焼けた砂が風に乗り、時折頬を打ちつける。
乾燥した大気は、容赦なく身体中から水分を奪っていく。
あ、暑い……。
一歩一歩、果てしない砂地を踏みしめながら、あたしは額から流れ落ちる汗を拭った。
歩くたびに足が砂に埋まって、とにかく歩きずらい。歩くだけで体力を消耗していくのが分かる。
少し前を行くアキレウスは、慣れているのか黙々と歩いていく。重い剣だとか荷物とかを持っているのに、全く気にする風もない。
あたしなんか、この身ひとつではぁはぁ言っているのに……。
マエラも暑かったけど、こんな殺人的な暑さじゃなかった。
アキレウスから借りた日除(ひよ)けの外套(がいとう)を掛け直しながら、あたしは果てしなく続く砂漠を見据えた。
*
あの後、あたしが話せるほどに落ち着いたのは、かなりの時間を経過してからのことだった。
自分は西暦1856年の時代の人間だということ、そして、その頃には魔物(モンスター)などいなかったということ、ローズダウンという名の国はなかったことなど、切れ切れに説明した。
アキレウスはただ黙ってそれを聞いていてくれた。
否定もせず、肯定もせず……。
そして、彼の出した結論は、
「とりあえず一番近くの町まで行って、有識者に話を聞いてみよう。そして、それからどうしたらいいのか考えることにしよう」
というものだった。
『新暦546年』があたしにとって過去にあたるのか未来にあたるのかは、彼にも分からないらしい。
ううん。それ以前に、あたしが正常なのかということさえ、彼には分からないのだろう。
『西暦1856年』と『新暦546年』では、単純に考えても歳月にかなりの隔たりがありそうだ。
それほどの歳月の差があり、しかも国が全く違うのに、あたしは彼の言葉が理解出来ている。
それ自体が、おかしい。
どうしてだろう。
どうして、この時代の言葉があたしには理解出来るんだろう。
それは、自分でも分からなかった。
アキレウスと初めて出会った場面が、頭の中に思い浮かぶ。
最初は彼が何を言っているのか分からなかった。でも、次の瞬間には何故かそれが理解出来ていたんだもん!
そうとしか、言いようがなかった。
普通の人だったら、絶対あたしの頭がおかしいと思うだろうな。あたしだってそう思うもん。
アキレウスも、多分そう思っている。
だけど彼は、『町へ行って有識者に話を聞こう』という案を出してくれた。
それが、あたしにはとても嬉しかった。
そして、あたし達は今、砂漠から一番近い町-----ルザーを目指して歩いている。
*
「足は痛まないか?」
アキレウスがあたしに話しかけてきた。
彼は、昨夜デザートウルフに噛みつかれたあたしの足を気にしてくれていた。
気が付いた時には、彼の手により左足のふくらはぎに包帯が巻かれていたので、その傷口をあたしは確認していなかったんだけど、いったいどんな薬を使ったのか、歩いても痛みはなかった。
「うん、大丈夫。ありがとう」
彼にそう返した時、遠くから砂煙が上がるのが見えた。
アキレウスが歩を止める。
何だろう。まさか、また何かの魔物!?
顔色を変えたあたしを振り返り、アキレウスが言った。
「大丈夫、魔物じゃない。どこかのクリックル部隊みたいだ」
その言葉に、あたしはホッと全身の力を抜いた。
「よくあんなのが見えるね」
「目はいいんだ」
それにしたって……あたしも目はいい方だけど、点にしか見えない。目、良すぎだって。
彼の言う通り、少しするとあたしにも肉眼でそれが見えるようになってきた。
十人ほどの小部隊。騎乗している人達は、なめし革で作ったような軽い鎧を装備し、みんな日除けの白い外套を羽織っている。
「驚いたな……ローズダウンの正規の部隊だ」
アキレウスがそう呟(つぶや)いた。
ローズダウンというのは、この国の名前。
アキレウスの話によると、この世界は現在五つの国から成り立っており、それぞれをその国の王が最高権力者として治める、いわゆる王政を行っているらしい。
世界経済の中心を担う大国アストレア、造船技術が盛んな技術者の国シャルーフ、剣技の国ウィルハッタ、魔法王国ドヴァーフ、そして神話の国ローズダウン。
ローズダウンが神話の国と呼ばれる所以(ゆえん)は、随所に残る数々の遺跡と、この国にまつわる様々な伝説にあるんだそうだ。
そのローズダウンのクリックル部隊が、手綱を引いてあたし達の前で足を止めた。
げほっ、すっごい砂煙!
咳(せき)こみながらそれを見上げたあたしは、初めて間近で見るクリックルの大きさに驚き、目を見開いた。
お、おっきい! 想像してたのより全然でっかい!
頑丈そうな太い二本の足に、藍色の羽毛。くちばしは鋭く目はぱっちりしていて、首筋から背中にかけて、緩やかに毛が逆巻いている。
下手すると馬よりもおっきいんじゃないかな。
「旅の者か?」
クリックルの鞍上(あんじょう)から、隊長らしい壮年の男性が話しかけてきた。鎧の胸の部分には、四枚の翼を持つ双頭の鷹の紋章が刻印されている。
「ええ。何か?」
アキレウスがそう返すと、彼はちらりとあたしに目をやり、用件を告げた。
「昨日(さくじつ)、この辺りで何か変わった現象が起きなかったか聞きたい。あるいはそういう話を聞いた覚えは?」
「……さぁ? 特に思い当たることは」
「娘。お前は?」
急に話を振られて、あたしは慌ててこう答えた。
「えっ!? い、いえ、別に何も……」
「……そうか」
隊長はひとつ溜め息をつくと、再び手綱を握りしめた。
「何かあったんですか?」
アキレウスが問いかけると、彼は軽く首を振って、こう答えた。
「我々が聞きたいよ」
砂煙を上げて立ち去っていく彼らの後ろ姿を見送りながら、あたしはアキレウスに話しかけた。
「何だったんだろうね?」
「さぁ? ま、オレら一般市民には関係のないことさ。多分……な」
そう言って彼が再び歩き始めたので、あたしもそれを追って歩き始めた。
日は、まだ高い。
*
アキレウスは半日の距離だと言っていたのに、あたし達がルザーの町にたどり着いたのは、とっぷりと日が暮れてからのことだった。
そう。それもこれも、ぜ〜んぶあたしのせい。
始めはねぇ、順調だったんだよ。話をする余裕だってあったし。
ところが、舞台用の細くてヒールの高い靴を履いていたもんだから、靴擦れするわ歩きずらいわ、もう最悪。
初めての砂漠越えに昨日からの睡眠不足と疲労がたたって、もう日が傾きかける頃には十分歩いて十分休む、というカンジ。
アキレウスに励まされながら、ほうほうの体(てい)で、やっと先程ルザーにたどりついたという有様だった。
ごめんねぇ、アキレウス。
うなだれるあたしに、アキレウスはこう言ってくれた。
「初めての砂漠越えだろ、しょうがないよ。男だってキツいんだ、女の子の足じゃなおさらだし。
そんな顔すんなって。とりあえず宿探してくっから、ここで待ってろよ」
そして、彼は嫌な顔ひとつせず、泊まる所を探しに行ってくれたのだった。
優しすぎるぅぅ……。
あたしはすごく感動したけど、だから余計、彼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
はぁ……こっちに来て、初めて出会った人がアキレウスで、あたしは本当に良かったけど、彼にとってはとてつもない大迷惑だっただろうな。
町の入り口近くに設けられたベンチに座り、夜風を肌に感じながら、あたしは深い溜め息をついた。
ふぅぅ……。
近くの民家の窓からは、楽しそうな声と共に明るい光がこぼれている。
物を動かす音。食卓に上る、夕餉(ゆうげ)の匂い。
ここに暮らす人達の、生活の気配……。
あぁ……時代は違っても、こんなところは変わらないんだなぁ。
不思議だな。あたしの居るべき場所はここじゃないけど、彼らにとっては、ここが現実。居るべき世界。
そう考えると、何だかとっても不思議な感じがした。
町の奥へ向かうにつれて、明りの数は増えている。
中心部に行けば、もっと明るいんだろうな。酒場なんかもあって……踊り子とかもいるのかな?
急に、港町の小さな酒場のことを思い出した。
みんな……どうしているかな? あたし、あんな形で急にいなくなっちゃって……きっと心配してくれているよね。
マスター、ムエラ……みんな、今頃何している? あたしは今、こんな所でみんなのこと考えているよ。
みんなのこと……。
「オーロラ!」
不意に名前を呼ばれ、あたしはハッと顔を上げた。アキレウスが手を振りながら駆け寄ってくるのが見える。
「わりぃ、遅くなっちゃって。部屋、二つ取れたから」
アキレウス……。
「行こう、ほら」
そう言ってアキレウスはおもむろに背を向けると、あたしの前にしゃがみこんだ。
「え?」
「乗れよ」
「え? えぇ!? いいよ、歩けるって!」
「そんな足した女の子を歩かせてったら、オレが宿屋のオヤジににらまれるって」
あたしの足はデザートウルフに噛まれた傷とひどい靴擦れとで、あちこちにアキレウスの手当てが施されていた。
「宿屋のオヤジに理由話して、荷物とか全部置いてきたから。足、痛かっただろ。ゴメンな」
「そんなっ……!」
謝るのはあたしの方だよ。アキレウスが謝ることなんて、ない。
そう言おうとしたけれど、言葉にすると涙が出てしまいそうだったので、あたしはかぶりを振ることしか出来なかった。
「ほら、いいから乗れって」
アキレウスだって、疲れているのに……。
「……ありがと」
なるべく明るめの声で言って、あたしは彼の肩に手をかけ、その背に身体を預けた。
「おっ。結構重いな」
「もぅっ!」
彼が冗談ぽく言ったので、あたしも笑ってその肩をこづいた。
「よーし。んじゃ、行くか」
「うん。お願いします」
「歩いて割とすぐだから。けっこう綺麗なトコだぜ」
「うん……」
かすかに汗の匂いのするアキレウスの肌。広い背中が温かい……。
目頭が熱くなってきた。
きゅっ、とアキレウスの肩をつかむ腕に力がこもる。小刻みに震える身体を止めようと、瞳を閉じた。
「ルザーは温泉が出ることで有名な町なんだ。公共の風呂の施設もあるんだぜ。今日は傷口がしみるかもだけど、一回は入ることをお勧めする。疲れた身体にスゴくいいよ。マジで気持ちいいんだ」
アキレウスには、あたしが泣いていることが分かったと思う。けれど彼はそれに触れず、一人話し続けてくれた。
「あー……っていうか、温泉ってオーロラの国にもあった? 温泉ってのは-----」
ルザーの町並みを、アキレウスの声だけが通り抜けていく。
心が少し、温かくなった。
*
宿の部屋に入る手前で、アキレウスがあたしに袋を差し出した。
「これ」
「え? 何?」
開けてみると、中には服が入っていた。
驚くあたしに、彼はこう言った。
「そのカッコじゃ……あれだろ」
あたしが今着ているのは、元の色が白だったとはとても思えない、どろどろの女神の衣装。彼は気を利かせて新しい服を用意してくれたらしい。
でもでも、こんなのって申し訳なさすぎる。
「そんな……悪いよ。あたし、お金持ってないし……」
「いいよ」
「でも……」
ふと思い出して、あたしは胸元にあるネックレスを手に取った。サークレットとイヤリングはこっちへ呼ばれた時にどこかへいってしまっていたけど、これだけは残っていた。
これだったら、いくらかの足しになるかな……。
「じゃ、これ。これ使って」
「え……」
「全然足りないかもしれないけど。でも」
そうじゃないと、とてもじゃないけどいたたまれない。
そんなあたしの心中を察したのか、アキレウスは頷いてそれを受け取った。
「……分かった。もらっとくよ」
「ありがとう」
彼がネックレスを受け取ってくれたことにホッとしつつ、あたしはぺこりと頭を下げた。
「あの……悪いけど、明日もヨロシクお願いします」
「あぁ。じゃ、オレ隣の部屋にいるから。何かあったら……と、これからちょっと温泉に行ってこようと思ってるんだけど。すぐ戻ってくるから」
「さっき言っていた所? ここから近いの?」
「あぁ、すぐそこだよ。……一緒に行く?」
あたしはちょっと迷ったけど、すぐ頷いた。疲れていたけど、どっちにしろお風呂には入りたかったし、何より部屋に一人でいたくなかったから。
*
公共の温泉施設は、宿からほどなくの場所にあった。
入り口から男女別になっていて、脱衣所を通り抜けると、そこは研磨された岩に囲まれた、趣(おもむき)のある空間となっていた。高い木の壁に覆われたその空間に天井はなく、湯煙の下、瞬く星達を一望することが出来る。
「うわぁ……」
あたしは思わず感嘆の声をもらした。
空を見ながらお風呂に入るなんて、初めて。こんなふうに共同で大勢の女(ひと)達と一緒にひとつの湯船に浸かる、というシステムも初めてだった。
温泉かぁ……マエラにはなかったな。
あたしは汗やら何やらで汚れたどろどろの身体を洗い場で軽く流すと、早速温泉に入ってみた。
ちょっと傷にしみたけど、温かくて、とても気持ちいい。お湯の温かさが、身体の疲れを手足の先からじんわり癒してくれる気がする。
温泉に入る前に確認のため包帯を外した時、デザートウルフに噛まれた傷が完璧と言っていいほどに治っていて、あたしはひどく驚いた。けっこう深く噛まれた気がしたけれど、うっすらとその痕(あと)がある程度で、よく見ないと分からないまでに回復している。
あたしの中の常識では、有り得ない回復ぶりだった。
アキレウスは、いったいどんな薬を使ったんだろう。
温泉に浸かりながら瞳を閉じてゆっくりと開けると、満天の星空が目に入った。
何とはなしに、あたしはしばらく星空を見上げたまま湯船に浸かっていた。広い空を見ていると、何だか心が落ち着くのを感じた。
広いなぁ……。
この星達の中には、いったいどれだけの生命があって、そのそれぞれが、どんなことを思いながら生きているんだろう……。
中には、あたしのような思いをしている人もいるんだろうか。
もっと、不安な思いをしている人もいるんだろうか……。
「……あのー」
背後から遠慮がちな声がかけられた。
見ると、同い年くらいの女の子がいつの間にかあたしの側に来て、こちらを見つめていた。
顎の辺りでそろえられた漆黒の髪に、勝気そうに輝く茶色(ブラウン)の瞳。
あぁ、綺麗な娘(こ)だなぁ……。
そんなことを、ぼぅっと思った。
「このお湯、何だか気持ちいいからついつい長湯しがちになっちゃうけど、ほどほどにして上がらないとのぼせちゃいますよ?」
どうやらあたしのことを心配してくれているらしい。
「あ……ええ。どうもありがとう」
ちょっとぼーっとしていたけど、どのくらい湯船に浸かっていたんだろう。もしかして、アキレウスはもう上がっちゃっているかな。
立ち上がろうとして、あたしは軽いめまいを覚えた。
「あっ、大丈夫!?」
よろめいたところを、女の子に支えられる。彼女があたしの背中を見て、軽く息を飲んだのが分かった。
「ありがとう……大丈夫。ごめんなさい……」
「あ、ううん……」
彼女の手を離れて自力で立ち上がりながら、あたしはほろ苦い笑みを浮かべた。
「昔……大ケガをしたことがあって……」
「あ……そうなんだ……まぁ、物騒な時代だもんね。お互い気を付けないとね」
あたしの傷を魔物か何かに襲われたのと勘違いしたらしい彼女に会釈して、あたしは温泉を後にした。
この傷……背骨を挟んで、左右に一筋ずつある、醜い、大きな古い傷痕。
この傷をどうして負うことになったのか、あたしは知らない。
正確には、覚えていない。
確かなのは、小さな酒場で踊り子となる前に負ったものだということだけ……。
この傷は、あたしの過去へと繋がる傷だ。
この過去を探す為にも、どうにかして元の世界へ戻りたい。
本当の自分を探す為に。
元の世界へ、帰りたい----------。
*
翌日。
あたしはアキレウスから貰った服を着て、彼と一緒に町の通りを歩いていた。
薄い茶色の、半袖のワンピース。でも、マエラで着ていたものとは雰囲気が違う。
何だかこの時代の服を着ていると、自分もその風景に溶け込んでしまいそうで変な感じ。ちょっと照れるな。
今日はこれから、アキレウスが以前仕事で知り合った、この町に住む歴史に詳しい人に会いに行くことになっているんだ。
「アキレウスって何の仕事をしているの? 砂漠で会った時、仕事が終わって帰るトコだって言っていたけど」
傍らを歩く彼にそう尋ねると、耳慣れない職業名が返ってきた。
「オレ? 魔物(モンスター)ハンターをやってるんだ」
「魔物ハンター?」
まばたきするあたしを見て、彼はちょっと笑った。
「個人や自治体から魔物を退治する依頼を受けて、成功報酬をもらうって仕事」
はぁ……なるほど。
簡単に言っているけど、大変な職業だよね。あのデザートウルフみたいなのを相手にしないといけないわけでしょ? 命がいくつあっても足りないよ。
アキレウスが何であんなに強いのか、これで分かった。魔物退治のプロなんだ……すごいな。
「怖いって思ったり、しないの?」
あたしが聞くと、彼はふと頬を傾けてこちらを見た。
「……もうそういう感覚はマヒしちまったな。死んだらそれまでっていうか……」
ひどくさらりとした物言いだった。
自分の死というものを、どこか打ち捨てて捉えているようにさえ感じられるその言い方に、あたしは違和感を覚えて彼の精悍(せいかん)な顔を見上げた。
アキレウス……?
見上げた彼の表情は、普段と何ら変わりなかった。
-----気のせい、かな……?
大通りに入ると、行き交う人の数が急激に増えた。
昨日ルザーに着いた時は時間が遅かったせいもあって人影がまばらだったけど、今日はたくさんの人がいる。大人、子供、お年寄り……バザーが開催されているらしく、道の両端には商人達が露店を連ね、威勢のいい声を張り上げている。
活気のある町だなぁ。
もの珍しさにきょろきょろしていたあたしは、あることに気が付いて隣を歩くアキレウスの腕に触れた。
「ね、ねぇねぇアキレウス」
「ん?」
「あ、あの人。あっ、あの人も。な、何かちょっと違うように見えるんだけど」
「……あぁ」
「あたしの気のせい?」
「いや」
「えっ? だ、だって……」
あの綺麗な女の人、耳がとがっているし……(それに長い!)、あっちのおじさんは小柄なのに妙にずんぐりむっくりしてて、顔が異様に赤い。それにあの子は、何だか全身ふわふわの毛が生えていて……。
「亜人種だよ」
事もなげにアキレウスはそう言った。
「あの女(ひと)はエルフ族、あのおっさんはドワーフ族、あの子はモール族だ」
「えっ……えーっ!? そ、それって……人間じゃない、ってコト……?」
「……ん。まぁ人間のイトコみたいなモンかな。見た目は違うけど、そんなに人間(オレら)と変わんないぜ? 交われば子供だって出来るし」
「そ、そうなの?」
「そういう人達をまとめて亜人種って言ってるんだけど。オーロラの時代にはいなかった?」
「い、いなかった……」
そ、そーか。この時代では当たり前のことなんだ。
周り見たって、驚いているのあたしだけだし。当たり前か。
「……びっくりした?」
「びっくり、した……」
「どんくらい?」
「このくらいっ!」
両手をいっぱいに広げてみせたあたしのオーバーリアクションを見て、アキレウスが吹き出した。
「ははっ、あんたって……ぷっ……顔が百面相するのな。すっげー分かりやすい!」
彼にそう言われて、あたしは何だか恥ずかしくなった。
「なっ、何、そんなに笑わなくたって……」
あたしが真っ赤になると、彼は肩を揺らしながら言った。
「わりぃわりぃ、悪気があったわけじゃないんだ。あんたがあんまり素直なリアクションするから、分かりやす……いや、可愛いなと思って」
「顔に全部出て、悪かったわね」
あたしが頬をふくらませると、彼は再び吹き出した。
こっ……このぉ。
あたし、アキレウスって落ち着いていて行動力があって、優しくて……何だかとても紳士的な男(ひと)だと思っていたんだけど、もしかしたら早まったイメージだったのかも。
意外と子供っぽいところがあったりして……。
「もぉ……アキレウスっていくつなの?」
「オレ? 18だよ」
「18!? やっぱり!!」
「やっぱりってなんだよ」
「どおりで子供っぽいトコがあると思った!」
あたしのこの言葉に、アキレウスはちょっとムッとしたらしい。
「何だよ。じゃあオーロラはいくつなんだよ」
そう聞き返されて、あたしは一気に言葉に詰まった。
「…………」
「ん?」
「……。た、多分アキレウスと同じくらい……」
「はぁ? 多分?」
「じ、実は……」
あたしの話を聞き終わったアキレウスは、深い溜め息をもらした。
「波瀾にとんだ人生を歩んでいるんだな……」
「まぁね……」
何だか話してて悲しくなってきちゃった。
「まぁ、考えようによっては退屈しない人生でいいんじゃないか? 他人が体験しえないコトを体験出来てるわけだし」
「え?」
「例えば、さっきの亜人種。オーロラの時代の人はどんなに見たくっても見れないわけだろ? それをあんたはその目で見ることが出来た」
そう言って、アキレウスはあたしに笑顔を見せた。
「すごいコトじゃん。帰ったら自慢できるぜ」
「……帰れるかな」
「あんたがここにいるってコトは、来る道があったってコトだ。来る道があったってコトは帰る道だってあるさ。必ず」
ものすごくポジティブな考え方だったけど、その言葉であたしは自分の心が嘘のように軽くなるのを感じた。
「……そうだよね。これから、その帰る道を探せばいいんだよね」
何か……元気が出てきた。
「あたしの言っていること……信じてくれるの?」
「亜人種を見てあんなに驚く人間は、ここにはいないよ」
あたしってば単純。アキレウスの言葉を聞いて、急に未来が明るくなってきた気がした。
「へへ、ありがと」
「ホント分かりやすいなー、あんた」
「なっ、何よぉ」
「オーロラの顔見ていると、しばらく退屈しないですみそうだ」
「単純で悪かったね!」
言ってから、あれ、とあたしはアキレウスを見上げた。
「何だよ」
「……何でもない」
あれ? 今のって。
あれ? もしかして。
しばらくあたしに付き合ってくれる、って意味?
そう取っちゃっていいのかな……。
「王子様が来てるってよ」
不意に、こんな声が耳に飛び込んできた。
「え? 王子様?」
「本当に?」
「-----お忍びで……!?」
バタバタと、急に周りが騒がしくなる。
「お、王子様?」
きょとんとするあたしの腕をアキレウスが引っ張り、道端に身を寄せた。
「危ないから下がった方がいい」
「あ、うん」
あっという間に、大通りは王子様をひと目見ようという人達でいっぱいになった。
「す、すごい人……」
「身動き取れないな。王子が通り過ぎるのを待とう」
「王子様って、将来この国の王様になるかもしれない人のことだよね。そんな偉い人が来ているの?」
「そうみたいだな」
「すごいねー、今日は何か特別な日なの?」
「いや……」
遠くで歓声が聞こえ始めた。みんながそちらに注目して、首を伸ばす。
姿はまだ見えないけど、王子様が近付いてきているらしい。
「じゃあどうしたんだろうね?」
「ん……この国の王子って、ちょっと変わっているみたいでさ。噂じゃ、城を抜け出してしょっちゅう遊びに出ているらしい。だから、もしかしたらまた城を抜け出して遊びに来たのかもしれないな」
「すごい王子様だね……」
「権力者なんて、いい加減なヤツが多いんだよ。てめぇじゃろくに働いたこともないクセに……」
頬に力をこめて、アキレウスは前方をにらみ据えた。
アキレウス……ちょっと怖い顔。以前、何かあったのかな。
その考えは、大きな歓声によって打ち消された。
「王子様-----!」
「パトロクロス様-----!」
あっ、すごい。もう近くまで来ている!
前後左右に馬に乗った四人のお供を連れて、白毛の馬にまたがった長身の青年が遠目に見えた。
「パトロクロス様、万歳-----!!」
王子様、パトロクロスっていうんだ。
町の人達から次々に差し出される品物や花なんかをもらいながら、ゆっくりと近付いてくる。
女の子って王子様に憧れるものだけど、まさか本物にこんな所で出会えるとは思わなかったなぁ……童話そのままみたいにカッコいいと嬉しいんだけど。
そんなことを勝手に思いながら、あたしはついに目の前までやってきた王子様に乙女モード全開の視線を送った。
切れ長の青(ブルー)の瞳にちょっと高めの鼻筋、薄い唇……そして頬にはそばかすが……髪は、赤毛の長髪を後ろでひとつにまとめている。
うーん、まぁまぁ、かな。美形、とはいえないけど、まぁ現実ってこんなものだよね。
勝手にちょっとがっかりしながら、王子様を見つめていたその時-----。
「-----!」
目……目が、合っちゃった。
ドキンッ、と心臓が音を立てた。
や……やだ、びっくりしたぁ。でも、ほんのちょっぴりラッ……----------え!?
な、何か従者の人と話している……ぎゃ、こっち見た!
「-----おい」
アキレウスが話しかけてきた。
「何か、こっちの方見てないか?」
「や、やっぱりそう思う? あたし、王子様の顔をちょっとじろじろ見ちゃったんだけど、まさかそれが無礼にあたるとか……」
「それは大丈夫だと思うけど……おい、従者が馬から降りてきたぜ」
えっ……えぇ-----ッ!?
ほ、本当だ。先頭を歩いていた従者の一人が馬を降りて、人をかき分け-----こっちへ来るぅぅ!!
「娘、名前は?」
「えっ……あっ、は……オ、オーロラです」
「オーロラか。よしオーロラ、王子が其方(そなた)を気に入られたそうだ。今夜ひと晩、夜伽(よとぎ)の役を仰せつける。光栄に思うがよい」
「えっ……よ、夜伽……って……」
嫌な予感。これって……。
アキレウスが横から口を挟んだ。
「王子の夜の相手をしろってコトだよ」
やっぱりぃぃ----------!!
突然の事態に、全身からザーッと血の気が引いた。
「さ、オーロラ。来るがよい」
いっ嫌-----! 絶対に嫌ッ!! 何であたしが-----!?
「さ、どうした。こんなに光栄なことはないぞ。ひと晩とはいえ、王子の寵愛を賜れるのだ」
じょ、冗談じゃないよ!!
「何も恥ずかしがることはない。さ、来るのだ」
そう言うと、従者はあたしの腕を掴み、強引に歩き出した。
「ま、待って下さい! あたし……」
「うん? まさか断るつもりではあるまいな」
「す、すみません。あたし、あたし……綺麗じゃないし、王子様に相応(ふさわ)しくありません! だから……!」
「王子が其方で良いと言っているのだ」
「でも!」
「これ以上王子を待たせるでない」
あたしの腕を握る従者の手に力がこもった。細い瞳が、イラだっている。
「痛っ……!」
彼はあたしを無理矢理引き寄せ、低い声で耳元でこう囁いた。
「恥をかかせるな」
爬虫類のようなその表情に、ゾッとした。
「王子、連れて参りました」
「うむ」
傲然(ごうぜん)とした目で、王子はあたしを見下ろした。
「其方の黄金(きん)色の髪が、ひと際私の目を引いた。今宵はゆるりと私の話の相手をしてほしい」
品定めするように、じっくりとあたしの全身に目を走らせる。
や、やだぁ!
あたしはあせって周りを見渡したけど、当然ながら誰も助けてくれそうな人はいない。
みんな、羨望と同情の入り混じった複雑な眼差しを向けてくるだけだ。
「さ、娘」
王子が馬上から手を差し伸べる。
「来るがよい」
「あの、すみません。あたし……」
あたしがためらって動かないのを見て取ると、次の瞬間、彼は強引にあたしの腕を引っ張り、無理矢理白馬に乗せようとした。
「きゃっ!」
無理に引っ張られた腕の筋に痛みが走り、あたしは小さく悲鳴を上げた。目の前には、怒りに燃えた青年の顔がある。
「私に恥をかかせるつもりか」
ごくり、と自分が生つばを飲み込む音が聞こえた。
こ、怖い……。
逆らったら殺される-----そう、直感した。
「行け」
あたしを強引に馬に乗せ、王子が従者に号令をかける。一時中断されていた行進が再び始まった。
ど……どうしよう!? こんなの、こんなの、絶対に嫌だ!!
思わず泣き出しそうになったその瞬間、
「お待ちください!」
凛とした、よく通る声が響き渡った。
その声に反応して、ぴくり、と王子が馬の足を止める。
人波が割れ、その中から声の主が現れた。
アキレウス……。
彼は毅然とした面持ちで二、三歩前に進み出ると、王子に向かって深く一礼した。
「恐れながらこの娘は、すでに私と将来を誓った仲にございます。どうぞ、お許しいただきたい」
「許す? 何を許すと申すのだ」
「彼女を私にお返しいただくことです」
アキレウスがとっさに婚約者になりすまし、自分をこの状況から助けようとしてくれていることが分かって、あたしは心を震わせた。
ありがとう……アキレウス。
しかし王子は彼の申し出を一笑に付し、何とこう言ったのだ。
「私はこの娘が気に入ったのだ。ひと晩経ったらお前の元に返してやろう。それで良いな?」
なっ、何て言い草!? あたしを、女をいったい何だと思ってるの、コイツ!? 信じられない!!
その場に集まった人達の間にも一瞬ざわめきが広がったけど、それを口に出そうとする者はいなかった。
そりゃ、そうだよね。下手なことを口にしたら命を落としかねないもん。
みんな、自分の命が大事だ。ことの成り行きだけを見守っている。
けれど、アキレウスは違った。彼は綺麗な翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳に冷ややかな光を宿すと、一歩も引かずにこう述べたのだ。
「恐れながら……一国の後継者という立場にあられる方ならば、もう少し言葉を選ばれては? こんな公衆の面前で、『オレの後に女を愛せ。それが当然だ』と仰られては、ローズダウン国の顔に泥を塗ることになりますよ。民が在るから国が在り、国が在るから王家が存在する。国民の半数は女性であることをお忘れか? 貴方のその発言は、女性を、民を侮辱するものだ」
「何だと……?」
ぴくり、と王子の眉が跳ね上がった。
「貴様、この私を愚弄する気か!」
青(ブルー)の瞳を怒りに見開き、突然現れた無礼な一般市民を恫喝(どうかつ)する。
「先に民を侮辱したのは、貴方の方だ!」
アキレウスは怯(ひる)まなかった。凛とした姿勢で王子を見据え、譲らない。
ざわりと、辺りを埋めつくす人々の間から再びざわめきが起こった。
「こやつ……!」
王子の頬骨の辺りに力がこもり、目つきが険しくなる。
あたしはハラハラしながら、だけど奇妙な空気を感じていた。恐らく、そこにいるみんながそうだったんじゃないかと思う。
にらみ合う王子と一般市民。だけど、圧(お)しているのはアキレウスの方だ。
身分的には、圧倒的に上であるはずのこの国の王子-----けれど今、彼はその権力の刃をかざすことが出来ない。先程までの怒声も出ない。いや、出せない。
一般市民の迫力に気圧(けお)されて。
-----あぁ、何て堂々としているんだろう、この人は。
あたしは軽く目を細めた。アキレウスが眩しく見えた。
気付かなかった。こんなに存在感のある人だったなんて。こんなにも、人ごみの中で目立つ人だったなんて。
-----何だか、とても綺麗だ……。
「……れッ」
その重圧に耐え切れなくなったのか、突然王子が叫び始めた。
「黙れ黙れ黙れぇぇッ! 黙って聞いていれば、てめぇ……何様のつもりだ! オレはこの国の王子だぞ!? オレに逆らうってことがどういうことかなのか、その身体に刻んでやる-----無礼者め、そこへ直れ!」
「バケの皮がはがれたな」
冷静に、アキレウスは言った。
「最初からおかしいと思っていたが、今ので確信した」
「!?」
「ニセモノだな。お前ら」
「なッ……」
周りから、一斉にどよめきが起こった。
えっ……えぇーっ!? ニセモノ!?
「ち、違うッ! 何を根拠に、貴様! これ以上の無礼は許さぬぞ!!」
真っ赤な顔で王子がわめく。彼の従者達も、殺気立った。
「今更遅い」
アキレウスは鼻で笑った。
「品性のカケラもない言葉遣い……王子の乗っている馬にしては毛並みが悪いし、従者の着ている服もお粗末だ。第一、ローズダウン王家の家紋は四枚の翼を持つ双頭の鷹のはずだが……」
ちらりと王子の胸元に目を走らせる。そこには、外套を留める為の大ぶりの黄金のボタンがあった。
「見たところ、翼は二枚だ」
「ぐ……そ、それは仕立て屋の間違いだ……。うっかりしていたな。私ともあろう者が、気が付かなかった……」
王子は無理矢理笑顔を張り付けると、猜疑の眼差しを向ける民衆に向かってこう高言した。
「馬の毛並みや従者の服については、私が今日は忍びで来ている故、あまり目立たぬようにとの配慮だ。この者の言っていることには、根拠がない」
「ヘリクツ言ってんなよ。お忍びで来ている王子様が、こんな堂々と“王子”として歩くかよ」
「貴様……」
すう、と王子の顔から表情が消えた。
「命が惜しくないようだな」
不穏な空気が辺りを包み込んだ。それを敏感に察知した民衆が、じり、と後退る。
「王家への反逆罪は死刑だぞ」
「王家を騙(かた)るのも極刑だぜ」
アキレウスは動じない。
「国の礎(いしずえ)が何たるかも理解していないようなタマが王子じゃ、この国はオシマイさ!」
「貴様ァッ!!」
偽者達が抜刀した。
「お前らからは下品な匂いしかしねーよ!」
アキレウスも背中から愛剣を抜き放った。
翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が、好戦的にきらめく!
「死ねぇッ!」
偽王子が咆哮した。それを合図に、四人の男達が一斉にアキレウスに襲いかかる!
「うわあぁーッ、斬り合いだー!!」
「逃げろぉーッ!」
それを見て、見物人達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
「この広さで馬を使っちゃ、戦(や)りづらいぜ!」
言いながら、アキレウスは一人の攻撃を剣で受け止め、馬の腹に蹴りを入れた。
「ブルッ……」
「うあ!」
バランスを崩した男が落馬する。それを見た残りの男達は、馬から降りた。剣を構えてアキレウスを取り囲み、三方から勢いよく突きこむ!
アキレウスは姿勢を低くして身構えると、長剣を一閃させた。襲いかかる剣を頭上ぎりぎりにかわしながら、円を描くようにして、男達の膝の辺りを薙ぎ払う!
「ぎゃっ!」
情けない声を上げて、足を薙がれた男達が地面に転がる。それを見下ろすアキレウスの背後に、落馬した男が音もなく忍び寄った。
-----あ、危ないッ!
「アキレウスッ!」
あたしの声が届くより先に、忍び寄った男の身体が崩れ落ちた。アキレウスが剣の柄で男の腹部を突いたのだ。
-----すごい、アキレウス強い!
それまで呆然とその光景に目を奪われていたあたしは、その時になって、このままでは自分が彼の足手まといになってしまう可能性に気が付いた。
ピンチになったら、偽王子があたしを盾に使うのは目に見えている。
今のうちに、逃げないと……!
そっと偽王子に目をやると、彼はアキレウスの奮戦ぶりに青ざめ、小刻みに震えていた。
あたしは大きく息を吸い込むと、自分の手首をしっかりと握っている彼の手に、思い切り噛みついた。
「うあッ!!」
大きな声を上げて彼が怯んだ隙に、あたしはその手を振り払うと全速力で逃げ出した。
「こっ……小娘ッ!!」
「ナイス、オーロラ」
小さく微笑んで、アキレウスは白馬にまたがった偽王子に目を向けた。路上には、彼の四人の従者達が呻(うめ)きながらうずくまったりのびたりしている。
「さぁ、どうする」
「きっ、貴様っ……こんなことして……」
「もうすぐ騒ぎを聞きつけて警備隊がやってくるぞ。大人しく仲間を連れて逃げるか?」
「ぐ……」
すごい、一人で偽者達をやっつけちゃった。
少し離れた露店の陰から、あたしはその様子を見守っていた。
まだ心臓がドキドキしている。
ふぅ……どうなることかと思ったけど、良かっ……!
首筋に冷たいものが押し当てられたのは、その時だった。
「-----騒ぐな。殺すぞ?」
押し殺した、低い声があたしの耳元で響く。
いつの間に忍び寄ったのか、人相の悪い、大柄な男が、あたしの背後で大振りのぶ厚いナイフを構えていた。
ウ……ソ。まだ、仲間がいたの……?
全身の血が凍りつくような錯覚を覚えた。
「歩け。ゆっくりとな」
ど……どーしようっ!!
目の前では、まだこの事態に気が付いていないアキレウスが、偽王子とやり取りをしている。
「町の連中からもらった金品は返せよ」
「くっ……くそっ!」
アキレウスに言われ、偽王子が悔しそうに品物を投げ捨てようとした、その時。
「形勢逆転だ」
あたしにナイフを突き付けた男の低い声が響き渡った。
偽王子の顔が喜色に輝き、振り返ったアキレウスは顔をしかめた。
「……まだ仲間がいやがったのか」
「人生、最後まで何があるか分からんモンだぜ? 正義漢クン。この女の命が惜しかったら動くなよ」
そう言って、男はあたしの顎を上げ、その首筋にぴったりとナイフを当ててみせた。
冷たくて硬い凶器の感触が、薄い皮膚を通して伝わってくる。
「少しでもおかしな動きをしてみろ。その瞬間、この女を殺す」
刃先に少し力がこもった。浅く皮膚が傷つき、血が流れたのが目を閉じていても分かった。
「よせ!」
「まず、武器を捨てろ」
淡々と、男は言った。
「……典型的な汚いヤツだな」
アキレウスは溜め息をついた。
「捨てるんだ」
「……」
アキレウスは長剣を男の方へと軽く放り投げた。
「これでいいのか」
「剣帯も外してもらおう。あんたは腕が立ちそうだ」
「……おほめにあずかりまして」
アキレウスが剣帯を外したのを確認して、男は偽王子に声をかけた。
「ゾル。のびてるヤツを起こして馬に金品を積め」
「助かったぜ、トール」
「バカが……女に目がくらんでせっかくの計画を台無しにしやがって」
「すまね……」
「まぁ、それは後だ。長居は無用だが、儲け話をフイにされた報復はしとかねーとな……」
トールと呼ばれたリーダー格の男と、偽王子ゾルの冷たい視線が、無防備になったアキレウスへと向けられる。
「警備隊が来る前に、大人しく逃げ出したらどうだ?」
アキレウスの言葉に、トールが残酷な笑みを浮かべる。
「警備隊? そんな言葉にオレがビビると思うのか? 残念だったな……来たってこの女ぁ盾にして逃げ切ってやる」
「覚悟しろよ」
「…………」
事態はあたしのせいで、最悪の方向へ向かい始めてしまった。
どーしようッ!!