指揮官を務める百騎隊長マルバス以外は、いずれも入団三年以下という若い顔ぶれだ。その中でも今回が初の魔物(モンスター)討伐となるペーレウスとシェイドはヒヨコ扱いで、スワレに向かう道中、他の面々から「ビビるなよ」などとさんざん揶揄された。これは新人の通過儀礼のようなものだが、ブリリアンと彼の取り巻きであるニコラ、ポールの三人の口舌は、揶揄を通り越して悪意の塊以外の何物でもない。彼らは何かと絡んできてはペーレウスを嘲笑うのだった。
それが日常茶飯事になってしまっているペーレウスは、体力の無駄と言わんばかり涼しい顔で基本的に無視を決めこんでいるのだが、そうではないシェイドは苛ついて仕方がない。友人が騎士団でどれだけ冷遇されているのか、話に聞いて知ってはいたが、それを実際に目にするのとではまた勝手が違う。
友人に対する悪口雑言を腹に据えかねたシェイドが口を挟むと、ブリリアン達は決まり文句のように冗談だ、本気になるなと言って笑いながら彼らから離れていくのだった。宰相ランカートを父に持つシェイドと事を構える気はないらしい。
他の騎士達はそんな彼らの様子を遠巻きに見守っている感じだった。触らぬ神に祟りなし、といった風情だ。
指揮官のマルバスはメンバー達のそんな状態に早くも頭を悩ませていた。
ペーレウスに対するブリリアン達の行き過ぎた態度は騎士団の上層部でもちょっとした問題になっていた。入団当初はさておき、ここ最近になって彼らの間ではペーレウスの評価を見直す動きが出始めていたのだ。魔力の有無は別にして、有能な人材をいたずらに潰してしまうのは彼らにしても本意ではない。何より、国王直々に入団させた騎士という手前もあった。
マルバスの上長にあたる千騎隊長は、この問題児達にひとつの任務を課しそれを共に成し遂げることで、何とか彼らの間に仲間意識を持たせられないものかと考えたらしい。その結果が今回の人選となったのだが、それを任されてしまったマルバスは貧乏くじを引いた格好となった。
ペーレウスを敵視するブリリアン、ペーレウスの友人であるシェイド、共に有力貴族の子息なのだ。扱いが非常に難しい。
自分の胃が果たして任務完了まで持つのかどうか、マルバスは非常に心配だった。
「そうカッカするなよシェイド。見かけによらず意外と熱いんだよな、お前って」
ペーレウスが馬上から、隣を並走するシェイドに声をかけてきた。他人事のような言い方をする当事者の騎士に、見た目はクールな魔導士はむっつりとした顔を向けた。
「私はああいう馬鹿者が嫌いなんだ。己の実力も省みず、偉そうに大きな口だけは叩く。あいつを見ていると、まずは自分を知れ、と怒鳴りつけたくなる。……お前は意外と冷静なんだな。入城当初はケンカっ早く見えたものだが」
「この半年で大人になったんだよ、オレ。毎日あんなだからさ、まともに相手してたらやってらんねーって」
それに、と続けて、ペーレウスはニカッと笑った。
「今日は、お前が代わりに怒ってくれるからな」
子供のようなその表情に、シェイドは怒りに強張っていた頬を緩めると、ひとつ息をついた。
「いつものことで面倒くさいんだろうが、お前も少しは言い返せばいいだろうに……騎士としての魔物討伐は初めてだろうが、それ以前の実戦経験はあるんだろう?」
「ま、以前は傭兵稼業みたいなコトしてたから、それなりにな。でもグルガーンと戦うのは初めてだ」
「グルガーンについては指揮官以外は皆同じことだろう。あの馬鹿よりお前の方が腕も経験も上なのは明らかだ。なのにそれに気付きもしないあの馬鹿っぷりが腹立たしいんだ……私は」
憤然と唸るシェイドを見やり、ペーレウスは小さく吹きだした。
「だから“馬鹿”なんだろ?」
そう言って肩を揺らす彼に、シェイドもつられて相好を崩した。
「-----違いない」
*
一行はその日の夕刻、無事スワレに到着した。
王城からの討伐部隊を心待ちにしていた村の人々は、彼らを歓迎して出迎えた。
滞在中は、村民達が討伐部隊の面々の食事や寝床の世話をする決まりになっている。割り振られた各戸に荷物を置き、村長の屋敷に全員が集まると、さっそく明日のグルガーン討伐について作戦会議が開かれた。
スワレの北にある森の中に、グルガーンは一ヶ月ほど前から住み着いたらしい。猟場が荒らされ、薬草や木の実なども採りに行けなくなり困っているのだと、村長は切実な表情で指揮官のマルバスに訴えた。彼らが何より危惧しているのは、グルガーンの矛先がいつ村に向かうかもしれないという点だった。
「あんなに大きくて恐ろしい魔物(モンスター)がこの辺りに出たことなど、これまでなかったものですから……皆、ひどく怯えております」
「それは、双頭の猫のような体躯をした魔物で間違いありませんね?」
確認をするマルバスに村長は頷いた。
「ええ、私自身はチラッとしか目にしていませんが、確かにそのような外見をしていたと思います。皆の話を総合しても、それで間違いないかと……。魔物の目撃が相次いでいるのはこの付近でして……」
卓上に広げられた森の地図のある場所に村長は印をつけた。
それは森のやや北西、近くに小川の流れる扇状の一角だった。
この場所までのおおよその所要時間等幾つかの確認事項を取り交わした後(のち)、明日の討伐計画の最終的な打ち合わせを済ませ、マルバスが明朝の出立を言い渡して、一同は解散となった。
「じゃ、シェイド、また明日な」
「あぁ、また明日」
シェイドらと別れたペーレウスは一人、今晩世話になる民家へと足を向けた。
「お疲れ様でした、騎士様。狭いところですが、さぁどうぞ」
ペーレウスを迎え入れてくれたのは、三十代の夫婦と二人の男の子の四人家族だった。子供達は全身鎧(バトルスーツ)に身を包んだペーレウスを物陰から興味津々の眼差しで見つめている。
「お世話になります」
折り目正しく頭を下げるペーレウスに、夫婦は恐縮した様子で礼を返した。
「すぐに食事をご用意致しますね」
「ありがとうございます」
用意された部屋で鎧を脱ぎ、身軽になったペーレウスが案内された居間のテーブルに着くと、すぐに温かい食事が並べられ始めた。
「こんな田舎料理ばかりですみません。お口に合うといいんですけど……」
そう言って出された湯気の立つ温かい手料理は、ペーレウスにはなじみのものが多かった。ドヴァーフの庶民の代表的な家庭料理だ。
だが、肉もあり、魚もある。わざわざ王宮から魔物退治にやってきた騎士の為にこの夫婦が奮発してくれたことが分かり、その心遣いにペーレウスの顔はほころんだ。
「すごく美味しそうだ……いただきます」
笑顔で箸を進めるペーレウスを見て、緊張した面持ちだった夫婦がホッとした表情になった。
久し振りの庶民の味……王宮の食堂の味も悪くはないが、やはり自分にはこちらの方が合っている、ペーレウスはそう実感した。
そういえば、シェイドはこういう料理を見るのも食べるのも初めてではないだろうか。それどころか、彼はこういった庶民の家に足を踏み入れること自体が初めてなはずだ。
あいつ、今頃どうしているかな?
懐かしい味を満喫しながら、別の民家で世話になっている友人のことをペーレウスは思いやった。
指揮官のマルバスやブリリアン達三人は作戦本部の置かれた村長の家で世話になっているはずだ。王宮での食事と同じようにはいかないだろうが、それなりの歓待を受けているに違いない。
出立前、マルバスはシェイドにも村長の家で世話になることを勧めていたのだが、特別扱いを嫌うシェイドはそれを断っていた。
こういう料理が、あいつの口にも合うといいな……。
大貴族の嫡男らしからぬ友人のことを考えていると、いつの間にやらテーブルの側に寄って来たこの家の子供達が、おっかなびっくりペーレウスに話しかけてきた。
「……美味しい? 騎士様」
「こらっ、コフィー」
慌てて諫めようとする父親を穏やかに制し、ペーレウスは子供達に笑顔で答えた。
「あぁ、美味いよ。お母さん、料理上手だな」
台所に立つ母親が頬を赤らめる。子供達は瞳を輝かせて、椅子に座るペーレウスを左右から挟みこんだ。
「でしょ? ボクね、これとこれ、好きなんだ」
「ボクはこれ!」
「あぁ、確かにみんな美味いな。でも、その中でもオレはこれが一番好きかな」
客人の騎士が自分達と話をしてくれる人物であることが分かった子供達は、興奮しきりになった。ひやひやと落ち着かない様子の両親のことなどおかまいなしに、次から次へとペーレウスに質問をぶつけてくる。
「ねぇ、お城ってどんなところ?」
「王様ってカッコいい?」
「騎士様はどのくらい強いの?」
途切れることのない質問攻めに、しばらく黙って見守っていた父親がたまらなくなった様子で子供達を制止にかかった。
「こら、コフィー、マルゴー。いい加減にしなさい、騎士様はお疲れなんだ。それに、騎士様は明日の朝、我々の為に魔物を倒しに行かないといけないんだぞ。ほら、もう寝なさい」
父親にそう諭されて、子供達はしぶしぶながらペーレウスの側を離れた。
「騎士様、明日また会える?」
「ああ。明日、とは言い切れないけど、魔物を倒した後、もうひと晩この家でお世話になってから城へ戻る予定だから、また会えるよ」
それを聞いた子供達は無邪気に喜びの声を上げた。瞳を細めてそんな彼らを見やりながら、ペーレウスは密かに気を引き締め直した。
このささやかで幸せな生活を守れるかどうかは、明日の自分達にかかっているのだ。
*
明朝、朝日が昇る頃に一行は北の森を目指し、スワレの村を出立した。
村に馬を置き、北の森までは徒歩での移動である。
「シェイド、昨日は眠れたか?」
隣を歩く友人にペーレウスが尋ねると、彼は後ろでひとつに結わえた銀に近い長めの灰色の髪を揺らしながら頷いた。
「あぁ、寝れた」
「お前さ、ああいう庶民の家に泊まるのって初めての体験だったろ? どうだった?」
「貴重な体験だった。何もかもが目新しくて新鮮だったよ。ある程度の知識はあったつもりだったが、百聞は一見にしかず、だな。良い勉強になった」
「料理はどうだった? 多分、食べたことのないモンばっかだったよな?」
ペーレウスは昨日少し気になったことを聞いてみた。シェイドにとって、庶民の家庭の味はどうだったのだろう?
シェイドは秀麗な顔をペーレウスに向け、いつもと変わりのない口調でこう答えた。
「初めて食すものばかりだったし、味付けもこれまでに味わったことのないものだったが、なかなかいけたよ。何というか……素朴で優しい味だった」
それを聞いたペーレウスは、何だか無性に嬉しくなった。
「……へへ、そっか」
「? 何をそんなに喜んでいるんだ?」
「べっつに。うーし、気合入れていくぞ!」
何とはなしに気分が高揚してくる。そんなペーレウスの気勢を削ぐような声が後ろからかけられたのは、その時だった。
「何をはしゃいでいるんだ? 魔力を持たないヒヨコ……はしゃぐのは貴様の勝手だが、私達の足だけは引っ張らないよう心がけろよ」
ペーレウスはげんなりしながら、朝から嫌味全開のブリリアンを振り返った。
「自分の仕事はキチンとやりますよ。まずはそれを見てからにしてもらえませんか?」
うっとうしい輩とはなるべく会話をしたくない。とりあえず、今回の目的を果たすくらいまでは。
儀礼的に言葉を返すに留め、後は無視をすることに決め込んだペーレウスをブリリアンは大仰に嘲笑った。
「おぉ、これはこれは。庶民出の騎士様は大層な自信がお有りのようだ。私如きの忠告など必要ないと仰られる。いやいや、恐れ入りますな」
取り巻きのニコラとポールがこれまた大げさに悪意のこもった嘲笑を向ける。
何が忠告だ。ペーレウスが心の中でそう毒づき、シェイドの両眼が鋭くなった時だった。今回の任務で初めて、マルバスからブリリアン達に叱責の声が飛んだ。
「おい、そこ! これから任務に入ろうという時に、わざわざ新人をからかってチームワークを乱すような真似はするな!」
年長者のマルバスはこれまでの経験から、仲間内に生じた小さな綻びが大きな亀裂へと転じる怖さを知っていた。何より今回彼の指揮下にあるメンバーは皆若く、経験が未熟な者達ばかりである。
部下達の力量とグルガーン一頭の実力を鑑(かんが)みると、充分に事足りる戦力であるとは思っているが、経験が未熟な者達は得てして突発的な事態に弱いものだ。想定外のことが起こった場合、驚くほど脆(もろ)く崩れてしまったりすることもざらである。
それを未然に防ぐのが仲間同士の信頼であり、チームワークだ。
任務遂行の直前であるだけに、今のブリリアン達の挑発はいただけない。このような言動に出てしまうこと自体、任務を軽視していると言っているようなものだ。
グルガーンは侮れない魔物(モンスター)だ。今回の討伐メンバーの中で唯一グルガーンとの戦闘経験があるマルバスは、この魔物の手強さを知っているただ一人の人物でもあった。
マルバスから思わぬ注意を受けたブリリアンは憮然とした顔になったが、特に口答えすることもなく、この場は素直に上官に従った。
マルバスがそれに内心ホッとしたのは言うまでもない。
*
森に入った一行は太陽が中天に昇る前、問題の場所にたどり着いた。
地図に示された森のやや北西、近くに小川の流れる扇状の一角だ。
周囲を見渡してみると、生い茂る草は随所が蹂躙(じゅうりん)され、木々はところどころ薙ぎ倒されたようになっており、小川の周辺には大型の肉食獣のような足跡がいくつも確認できた。村長からの情報どおり、グルガーンはこの辺り一帯を根城にしているらしい。
グルガーンは体長五メートルほどの猫のような体躯をした双頭の魔物(モンスター)で、一方の頭からは火炎を吐き、もう一方からは吹雪を吐く。その背には翼があり、しなやかな尾の先には猛毒の針を忍ばせている。魔法の耐性が強く、魔法攻撃による大きなダメージを与えることは見込めない。だが、自前の翼で飛ばれてしまっては剣による攻撃も届かない。
その為、まずは魔法でグルガーンの翼を封じる必要があった。その後(のち)騎士が攻撃の主体となり、魔導士は後方支援に回って双頭から繰り出される火炎と吹雪を防ぐ。それが今回の作戦概要だった。
魔法で気配を隠し小川近くの茂みの中に身を潜めながら、ペーレウスは近くにいる友人の様子をそっと窺った。
ペーレウスとは違い、シェイドは今回が正真正銘の初陣だ。にもかかわらず、その整った顔には微塵の気負いも後(おく)れも見られなかった。いざという時はフォローをと考えていたペーレウスだったが、どうやらいらぬ心配だったようだ。
どれくらい待機していただろう。
「……来たぞ」
押し殺したマルバスの声と共に小川の対岸の茂みが揺れ、グルガーンがその姿を見せた。
ターゲットを肉眼で確認した面々から、微かに息を飲むような気配がもれる。
やはり単体だ。だが、赤茶色の体毛に覆われた体躯は思ったよりも大きく見える。
グルガーンは薄い緑色の瞳を細め、小川の水を飲み始めた。マルバスの合図を受け、シェイドを始めとする魔導士達が低い声で一斉に呪文を唱え始める。
グルガーンの三角の耳が異変を察知し、せわしなく動いた。水面から顔を上げ威嚇の唸りを上げる魔物に、魔導士達の攻撃呪文が襲いかかる!
「“風刃乱舞(セラフィエラ)”!」
「“氷槍穿孔(フリズフォレア)”!」
静かな森に衝撃音が響いた。魔法攻撃の急襲を翼に喰らい、苦痛の咆哮を上げたグルガーンの身体が傾(かし)ぐ。だがその翼はまだ原型を留めていて、飛行能力を奪うには至っていない。魔法耐性の強い相手に、シェイド達は間を置かず再び呪文の詠唱に入った。
ペーレウス達は息を詰めてその光景を見守っていた。こうしていると、同じレベルの魔法でも使い手によって威力が異なるのがよく分かる。シェイドの放った風の呪文は誰よりも深い傷をグルガーンに負わせていた。
「“風刃乱舞(セラフィエラ)”!」
鋭い音を立ててシェイドの二撃目がグルガーンの片翼を切り裂いた。
「行くぞッ!」
マルバスの合図を受け、騎士達が一斉に茂みから飛び出す!
「天と地のあまねく精霊達よ、我らが盾となり給(たま)え! “護法纏(ガー・ロン)”!」
魔導士の唱えた淡い光を放つ魔法の加護が騎士達を包み込む。
「うおぉぉぉーっ!」
気勢を上げ、騎士達がグルガーンに肉薄する! 手負いの魔物は怒り狂い、火炎と吹雪の洗礼を突然の襲撃者達に浴びせかけた。
「くっ!」
「うぉっ……!」
「恐れるな! 我々には魔法の加護がある!」
マルバスが最前線で剣を振るいながら声を張り上げる。
「囲め! 一気に叩くぞッ!!」
十名の騎士が事前に定められた持ち場へ散り、グルガーンを取り囲む。ペーレウスの位置は魔物の正面に立ちはだかるマルバスの右隣だ。彼を挟んだ反対側にはブリリアンがいる。
正面組の主な役割はグルガーンの注意を引きつける陽動だ。機知と実力が要求される危険な役回りだが、マルバスはそこに敢えてペーレウスとブリリアンを持ってきた。
迷いがなかったと言えば嘘になるが、剣術大会の結果からもペーレウスの技倆(ぎりょう)は推し量って然(しか)るべしだったし、ブリリアンも城内に勤める兄達と違い騎士団に身を置くだけのことはあって、剣の腕前はそこそこだった。
問題児の二人を手元に置けばマルバス自身フォローに入りやすいし、何より互いの働きぶりを目にすることで彼らが認め合えれば、という目算もある。
そして今のところ、二人はマルバスの期待に応える奮戦ぶりを見せていた。いや、ペーレウスに至っては期待以上か。
-----これほど、とは……。
マルバスはペーレウスの戦いぶりに舌を巻いた。
荒削りな部分もあるが、彼の剣技には見る者を惹きつける強烈なオーラがあった。重心が非常に安定していて、どんな体勢からでも繰り出される剣は見ていていっそ爽快だった。鍛えこまれた柔軟な筋肉がそれを可能にしているのだろう、フットワークも非常に軽快だ。戦闘のセンスは天性のものと言えるのだろう。剣の狙いは正確で早く鋭く、相手に与えるダメージは深く重い。
剣を振るうペーレウスの姿は言い知れぬ底の深さをマルバスに感じさせた。
「隊長、とどめは私に刺させて下さい!」
同じものを感じたのか、ブリリアンが荒い呼吸をつきながらマルバスに訴えてきた。その顔にはあせりと負けん気とがありありと浮き出ている。
騎士達と魔導士達の連携攻撃を受け、対象はもはや陥落寸前だった。全身血にまみれ、振り回す四肢の動きはひどく鈍い。
「任せる、やってみろ」
マルバスはブリリアンの申し出を許可した。彼にも先輩騎士としての意地があるのだろう、今後の人間関係を円滑にする為にもここはブリリアンに譲った方が良い、そう判断した。
グルガーンが弱々しい声を上げ、地響きと共に大地に倒れこむ。
「よぉし、とどめだ!」
ブリリアンが大きく剣を振りかぶったその刹那、ペーレウスは全身に冷水を浴びせられたような錯覚に囚われた。第六感。そうとしか呼びようのないモノが、反射的に彼を突き動かす!
「-----危ない! 退避しろッ!!」
ペーレウスが振り返って叫んだ次の瞬間、大気を震わせ、討伐部隊の背後から紅蓮の炎が襲いかかった。
「うあぁッ!」
「ぎゃあーッ!」
思いも寄らぬ方向からのまさかの襲撃に、後方にいた二人の魔導士が炎に巻かれ悲鳴を上げる。直後、背後の森を割って一体のグルガーンが飛び出してきた。これまで対峙していたグルガーンよりもひと回り大きい。
「もう一体、だとッ……!?」
マルバスが呻(うめ)くようにして、大きく目を剥く。
新たに出現したグルガーンは怒りの咆哮を上げながら、今しも同族にとどめを刺そうとしていたブリリアンに襲いかかった。
「わっ、ひっ……!」
突然の事態にブリリアンや他の騎士達は硬直し、とっさに反応することが出来ない。彼を突き飛ばしてその窮地を救ったのはマルバスだった。
「避(よ)けろッ!!」
叫びながら躍(おど)り出たマルバスの側面に、鋭利な爪の光るグルガーンの前足が振り下ろされる! 重い衝撃音が響き渡り、派手に跳ね飛ばされたマルバスは地面の上にもんどりうって転がった。
「隊長ッ!!」
ペーレウスがマルバスの元に駆け寄る。マルバスの全身鎧(バトルスーツ)の胴体部分は大きくひしゃげ、兜は衝撃で弾け飛んでしまっていた。大地に叩きつけられ際に切れたらしい唇から血を流しながら、マルバスはかすれた声でペーレウスに訴えた。
「じっ……陣形を崩すな……! 私に構わず、戦え……!」
だが、その時既にマルバスが案じた陣形は崩れてしまっていた。予想だにしなかったもう一体のグルガーンの登場と指揮官の負傷で恐慌状態に陥った騎士達は、この状況をどうにかしようとめいめいに剣を振るっている。
それを目にしたマルバスは短く舌打ちしながら、苦しい息の下からペーレウスに指示を出した。
「くそっ……! まずは陣形を立て直すんだ、あいつらにそう伝えろ!」
「分かりました……!」
頷いて背を翻しながら、ペーレウスは目でシェイドを探した。マルバスはおそらく肋骨を痛めている。白魔法による手当てが必要だった。
シェイドはグルガーンから離れたところで炎に巻かれた魔導士達の救護に当たっていた。幸い魔法によって二人共回復したらしく、自力で立ち上がったところだった。
視線が交わった瞬間、シェイドにはペーレウスの意図が通じたらしい。軽く頷いて、マルバスの元へと向かった。
こんな時だが、ペーレウスは察しの良い友人に軽い感動を覚えた。おかげで時間のロスが稼げた。
戦いの只中にペーレウスが駆け戻った時、騎士達は誰もが何かしらの傷を負い、疲弊していた。つい先程までとはうって変わった状況だ。敵は単体という認識だった為、最初のグルガーンに十の力をつぎ込んでしまったことも大きく影響している。
「落ち着いて! まずは陣形を立て直すんだ……!」
周囲を見回し大声で訴えるペーレウスの声を聞き咎めたブリリアンがかみついてきた。
「愚民がッ……誰が貴様の指図で動くか!」
「私の指示じゃない、隊長の言葉ですッ!」
「なら私が皆に伝えるッ! 貴様は引っ込んでいろ!!」
ペーレウスは怒鳴りつけたくなる衝動を抑えつけ、ぐっと言葉を飲み込んだ。
今は言い争いをしている場合ではない、生き残る為に、勝ち残る為にはこれ以上後手に回るわけにはいかなかった。キチンと指揮を執れるのであればそれがブリリアンでもかまわない。
だが、その短いやり取りは致命的だった。伝達が定まらず騎士達が右往左往している間に、グルガーンは思う様猛威を振るった。
数人の騎士が重傷を負って倒れ、大地を朱に染める。生臭い血の匂いが辺りに立ちこめ、討伐部隊の士気がにわかに下がったのが肌に感じられた。
「陣形を立て直せ! 魔導士団は魔法で奴の翼を封じろ!」
ブリリアンが声を張り上げ、騎士達が我に返ったようにグルガーンの周囲を取り巻こうと走り出すが、咆哮する魔物の迫力に気圧され、その動きには先程までのキレが見られない。
魔導士達も攻撃魔法を繰り出すが、グルガーンは素早い動きでそれらをかわし、空中へと飛び上がった。そして火炎と吹雪を繰り出しながら大地へと急降下し、鋭い爪で人間達へと襲いかかる!
「ぎゃあぁぁーっ!!」
魔導士の一人が血を吹き上げて崩れ落ちる。
これを皮切りに討伐部隊は総崩れとなった。グルガーンのスピードのある攻撃に翻弄され、刻一刻となし崩し的に被害が広がっていく。
「くそっ……! 何をしている、まずは魔法で奴の翼を封じるんだ!!」
ブリリアンは唸りながら檄を飛ばすが、それが叶わないまま戦局は敗色の色合いが濃厚になっていく。
「ま……まさか……こんなはずは……!」
ブリリアンは青ざめ、茫然と目の前の展開を見つめた。
つい先程、勝利はすぐ目の前、この手の届くところにあったのだ。自分は魔物の首を落とし、今頃は右手の剣を高々と掲げているはずだった。
-----なのに、これはいったい、どうしたことだ。
「ぎゃあーっ!」
ブリリアンの側でまたひとつ、悲鳴が上がった。
見ると、ニコラが最初のグルガーンに片足をかまれ、もがいている。瀕死のグルガーンはまだ息絶えておらず、もう一体のグルガーンの攻撃を逃れてきたニコラが不用意に近づいた際、かみついたらしい。
「ブ、ブリリアン様、助けて……!」
完全にパニックに陥ってしまったニコラは剣を放り出し、グルガーンからどうにか逃れようと、地面に這いつくばって惨めにもがいている。
「ニコラ……!」
ブリリアンは剣を手に取り巻きの元へ駆け出そうとしたが、そちらにもう一体のグルガーンが向かうのを見て、動きを止めた。
「ブリリアン様……!」
憐れな取り巻きが腕を伸ばして助けを求めている。
「あ……」
かすれ声を上げ、ブリリアンは硬直した。
身体が、動かない。
血を流して大地に横たわる仲間達。負傷に喘ぎ、呻く者達。
彼の眼前に広がっているのは、この世のものとは思えない、悪夢のような光景だった。
ブリリアンは眩暈を覚えた。これまで全く意識したことのなかった自分の“死”が、生々しく現実味を帯びて急激に目の前に迫ってくる。
討伐部隊はもはや退却の機会を逃がし、壊滅的なダメージを被っていた。
「ブリリアン様ぁ……!」
今やブリリアンには、助けを求めるニコラの声が自分を冥界へと誘(いざな)う死神の声に聞こえた。
-----ニコラの為に、この私が死ぬのはゴメンだ……!
次の瞬間、ブリリアンは背を翻し、走り始めていた。
彼は、仲間を見捨てて一人、戦場から逃げ出したのである。