柔らかな太陽の光が、穏やかに降り注いでいる。
通り慣れたいつもの道。変わらない風景。
道端で季節の花が、緩やかな風に吹かれて可憐な花びらをそよがせている。
視界の端に揺れて映るのは、隣を歩く人物の、腰の辺りで綺麗に結われた飾り紐。
掌を包み込むのは、温かなぬくもり。それを伝えてくる傍らの存在を見上げると、ゆっくりとした足取りで隣を歩くその人が、口元に穏やかな微笑を湛えながら、そっとこちらを見下ろした。
儚げな美しさの中に、凛とした佇まいを持った、優しい面差しの女性。
腰の辺りまである、長い長い彼女の髪は、月光を紡いだかのようなアマス色。長い睫毛に縁取られた慈愛に満ちた眼差しは、鮮やかな翠緑玉色(エメラルドグリーン)。
(アキレウス……)
美しいその女性が、慈しみを込めて自分の名を呼ぶ。
それは、何気ない、日常のひとコマ。
知らずとも愛され送っていた、穏やかで満ち足りた日々。
今はもう失われてしまった、幸せだった頃の、遠い遠い昔の記憶-----。
ああ、そうだ-----。
深く深く閉ざされていた、記憶の深淵に甦った幼い日のその光景を、どこか遠いところから見下ろしながら、アキレウスはおぼろげにそれをなぞらえた。
自分はこの人に、こんなふうに呼ばれていたのだった。
ふわりと花がほころぶような、この、優しい声で。
(アキレウス)
と-----。
≪…………ウス≫
その声に、ノイズが混じった。
≪……レウス≫
驚いて傍らの女性を見上げると、彼女は優しい微笑をその面差しに刻んだまま、まるで彫像のようにしてその動きを止めていた。
何が起きたのか理解出来ずただ目を見開く幼いアキレウスの前で、微動だにしていない形の良い唇から、彼女のものではない“声”が紡がれる。
≪……キレウス≫
その身体の線がぐぅっ、と歪み、自分を呼ぶ誰かの声が、平和な世界いっぱいに響き渡る。
≪……アキレウス!≫
その瞬間、世界がたわんだ。
≪アキレウス!≫
“声”と共に周囲から色彩が失われ、全ての線が歪んで形を失くし、美しいその女性も消えていく。それまで存在していた温かな世界が、周囲に闇だけを残して急激に彼方へと遠ざかり、ただ一人取り残されたその空間に、自分を呼ぶ“声”だけが響く。
≪アキレウスッ!≫
自分を必要とし、呼ぶその声-----それを意識した瞬間、黄金(きん)色の残像が闇の世界を駆け抜けた。その残像が、彼の中の大切な何かを呼び覚ます。
「アキレウスッ!!」
ハッ、と身体を震わせ、アキレウスは覚醒した。
倒れ伏した地の感触と、戦場の匂い-----激しい戦闘の音が、耳に甦ってくる。顔を上げると、傍らに膝を着き心配そうにこちらを覗き込むガーネットの姿が目に入った。
「ガーネッ、ト……」
砂塵を吸い咳き込みながら仲間の少女の名前を呼ぶと、彼女はホッとした表情を見せた。
「良かった、気が付いて。ギリギリ“護法纏(ガー・ロン)”の効力が残っていたみたいね……正直ドキッとしたわよ」
「オレ……?」
呟きながらゆっくりと半身を起こしたアキレウスは、側で泣きじゃくっているラァムの存在に気が付いた。急速に、意識を失う前の記憶が甦ってくる。
-----そうだ、オレはベルリオスの光弾を喰らって……。
立ち上がろうとした瞬間、ズキリ、と頭部に鈍い痛みが走り、アキレウスは思わず顔をしかめた。
「痛むの? 傷はほとんど回復させたつもりだったんだけど……大丈夫?」
その様子を見たガーネットが心配そうに問いかけてくる。
「……ああ。大丈夫、だ……」
そう答えを返しながら、脈打つようなその痛みに、アキレウスは奥歯をかみしめた。
外傷を負っているわけではない。ガーネットが回復呪文をかけてくれたようだから内部に損傷を負っているということもないのだろうが、何故だかひどく頭が痛む。内部から訴えられるその痛みが、先程の夢の断片を彼の脳裏に甦らせた。
温かな色彩に彩られた、ひどく懐かしいような感じのした、あの夢-----。
夢……?
本当に、そうだろうか?
いや、と心の中で反問しながら、アキレウスは自らを探るように半眼を伏せた。
いや違う、あれは……。
自分と同じ色彩を持った、優しい面差しのあの女性は。
夢の中の、あの女性(ひと)は-----。
自らに問いかけながら、アキレウスはうっすらと汗の滲む額に手を当てた。
-----母、さん……?
たどり着いたその答えに、アキレウスは愕然とした。
ああ、そうだ。ひどくリアルなあれは、あの光景は、夢ではなく、幼い日の自分の記憶。だがそれは、有り得ないはずの記憶だった。
-----ウソ、だろ……?
茫然と目を見開いて、アキレウスは呼吸を止めた。
自分が物心つく前に、母は死んだはずなのだ。
母の顔など、覚えているはずもない-----の、だが。
だが、分かる-----自分の中の何かが、確証を持って叫んでいる。
あれは、間違いなく自分の母だ。
自分は、あの母の姿を知っている。
いや、知っていたはず、だ。
母の腰の位置にあった自分の目線。あれは、物心つく前の子供のものでは、なかった。
アキレウスは漠然とした言いようのない不安感が胸の内に急速に不吉な雲を広げていくのを感じた。
そもそも……自分の母は、どうして亡くなったのだった?
病気? ケガ? それとも、事故で?
命日は? ずいぶん前に亡くなったはずの母の墓は、どこにあるのだった?
自問して、アキレウスは息を飲んだ。
分からない。
知っていて然るべきはずのそれが、何ひとつとして、彼には分からなかった。
何故か今まで、それを疑問に思ったことすらなかった。
ドクン、と心臓が言い知れない冷たさを伴った音を立て、冷えきった血液を全身に送り出していく。
「-----オレの、記憶……?」
その事実に慄然としながら、アキレウスはその先の言葉を飲み込んだ。
どこかおかしい-----?
「アキレウス、どうしたの? ひどく痛むの?」
額を押さえたまま微動だにしないアキレウスを訝(いぶか)しんで、ガーネットが心配そうな声をかけてくる。
「あ……あぁ、いや-----」
ぶるりと頭を振り払い、今度こそ立ち上がりながら、アキレウスは青ざめた表情で彼女にそう返した。返しながら、全身に広がっていく戦慄を意識せずにはいられなかった。
これが、原因か?
この国に入ってから常につきまとっていた正体不明の疑念、焦燥-----それらは全て、これに起因するものだったのか?
いったい何故? 自分の記憶はどうなってしまったのだ?
いつからだ? いったいいつからこんなことになってしまっている!?
アキレウスは頬を強張らせ、きつく拳を握りしめた。
-----何故、オレは忘れていた!? こんなにも大切なことを。
長い間、どうして疑問にすら思わなかったんだ!?
思いもかけなかったその事実にアキレウスは眩暈を覚えた。自分がこれまで生きてきた証である“記憶”が当てにならないものなのだとすると、これほど恐ろしい話はない。ここに存在している“自分”というものの存在そのものが根底から崩され、足元から深い闇に飲み込まれていくような気がした。
ズキン、ズキン、ズキン。
脳が脈打つような痛みが間断なく襲ってくる。いつしか全身にひどい脂汗をかきながら、アキレウスは不安を振り切るように固く目をつぶった。
-----考えるのは、後だ。今は、それどころじゃねーだろう……!
記憶を追及したがる感情を無理矢理ねじ伏せ、目を開けると、朦朧とした視界の先に冥竜ベルリオスと死闘を繰り広げるパトロクロスとフリードの姿が映った。
アキレウスは剣を手にそちらへ向かおうとしたが、段々とひどくなっていく頭痛に苛まれ、ついには足が止まってしまう。視界のぶれもひどさを増し、目の前が二重三重に歪んで見え始めた。
「っくしょ……」
呻(うめ)くアキレウスの耳に、ベルリオスの異様な咆哮が轟いた。
「……何だ!?」
間近でその巨体を見上げたパトロクロスは、ベルリオスの異変に息を飲んだ。
「これは……!?」
彼と少し距離を置いた位置にいるフリードも、珍しく緊張をはらんだ声を上げる。
ベルリオスの空洞の眼窩(がんか)から蒼白い鬼火のようなものが噴き出し、全身に施された呪紋(じゅもん)が妖しく輝き始めたのだ。その巨体から立ち上る黒い陽炎は勢いを増し、それに呼応するかのように大地が細かく鳴動し始める。
「何が始まるの……!?」
緊張した面持ちでガーネットが呟いた瞬間、ベルリオスが前足を上げ、大きく立ち上がった。のけぞった状態から勢いよく振り下ろされた前足が轟音と共に大地に叩きつけられたその刹那、辺りに激震が巻き起こった!
「……!」
凄まじい揺れに、ただ立っていることすらままならない。事態はそれだけでは収まらなかった。唸りを上げて大地が割れ、大きく口を開けたそれが人間達を飲み込まんと迫ってきたのだ!
「きゃあぁぁ……!」
あまりにも巨大な力にどうすることも出来ず、ラァムは無力な悲鳴を響かせながらその裂け目に飲み込まれた。
暗い深淵に落ちていく彼女の目に、全ての光景がスローモーションとなって映る。
赤紫色の被膜に覆われた空。その空を我が物顔で舞う、黒い飛影。大地に走った深い亀裂と、為す術もなくその深淵に飲み込まれていく、自分の身体-----。
どうしようもなく溢れていく涙だけがその光景と混じり合って滲み、深い闇に落ちていく自分を見送る。
-----これで、良かったのかもしれない……。
恐怖と絶望で薄れゆく意識の中、ラァムはぼんやりとそう思った。
自分の犯した罪は、あまりにも大きすぎた。いつもと全く色を変えた故郷の空がそれを証明している。
ここで死ねば、わずかながら罪を償ったということになるのかもしれない。
それに、ここで死ねれば、これ以上アキレウスに迷惑をかけなくて済む。今以上に、彼に嫌われずに済む-----。
そんなことを思いながら、ラァムは意識を手放しかけていた。その彼女の意識を呼び戻したのは、手首を捉えた熱だった。その熱さに、飛びかけていた彼女の意識は覚醒した。
「ラァム……!」
自分の名を呼ぶ、愛しい声。
見上げたラァムの瞳に映ったのは、大地の裂け目から身を乗り出し、自分の手首をしっかりと掴む幼なじみの青年の姿だった。
「アキレウス……」
暗褐色(ダークブラウン)の瞳を見開くラァムに、アキレウスが呼びかける。
「しっかりしろ、ラァム。今、引き上げる」
揺れる大地に大剣を突き立て自分を引き上げにかかる青年に、ラァムは震える声をかけた。
「アキレウス-----手を、離して」
思わぬ言葉に眉をひそめる幼なじみの青年に、彼女は涙を流しながら訴えた。
「これはきっと、神様がくれた罰よ。あたし-----あたし、自分のせいでこんなことになっちゃって……アキレウスの足も、引っ張ってばっかりで……もう-----もう、自分が嫌になっちゃった。こんなはずじゃ……こんなはずじゃ、なかったのに……!」
しゃくりを上げて、ラァムは泣いた。
「これ以上、アキレウスに迷惑かけられない。これ以上、アキレウスに嫌われたくない! そんなのあたし、耐えられない!! それに-----それに、あたしにはもう、生きている資格がない!! だから-----だから、離して!!」
「バカ言ってんじゃ-----!」
説得にかかろうとしたアキレウスの耳に、鋭いガーネットの声が飛んだ。
「アキレウスッ!」
振り返ったアキレウスの眼前で、襲いくる黒炎が遮断される! 彼の前に飛び出したガーネットの結界によって、ぎりぎり焼死を免れることが出来た。
「早く、彼女を引き上げて……!」
肩で大きく息をつきながら、ガーネットが叫ぶ。
「わりぃ……!」
短く礼を言いながら再びラァムを引き上げようとするアキレウスに、地裂の間から少女の金切り声が上がる。
「手を離してったら! アキレウス、あたしのこと怒っているんでしょ!? 嫌いになったんでしょ!? アキレウスに嫌われたまま生き続けるなんて、あたし、あたし、耐えられない!! そんなのっ……そんなの、死んだ方がマシよ! だから、もう、手を離してえぇッ!!」
「-----バカヤロウッ!!」
泣き叫ぶラァムを、アキレウスは一喝した。
「ああ、怒っているさ! 当たり前だ!! -----けどな、お前はオレの家族だ! どれだけのことをしでかしたとしても……その結果が、どうなろうとも! 見捨てられるもんか! お前はオレの家族なんだ!! 心の底から嫌いになれるわけ、ねぇだろう!!」
大きく息を飲み、涙に濡れた瞳を見開くラァムを見つめ、アキレウスは彼女の手首を握る腕に力を込めた。
「自分のしたことを後悔しているんなら、生きて償え! 現実から逃げるな! そんなことは、このオレが許さない!! 生きるんだ、ラァム!! オレは絶対に、この手を離さない!!」
「…………!」
その言葉は、ラァムの魂を揺るがした。
燃え上がる翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が、手首から伝わってくる彼の熱が-----彼女の中の凍えた何かを、ゆっくりと溶かしていく。
「アキレウス……」
その時になって、ラァムはようやく気が付いた。自分の命を繋ぐアキレウスの腕が小刻みに震え、その顔が苦しげに歪められていることに。
そういえば意識を取り戻してからの彼は頭痛がするのか、しきりに頭を押さえるような仕草を見せていた。蒼白なその顔色からも、今の彼の状態が非常に悪いものであることが窺える。
けれど、それにもかかわらずアキレウスはこんな自分を助けようと、自らの危険も顧みず、その身に鞭打って、手を差し伸べてくれているのだ。そしてその言葉通り、彼は決してこの手を離すことはないだろう。
例え、自分と共にこの大地の深淵に飲み込まれることになろうとも-----。
それは、何という深い愛なのだろう。
暗く沈んでいたラァムの暗褐色(ダークブラウン)の瞳から淀みが消え、光が戻ってきた。
女性として、その愛を得ることは叶わなかった。
けれど、アキレウスは“家族”としての自分を、こんなにも深く愛してくれている……!
ラァムの頬を、これまでとは違う種類の涙が伝った。
-----こんなあたしを、こんなにも……!
震える腕を伸ばして、ラァムはアキレウスのたくましい腕を掴んだ。
「アキレウス……!」
結界で二人を護っていたガーネットは、大地の鳴動の変化に気が付いた。そしてすぐに、その変化を視覚で捉えた。
大地の裂け目が重々しい音を立てて次々と閉じ始めたのだ。
「アキレウス! 急いでッ!」
張り詰めた彼女の声で危機的な状況を察したアキレウスは、残された全ての力を振り絞ってラァムを引き上げにかかった。しかし、想像以上の体力の消耗と、絶えず襲いくる頭痛とに苛まれ、思うようにはかどらない。
そんな彼らを嘲笑うかのように禍々しい音を立てて、死の大地が肉薄する!
「くそっ……!」
それを横目に見ながら、アキレウスはぎりっと頬に力を込めた。
こんなところで、死んでたまるか……!
この手の先に繋がる幼なじみの命-----囚われた大切な少女の命-----そして、自分の命。
-----オレは、どれもあきらめない……全てを抱えて生還する!
アキレウスの翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が絶対の意を放ち、限界を超えた力を肉体の底から引きずり出す!
「う、があぁぁぁッ!」
獣のような咆哮と共にラァムの身体が引き上げられたまさにその瞬間、大地は重々しい音を立てて大きな振動と共に閉ざされた。
間一髪、だった。
「あ……ありがとう、アキレウス……」
涙声でお礼を言うラァムに、アキレウスは荒い息をつきながら無言で頷いた。彼には珍しいことだったが、呼吸が乱れてまともに言葉を紡げそうもない。全ての力を使い果たし、正直口を開くことすら億劫(おっくう)だった。
だが、ほっと息をつく間もなく、パトロクロスの驚きを含んだ声が響き渡る。
「見ろ! オーロラが……!」
その場にいる者達の視線が、一斉に囚われの身の少女に注がれた。
赤黒い光の束によって木立の間に張り付けにされた黄金色の髪の少女-----その彼女を縛める光の糸が、少しずつ少しずつ色を失くし、消え始めたのだ。
「……バカな!」
その光景を目の当たりにした元ガゼ族の占い師シェスナは、我が目を疑った。
あの禍々しい光の糸は、ラァムという娘の思念体-----オーロラに殺意すら抱いた彼女の心から生まれたものなのだ。
彼女の心が変わらぬ限り-----いや、人の心とは、そんなに器用に切り替えられるものではない。嫉妬や憎悪といった負の感情は、捨てようと思っても捨て切れるものではないのだ。
それは、誰よりもこの自分が身にしみて知っている。
「何故だ……!?」
呻くシェスナの眼前で、赤黒い光の糸はどんどんその色を失くしていく。
「オーロラ……」
その光景を見つめていたアキレウスは重い重い身体を引きずり起こし、大剣(ヴァース)に寄りかかるようにして立ち上がった。
「オーロラー!」
その声に応えるようにして-----固く閉ざされていた少女の睫毛が震え、ゆっくりと-----藍玉色(アクアマリン)の瞳が、開かれたのだった。