ドヴァーフ編

紅蓮の蜃気楼

 左手の小指から、何かが伝わってくる。

 身体中の感覚という感覚が全て失われてしまったかのようなこの状況の中で、その部分だけがほんのりと温かい。

(-----……ロラ)

 これは-----声……?

 ぼんやりと覚醒した意識の中で、あたしはどこからか聞こえてきたその響きに耳を傾けた。

(-----オー……ロラ)

 誰……? あたしを呼んでいる……?

 意識の奥底で、あたしはうっすらと目を開けた。

 辺りに広がるのは薄闇に包まれた景色。その遥か彼方から、声は聞こえてくる。

(オーロラ……)

 それに反応して、左手の小指が徐々に熱を帯び始めた。

 -----あぁ……これ、は……。

 全てに薄もやがかかったような状態の中で、あたしはそこにおぼろげな意識を注いだ。

 声が響く度、小指の熱が増していく。

 -----これは、想いだ……。

 あたしは意識の中で漠然とそれをなぞった。

 声に込められた想いが何かを通し、熱となってあたしに伝わってくる。

(オーロラ……!)

 耳に心地良く響く、大きな安心感と共に、微かな切なさを伴ってあたしの胸を震わせる、この旋律-----この、声は。

 アキ……レウス……。

 その名を意識した瞬間に、薄闇に包まれていた世界が白々と明けた。

 アキレウス……!



*



 意識を取り戻したあたしの目に映ったのは、変わり果てた風景でも漆黒の巨大な竜でもなく、自分の名を呼ぶアキレウスの姿だった。

 大剣(ヴァース)で身体を支えるようにして立っている彼の姿はひどく疲弊しているように見えたけれど、その翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳はいつものように揺るぎない光を放っていて、あたしをひどく安心させた。

「アキレウス……」

 喉がカラカラに渇いていて、唇から紡がれた彼の名は、かすれたような呟(つぶや)きにしかならなかった。

 けれどその分、万感の想いを込めて、あたしは彼の瞳を見つめた。

 良かった……。やっぱり……来てくれた……。

 大きな安堵感に満たされる中、あたしは自分の重心が徐々に下に傾いていくのを感じた。

 何故か、地面がゆっくりと近付いてくる。

 ああ……このままぶつかっちゃうのかなぁ-----……。

 他人事のようにそんなことを思いながら、あたしの意識は再び薄れ、闇の中へと消えていったのだった。



*



 ラァムの呪縛から解放されたオーロラの身体をその腕の中に受け止めたシェスナは、とりあえずその意識がないことに胸をなで下ろした。

 見たところ、少女はかなり衰弱していた。

 あれだけの魔力を放出した後、長時間拘束され、その間ずっと魔力を奪われ続けていたのだ。魔力はほとんど残っていないと見ていいだろう。

 それに、莫大な魔力を有するこの少女にとって、今この王都を取り巻く環境は拷問に等しいと言えるはずだ。体力的にも限界であることは間違いない。

 こんな形で呪縛が解けることになってしまったのは予定外だったが、それによってこの少女が今回の計画の支障となることは、ない。

 シェスナが心の中でそう結論づけた時だった。突如大きく空が震えるのを感じ、ハッと振り仰いだ彼女の視線の先、王城上空の空間が裂け、眩(まばゆ)く輝く純白の巨大な竜(ドラゴン)が出現したのだ!

「……!」

 その現象に、シェスナ同様、アキレウス達も目を瞠(みは)り、天空に突如現われた白い巨星を見上げた。

「な……何だよ、アレ……?」
「もしや……聖竜ロードバーン……!?」

 茫然と呟くフリード、その彼から少し離れた位置で同じように空を見つめるパトロクロスを振り返り、ガーネットが問いかける。

「な……何なの? 聖竜……!?」
「聖竜ロードバーン-----魔法王国ドヴァーフの守護神と謳われる、最強の召喚獣だ。おそらく、それに間違いないだろう。私もこの目で見たのは初めてだが……」

 そんな会話を耳にしながら、神聖なオーラを放つ白竜を畏敬の念を込めて見上げていたラァムは、うわごとのように小さな声で隣の青年に囁いた。

「あたし……あたし、昔一度だけ見たことあるわ……ねぇ、アキレウス……?」
「…………」

 一拍置いても幼なじみの青年から何の反応も返ってこないことを不思議に思ったラァムは、傍らの彼を振り仰いだ時、ようやくその異変に気が付いた。

「アキレウス? どうしたの!?」

 彼は側頭部を押さえるようにして身体を震わせ、苦悶に顔を歪めていた。


 聖竜の輝きが、埋(うず)もれた古い記憶を呼び起こす-----。


 脳が激しく脈打ち、沸騰するかのような痛みの中で、記憶の深淵に閉ざされていた過去の映像達が、間断なく甦っては消えていく。


 炎で赤く染め上げられた、夜空。

 その空に翼を広げて浮かび上がる、巨大な白竜。

 優しく哀しい、母の微笑み。

 灼熱の風に揺れる、淡い緑色(グリーン)の布地-----。

 傷だらけの幼い自分を強く抱きしめ、瞑目する、父。


「あ……ぐっ……」

 激痛に耐え切れず、アキレウスは膝をついた。

 心配して自分の顔を覗き込むラァムの声も、駆け寄ってくるガーネットの姿も、何もかもが遠くに-----遠くに、感じられる。



 炎。



 記憶の全てを染め上げるのは、紅蓮の炎-----。



 一方のシェスナも、ロードバーンの出現に動揺を隠せなかった。

 この聖竜の力をもってすれば、王都を覆う赤紫色の結界を破壊されてしまいかねない。そうなれば、形勢は思わしくない方向へと向かってしまう恐れがある。

 セルジュはいったい、何をしているのか-----ロードバーンが出てくるということは、もしや殺られてしまったのか。

 だとしたら、期待はずれもいいところだ。あれだけの大口を叩いておきながら……。

 ぎり、と唇をかみしめながら、シェスナはめまぐるしく頭を回転させた。

 このままでは終われない……これでは、何の為に自分は魔道にまで身を堕としたのか-----後戻りはもう出来ないのだ、この計画の失敗は許されない!

 世界の命運の“鍵”を握る少女の身柄は、手に入れた。

 彼女の仲間は思いの外しぶとく、倒すにはもうしばしの時間がかかりそうだが、ベルリオスも深手を負っており、上空にはロードバーンが出現している。

 シェスナは凍てつくような輝きを宿した琥珀色(アンバー)の瞳を王城へと向けた。

 彼女の胸には呪詛にも似た、深く暗くたぎる、ある凄絶な想いがあった。

 ここで終わるわけにはいかない-----この国を叩き潰すまでは……国王の首を討ち取るまでは、終われない!

 その為には、ベルリオスの力が必要だ。シヴァの地図に認められし者-----アキレウスの始末をつけることは未だ出来ていないが、オーロラは手に入れた-----セルジュが例え生きていたとしても、最低限の言い訳は立つ。

「ベルリオス!」

 シェスナの操る超音波笛に従って、冥竜が黒炎を吐く! 邪魔な人間達を炎幕で牽制すると、ベルリオスは長い鎌首の方向を変え、その背に主人と人質とを乗せた。

「! 逃げる気か!?」

 異変を察知したパトロクロスが剣を手に走り、フリードが弓矢をつがえる。

「させないよっ!」
「貴方がたに構っている暇はない!」

 ベルリオスが再度黒炎を吐き、漆黒の翼を羽ばたかせる!

 炎の烈風が吹き荒れ、追いすがる者達を足止めする-----アキレウスとラァムを結界で守っていたガーネットは、目の前で連れ去られようとする仲間の少女の名を蒼白な声で叫んだ。

「オ……オーロラァーッ!」

 激痛に苦しむアキレウスの脳裏に、先程の弱々しく微笑んだオーロラの姿がよぎる-----一瞬意識を取り戻したあの時、彼女は確かに自分の顔を見て、安堵の表情を浮かべたのだ。

 やっぱり来てくれた……と言う彼女の声が、聞こえたような気がした。

「オー……ロラ」

 激痛を堪えどうにか立ち上がろうと試みるが、意志に反して、まるで身体が言うことを聞かない。全身の筋肉が激しく震え、後から後から滲み出てくる脂汗が頬を伝って流れ落ち、大地に無力なしみを作っていく。

 その間も絶えず襲いくる、炎のフラッシュバック-----自分を押さえつける何者かの大きな力を、アキレウスは感じた。

 -----誰……だ……。

 激しい怒りが、肚(はら)の底から湧き上がってくる。

 傷を負った野生の獣の如く、ギラついた翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳に全てを破壊しかねない衝動を込め、アキレウスは炎の記憶と対峙した。

 誰だ……!

 燃え盛る炎の中に佇む、何者かの影が見える。

 お前は、誰だ……!

 その影がゆっくりと色を纏い、次第にその輪郭を露わにしていく。

 お前、は……!

 現われたその人影に、アキレウスは息を飲んだ。

 炎の揺らめきに浮かび上がったのは、長身の若い男の姿だった。その瞬間、エレーンとぶつかったあの時のデジャ・ヴが鮮明に甦った。


 男が身に纏うのは、魔法王国ドヴァーフの魔導士団長たる証である、淡い緑色(グリーン)の長衣(ローヴ)-----銀に近い長めの灰色(グレイ)の髪を炎の風に遊ばせ、男は赤く染まった秀麗な顔をこちらに向けていた。


 無慈悲な輝きを宿した灰色(グレイ)の瞳-----全く見知らぬはずのその男の顔を、アキレウスはにらみつけた。


 -----てめぇ、がッ……。


 まるで見覚えがないはずの、整った容貌をした男-----だが、知っている。


 オレは、コイツを知っている……!


 記憶を、肉体を不当に押さえられ続けた怒りは臨界点を突破し、灼熱の奔流となってアキレウスの体内(なか)を荒れ狂った。怒りの矛先を見つけたそれは、黄金色の炎(オーラ)と化し、その瞬間、彼の内部から溢れ出るようにして爆発した!

「きゃあっ……!」

 衝撃波で、ラァムが吹き飛ばされる。その彼女を抱きとめながら、アキレウスを取り巻く変化にガーネットは息を飲んだ。

 アマス色の髪を、身に纏う外套(がいとう)を天へとなびかせながら、内から迸(ほとばし)るようにして溢れ出る、輝かしい黄金の光-----これまでも何度か目にしてきた光景だが、今回は今までのものとは何かが違う。

 今までは一瞬の炎のように爆発してすぐに消えていた光が、今回は今なおその激しさを増しながら天へと昇っていく-----まるで、自らの殻を打ち破ろうとするかのように-----。

「あああああ……!」

 獣のように牙を剥き、目を見開いたアキレウスが咆哮する。その瞬間、音なき音を立て、彼自身もその存在を知らなかった、綻びかけていた封印が破砕した!

 それに呼応するかのように、上空のロードバーンの口から目も眩むような白の光線が放たれた。聖なる輝きを纏ったそれが刹那の直線を描き、赤紫色の結界に激突する!

 ド、ドオォォォン!

 凄まじい衝撃音と共に、閃光が全てを白く染め上げながら魔法王国ドヴァーフの王都を揺るがし、吹き荒れる衝撃波があらゆるものを薙ぎ払いながら、爆心地から郊外へと吹き抜ける!

 飛び立ったベルリオスの背(せな)からその光景を見つめていたシェスナは、足元から迫り来る別の衝撃に息を飲んだ。

「何だ!? 黄金の光……!?」

 それが何かを悟ったシェスナは目を剥いた。

 地を蹴り、気流に乗ったアキレウスが大剣(ヴァース)を振りかぶり、ベルリオスのすぐ下にまで迫っていたのだ!

「な……ん……!」

 その身を包むのは、黄金のオーラ-----燃え上がる翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が裂帛の気合を放ち、シェスナを射る!

 まずい、と直感的に彼女は悟った。

「ベルリオス……!」

 オーロラを固く抱きかかえ笛を吹いたその直後、鬼神の如き一撃が冥竜に炸裂した。

 腹部に風穴が開くほどの衝撃を受け、ベルリオスが断末魔の声を上げる。しかし、末期の声を上げながらも、冥竜はその最期の力をもって、宙に放り出された主を爆風のような息で王城のバルコニーまで吹き飛ばしたのだった。

「何ッ……!?」

 予想外の事態に、アキレウスが短い声を上げる。

 東塔三階付近のバルコニーに起き上がるシェスナの姿が見えたが、どうすることも出来ない。

 きりもみ状態で墜落したベルリオスの後を追うようにして着地したアキレウスの元に、パトロクロスとフリードが駆け寄ってくる。

「アキレウス……! オーロラは!?」
「えッ……パト様、まず聞くのそこ!? 確かにそこも重要だけどっ-----何、今の? スゴすぎない?」

 絶命したベルリオスとアキレウスとを見比べながら戸惑いの声を上げるフリードの意見はもっともだったが、アキレウスはあえてそれを聞き流してパトロクロスの問いに答えた。

「あの、占い師に……連れて、行かれたっ……くそっ、城の中だ」

 荒い息をつきながらそう言って歩き出そうとしたアキレウスは大きくよろめき、パトロクロスの腕に支えられた。

「アキレウス、無茶をするな。とりあえずはオーロラの無事が分かればいい。まずは体力を回復させて態勢を整えよう。あの女が王宮に入り込んだのであれば、おのずと向かう先は限られてくるはずだ」
「……。ああ……」

 逸る心をどうにか抑え、アキレウスは唇をかみしめながら頷いた。パトロクロスの言うことはもっともだった。

『私が望むものは人類の殲滅(せんめつ)-----その為に、貴方は殺します』

 あの占い師は、確かにそう言っていた。薄暗い殺意を宿した琥珀の双眸には、その強い意志がみなぎっていた。それが、聖竜ロードバーンが出現したのを見て取った途端、彼女は瞬時に戦いを放棄し、オーロラを連れ何処かヘ向かおうとしたのだ。

 人類の殲滅が彼女の望みであり、今回の件がまさしくその第一歩であるのだとしたら-----命題は魔法王国ドヴァーフの陥落であるはずだ。それを名実のものにする為には、国王レイドリック、彼の首を取ることが絶対条件であると言える。

 ロードバーンの出現により、それが叶わなくなる危惧を彼女は抱いた。だからこそ、急いで行動を起こしたのに違いなかった。

「オーロラ……」

 囚われの身の仲間の少女の名を呟いて、アキレウスは煙の上がる王城の主塔上部を仰ぎ見た。

 脳が脈打つようなあの激しい痛みは消えたが、眠っていた全ての力を爆発させた代償は大きく、手も足も激しく震え、一人ではまともに歩くことすら出来そうにない。

 アキレウスはぎりっと奥歯をかみしめた。

 思い通りにならない自分の身体が、もどかしかった。



*



 聖竜ロードバーンを召喚したその瞬間、身体中の魔力(チカラ)という魔力(チカラ)が吸い取られていくかのような感覚に、エレーンは歯を食いしばった。

 当たり前だが、これほどの負荷を味わうのは初めてだった。

 まるで、生命力そのものを奪われていくかのようだ-----。

 全身からうっすらと血の気が引いていくのを覚えながら、彼女は揺るぎない決意を胸に湛えていた。

 -----私は、私の仕事を遣(や)り遂げるまでは倒れない……!

「ロードバーン……あの結界を、消滅させる!」

 エレーンの凛とした声が響き渡り、純白の長毛に覆われた聖竜の口がゆっくりと開く-----次の瞬間、視界を焼き尽くすほどの聖なる光が迸り、王都を包み込む赤紫色の被膜を直撃した!

 カッ!

 一瞬の閃光の後、耳をつんざくような轟音、衝撃波-----凄まじい烈風が吹き荒れ、人々のどよめきの声を巻き込みながら、魔法王国ドヴァーフの王都が震撼する!

 オルティスを始めとする騎士達はエレーンを中心に陣形を組み、二人の騎士と魔導士達はその奥で国王レイドリックを取り囲むようにして守りながら、国の命運を担う攻防を見守った。

 王弟アルベルトや宰相ら文官達は、フロアの隅で身を縮めるようにしてその光景を見守っている。

 ロードバーンの放つ聖なる光は徐々に赤紫色の被膜を浸食し、その白い輝きをゆっくりと全体に広げ始めた。

 時間がかかりすぎる-----。

 その光景を、オルティスはほぞをかむ思いで見つめていた。

 このままでは、やはりエレーンの方が先に力尽きてしまうのではないか-----。

 レイドリックは冷静な面持ちで全てを託したエレーンの後ろ姿を見守っているが、その錫杖(しゃくじょう)を持つ指が白くなるほど握りしめられているだろうことは、見なくともオルティスには想像がついた。

 そして、今ひとつの懸念事項-----。

 エレーンの施した血界(けっかい)の中から伝わってくる強力な波動は次第にその高ぶりを増し、ついに恐れていた事態が現実のものとなった。

 ピンク色の閃光と共に強力な戒めが打ち破られ、戦塵の舞い散る中、遠雷を孕んだ凄艶な声音が、聖竜の放つ白い光に映し出された広いフロアに響き渡る。

「身の程知らずの虫ケラ共が……」

 溢れ出る、底冷えするような禍々しい魔の気配-----その場に居合わせた者達は、白い光の中から現われた声の主のその容貌に息を飲んだ。

 血界の中に囚われていたのは、中身はどうあれ、見た目は非常に可愛らしい、綿菓子のような印象の魔性の少女のはずだった。

 しかし今彼らの目の前に現われたのは、妖艶な肢体を持つ美の化身の如き魔性の女-----結い上げられていた緩やかなクセのあるピンク色の髪は解かれ、彼女が一歩足を踏み出すごとに柔らかく宙に遊ぶ。長い睫毛に縁取られた宝玉のようなピンクの眼(まなこ)は、激しい憎悪に彩られ、目の前の不遜な人間共をにらみつけていた。

「屈辱よ……お前達如きに、この美しいあたしの姿を見せることになるなんて……屈辱以外の何物でもないわ。こんな屈辱、本当に久し振り……」

 一言一句に、彼女の抑えきれない怒りが滲み出るようにして渦巻いている。冷たい汗がじわりと肌を伝っていくのを覚えながら、オルティスは剣の柄を握りしめた。

 相手から感じられる力の波動は、少女の姿だった時のものとは比べようもない。この場にいるだけで総毛立つような、おぞましい未経験の感覚をオルティスは味わった。少女の姿だった時も相手からは強力な力を感じたものだったが、これは、その比ではない。

 紛れもない。これが、あのセルジュという魔性の本来の姿なのだ。

 -----化け物、め……。

 心の中で毒づきながら、オルティスはきつく唇を結んだ。背後にいる部下達がこの人型の脅威に圧倒され、剣を交える前から飲み込まれてしまっている気配を彼は背中で感じていた。

 無理もない。人生の中でこれほどの化け物と遭遇することになろうとは、この自分でさえ思ってはいなかった。

「ずいぶんと、見目が変わったものだな……」

 周囲が恐ろしいほどの緊張感に包まれる中、ピンクの魔性を油断なく見据えながらそう声をかけると、魂が凍りつくような微笑が返ってきた。

「こちらの方がお好み? なら夜の方もこの姿でお相手してあげる……でも、こちらは色々な意味で消耗が激しくなるから、その分支払う代償も高くなるけれど、美しいものに危険はつきもの……そういうコトであきらめてね」

 では、その消耗とやらを避ける為に、この魔性は普段は幼い少女の姿を取っているということか。

 じりっと剣を構えながら、拒絶の意を込めてオルティスはセルジュをにらみつけた。

「ふふ……追い詰められたその表情も素敵ね」

 獲物を定めた肉食獣のように、すうっとピンクの瞳を細めたセルジュから無尽蔵に振りまかれる痛いほどの妖気の渦が、フロア中を埋め尽くしていく。

 追い詰められた、という表現は皮肉だが今の自分達にはぴったりだった。本来の力を封じられ、先の戦いで一様に疲弊したままの圧倒的に不利なこの状況の中で、こんな化け物を相手に、どうにか勝ち残る方法を模索しなければならない。

 だが、オルティスの目は光を失わずに前を見据えていた。

 エレーンを死守し、ロードバーンが結界を解除するまでの時間を稼ぐ。そして、主君であるレイドリックを守り抜く。

 これは、自分に課せられた絶対に成し遂げなければならない使命だ。

 あの忌々しい結界さえ解除されれば、きっと状況は変わってくる。それを信じて部下達を鼓舞し、己の剣でそこへ導いていくのが自分の役目だ。

「覚悟はいいわね?」

 艶やかなパールピンクの唇の端を持ち上げ、セルジュはこの上なく美しく、凄絶に嗤(わら)った。

「……エレーンを死守しろ! 何者も彼女には近付けるな!」

 自らを奮い立たせながら、オルティスが号令をかける。

 国の存亡を懸けた最後の戦いが、今、始まろうとしていた。
Copyright© 2007-2016 Aki Fujiwara All rights reserved.  designed by flower&clover