幕間U〜鋼の騎士〜

死を賭して


「ブ、ブリリアン様ぁ……!」

 これまで尽くしてきたはずの男の背が翻(ひるがえ)り、自分から遠ざかっていくその光景を目にした時、ニコラの心に走ったのは『やはり』という思いと、それに相反する『どうして』という思いだった。

 憐れっぽい自分の声だけが惨めに尾を引き、もの悲しく耳にこびりつく。

 瀕死のグルガーンにかまれたままの足は防具のおかげで喰い千切られてはいなかったが、ひどく出血しており、既に感覚がない。

 更に悪いことに、もう一体のグルガーンがこちらへ向かってくることにニコラは気が付いた。グルガーンのギラついた薄い緑色の瞳は激しい怒りに彩られており、その口元や前足は仲間達の血で赤黒く汚れている。

「ひ……!」

 ニコラは裏返った声を上げてすくみあがり、為す術もなく迫り来る巨大な死の影を見上げた。これ以上ないほどに見開かれた自身の目からとめどのない涙が溢れていることにさえ、彼は気付いていない。

 状況は絶望的だった。

 魔法の加護は既に切れ、グルガーンに足を取られたこの状態では逃げることもかなわない。しかも彼は、騎士の命たる剣を手放してしまっている。

 生き残れる可能性は、皆無だった。

 自分は、ここで死ぬ。

 ゆっくりと、冷酷に、その事実がニコラを覆っていく。

 あの爪で、生きながらにして引き裂かれるのか。あの鋭い牙でかみ裂かれるのか。

 苦痛を味わいながら、生きたまま炎で焼かれるのか。もしくは氷づけにされ、凍えながら事切れるのか。

 いずれにしても、楽には死ねないだろう。

 あまりの恐怖にニコラが意識を手放そうとした時だった。

 間近で血飛沫が上がり、生温かいそれを浴びたニコラは暗い死の淵から呼び戻された。

 気が付くと、これまで彼の足にかみついていたグルガーンの首が胴体から離れ、地面に転がっている。そして彼の傍らにはいつの間に現われたのか、魔物(モンスター)の返り血を浴びた一人の騎士が立っていた。

 その顔を見たニコラは、自身の目を疑った。

「ぺ、ペーレウス……!」

 愚民、と常日頃彼が蔑んでいた、平民出の魔力を持たない新米騎士。

 まさかこの男に助けられようとは、夢にも思っていなかった。

 何故、ペーレウスが自分を-----?

 そんなニコラの戸惑いをよそに、件(くだん)の新米騎士は彼の足を事切れたグルガーンの口から素早く解放すると、その腕を自分の肩に回らせて担ぎ起こし、この場からの退避を図った。

 それを逃がさんとグルガーンが怒りの咆哮を上げ、二人の騎士に飛びかかる!

「ひぃぃぃぃーッ!!」

 迫り来る魔物の恐怖にニコラは顔を引きつらせ、絶叫した。その眼前でグルガーンに紅蓮の炎が炸裂し、二人の騎士を窮地から救う!

「シェイド!」

 魔物の返り血に染まったペーレウスが危機を救ってくれた友人の名を叫ぶ。シェイドは続けざまに呪文を唱え、ペーレウス達が安全圏に逃れるまでの時間を作った。

「こっちだ! 早く!」

 シェイドの白魔法で回復したマルバスが声を張り上げ、ペーレウス達を手招いて誘導する。そこにはニコラのような負傷者が何人か集まっていた。

「ペーレウス、良く聞け。今はまともに動ける者が我々しかいない」

 ニコラを草の上に横たえたペーレウスに、マルバスが早口で告げてきた。

 彼の指す“我々”とは、マルバス、ペーレウス、シェイドの三名のことだ。

「退却の時機は既に逸した。我々が生き残る道は、あのグルガーンを倒す以外にない。その為にはまず奴の機動力を奪わないと話にならないが、シェイドにヤツの翼を封じてもらうとなると、私が負傷者の回復役に回らざるを得なくなる。無論回復した者から順次応援に向かわせるが、その間シェイドのサポートは、ペーレウス、お前一人で担わなければならない。負担の大きい役目だが……やってくれるか?」

 新人騎士に対する注文として無茶も甚だしいことは、マルバス自身承知の上だった。回復呪文を使えるとはいえマルバスのそれは本職の魔導士に比べて回復量も劣るし、使える呪文のレベル自体が低い。負傷者の中にも回復呪文の心得がある者は何人かいたが、皆似たようなレベルである。

 事実上、勢いのある援軍を送ることは難しい。だが、何としてもペーレウスとシェイドに踏みとどまってもらわなければ、討伐部隊はここで全滅だ。

 まさか、討伐部隊の命運そのものを二人の新人に託さねばならない事態に陥ろうとは-----マルバスの表情は沈痛そのものだ。

 ペーレウスは真っ直ぐな眼差しをマルバスに向け、きつく唇を結んで頷いた。

「やってみます」
「……頼む」

 祈るような思いで、マルバスはペーレウスを送り出した。



*



 グルガーンは魔法の耐性が非常に高い。

 シェイドの繰り出す呪文はグルガーンの足止めにはなっていたが、ダメージそのものはほとんどと言っていいほど与えられていなかった。

 翼に狙いを絞りたいところだが、避(よ)けられてしまう可能性を考えると冒険は出来ない。避けられたその瞬間にシェイドはグルガーンの犠牲となり、討伐部隊の全滅を招いてしまうからだ。その為、シェイドは的の大きな体幹を狙って攻撃を続けていた。連続での呪文の詠唱は心身に多大な負担をかけるが、応援が来るまではこのまま凌ぎ続けなければならない。

 孤軍奮闘するシェイドの元にささやかな応援が到着したのはその時だった。

「よぉ、お待たせ」
「……。正気か?」

 シェイドは瞳だけを動かして、単身現われたペーレウスを見やった。いかめしく片眉を吊り上げてみせてはいるが、内心ではそうなるだろうと予測していた。

「初任務がとんでもないコトになっちまったな。責任重大だ」

 言葉とは裏腹に、ペーレウスの口調は苦笑じみた軽いものだった。そこには慄(おのの)きも気負いも見られず、表情は一見するといつも通りのようだったが、よくよく見るとその黒褐色(セピアブラウン)の瞳は鋭さを帯びて爛々と輝き、彼が臨戦態勢に入っていることが窺える。

 目の前の戦闘をまるで心待ちにするかのように静かに昂揚するペーレウスを感じて、シェイドは自然と頬の強張りが解けるのを感じた。絶体絶命、と言っても過言ではない状況のはずなのだが、何故かこの男を見ていると理屈ではなく何とかなるだろうと思えてきて、不思議な気分になった。

 それは、この男の瞳がいつも呆れるくらい、真っ直ぐに前しか見ていないからなのかもしれない。

「だが-----生き残る気は、満々だろう?」

 会話の合間に呪文を炸裂させながら、シェイドはペーレウスにそう言った。

 こちらも表面上はひどく涼しげな顔をしているように見える。だが、怜悧(れいり)な灰色(グレイ)の瞳の奥には燃え立つような不滅の光が宿っていた。

 ペーレウス同様、こんなところで死ぬつもりなど、シェイドにはさらさらないのだ。

 だがこの時、本気で生きて帰ることを考えていたのは彼らだけだったのかもしれない。

 友人も自分と同じ思いであることを知り、ペーレウスは唇の端を上げてみせた。

「当たり前だろ。オレ達、特務神官の加護を受けているんだぜ」
「それはお前だけだろう。私はついでにお守りをもらっただけだ」

 ふん、とつれなくシェイドに鼻を鳴らされ、ペーレウスは少々面食らった。

「あ、揚げ足取んなよ! こんな時に」
「では取られるような発言は慎め」

 緊張感の欠片もないやり取りを交わしつつ、グルガーンを牽制する為再び呪文を放ったシェイドにペーレウスは問いかけた。

「シェイド、余裕はどれくらいある?」
「正直、あまり余裕はないな……お前は?」
「オレはまぁ、体力バカだから……でも一人でアイツを食い止めるとなると、呪文一回分くらいの時間を稼ぐのでギリギリってトコじゃないかな」

 それを聞いたシェイドはふっと息を吐きだした。

「魔法耐性の高い相手に、難しい注文を出してくれる……私が勤勉な男で良かったな」

 二人は視線を交わし合い、ニヤリと笑った。

「行くぜ!」
「……あぁ!」

 剣を手に、ペーレウスが駆け出す! それを見送り、シェイドは深い精神の集中下に入った。

「うおおぉぉーッ!」

 ペーレウスが気勢を上げグルガーンに挑みかかる! 振り撒(ま)かれる炎と吹雪を持ち前の素早さでかわし懐に飛び込むと、裂帛(れっぱく)の気合もろとも剣を振るった。

「-----波動衝(はどうしょう)!!」

 闘気を伴った重い斬撃を浴び、グルガーンの巨体が吹き飛ばされる!

「おおっ……!」

 思いも寄らぬ光景に、見守るマルバス達の間から喚声が上がった。

 ペーレウスは間髪入れずにグルガーンに攻撃を仕掛けたが、相手も身体を起こすのが早かった。怒号を上げ鋭い牙を剥きながら、グルガーンがペーレウスへと襲いかかる!

「くっ……!」

 ペーレウスはたちまち防戦一方を強いられた。敏捷性では相手の方が上だ。先程のように炎や吹雪を吐いてくれるならまだしも、連続攻撃となると防ぐだけで手一杯だ。双頭から繰り出される牙が、爪が、頭上から側面から容赦なくペーレウスに降り注ぐ。

「漆黒と見紛う深紅の焔(ほむら)より生まれし灼熱の牙-----」

 シェイドが自身の持つ最強呪文を朗々と唱え始めた。彼の周囲に不思議な風が巻き起こり、銀に近い長めの灰色の髪を舞い上げる。

「其(そ)の属性は破壊、司るは殲滅、我が意思に従い全てを灰燼(かいじん)に帰(き)せ!」

 シェイドの両の掌に、とぐろを巻いた巨大な炎の竜が光臨した。それを目にしたマルバスは愕然と目を瞠(みは)った。

「あれは……!」

 炎の上級呪文。

 通常、入団一年目の新米魔導士になど、到底使いこなせるレベルの呪文では、ない。

「“紅蓮牙龍焦滅(クリムゾニア)”!!」

 シェイドの手から解き放たれた紅蓮の竜が灼熱の牙を剥き、炎の気流を纏ってグルガーンに襲いかかる!

「!」

 今しもペーレウスに致命傷を負わせようとしていたグルガーンが異変に気付いた時、炎の竜は既にその眼前に迫っていた。

 ズボアァァァッ!

 灼熱の竜はグルガーンの両翼を貫通し、それを激しく燃え上がらせて、魔物の絶叫を辺りに轟かせた。

「ギャオオォォォーッ!!」
「まさか……!」
「……すごい!」

 茫然とその光景を見つめる、マルバスと負傷した騎士達。ペーレウスとシェイドの奮闘は、いつの間にか死を見据えていた仲間達に再び希望の光を見い出させた。

「我々も早く駆けつけるんだ……!」

 マルバスは声をわななかせ、きつく拳を握りしめた。

「他の魔導士達はどこだ!? このままでは回復がおぼつかない、まずは彼らを回復させねば!」

 その声に、比較的負傷の程度が軽かった者達が名乗りを上げた。

「あ……あそこに! 自分がここまで連れてきます!」
「ならば自分はあちらに倒れている者を!」

 にわかに周囲が活気づいた。草の上に横たわっていたニコラはそれにつられるようにして半身を起こし、息を吹き返した仲間達の様子を半ば茫然と見やった。

 先程までの陰鬱な重苦しい空気は、二人の新人の活躍によって払拭されていた。信じられない展開だった。

「はぁっ、はぁっ-----」

 荒い呼吸をつきながら、ペーレウスは傷だらけの身体をかばうようにして立ち上がった。目の前で、両翼を奪われたグルガーンが炎の残滓(ざんし)を消そうともがき、のたうち回っている。

「……やったな!」

 視線はそのまま、背後のシェイドにそう声をかけると、柔らかな癒しの光がペーレウスを包み込んだ。

「……どこぞの体力馬鹿が持ちこたえてくれたからな」

 そう返すシェイドの声には疲労の色が濃い。今ほどの上級呪文で彼の魔力が限界に近付いたことはペーレウスにも容易に感じ取れた。

「後はオレに任せとけ!」

 言い置いて再びグルガーンに向かっていくペーレウスの背を見送り、シェイドは涼やかな目元をふっと緩めた。

「……そういうわけにもいくまい」

 魔法の加護が自身の身体を包み込んだのをペーレウスは感じた。シェイドの守護の呪文だ。

 迎え撃つグルガーンの双頭から火炎と吹雪が繰り出される。魔法の加護でそれを正面から突破し、ペーレウスは死力を尽くして剣を振るった。手負いの魔物は怒り狂い、怒涛のような攻撃を仕掛けてくる。

 だが、ペーレウスの剣技とシェイドの呪文によるダメージの蓄積はグルガーンからそれまでの敏捷性を奪っていた。先程とは違い、ペーレウスには爪や牙をかわしながら攻撃をする余裕が生まれていた。対照的にグルガーンは次第に疲弊し、血にまみれていく。

 翼を火炎竜に穿たれ機動力を奪われたグルガーンは空に逃れることもかなわず、怒りに任せて四肢を振り回した。それをかわしたペーレウスの背後を狙って、毒針を忍ばせたグルガーンのしなった尾が飛んでくる!

「危ないッ!」

 駆けつけてきていたマルバスが、ペーレウスに体当たりするようにして地面に伏せた。身を切るような風圧を伴い、凶器を秘めたグルガーンの尾が二人の頭上をかすめていく。

「隊長……!」

 目を見開くペーレウスに、マルバスは息を切らせながらねぎらいの言葉をかけた。

「待たせたな……良く持ちこたえてくれた!」

 その声に呼応するように、次々と仲間達が駆けつけてきた。一人一人の気勢はやがて大きな喊声(かんせい)となり、戦場の森を揺るがした。

 生き残りを賭けた、凄絶な最後の応酬-----息を吹き返した討伐部隊の攻撃により窮地に追い詰められたグルガーンは、無念の尾を引く断末魔を上げながら、ついに大地に倒れ伏した。

 一度は全滅か、というところまで追い詰められた末の勝利に、大きな歓声が上がる。

 誰もが抱き合い、歓喜の声を上げて生き残れた喜びを分かち合う中、ペーレウスは一人淡然と佇んでいるシェイドに歩み寄り、白い歯を見せた。

「お前ってホンット、クールだよな。ま、お前が飛び上がって喜んでいたりすんのも、らしくねーけど」

 シェイドは軽く鼻を鳴らし、小憎たらしい表情でペーレウスにこう返した。

「お前こそせっかく生き残れたんだ、涙ぐらい流してみせたらどうだ」
「あいにく、そんなガラじゃなくてね。でも、嬉しいことは嬉しいぜ」
「……私もだ」

 互いのくたびれた姿を見やり、二人は頬を緩めると、どちらからともなく手を差し出して硬い握手を交わした。



 この日、二人は親友となった。



*



 あれほど苦境を強いられた戦闘だったにもかかわらず、討伐部隊からは一人の死者も出なかった。まさに、奇跡である。

 重傷者は多数出ていたものの、回復呪文によって皆どうにか歩ける程度には回復し、逃げ出したブリリアンを除く十四名はその日の夜、無事スワレの村に帰還した。

 討伐部隊の帰りを待ちわびていた村人達は彼らの勝利を心から喜び、すぐに村を挙げてのささやかな酒宴が催された。村の広場の中央に大きな篝火(かがりび)が焚かれ、それを囲むようにして座した討伐部隊の面々に村人達が入れ替わり立ち替わりねぎらいと感謝の言葉をかけながら酒を注(つ)いで回っている。

 皆の顔には、笑顔が溢れていた。

「みんな、割とタフだよなー。ちょっと前まで死にかけてたってのに」

 篝火を横顔に映し、その様子を眺めていたペーレウスが溜め息混じりに呟いた。その声が心なしか沈んでいることに気が付いて、シェイドは隣に座る友人の顔を見やった。

「死にかけた後の酒だ、疲れていようが怪我していようが美味いんだろう。……どうした?」
「ん……いや、ちょっと考えていたんだけどさ……。通常は単体で行動するはずのグルガーンが、どうして二体でいたんだろう。……もしかしたら、つがいだったのかな。後から現われたヤツ、最初のヤツを助けに来たみたいにも感じられたし」

 ペーレウスはうつむいて、手にしたカップの中の酒を転がした。

「……。グルガーンの生態はまだ不明とされている点が多い。何とも言えんが、もしかしたらそうだったのかもしれないな」
「……そう考えると何だかなーと思って。あいつらはただ住処を求めてここにやって来ただけで……分かっているんだけどさ、放っておいたらいつ村に被害が出るかもしれないし」
「魔物(モンスター)と違って人間は脆弱(ぜいじゃく)だ。害が及ぶ恐れのあるものを事前に排除していかなければ、生きてはいけない生物なのさ。お前がそんなふうに条理不条理を感じることはない。これは、人間という生物が生き残る為の生存競争の一環なんだ」
「……。そうだな……」

 ペーレウスはその言葉をかみしめるようにして瞳を閉じると、手元の酒を飲み干した。

「酒が入ると感傷的になるのか、お前は?」
「バカ、そんなんじゃねーよ。何となくだ。お前こそ酒が入ると優しくなるのか?」
「人が普段優しくないような言い方をするな。どこぞの体力馬鹿がらしくもなくしょげているから何となく、だ」
「別にしょげてなんかいねーっつーの」

 ペーレウスがシェイドを軽くにらんだ時だった。

「騎士様ー!」

 聞き覚えのある声に振り返ると、駆け寄ってきたコフィーとマルゴーがペーレウスの懐に飛び込むようにしてまとわりついてきた。

「騎士様、魔物をやっつけてくれてありがとう! これで安心して暮らせるって、お父さんもお母さんも喜んでたよ! ボク達も怖くなくなって嬉しい!」

 純真な子供達の笑顔を見て、ペーレウスはどこかひりついていた心がゆっくりと癒されていくのを感じた。そんな友人の様子を見て、シェイドも知らず穏やかな表情になる。

「そう言ってもらえると頑張った甲斐があったよ。……てかお前達、子供がこんな遅い時間まで起きていていいのか?」
「うん、今日はいいんだよ! 特別な日なんだって」
「とくべつ、とくべつ〜」
「……そっか」

 子供達の頭をなでていると、二人を探していたらしい父親が顔色を変えてペーレウスの元にやって来た。

「き、騎士様、すみませんっ! こらっ、コフィー、マルゴー、そんなにくっついたら失礼だろう、離れなさい!」
「ヤダーッ!!」
「いや、別にいいですよ」
「いいえ、そういうわけにはっ……ほら二人共、離れるんだっ」

 冷や汗を浮かべた父親は抵抗する二人の息子をペーレウスから引き剥がすと、深々と頭を下げた。

「この度は、本当にありがとうございました。何とお礼を言っていいのか……」
「国民の安全を守るのは、我々の義務です。今夜もまたひと晩お世話になりますし……どうか頭を上げて下さい」

 恐縮する父親にそう声をかけると、彼はほっとしたような笑顔を浮かべた。そんな大人達のやり取りなどおかまいなしに、コフィーが瞳を輝かせてペーレウスに話しかけてくる。

「みんなが怖がっていた怖い魔物をやっつけちゃうなんて、騎士様はやっぱり強いんだね! カッコいいな〜! ねぇ、ボクも大人になったら騎士様みたいな騎士になれるかなぁ?」

 するとそれを聞いた父親が幼い息子をたしなめた。

「バカ、お城の騎士になる為には剣だけじゃダメなんだ。それなりの身分と魔力が必要なんだぞ。お前には無理だ」
「えぇー……」

 コフィーが可哀相なくらい落胆した表情になる。そんな幼い少年にペーレウスは言った。

「いや、努力すればなれるかもしれないよ」
「ホント!?」
「騎士様……」

 途端に表情が明るくなったコフィーとは対照的に、父親は叶わない夢を見させないでほしい、と言いたげな表情になる。ペーレウスはコフィーに力強く頷くと、夢見る幼い少年とその父親に自分のことを少しだけ語った。

「オレもコフィーと同じ平民の出で、実は魔力も持っていないんだ。でも昔から剣が得意だったから、毎日毎日頑張って稽古に励んで、ある日剣術大会に出場したら、それが王様の目に止まって騎士にしてもらうことができた。だから、コフィーも剣の稽古を頑張り続けたら、いつか騎士になれるかもしれないぞ」

 その話を聞いた父親は非常に驚いた様子でペーレウスを見やった。

「そ、そうだったんですか……。騎士様が、あの……。あの噂話は、本当だったんですね……」

 ペーレウスは小さく笑ってそれに答えた。

「ええ。ですから、可能性はゼロではありませんよ」

 どうやらこの小さな村にも、前代未聞の異色の騎士の噂話は伝わっていたらしい。

 自分も騎士になれるかもしれないと知ったコフィーはすっかりはしゃいで、拾った木の枝を剣に見立てて弟のマルゴーと騎士ゴッコを始めている。

「ボクも、大人になったらお城の騎士になる!」
「ボクも、ボクも〜!」

 そんな様子を微笑ましく見守っていると、横合いから突然太い腕が伸びてきて、強引にペーレウスの肩を抱き込んだ。見ると、すっかり出来上がったらしいマルバスがどこからか持参した酒を片手に、酌をしに来ている。

「おぅ、ペーレウス、シェイド! お前ら、酒は飲んでいるのかー!?」
「た、隊長……飲んでいますよ」
「あん!? 飲んでるって……お前、器が空じゃねーか! ほれ、オレが注いでやる! 飲め飲めぇ!」

 マルバスはろれつの怪しくなった大声でがなりながら酒の入った容器を傾けると、カップを持ったペーレウスの手をびしゃびしゃにしながら酒を注ぎ、こっそりと距離を置きにかかっていたシェイドに赤ら顔を向けた。

「シェイド、お前はどうだ!?」
「……いえ、私はまだ入っていますのでお気遣いなく」

 酒の入ったカップを見せ、障りなく断ろうとしたシェイドだったが、酔っ払ったマルバスには通じなかった。

「あん!? 半分しか入ってねーじゃねーか! こんな夜に遠慮するな、さぁ飲め飲めぇーい!」

 結局強引にマルバスに酒を注がれ、シェイドもペーレウス同様酒で手を濡らすこととなってしまった。それを見て忍び笑いをもらすペーレウスを、シェイドが憮然とした面持ちでにらみつける。

「ったくお前ら、今日の主役がこんな隅っこでちびちび飲んでいるな! ここにいる奴らはもう、お前らのことを認めているんだ……お前らがいなければ、オレ達は今日、この酒を飲むことが出来なかった……まったく、新人とは思えない凄い奴らだよ!」

 酒が入って上機嫌のマルバスは新人二人の間に居座り、時折左右の腕で二人の背を叩きながら、終始饒舌に語っていた。

 やがてマルバスが酔い潰れ、辺りにいびきが響き始めた頃、さんざん飲まされて少しだけ酔いが回ったペーレウスは苦笑混じりに夜空を見上げた。

「何だかんだで、やっぱ疲れたな……シェイド、王都に戻ったら何したい? オレはとりあえずシャワーを浴びてゆっくり寝たいな……。あと、テティスの顔が見たい。お守りの効果があったってことを伝えたいんだ」

 素直なペーレウスの言葉を聞いて、シェイドは伏し目がちに小さく笑った。こちらもさんざんマルバスに飲まされた為、切れ長の瞳がわずかに熱を帯び、ややしどけなくなった珍しい姿を晒している。

「したいようにすればいい-----私はそうだな……レントール地方にある別荘に行ってくつろぎたい、というのが本音だが、修行中の身としてはそうもいかないだろうから、やはり身を清めて心ゆくまで眠りたい、というところかな」

 ペーレウスは頭の中にぼんやりとドヴァーフの地図を思い浮かべた。

「レントールって……ウィルハッタ寄りの地方だっけ?」
「あぁ、そうだ。父が亡くなった母の為に建てた別荘があるんだが……静かで、風景の美しいところでな。幼い頃、そこで鳥の声や涼やかな風を感じながら本を読むのが好きだった……魔導士団に入るまではちょくちょく行っていたよ。環境がいいから勉強をするにも最適だった」
「へぇ……」

 ペーレウスは相槌を打ちながら、シェイドの言葉の中に滲んだ特別な想いのようなものを感じ取っていた。

 シェイドの母親は五年前に病気で亡くなったと聞いている。彼女の為に建てられた別荘があるということはランカート夫妻の夫婦仲は良かったのだろう。実際、ランカート卿はその後新しい妻を娶(めと)らずに現在も独身でいる。

 もちろん、シェイドにとっても母親は大切な存在だったに違いない。レントールの別荘はそんな思い出が詰まった特別な場所なのだろう。その思いがシェイドの口調を優しくしているのだ。

「別荘、か。いいなぁ。お前がそんなふうに言うってことは、相当いいところなんだろうな」
「機会があったら来てみるといい。ただし、風景の美しさといった環境は保障するが、別荘のある場所は人里離れた深い森の奥、小高い丘の上だ。周りには何もないからな。お前には退屈かもしれんぞ」
「オレ、こう見えてものんびりするのって結構好きなんだぜ。そんなトコなら今行きたい気分だなー。綺麗な景色でも眺めながら、ゆったり手足を伸ばしていつまでも眠っていたい……」

 言いながら大きく伸びをしたままゆっくりと背を倒し、ペーレウスはその場に大の字になって寝転がった。視界を埋め尽くす広い夜空が、まるでこちらに迫ってくるように見える。

「そういうことなら、まぁ、そのうち来てみろ」

 ペーレウスの視線を追うようにして、シェイドも夜空を仰ぎ見た。

 初めての魔物討伐-----傍らの友人と共に任務を果たし、生き残ってこの目で見た今日の夜空を生涯忘れないだろうと、シェイドは心の中で思った。
Copyright© 2007-2016 Aki Fujiwara All rights reserved.  designed by flower&clover