旅立ち編

召喚


 ルザーの町並みを、一陣の風が吹き抜けた。

 遠巻きに野次馬達が見つめる中、事態は最悪の方向に向かって動きつつある。

「終わったぜ、トール」

 町の人達から騙し取った金品を馬上に積み終わった、偽王子ことゾルがリーダー格のトールという大柄な男に声をかけた。

「あぁ」

 あたしの喉元に大振りのぶ厚いナイフを突きつけたトールはその言葉に頷くと、傷を負い戦線を離脱した仲間の男達にこう言った。

「仇(カタキ)はとってやるからよ。お前達は馬に乗って見物してろ。……それじゃあゾル、パーティーを始めるか」
「へへ……」

 残酷な男達の視線が、武器を捨て丸腰になった青年へと注がれる。

 アキレウス……。

 あたしはぎゅっと唇をかみしめた。

「心配か? 女……大人しくオレに抱かれてりゃ良かったのによ」

 ゾルが下卑(げび)た笑いを浮べてあたしを見た。

 ひどい嫌悪感から、ざわっと全身に鳥肌が立つ。

 絶ッッ対に嫌っ! そんなの、死んでも願い下げだよ!!

 でも……そのせいで、アキレウスが置かれてしまった今の状況を考えると、胸が張り裂けそうな思いがした。

 どうしよう……どうしたら、いいんだろう。

「お前も覚悟しろよ」

 ゾルの切れ長の目が、冷たい光を帯びてあたしを射る。そのあまりの冷たさに、あたしはゴクリと息を飲んだ。

「女脅してんじゃねーよ」

 その恐怖から救ってくれたのはアキレウスの声だった。

「自分より弱い者を傷つけて何が面白いんだ? 卑怯者が」
「何だとッ……!」

 激昂(げっこう)しかけるゾルを、冷静なトールの声が押しとどめる。

「ゾル。口論してるヒマはねーぞ。時間がねーんだ、さっさとやれ」
「-----わ、分かった……」

 頷いて、ゾルは腰の短剣を手にすると、丸腰で佇(たたず)むアキレウスへの元へと歩み寄った。

「弱いヤツを傷つけて何が面白いのか、分からねぇのか……? 正義漢クン」

 ギラついた青(ブルー)の瞳を怒りと屈辱に燃やしながら、彼は薄い唇の両端を持ち上げた。

「楽しいじゃねぇか、弱いヤツいたぶるのは……自分が傷つかねぇからな!」

 ドカッ、とアキレウスの左大腿に短剣が突き立てられた。

 ----------!!

 呼吸が、止まるかと思った。

「……ッ」

 ぐっ、と奥歯を噛みしめて、アキレウスがその激痛に耐える。

「おぉ、すげえ。これで声出さねぇヤツ、初めて見たよ」

 ゾルはニタリと笑い、彼の大腿に突き立てた短剣を、そのまま下に走らせた。

「そういうコトされっと、余計泣かせてみたくなるんだよなぁ!」
「……が、ぁッ……!」

 アキレウスの顔が苦痛に歪み、その口から、たまらず呻(うめ)き声がもれる。短剣が引き抜かれると同時に、傷口から勢いよく鮮血が噴き出した。

「……!」

 あっという間に、アキレウスの身体は鮮血に染まった。大きく裂かれた足の傷からは後から後から血が溢れ出し、足元に赤い泉を作っていく。

「痛い? 痛いか? これからもっと痛くしてやるからな?」
「……最低野郎、だな」
「まだ喋(しゃべ)る元気があるのか。なかなか根性あるじゃねぇか!」

 血を見て興奮したゾルの拳が、アキレウスの腹部にめりこむ!

「……ッ……!」

 バランスを崩し片膝をついた彼の上に、更にゾルの拳が襲いかかった。

「どこまで持つかなぁ!?」

 狂気にかられた笑い声が、辺りにこだます。

 やっ……。

「やめてぇッ!!」

 叫ぶあたしの髪を、トールが引っ張った。

「大人しくしろ」
「やめさせて、お願いッ!!」
「オレ達の計画を台無しにしてくれた報いだ……じっくり見てろよ。婚約者がボロボロになって死んでいく様をな」
「違う……彼は婚約者なんかじゃないっ!」
「説得力がないぜ? ただの友達なんかをこうもかばうかよ」

 その間にも、アキレウスは血にまみれていく。

 違うのよ……友達でさえ、ない!

 涙が溢れてきた。

 彼は、あたしがこの世界へ来て初めて会った人で……ただ、それだけで。

 面識もないあたしに、とても親切にしてくれた……ただ、それだけなのに。

 それだけなのに!

 ドゥ、とアキレウスの身体が地面に叩きつけられた。

 -----何で、こんな目に合わなきゃならないの!? あたしの、為に。

「……誰かッ」

 あたしは周囲にいる野次馬に向かって叫んだ。

 -----あたしなんかの為に!!

「誰かぁッ……助けて!」

 涙が頬をこぼれ落ちる。

「お願い、誰かッ……アキレウスを助けてぇ-----ッ!!」
「ちっ、黙れ!」

 頬に熱い痛みが走った。トールが平手で殴ったのだ。

「今度は拳でいくぞ」

 そう脅す彼をあたしは思い切りにらみつけると、勢いよくつばを飛ばしてやった。

「こっ……の」

 言葉より先に拳が飛んできた。

 頬骨がきしみ、唇が切れたのが分かった。耳が一瞬遠くなり、キーンという残響音が頭の中でこだまする。

 骨が砕けてしまいそうな力であたしの顎を掴み、トールは怒りも露わに言った。

「お前を先に殺してもいいんだぜ、このクソ女!」
「あたしを盾に取らなきゃ勝てないあんたこそクソだよ、このクソ男ッ!」

 その言葉で、それまで比較的冷静だった男は、キレた。

 大振りのぶ厚いナイフが、頭上で一瞬光ったのが分かった。

 -----あぁ、悔しいなぁ。こんな男に殺されちゃうなんて。

「女も殺されるぜ、お前もそろそろ死ぬか? 王子様に逆らった自分をあの世で恨めよ」

 遠くでゾルの声が聞こえた。

 悔しい……こんなやつらに殺されちゃうなんて。

 ゴメンね、アキレウス。巻き込んじゃって……本当にゴメンね。

 あたしに、何か特別な力があったなら。そうしたら、アキレウスだって……。


 アキレウスだって、助けられるのに。


 一瞬のうちに、そんなことをあたしは考えた。


 -----あたしに何か、特別な力があったなら……!


 予期せぬ方向からの突然の衝撃があたしを襲ったのは、その刹那。

「!?」

 勢いよく弾き飛ばされ、一瞬の無重力状態を味わった後、あたしは地面に転がっていた。

 -----な……に?

 いったい、何、が……。


「大丈夫かい?」


 涼やかな声が頭上から降ってきたのは、その時だった。

 顔を上げると、見慣れない青年の姿が目に入った。

「ごめんよ。とっさだったので、少々荒っぽい助け方になってしまった」

 誰……?

 中世の騎士を彷彿とさせるような、蒼い金属製の全身鎧(バトルスーツ)を身に纏い、オフホワイトの皮製の外套(がいとう)を羽織った、長身の青年だった。

 その腰には、意匠の凝った鞘(さや)に収められた剣が装備されている。

 淡い青(ブルー)の瞳をした、整った顔立ちのその青年は、優しく微笑むと手を差し伸べ、あたしを助け起こしてくれた。

「女性を殴るなんて、ひどいヤツだな」

 その時になって、あたしは初めてトールが地面に倒れていることに気が付いた。ぴくりとも動かないところを見ると、どうやら気絶しているらしい。

 ようやく目の前の青年が間一髪で自分を助けてくれたのだということに気が付き、あたしは慌ててお礼を言った。

「あっ、ありがとうございます」
「いや……」
「きっ、貴様ッ、どういうつもりだ!」

 突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)の登場に、短剣を構えたゾルがわめきたてる。

「……分からないか? この人達を助けようとしているのだが」

 静かな青年のもの言いに、ゾルはこうがなりたてた。

「そっ、そんなことはいいっ! 貴様、どういう状況でこうなったか知っているのか!?」
「……いや。つい今しがたこちらに着いたものでね。細かい事情は」

 それを聞いたゾルは、ニヤリと笑った。

「ならば説明しよう。こやつらは犯罪者だ! 私が町の者達から受け取った金品を狙い、あまつさえ私の命さえも奪おうとした重罪人なのだ! それを阻止しようとした私の部下が今、ようやく取り押さえたところだったのだ!」

 こいつ、またっ……!

「……ほう。一方的に傷つけられていたように見えたが。貴方は?」
「私か? 私の名はパトロクロス・デア・ローズダウン。この国の王子だ」

 そう言って、ゾルは傲然(ごうぜん)と胸を張った。

「貴方が? 王子という身分の方が、また何故このような所に?」
「世の中というものを少々見て回ろうと思ってな。忍びで来ていたのだ」

 唇の端を吊り上げたゾルは、いけしゃあしゃあとそう述べると、青年にこう命令した。

「その女を捕まえてこっちへ来い。そうすれば先程の非礼は許してやる」
「…………」

 青年は無言であたしの手首を掴むと、ゾルの方へと歩き出した。

「や……! ちょっと、待って……!」

 後ろでひとつに結んだ、長めの褐色の髪を揺らす彼の背中に向かって、あたしは必死で訴えた。

「あいつの言っていることは嘘よ! 本物の王子様なんかじゃないッ! 偽者なのよッ!」

 あたしの必死の叫びにも、彼の歩みは止まらない。

「本当なんだったらッ!!」
「分かっている」

 え……。

 思いがけぬその回答にあたしが目を見開いた次の瞬間、青年のパンチがゾルの顔面にめりこんでいた。

「!?」

 予想だにしていなかった先制攻撃を受け、勢いよくゾルが吹っ飛ぶ。

「彼を起こしてやれ」

 アキレウスに視線を移して、青年は言った。

「う、うん」

 思いがけないその展開に驚きつつ、あたしは急いでアキレウスの元へと駆け寄った。

「アキレウス、大丈夫!?」

 路上に横たわるその身体を抱き起こし、そう声をかけると、彼の口から、短い呻(うめ)き声がもれた。

「う……」

 ひどい。

 無抵抗でめった打ちにされた顔面は赤黒く腫れあがり、身体のあちこちに内出血の痕がある。

 一番ひどいのは、左足の傷。まだ血が止まっていない……。

 あたしは自分のワンピースの裾を破り、彼の左大腿の付け根辺りをきつく縛った。

「アキレウス、しっかりして。ごめんね。ごめ……」

 泣いてどうするっ、そんな場合じゃないっ!

 あたしはぐっと奥歯をかみしめ、彼の状態を少しでも把握しようと、その頬に触れた。

 殴られて腫れあがり、熱を持ったその部分とは対照的に、彼の唇は青ざめ、自らの血で汚れた指先はひどく冷たい。手首に触れてみると、その脈拍はひどく弱く感じられた。

 ど……どうしよう。どう見ても、大丈夫じゃないよ!

「かなり出血しているな」

 ゾルの胸倉を掴み上げた青年が、そう言ってアキレウスを覗き込んだ。

「まずいな……おい、誰か!」

 遠巻きに様子を窺っている野次馬達に向かって、声をかける。

「何人か、こっちに来て手伝ってくれ! 早く!!」

 その声には、人を突き動かす不思議な威厳があった。

 そして、その声に動かされた何人かの人達が、パラパラと遠慮がちに集まってきてくれた。

「この町の者か?」
「は、はい。そうですが……」

 青年に問いかけられた男の人が、緊張気味に答える。

「この辺りに、薬師か白魔導士はいないか?」
「あ、白魔導士ならゼンっていうばあさんがこの近くに……」
「腕は確かか?」
「あ、はい。ベテランです」
「よし、じゃあこの男を大至急そこまで連れて行ってくれ。頼んだぞ」
「は、はい!」

 その様子を見たゾルは、鼻血を流しながら青年をにらみつけた。

「ま、待て貴様、こんなことして……!」
「お前は嘘つきだ」
「な!?」
「紋章がまず違う」
「こ、これは仕立て屋が……!」
「ローズダウンの王子は温厚で暴力は好まない。特に、女性に対してはな」
「今回は、やむを得ない状況だったのだ!」

 わめく偽者に、青年は冷ややかな視線を向けた。

「それにローズダウンの王子は、従者を連れての集団行動は好まない。忍びの時はいつも一人だ」
「な、何でそんなこと……」

 ゾルの顔色が変わった。まさか、という表情になる。

「もうひとつ。私はもっといい男だ」

 え-----!?

 ほ、本物ッ!? こっ、この人がっ。

 この人が、本物の王子様!?

 目を丸くするあたし達に、彼は穏やかな声でこう言った。

「こいつらの始末は私の方でしておく。すまないが、彼をよろしく頼むよ。君も彼について一緒に行きなさい。後程こちらから連絡を取るようにしておこう」

 その時、ようやく警備隊が到着した。

 偽者達が次々と拘束される中、町の人達に手伝ってもらい、あたしはアキレウスを助けられるという、ゼンというおばあさんの元を目指し、歩き始めた。



*



 ゼンおばあさんは、ルザーの町に古くから構えるお店で、薬店をやっているとのことだった。

「もっともこっちは趣味みたいなモンで、本業は白魔導士なんだがね」

 町の人達の説明を聞きながら、あたしは一刻も早くそこへアキレウスを運ばなければ、と気が気じゃなかった。

 アキレウス、ごめんね、もうちょっとだけガマンして。

 すぐに……すぐに運ぶから……!

 そのことで頭がいっぱいだったあたしは、耳慣れない『白魔導士』という言葉について、この時は全く考える余地がなかった。

 ようやく目的の場所にたどり着いた時、対応した店員の口から出た言葉に、あたしは思わず大声を上げた。

「え、いない!?」
「はい、三日前からドヴァーフの方へ旅に出てしまいまして……あの方は、気が向くとぷらっといなくなってしまうんです。そんな方ですから、戻りはちょっと、いつ頃になるか見当がつきませんが……」

 そんなっ……どうしよう!?

「だっ、誰か代わりの人はいないんですか!? ケガを治せるような人は……!」

 青ざめて、あたしは店員に詰め寄った。

 アキレウスが死んじゃう……!

「緊急なんです!!」
「-----ケガ人なの?」

 冷静な声が後ろからかけられたのは、その時だった。

「えっ……」

 目を潤ませながら振り返ると、そこに、同い年くらいの女の子が立っていた。

 顎の辺りでそろえられた漆黒の髪に、勝気に輝く茶色(ブラウン)の瞳……。

 あ、あれ? どこかで見たような……?

 相手も同じことを思ったらしい。大きな瞳を少し細め、じっとあたしを見た。

「あ……あーっ、温泉の!」

 二人、ほぼ同時に叫んだ。

「ガーネットさん!」

 あたしに首を絞められかけていた店員が、彼女を見てほっと息をもらした。

 ガーネットと呼ばれた少女は、アキレウスの様子を見て取ると、彼を抱えた人達にこう告げた。

「……危険な状態ね。店の奥のベッドに運んで。あたしがやるわ」
「で、でもガーネットさん、ゼン様のお許しがないと……」
「ばあちゃんは今いないでしょ? ほっとくと、彼、死ぬわよ」

 彼女の言葉に、あたしは背筋が凍りつくのを覚えた。

 死ぬ?

 アキレウスが……。

 顔から血の気の失せたあたしを見て、ガーネットは力強く言を紡いだ。

「大丈夫、あたしが必ず助けるわ。任せてよ、資質はばあちゃんにも劣らないんだから」

 あたしとしては、そんな彼女の言葉に今はすがるしかなかった。

 町の人達の手で、アキレウスは慌ただしく店の奥に運び込まれた。彼の顔色はすでに蒼白で、呼吸も浅く、かすかに全身が痙攣を起こしていた。

「始めるわよ」

 ガーネットは別人のような厳しい表情でそう告げると、ベッドの上に寝かされたアキレウスの上に両手をかざし、何やら精神を集中させ始めた。

 えっ? な、何……?

 てっきりケガの治療が始まるものだと思っていたあたしは、戸惑って辺りを見回した。

 消毒薬も、ガーゼも、何も……医療道具らしきものは、周りに一切見当たらない。

 どういうこと……!?

 きょろきょろと落ち着かないのはあたしだけで、周りは皆、神妙な面持ちでガーネットとアキレウスとを見守っている。

「慈愛の女神よ……」

 やおらガーネットが口を開いた。

「傷つき倒るる吾子(あこ)を救いたもう其(そ)の奇跡(チカラ)-----」

 ぼう、と彼女の手の中に淡い光が生まれた。目を見開くあたしの前で、彼女は朗々と神秘的な言葉を唱え続ける。

「我が腕に宿り、光となりて降り注げ!」

 光は徐々に大きくなり、アキレウスを照らし出す。

「“慈愛の癒し手(ティアー)”!」

 ガーネットの手から放たれた光がアキレウスを包み込むと、周りから歓声がもれた。

「おぉっ……!」

 あたしは息を飲んで、目の前の光景を見つめた。

 優しい光に包まれたアキレウスの傷が、ゆっくりと消えていく。蒼白だった顔に血の気が戻り、苦しげに寄せられていた眉根がふぅっ、と緩んだ。

 あぁ……苦しくなくなったんだね。

 深く深く、あたしは息を吐き出した。

 良かった……。

 何だか良く、分からないけど。これで……これで、アキレウスは助かったんだ。本当に、良かった……!

「これでもう、大丈夫。意識が戻るまでここに寝かせておくわね」

 ガーネットが額の汗を拭きながらあたしに笑いかけた。

「あ……うん、ありがとう。本当に……ありがとうございました」

 あたしは彼女に深々と頭を下げてお礼を言い、同じように、アキレウスを運んでくれた町の人達にもお礼を言った。

「いやぁ、良かった良かった」
「助かって何よりだ」

 彼らは口々に安堵の言葉を述べながら、それぞれの場所へ戻っていった。

「あなたもケガしているじゃない。治してあげるから、こっち来なさいよ」
「あ、えぇ……ありがとう」

 ガーネットは先程と同じように呪文を唱え、あたしの傷を治してくれた。

 不思議な……柔らかい光。触れた先が、仄(ほの)かに暖かい。

「あの……ガーネットさん」
「ガーネットでいいわよ。何?」
「これ……このチカラって……」

 こんなこと聞いたら、また変に思われちゃうかな。

「このチカラって、何なんですか?」
「え?」

 予想通り、ガーネットは驚いた表情を見せた。

「チカラって……白魔法のこと?」
「しろまほう?」
「え、えぇ……三系統の魔法のひとつよ。……知らないの?」

 あぁ、やっぱりな。この世界の中では、常識のことなんだ。

 内心頭を抱えつつ、あたしは素直に頷いた。

 だって、知らないんだもん。変に思われちゃうだろうけど、仕方がないよね。

「そう……珍しいわね。えーと、じゃあ、白魔法というよりは、魔法について話した方がいいのかしら?」

 ガーネットの説明によると、この世界には魔法と呼ばれるチカラが存在し、その系統は大きく三つに分かれているんだそうだ。

 ひとつは、白魔法。傷の治癒や、毒や麻痺などの身体の異常の正常化など、主に回復系を主体とした魔法で、使い手は白魔導士と呼ばれる。

 もうひとつは、黒魔法。主に風火水土の四大元素の力に基づいた、攻撃系を主体とした魔法で、使い手は黒魔導士と呼ばれる。

 そして、召喚魔法。異世界から召喚獣と呼ばれる魔獣を召喚し、様々な効力を得る魔法で、使い手は召喚士と呼ばれる。

 魔法を使う為には魔力というものが必要になるそうなんだけど、これは先天的なもので、誰もが持ち得るものではないんだそうだ。

 そして、魔力を持っていたからといって全ての系統の魔法が使えるわけではなく、どの系統を使えるのかはその人の資質によるところが大きいらしい。

 ほとんどの人はひとつの系統の魔法しか使うことが出来ないものらしいけど、中には全ての系統の魔法を使いこなせる人も存在するんだって。

 そういう人達は、尊敬の念を込めて賢者と呼ばれるんだそうだ。

 もう、何が起きても驚かないと思っていたんだけど、まさかこんなチカラまで存在するなんて……。

「それにしても、何があったわけ? 彼氏のケガ、ひどかったわね」
「か、彼氏じゃないんです」

 ガーネットの言葉をあたしは慌てて否定した。

「そうなの? あ、敬語使わないで。あたしも使ってないし。えーと……」
「あ、オーロラです。ごめんなさい、名乗るのが遅れて」

 あたしは先程の件をかいつまんで彼女に説明した。

「へぇ、王子様がねぇ……。このアキレウスっていう人、すごくいい人じゃない。こんないい男、なかなかいないと思うわよ? 今のうちに捕まえておくことをお勧めするわね!」
「ぜ、全然そういうんじゃないんだって! アキレウスとは一昨日会ったばかりで、友達ですらないし……」

 アキレウスには、本当に迷惑かけっぱなし。彼にとって、あたしは疫病神と言っても過言じゃないと思う。

 有識者を探すまでの、ボランティアの関係。彼の善意だけで繋がっている、関係。

 それなのに……。

 あ、いかんいかん。ずんずん落ち込んできちゃった。落ち込んでどうにかなるわけでもないのに……。

「あの、ガーネット……その、治療費ってどのくらいかかるの? こんなコト言うの申し訳ないんだけど、あたし、お金なくって……。すぐには払えないけど、働いて返すから!」

 すると彼女は、けろりとしてこう言った。

「あ、いいわよ。いらないから」
「え!? で、でも……」
「いや、ホントにいいの。実はあたし、まだ見習い修行中でさー。腕には自信があるんだけど、ばあちゃんがなかなか一人前として認めてくれなくってさー。修行中の身で、人様からお金取ったなんてコトばれたら、大変なことになっちゃうのよね。だから、いいの」

 え-----?

 あたしは口をぽかんと開けてガーネットを見た。

 あれで、まだ修行中なの? 一人前って言ったら、どれだけスゴくなるんだろう。

 驚くあたしの前で、ガーネットが突然ぱん、と両の掌を合わせた。

「そうだ。あたし、ひとつ済ませなきゃいけない用事があったんだった。オーロラ、ここで休んでいて。何かあったら店の者に言ってもらえればいいから」

 そう言うと、彼女はぱたぱたと部屋を出て行ってしまった。

 誰もいなくなった部屋の中で、あたしはベッドの上のアキレウスに視線を戻し、彼の寝顔を見つめた。

 穏やかに眠るその表情を見て、改めて彼が助かったのだということを実感し、不意に涙腺が緩んでしまった。

「うっ……く……」

 はたはたと、涙が頬をこぼれ落ちる。

 ごめん、ごめんね、アキレウス。

 後から後から溢れ出る涙を止めることが出来ず、あたしはぎゅっと目を閉じた。

 本当に……ごめん。

 あたし、お荷物になってばっかりで。迷惑かけてばっかりで……。

 自分の無力感を思い知らされて、あたしは唇をかんだ。

 アキレウスに。パトロクロス王子に、ガーネット。

 みんなの力に助けられて、今、あたしはここにいる。

 ここに、いる……。



*



「また、泣いている……」

 目覚めたアキレウスの第一声は、それだった。

「だ……だって、だって……」

 あたしは慌てて涙をふきつつ、彼に訴えた。

「だって、あんなにひどいケガして……アキレウスが死んじゃうかと思ったんだもん!」
「……オレ、気ぃ失っていたのか……」

 呟(つぶや)きながら、彼はゆっくりと半身を起こした。

「あんた……大丈夫だったのか。何もされなかった?」

 頷きながら、あたしはまた涙が溢れ出すのを止められなかった。

 な、何でそんに優しいのよぉ! あたしなんかより、まず自分を気遣いなさいよ。アキレウスの方が、よっぽどひどいケガしているのに……。

「う、うん。本物の王子様が、助けてくれた、から……」

 しゃくりを上げながらようやくそれだけ告げると、アキレウスの翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が少し見開かれた。

「本物の?」
「う、うん」

 あたしが事情を説明し終えると、アキレウスは長い息を吐き出した。

「そうか……そんなことが……」

 それから、ゆっくりと自分の左大腿に手で触れ、こう呟いた。

「白魔法で……オレは助かったのか……」

 感慨深げな口調だった。

 アキレウス……?

 何か、思うところがあるのかな。

 考えは、ノックの音で中断された。

「はい」

 返事をすると、ドアの向こうから褐色の髪の青年が顔を覗かせた。

「具合はどうだ? 大丈夫だったかな?」
「おっ、王子様!」

 驚いて、あたしは飛び上がるような勢いで立ち上がった。

「はっ、はいっ! おかげさまでッ」
「何緊張しまくってるんだよ」

 アキレウスが吹き出すのをこらえながら、ベッドから起き上がった。

「だっ、だってッ」

 直立不動の姿勢のままのあたしを見て、パトロクロス王子は口元をほころばせながら手で制した。

「あぁ、いい。どうぞそのまま座っていて」
「で、でも」
「いいから」

 淡い青(ブルー)の瞳が優しく微笑む。

「はい……」

 あたし達が言われるままに腰を下ろすと、彼はおもむろに、深く頭を下げた。

「すまなかった」

 あたし達は驚いてパトロクロス王子を見つめた。

 だ、だって。

 王子様だよ!? 本物の!

 しかも彼、なんにも悪いことしていないのに。

 いや、それどころか、あたし達は彼に助けられているわけで。むしろ、こっちがお礼を言わなきゃいけないのに。

 固まったままのあたし達に向かって、彼は言葉を続けた。

「ああいった模倣犯が出回るのは、私の不徳の致すところ。貴方達のような一般の方に迷惑をかけて、本当に申し訳なかった」

 その様子を見ていたアキレウスが、ぽつりと言った。

「……ローズダウンの王子が変わり者だという噂は、どうやら本当だったらしいな」
「アッ、アキレウス!」

 あたしが驚いてたしなめの声を上げると、彼はひとつ息をつき、こう続けた。

「貴方のような身分にある方が、オレ達のような庶民に頭を下げるところを、オレは初めて見た」

 翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳をそっと伏せ、アキレウスは静かに頭を下げた。

「こちらこそ、危ないところを助けていただいた……感謝します」

 一瞬その横顔に見とれていたあたしも、彼にならって慌てて頭を下げた。

「あっ、ありがとうございましたっ」

 パトロクロス王子は軽く首を横に振ると、やおら大きな袋を取り出した。

「おわびと言ってはなんだが……服を買ってきたんだ」

 あたし達は改めてお互いの格好を見やった。

 アキレウスの服は、あちこち裂けているわ、血と土埃でひどく汚れているわで、もはやボロきれ。

 あたしはというと、ワンピースの裾を思いきり裂いてしまっていて、膝丈だったのが太腿まで思いっきり見える状態になっていた。もちろん、ひどく汚れてしまっている。

 うわっ、こんなことになっちゃっていたんだ。他へ意識がいっていて、全く気が付かなかった。

 あたしは頬を赤らめつつ、昨日買ってもらったばかりのワンピースを思って、ちょっと切なくなった。

 あーあ……アキレウスに買ってもらったばかりだったのにな……ショック。

「あと、これを回収してきた」

 パトロクロス王子はそう言って、アキレウスに彼の剣と剣帯とを手渡した。

「なかなか良い剣だ。手入れも良くされている」
「どうも」
「町の人達から聞いたよ。かなり腕が立つらしいな……何でも、婚約者を守る為に命がけで戦ったとか」

 えっ。

「ちっ、違……」

 真っ赤になってあたしが否定する前に、王子はするりとあたしの前に歩み寄ると、おもむろにその手を取り、じっとあたしの瞳を見つめた。

「当然だな、これほど美しい女性(ひと)ならば……先に出会えなかったことが残念だ」

 冷静に考えると歯が浮くような台詞(セリフ)なんだけど、秀麗な王子様に息が止まるほど見つめられ、そんな言葉を囁かれると、思わずぽーっとして見とれてしまった。

 やっぱり、本物の王子様は違う!

 この、溢れる気品と、優雅な物腰、そして整った容姿!

 まるで、童話の中からそのまま抜け出してきたみたい。何て白馬が似合いそうなのかしら…。

 乙女モード全開のあたしの側で、ぽかんとしていたアキレウスが、ようやく事態を飲み込んだらしく、一人頷いた。

「そっか、そういう設定になっていたんだっけ」

 アキレウス、遅いよ。

「どういうことだ?」

 その言葉に反応して、パトロクロス王子が小首を傾げる。

「えっと、手早く言うと、あの場を乗り切る為にアドリブで婚約者になりすましたってコトです」

 あたしが言うと、王子は淡い青(ブルー)の瞳をキラッと輝かせた。

「そうだったのか……ではまだ、私にもチャンスはあるということだね?」
「はぁ……」

 パトロクロス王子、さすがに嘘くさいぞ。町中の女の子全員に言っているのでは???

 アキレウスも同じことを思ったのか、王子にこんな質問をした。

「よく城を抜け出すって噂を耳にするんですけど、まさか花嫁探しにでも出ているとか?」
「半分当たりだな。まだ見ぬ美しい女性を探すのは大好きだ。城の中はどうも窮屈で……神官達が難しい話を無理矢理聞かせてくれるおかげで、余計な知識だけは入って来るんだが、妙に現実感(リアリティー)がなくてね。何事も、実際に自分の目で見てみないと、分からないし……頭だけで考えるのと、経験に基づいて考えるのとでは違うだろう? 色々な経験をしてみたいというか……ようは、遊びたいだけなのかもしれんが」

 穏やかな表情の中に、一瞬厳しいものが浮かんだのを、あたしもアキレウスも垣間見た。

「まぁ今回に限っては、それとはまた別なんだがな」

 彼は軽く肩をすくめてみせると、思い出したように自らの名を名乗った。

「そういえば自己紹介がまだだったな。知っているかもしれんが、私の名はパトロクロス・デア・ローズダウン。この国の王子だ」
「アキレウスといいます」
「オーロラです」
「オーロラか、美しい名前だ。名は体(たい)を表すとはこのことだな」

 この人、また……。

 口説きモードに入りかけていた王子の顔が、その時ふ、と真顔に戻った。

「アキレウス……と言ったか?」

 急に真面目な顔でそう問われ、アキレウスは戸惑い気味に頷いた。

「あ、ええ……そうですが」
「その髪の色……もしや貴公、魔物(モンスター)ハンターのアキレウスか?」

 ス、スゴいアキレウス、王子様にまで名前を知られているの!?

「オレをご存知なんですか?」
「アマス色の髪の、凄腕の魔物ハンターがいると、数々の噂は耳にしている。これほど若い青年だとは思わなかったがな」

 アマス色……。

 あたしは、月光を紡いだような不思議な色の、アキレウスの髪を見た。

 この色を表現するのに適当な色の名前をあたしは思いつかなかったんだけど、アマス色っていうんだ。

「貴公があのアキレウスであれば、ひとつ聞きたいことがある」
「何か……?」
「あぁ……他言無用に願いたいのだが」
「貴方は命の恩人だ。オレは、約束は守る」

 それを聞いて、王子はふ、と口元を緩めた。

「では……」

 視線を感じて、あたしはアキレウスを振り仰いだ。

「あの……アキレウス、あたし、外に出ていよっか?」

 アキレウスは少し考えてあたしを見、それからこう言った。

「いや……ここにいていいよ。王子、オーロラはわけあって、これから貴方の話すことを理解できないし、理解できたとしても信用に足る人物だとオレは思っているんですが……どうでしょうか」

 パトロクロス王子は不思議そうな顔をしてあたしとアキレウスとを見比べた後、ややしてから頷いた。

「私も人を見る目はあるつもりだ……殊(こと)に女性に関しては。いいだろう」

 嬉しいけど……いいのかな。何か、重要な話っぽいし。

 まぁ、アキレウスの言った通り、あたしが聞いてもちんぷんかんぷんなんだろうけど。

「実は、今回の忍びの目的でもあるんだが……探し物をしていてね」
「探し物?」
「国を挙げて極秘裏に探しているのだが、今のところ、何の手掛かりも掴めていないのだ。名のある魔物ハンターの貴公なら、あるいは情報を持っているかもしれんと思ってな」
「どんな物ですか?」
「『物』ではなく、『人』なのだ。いや、正確に言えば『人』ではないのかもしれんが……。姿形は、『女』だと思われる」
「思われる……?」

 眉をひそめるアキレウスに、パトロクロス王子は苦笑した。

「実は、かくいう私達にも、その正確な外観は把握出来ていないんだ。誰も『それ』を見たことがないのでね。事情があって詳しくは言えんが、異世界からこの地に召喚した『女』を探している。国土のすみずみまで兵士を投入しているのだが、未だその影すら掴めていない……」

 異世界から……召喚……。

 ドクン、と心臓が波打つのが分かった。

「時間が経つにつれて、こちらもあせってきているんだ。見慣れない異国の地の衣装を身に纏った女を見たことはないか? あるいは、異形かもしれん……。ここ最近、不思議な現象が起きたとか、妙な噂を耳にしたとか……何でもいい。そういう情報を聞いた覚えは?」

 ま、さか……。まさか、ね……。

 どんどん早くなる胸の鼓動を手で抑えつつ、あたしはアキレウスの顔を見た。彼はチラッとあたしを見て、逆に王子に質問した。

「異世界から召喚……ですか。スケールがでか過ぎて、ちょっとピンと来ませんが……その『女』を召喚したというのはいつ頃の話になりますか?」
「三日ほど前だ」

 うそ……ぴったり当てはまる……。

 緊張で、指先が冷たくなってきた。

 落ち着け……落ち着け。こんな重大っぽい話に、あたしが関わっているはずがない。

「三日前……か。ローズダウンにはずっといましたし、職業柄色々な噂を耳にしていますが……もっと、手掛かりになるような情報はないんですか」
「残念ながら、先程も言った通り、我々も『現物』を見たことがないので、これ以上は言いようがないんだ。その『女』は恐らく絶大なチカラを持っているはずなんだが、常にそれを全開にしているわけではないだろうし……」

 お手上げだといった様子のパトロクロス王子。

「こんなことを聞いては失礼ですが……その『女』を見つけたら、どうするつもりですか? 彼女には、何か重要な役割が……? 差し支えがなければ、教えてもらえませんか」
「……詳しくは言えんが、彼女は我々にとって重要な『鍵』となる。身柄は、我々が責任を持って預かる」

 アキレウスは、パトロクロス王子の顔をじっと見つめた。彼の頭の中は、今、様々な考えが交錯しているに違いなかった。

「……何か知っているのか」

 パトロクロス王子が静かな声で尋ねてきた。

「……貴方は今、『彼女』がどういう理由でこの地へ召喚され、これからどういった使命を課せられるのか……この件の全容を知っているんですね?」
「そうだ」

 アキレウスはひとつ息をつき、それからゆっくりと口を開いた。

「オレはおそらく、『彼女』であるだろう人物に会っています」

 ドキン、と胸が音を立てた。

「……本当か!?」

 パトロクロス王子が色めき立つ。アキレウスは頷いて、あたしを見た。静かな瞳だった。

「オーロラ、王子は信用にたる人物だと思う。そしてきっと、あんたの抱えている疑問に答えられるだろう。いずれにしても、このままオレとここにいるよりは、ずっといい」
「-----ま、待ってアキレウス!」

 あたしは慌てて彼の名を呼んだ。

「確かに、あたしの状況は今の王子の話に当てはまるかもしれない。けど、あたし、違うと思う! あたし、普通の女の子だよ!? 何のチカラもないもん! そんな、壮大な話の『鍵』なんかであるわけがない!!」

 あたしは必死になってアキレウスに訴えた。怖かった。

 急に大きな話が自分の上にのしかかってきて、ひどく怖かった。

「オーロラ、例え違っていたとしても、オレにくっついて町の有識者に話を聞いて回るよりは、王子について王宮に行った方が、何倍も確実な情報が手に入るはずだ。これは、チャンスなんだ。あんたの為にも、絶対にその方がいい」

 アキレウスはあたしの肩に手を置いて、微笑んだ。

 あ……あ、そうか……。

 あたしはかくん、と身体中の力が抜けるのを感じた。

 そうだよね……このままアキレウスについて回ったって、彼に迷惑をかけるだけだ。

 もともとは、ルザーまで送ってもらうだけだったのを、彼の善意でここまでしてもらっているんだもん。

 いくら怖くても……彼に頼ることは、出来ないんだ。

 あたしは、彼の友達でも何でもないんだから。

「うん……分かった……」

 あたしは、そう頷くしかなかった。

「-----つまり……オーロラが我々の探している『鍵』だということか?」

 それまで黙ってあたし達のやりとりを聞いていたパトロクロス王子が口を開いた。

「……そういうことです」

 そう言って、アキレウスがこれまでの事情を王子に説明するのを、あたしはどこか遠いところで聞いていた。

 じゃあ……アキレウスとは、ここでお別れってことになっちゃうんだ……。

 そう思うと、何だか胸の中に、ぽっかりと穴があいてしまったような気がした。



*



 事はかなり急を要しているらしく、あたし達はすぐにルザーを出立することになった。

 ガーネットにひと言挨拶がしたかったけど、彼女はまだ戻ってきていなかったので、お店の人にお礼を言い、あたし達はゼンばあさんの家を後にした。店員のお兄さんにパトロクロス王子が志(こころざし)を渡していたようだった。

 警備隊の詰所の一室を借り、あたしは新しい服に着替えていた。

 シャワーを浴びて清潔になった肌に、上質な布地が心地良い。

 両脇に深いスリットの入った、淡いピンクのワンピース。上品なデザインで、自分に似合っているのかどうかちょっと不安だ。

 アキレウスの話を聞き終わったパトロクロス王子は、すぐにあたしを王宮に連れて行くことを決断した。不安げなあたしに、アキレウスは王子にひとつ、約束を取り付けてくれた。

「例え、オーロラが貴方達の探している人物でなかったとしても、彼女の今後の為に、出来るだけの手を尽くしてもらえませんか」

 パトロクロス王子はひとつ返事で快諾してくれた。

 こうして、あたしのとりあえずの行き先が決まったのだった。

 アキレウスとは、ここでお別れ。

「…………」

 あたしはすっかり小汚くなってしまった茶色のワンピースを手に取り、埃を軽く払ってから、きれいにたたんだ。

 何だか、捨てられないな。きれいに洗って、裾だけ直してあげれば、充分まだ着られる……。

 何だかひどく、切なくて寂しくて……あたしはきゅっと唇をかみしめた。

 これは多分、鳥のヒナの刷り込みに近いモノ、なんだと思う。

 こっちの世界に来て、初めて会った人がアキレウスで……何度も、何度も助けてもらって。

 何にすがったらいいのか全く分からなかったあたしにとっての、唯一の光みたいなものだったから。

 身支度を整えて、あたしは部屋の外へ出た。

 廊下を歩いている途中、近くにいた兵士に頼んでひとつ袋をもらい、茶色のワンピースをその中に入れた。

 パトロクロス王子とアキレウスはもう外で待っていて、何やら談笑していた。

「おぉ、オーロラ、良く似合っているじゃないか。やはり私の見立てに間違いはなかった」

 満足そうに頷く王子の隣で、アキレウスも笑って頷いた。

「本当だ。可愛いじゃん」

 バカ、何爽やかに笑っているのよ。

 これでお別れなのに……笑えないよ。

「うん? どうした、元気がないな」

 パトロクロス王子があたしの顔を覗き込む。

「なっ、何でもないです」

 慌てて首を振るあたしの頬を、アキレウスが指でつついた。

「コラ、最後くらい笑顔見せろよ。オレ、お前の泣き顔しか思い出せなくなっちゃうだろ」

 やっぱり、最後なんだ……。

 そう思ったら、じわっと涙が浮かんできた。

 もう、二度と会えないのかな……。

「おっ、おい」

 アキレウスが困った顔であたしを見た。

「泣くなよ……」
「泣いてないもん」

 あたしはぐっと奥歯をかみしめると、無理矢理笑顔を作った。そして、ゆっくりとアキレウスに頭を下げた。

「今まで、色々……本当に、どうもありがとう」
「あ、あぁ……」

 本当に、感謝してもしたりない。

 だけど、それ以上言うと泣いてしまいそうだったので、あたしは言葉を飲み込むしかなかった。

 さようなら、アキレウス。たくさん助けてくれて、ありがとう。

「-----ところでアキレウス、貴公はこれからどうするのだ?」
「ひと仕事片付いたところなんで、久々に故郷へ帰ろうと思っています」

 そういえば、あたしに会ったのは仕事の帰り道だったんだっけ。ずいぶん長い道草をくわせちゃったなぁ。

「急ぎか?」
「いえ、そういうわけじゃありませんが」
「-----ならば関わりついで、ひとつ仕事を頼まれてもらえないか?」
「え?」
「王宮までの、我々の護衛だ」
「-----え!?」

 あたしとアキレウスの声が重なった。

「ローズダウンの王子たる私からの、正式な仕事の依頼だ。もちろん、報酬は弾む。悪い仕事ではないと思うが……どうだ?」

 考えてもみなかったパトロクロス王子の取り計らいに、あたしは息を飲んでアキレウスを見つめた。

 アキレウスは食い入るように見つめるあたしと、笑みを含んだ王子の顔とを見比べ、ちょっと笑って、冗談っぽく一礼した。

「……かしこまりました。お受け致しましょう、王子」

 ほっ、本当!? 本当にっ!?

「-----というわけだ。もう少しヨロシクな、オーロラ」

 や、やったあぁー! 嘘みたい、嬉しいッ!

 ぱあぁぁ、と分りやすいくらい明るくなったあたしの顔を見て、パトロクロス王子が微笑んだ。

「やはり女性は、笑顔なのが一番だ」
「えっ……」

 もしかして、王子、あたしを気遣ってアキレウスを……?

 軽く頷いた彼の顔を見て、あたしは確信した。

 なっ、何ていい人なのっ!

 昼下がりの異界の空が、ひと際青く輝いて見えた。
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