くし、巻き起こった衝撃波が王城を飲み込み、瓦礫を薙ぎ払いながら激しく揺るがす!

 目も眩むような光の中で吹き荒(すさ)ぶその衝撃波に耐えながら、何が起こったのかをシェスナは悟った。

 ロードバーンの力によって、あの“結界”が打ち破られたのだ、と-----。
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