ドヴァーフ編

新しい風


 ドヴァーフの王都を襲った、悪夢のような魔物(モンスター)達の襲来から三日。

 街には大きな爪跡が残り、かけがえのない多くの犠牲を払うことになったけれど、王城はどうにか陥落の危機を免れ、人類の殲滅に拍車が掛かる事態だけは回避することが出来た。

 レイドリック王によって結界が張り直され、復興の鎚(つち)の音が街のあちらこちらから響く魔法王国の王都は、今、新たな再生への一歩を踏み出そうとしている。

 王城の客室から窓辺に寄りそうようにしてその光景を眺めながら、あたしはこの数日間のことを思い返していた。

 アキレウス達の話から、あたしはそれまでその名さえ掴めていなかった全ての元凶が『ルシフェル』という存在なのであり、今回の件はその配下である『四翼天』の一人、セルジュの主導で行われたのだということを知った。

 そのセルジュっていうのが多分、圧倒的な力を感じたあの時の少女なんだと思う。

 そしてそのセルジュにシェスナと呼ばれていたあの占い師-----彼女が今回の計画に加担することになった経緯-----『紅炎(こうえん)の動乱』にまつわる話を、聞いた。

 彼女とアキレウスのお父さんとの意外な繋がりには、驚くと共に運命の皮肉のようなものを感じずにはいられなかった。あたしがそうなんだから、アキレウスはもっと深い因縁めいたものを感じたのに違いない。

 彼女の取った行動は決して許されるものではないけれど、その背景を慮(おもんばか)ってみると同情すべき部分もあって、あたしは複雑な想いを抱いた。

 人の取る行動には必ず理由があって、それに至る経緯にはいくつもの複雑な事情が絡んでいるものなんだ。

 その時、控えめなノックの音が響いた。

「はい?」

 返事をするとドアノブが回って、そこからアキレウスが顔を覗かせた。

「具合はどうだ?」

 目を覚ましてからというもの、この部屋を訪れる人はみんな似たようなことを言ってから入ってくる。

「もう平気だよー。みんな口をそろえてゆっくり休めって言うから、おかげさまでこの三日間、ほとんど部屋から出ていないもん」
「あの姿を見ちまったらなー……誰でもそう言いたくなるって」

 あの日、アキレウスに抱きかかえられてあたしが戻った時、竜の血にまみれぐったりとしたその姿を見て、ガーネットは悲鳴を上げ、パトロクロスは蒼白になり、フリードやレイドリック王達は呼吸を止めて固まった。

 限界を超えた魔力の放出と被膜によるダメージで極限まで痛めつけられたあたしの肉体はいわゆるショック状態に陥っており、そこに竜の攻撃による負傷なんかも加わって、実際ひどく危険な状態だったんだそうだ。アキレウスがあの時、ドヴァーフで買った液体版の体力も回復させる傷薬を飲ませてくれなければ、本当に死ぬところだったらしい。

 レイドリック王の手配によりお城の宝物庫から特別に提供されたエリュシオールという秘薬を飲まされたあたしは、そのまま浴室に運び込まれ、侍女達の手によって汚れた身体を丁寧に洗われた後、清潔な衣料を提供され、客室のベッドへと移されて丸一日、昏々と眠り続けたんだそうだ。

 その辺りのあたしの意識はところどころ飛んでいて、正直ほとんど覚えていない。

 覚えているのは……。

 あたしはチラッとアキレウスを見やり、思わず彼の唇に目が行きそうになって、慌てて不自然に視線を逸らした。

 あれは救命処置だったんだから、とどんなに自分に言い聞かせても、まほろばの森での出来事を思い出してしまったこともあって、顔が熱くなるのは止められない。

 そんな自分ををごまかすかのように、あたしはどもりながらアキレウスに話しかけた。

「そ、そうだ。光の園のみんなに会いに行ってきたんだよね。どうだった?」

 パトロクロス達の誘導でドヴァーフの有力者の屋敷に避難していたグレイスと子供達に、アキレウスは今日ラァムと一緒に会いに行ってきたはずだった。

「みんな無事だったよ。そう聞いてはいたけど……実際に顔を見て、安心した。園長(マザー)がパトロクロスとガーネットにスゴく感謝していたよ。時間さえ許されれば直接会って礼が言いたいって言っていた」

 そう語るアキレウスの表情は安堵に満ちていて、とても優しかった。

「そっか。良かった」

 微笑んでそう言うと、アキレウスは一瞬沈黙した後、翳りを帯びた眼差しをあたしに向け、口を開いた。

「……ラァムを園長(マザー)に預けてきた。本当はまずオーロラにキチンと謝らせるべきなんだけど、精神的にまだ不安定で落ち着いて謝罪が出来るような状態じゃないんだ。もう少し落ち着いたら……オレ達がドヴァーフを発つ前には必ず謝罪に行くって、アイツ言っていた。だから……すまないんだけど、少しだけ待ってもらえないか?」

 そう告げるアキレウスの翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳は苦しげな光をはらんで揺れていた。

 アキレウスを愛し求めるあまり、ラァムは傾倒する占い師シェスナの力を借りて、あたしという存在を排除しようとした。

 それはシェスナが言葉巧みに扇動し、そう仕向けたという経緯はあったものの、彼女の中に紛れもなくそういう感情があったのだという事実は、そしてそれを彼女が実行に移したという事実は、我に返った彼女ばかりでなく、アキレウスをも大きく傷付けていた。

 ラァムの取った行動によってあたしの命は危険に晒され、ひいては彼女の愛するアキレウスの命をも危険に晒し、そして彼に深い自責の念を負わせる結果となってしまったのだ。

 時間が経つにつれてラァムは自分の犯した罪の重さを深く実感し、それに押し潰されそうになって、毎日泣き腫らしているのだという話を聞いていた。

「……うん。待つよ」

 あたしはそう頷いて、アキレウスを見た。

 わだかまりは、急には消えてなくならないかもしれない。でも、ラァムが謝罪に来てくれたなら、あたしは彼女を許そうと思っていた。

 それだけの制裁を、彼女はもう受けている。

「……ありがとう。本当に、すまない……」

 沈痛な面持ちで、アキレウスが頭を下げる。あたしは慌ててそんな彼を押し留めた。

「やだ、やめてよ。アキレウスのせいじゃないんだし、そんなに暗い顔しないで。アキレウスのおかげであたしは今、こうしてここにいられるんだから。ねっ?」

 -----だからもう、そんな顔をしないでほしい。

 アキレウスのこんな表情を見るのは、切なくて忍びなかった。あたしは彼を元気づけようと、ちょっとわざとらしかったけど明るい声で話題を変えた。

「それよりさ、ほら、幻影ホタル。今回のことがあって、結局行けなくなっちゃったじゃん。あれを見に連れて行ってほしいな。あたし、ずっと楽しみにしていたんだから」

 それは、今回の動乱で反故になってしまったアキレウスとの約束だった。本当は魔物達の襲撃を受けたあの日の夜、あたしは彼と一緒にそこへ行く約束をしていたんだよね。あたしはそれを本当に楽しみにしていたんだ。

 アキレウスは突然の話題の変化に瞳を瞬かせながらあいまいに頷いた。

「え? あぁ、そうだな。オーロラの体調が良くなったら……」
「もう全っ然平気だって! 今すぐにだって行けるよ! -----そうだ、ねぇ今日は? 今日これからは無理?」
「今日これからか!?」

 アキレウスは驚いた様子で、ちょっと困った顔をしながらせがむあたしを見下ろした。

「行けなくはないけど、そこに行くまでの道程、けっこうキツいぞ……? 本調子に戻ってからの方が」
「ホントにもう平気だって! 目が覚めてから退屈で退屈で死にそうなんだから。これ以上じっとしていたら身体がなまっちゃうよ」

 ためらうアキレウスの言葉を遮ってそう言うと、彼はやれやれといった風情でひとつ息をついた。

「本当に、大丈夫なのか?」
「うん!」
「厳しそうだと判断したら、強制的に連れ帰るからな」
「分かった!」

 満面の笑顔で頷くあたしに、アキレウスもつられて頬を緩めた。

「じゃ、パトロクロスの許可をもらっておくか。夕刻になったらここを出よう。秘密の場所へご案内するよ」



*



 広大な王宮の庭園、その片隅にある木陰で魔導書のページをめくっていたガーネットは、近づいてきた人の気配にふと顔を上げた。

「パトロクロス……」

 その人物を映した大きな茶色(ブラウン)の瞳に、微かな動揺が映る。

「……今、少しいいか?」

 目の前でこちらを静かに見下ろすパトロクロスにそう問われて、ガーネットはぎこちなく頷いた。

「ええ……」

 あの夜の一件以来、二人の間には微妙な空気が流れていた。それが解決しないまま今回の戦乱が巻き起こり、いやおうなくその渦に飲み込まれてしまった二人は、うやむやな状態のまま今日に至ってしまっていた。結果、二人の仲はどうにもぎくしゃくしたままの気まずいものとなってしまっている。

 このままでは、いけない。

 互いにそう思いながらもすっかり話し合うタイミングを逸してしまった二人は、鬱々としながらきっかけを模索する日々を送っていた。

 パトロクロスはそんな状態に終止符を打つべく、思い立ってガーネットの元へとやって来たのだった。

「……あの夜のことなんだが」

 ガーネットの隣に腰を下ろし、しばらく沈黙した後(のち)、パトロクロスはゆっくりと口を開いた。ぴく、とガーネットの身体が緊張に揺れる。

「売り言葉に買い言葉とはいえ、私はお前にひどいことを言ってしまった。まずはそれを詫びさせてほしい……すまなかった」
「パトロクロス……」

 うつむいていたガーネットが顔を上げる。パトロクロスは片膝を抱えるようにして座った自らの爪先辺りに視線を落とし言葉を紡いだ。

「父上と、お前の祖母との縁がきっかけで、私達は共に旅をすることになった。それは確かに偶然、と呼ばれる出会いだったのかもしれない。だがそれがお前で良かったと、私は心から思っているんだ。パーティーに加わってくれたのがお前でなければ、我々は恐らくここまでたどり着くことは出来なかっただろう。白魔導士としての力量は無論、お前の持つ知識と機転、明るさに私達は幾度となく助けられた。お前という存在がいてくれたからこそ、今の私達がある……ガーネット、お前の代わりになれる者など、誰もいないんだ」

 ガーネットは小さく息を飲み、パトロクロスを見つめた。それは何よりも彼女が欲していた言葉だった。

「……フリードがお前に告白をするだろうと予想はしていたが、それがまさか、求婚だとは思わなかった。その読みの甘さが結果的にお前を傷付け、苦しめることになってしまった。私がいたらないばかりにお前に余計な負担をかけさせてしまった……許してほしい」

 瞳を揺らすガーネットにパトロクロスは真摯な表情を向け、そう謝罪した。

「だが、お前の人生を決めるのはあくまでもお前自身だ。それを押し留める権限は私にはないし、正直-----今の私には、お前の気持ちを受け止められる自信はない。このまま旅を続ければ今まで以上に危険な目にも遭うだろうし、場合によっては今回のように、お前自身の命を犠牲にしかねない選択を強いることもあるかもしれない」

 パトロクロスは淡い青(ブルー)の瞳に苦しげな光を浮かべ、ガーネットにそう告げた。あえてそれを伝えたのは、彼なりの誠意だった。

「待っているのは、何の保障もない茨の道だ。だが、出来ることならガーネット……今まで通り、お前の力を私達に貸してほしい。お前の力が、私達には必要なんだ」

 そう言い結んだパトロクロスをしばらく無言で見つめていたガーネットは、やがてその唇に小さく笑みの形を刻んだ。

 あの戦いの中で、ガーネットは嫌というほど自分の気持ちを確かめていた。

 パトロクロスの身に、危険が及んだ時。全滅の二文字が脳裏をよぎった時。

 自分の身体は、無意識のうちに動いていた。パトロクロスを救う為なら、パーティーの目標を成し遂げる為の布石となるなら、自らの命を犠牲にすることに何のためらいも覚えなかった。

 それほど自分のパトロクロスへの想いは強く、シヴァ復活に懸ける決意は揺るぎないものなのだ。

 パトロクロスと、オーロラと、アキレウスと。この大切な仲間達と共に壮大な目標を成し遂げる為の旅を続けていることを、自分はこんなにも誇りに思っている。

「……しょーがないわねー。パトロクロスにそんな顔されて頼まれちゃ、イヤとは言えないわ」

 大げさな溜め息をつきながら、ガーネットは悪戯っぽい表情で肩をすくめてみせた。

「茨の道、どんなモンか一緒に歩いてあげる。それにやりかけたことを途中で投げ出すのって、好きじゃないしね」
「ガーネット……」

 ホッと表情を緩めるパトロクロスに、ガーネットはここぞとばかりしなだれかかった。

「その代わり、時々栄養補給させてね〜」
「うわっ! コ、コラ、お前っっ!」

 突然の攻撃に意表を突かれて慌てるパトロクロスを尻目に、ガーネットは満面の笑顔で彼の胸に頬をすり寄せた。

「あーん、久々のパトロクロスの感触〜!」

 ぎゅうーっと背中に腕を回して抱きつかれ、パトロクロスが悲鳴を上げる。

「ちょ、まっ、待てっっ! ガーネットっっ!」

 久し振りのパトロクロスの感触を思う存分確かめながら、ガーネットは小さな声でありがとう、と言った。

 この想いは、永遠に届かないものなのかもしれない。

 けれどパトロクロスは心から自分を必要だと言ってくれた。戦いの最中(さなか)、自分の身に危険が及んだ時には身体を張って守ってくれた。

 今はそれで、充分だと思った。

「ガーネット……?」

 そんな彼女の様子に気付いたパトロクロスが抵抗をやめ、訝(いぶか)しげに名前を呼ぶ。額を彼の胸に押しつけるようにして抱きついたまま動かないガーネットを見て取ると、パトロクロスは真っ赤な顔のまま、決まりが悪そうにぼそりと呟いた。

「わ……私が気を失う前に離れてくれよ……」

 こくん、と無言でガーネットが頷く。

 しばらくの間、お互いの体温を感じながら微動だにしない二人の様子を、庭園の植物達だけが静かに見守っていた。



*



 だが、実は植物達の他にその光景を目撃してしまった人物が一人だけいた。

 フリードだ。

 ガーネットを探しに来てその光景に出くわしてしまった彼は、身を隠した木の幹に背中を預け、空を仰いで、盛大な溜め息をもらした。

「タイミングを……誤ったかなぁ……?」

 小声で呟くフリードの脳裏には、深い赤色の外套の映像がちらついている。

 最後の最後にセルジュのムチがガーネットを打ち据えようとしたあの時-----負傷した身体が言うことを聞かず、フリードはただそれを見ていることしか出来なかった。だが、同じ状況でパトロクロスは自らの身を挺して彼女を救ったのだ。

 ガーネットを抱きかばったパトロクロスの背にムチが炸裂し、深い赤色の外套を千々に引き裂いていったあの光景が、フリードには忘れられない。

 自分はガーネットを守れるくらい強くなれたのだと思っていた。だが現実には、自分は彼女を守り抜くことが出来なかった。

 自分の力はまだ、そこに達するまでに至っていなかったのだ。

 その現実が悔しく、腹立たしい。


 求婚(プロポーズ)は一度、取り下げかな……。


 フリードは自嘲気味に小さく笑った。

 今のままでは、どう足掻いてもパトロクロスには敵わない。何よりも、自分自身の不甲斐なさがフリードには許せなかった。

 -----ボクにはまだ、彼女に求婚する資格がない。

 肉体的にも精神的にも一から鍛え直して、その資格を持てるだけの男になった時-----改めて、ガーネットに結婚を申し込もう。

 その時が、パトロクロスとの本当の勝負の時だ。

 そう決意新たに、フリードはそっとその場を後にした。

 愛しい少女とのしばらくの別離を、その心に決めて。



*



 ドヴァーフの上層部はこの三日間、不眠不休も厭(いと)えないほどの忙(せわ)しさで動いている。

 今回の戦乱で要職に就いていた者が何人も命を落とし、多くの騎士や魔導士、そして数え切れない兵士達がこの世を去った。人材不足に加え、食料品などの必要物資の調達や家を失った国民達の当面の寝床の確保など、国家の運営を支える者達の前には片付けねばならない問題が山積している。

 だが、情勢は不安定で、いつまたルシフェルが四翼天らを使って攻め込んでくるか分からない。

 早急に王都の機能を回復させなければ、多くの命を犠牲にして守り抜いたこの城を再び陥落の危機におとしめかねない。生き残った者達は交代で少ない睡眠を取りながら、連日連夜、必死の思いで復旧作業に取り組んでいるのだった。

「陛下、失礼致します」

 国王レイドリックの執務室のドアをノックして入室した魔導士団長エレーンは、そこに主君と身辺警護役を務める騎士団長オルティスしかいないことを見取り、ずっと進言しようと思っていたことを言える機会だと表情を引き締めた。

 戦乱後、国王の執務室には様々な書類を持った者達が入れ替わり立ち替わり訪れており、特に宰相はその職務柄もあって、ここ三日間はほぼ執務室に入り浸っていた。

 その姿が、珍しく見えない。尋ねてみると、つい先程仮眠をとりに出て行ったとのことだった。

「エレーン、お前も適度に仮眠をとってくれよ。ただでさえ身体に大きな負担をかけた後なのだから……お前に倒れられるようなことがあっては一大事だ」

 そう気遣う国王の言葉を丁重に受け取りながら、エレーンは毅然とした口調で主君たる青年に言葉を返した。

「私は大丈夫です。そのお言葉、そっくり陛下にお返し致します。王都の結界を張り直す術は負担も相当のものだったはず……多忙を極められているのは存じていますが、休憩はきちんと取るようになさって下さい」

 新たな書類を手渡しながら未処理の書類が溢れ返るデスクを見やると、それに埋もれかけた国王は苦笑しながら、少しやつれたように見える顔をエレーンに向けた。

「オルティスにも同じことを言われた。まったく、お前達は言うことが良く似ている……」
「我々が申し上げねば、近いうちに陛下が倒れられてしまうことは確実ですからね」

 書類を手にしたオルティスが横合いから素早く口を出してきた。彼は主君の身辺警護を務めつつ、膨大な執務の手伝いもしているのだ。レイドリックは溜め息をついてやれやれと言いたげな微笑を口元に浮かべると、目を通している途中だった書類に改めて視線を落とした。

「陛下。申し上げておきたいことが」

 エレーンの声で再び作業を中断することになった国王が顔を上げると、そこにはひどく厳しい表情をした美しい腹心の姿があった。整った細い眉をやや吊り上げ、普段は静かな光を湛えた麗しい紫水晶(アメジスト)の瞳を強い感情の色に揺らし、エレーンは思いつめた眼差しを主君に送っている。

 そんな彼女の様子にレイドリックも居合わせたオルティスも驚いた。一瞬互いの顔を見合わせ、どうやらひどく怒っているらしいエレーンへと視線を戻す。

「何故、あの時私をかばわれたりなどされたのですか」

 エレーンの唇から怒りを押し殺したやや低い声がもれた。

 それは戦いの終局、エレーンがレイドリックを背後にかばい、セルジュの前に立ちはだかった時のことだった。

 既に魔力が尽き、体力的にも限界に達していたエレーンをレイドリックが押しのけ、自ら前に出てセルジュの攻撃を結界で防いでみせたのだ。

 彼にもしものことがあったら-----あの瞬間の心臓が凍りつくような衝撃を思い出すと、今もエレーンの呼吸は止まりそうになる。

「魔導士団長たる私の使命は、貴方を、この国を守ることです。私はその為に存在し、その為に私の命はあるのです。その私を貴方自身がかばうとは何事ですか! 貴方に万が一のことがあったら、どうするのです! 元も子もないのですよ!」

 珍しく頬を紅潮させ、声を張ってそう主君に訴えたエレーンは、一度口をつぐんだ後、長い睫毛にそっと翳りを落とした。

「……陛下を責めているわけではありません。全ては、力の及ばなかった私のせいなのです。しかし、どうか二度とあのような無茶はなさらないで下さい。私は、貴方の盾なのです。そのことをお忘れなきよう、御心に留めおいて下さい」

 そう、元をたどれば全ては自分の力が及ばなかったせいなのだ。自分にもう少し力があったなら、レイドリックはあんな無茶な真似はしなかっただろう。これは自分の不甲斐なさが招いた結果なのだ。

 主君にそのような行動を取らせてしまったこと自体がエレーンには情けなく、ひどく心苦しい。

 目を瞠(みは)り、息を凝らしてそんな彼女を見つめていたレイドリックは、しばしの沈黙の後、堪(こら)えきれなくなったようにその肩を震わせた。

「……っ……く、っ……ははっ……」

 突然笑い出した国王に、傍らのオルティスがぎょっとした目を向ける。どう考えてもこれは笑い出すような場面ではない。主君の精神状態が掴めず精悍な顔を青ざめさせるオルティスの心配通り、常に冷静沈着で取り乱すことのなかったあのエレーンが感情を爆発させた。

「陛下っ! 私は真面目に申し上げているのですよ!!」

 美人の怒った顔ほど怖いものはない。オルティスですら竦みあがりたくなるようなその迫力をレイドリックはさらりと受け止め、肩を揺らしながら目尻に浮かんだ涙を拭った。

「ああ、すまない。……お前の言う通りだな」

 まさか彼女の命を救ったことを、こんな形で怒られるとは思ってもみなかった。しかも相手はそれを相当真剣に怒っている様子なのだ。

「諫言(かんげん)、耳が痛い。国を預かる身として、確かにあるまじき行為だった。短絡的な行動だったと、今反省している……」
「……本当に、そう思っていらっしゃるのですか」

 厳しい表情のまま、眉をひそめてエレーンが問う。レイドリックは頷いて、口元をほころばせながら、納得がいかない様子の臣下を見やった。

「私を本気で諫められる女は、エレーン-----お前だけだな」
「……好きで、諫めているわけではありません」

 瞳を逸らし、憮然とそう述べるエレーンを見つめ、レイドリックは微笑んだ。

「エレーン」
「はい」
「全てが片付き人類の未来が見えたなら-----その時は、私と結婚してはくれまいか」



 執務室内の時間が、止まった。



 宝玉のような紫水晶(アメジスト)の瞳を瞠り、完全に硬直したエレーンの視界の隅で、立ち尽くしたオルティスの手から書類がバサバサとこぼれ落ちる。

 頭の中が真っ白になる、という状況をエレーンは初めて体感した。これまでどれほど危機的な事態に直面しようとも、こんな状態になったことはなかった。

 思考力が停止して、何も考えられない。目の前の主君の言った言葉だけが何度も頭の中に反響し、その意味がようやく理解出来るようになるまで、果てしなく長い時間がかかったように感じられた。いや、それはもしかしたらほんの一瞬のことだったのかもしれない。

「ご……冗談、を……」

 しばらく置いてようやく発することが出来た声は、自分のものとは思えないくらいかすれ、震えていた。

「冗談などではない」

 痛いくらい真っ直ぐな眼差しで、主君が自分を見つめ返してくる。その眼差しに圧され、エレーンは一歩後退(あとずさ)った。

「ですが……陛下には想い人がいらっしゃる、と……」
「あれはお前のことだ」

 そう即答する主君に、エレーンは言葉を失くす。

 この状況が現実なのかはたまた夢なのか、次第にエレーンには分からなくなってきた。足元がふわふわとしておぼつかず、まるで宙に浮いているかのような錯覚に囚われる。

「わ……私と陛下とでは、身分が」

 どうにか絞り出したその声は、レイドリックによってあっさりと一蹴された。

「結婚相手は私が自分で決める。それに-----国に対するお前の功績を考えれば、反対する者もそう多くはないだろう」
「し……しかし」
「エレーン」

 レイドリックが静かに名前を呼び、席を立った。そのまま自分の元へと歩を進めてくる主君を見つめ、エレーンは胸を震わせた。目の前で立ち止まった主君の涼やかな灰色(グレイ)の瞳が、見たことのない感情の色を浮かべて自分を見下ろしている。

「……私と一緒になれば、お前は一生重い責務を背負って生きていくことになるだろう。私は生涯を通してお前を愛し抜くことを誓うが、国王としての立場を重んじ、何事にも国を優先させることを選ぶ。……それは女性としては、決して幸せな生き方とは言えないだろう」

 そう語る国王の表情は、少し悲しげだった。

「決して平坦な道ではない。むしろ、険しく連なる果てのない道だ。だが、それでもお前が私と共に歩んでくれると言うならば……こんなに嬉しいことは、ない……」

 ずっと内に秘め続けてきた想いを愛しい女性の前に曝(さら)け出しながら、しかし突然の求婚(プロポーズ)を受け戸惑う彼女の胸の内を思いやって、レイドリックは小さく微笑んだ。

「エレーン、飾らない、ありのままのお前の心を聞かせてくれ。断られる覚悟は元よりしてある。その上で、お前に求婚しているのだ……遠慮なく言ってくれて、構わない」

 主君に真剣な想いを突きつけられて、エレーンはこれが夢ではなく紛れもなく現実の出来事なのだということを唐突に悟った。

 自分でも驚くほど多くの感情が入り乱れて、情けないくらい動揺した姿を彼の前に露呈してしまっている。

「わ……私は……必要とされる限り、貴方の側に仕え……この国を、守っていこうと心に決めていました。数え切れないほどの重荷を背負いながら、それでも自分の道を全うしようとし続けている貴方の傍らで、少しでもその負担を軽くして差し上げることが出来たなら……この国を、より良い方向へ導いていけるならと、純粋にそう思ったからです……」

 その想いに少しずつ、恋慕の情が入り混じっていったのは、いったいいつからのことだったのだろう。

 許されるはずもない、主君への慕情。純粋な忠義と男性としての彼への想いの狭間で揺れる葛藤。隠し通さなければならないその想いは日ごと年ごと強くなっていき、密かにエレーンを苦しめ続けていた。

 その主君の口から今日思いがけず告げられた、求婚の言葉。

 自分の気持ちを上手く伝えなければと思うのに、混乱して、自分が何を言っているのかよく分からない。視線を足元に彷徨わせながら、エレーンは自らの心の内を想い人へ伝えようと懸命に口を開いた。

「絶対に、叶わないと思っていました……。貴方の側で……一生、この国の行く末を見続けていくことなど……」

 エレーンの口からこぼれた台詞に、レイドリックが微かに目を見開く。

「貴方の側で……ずっと、この国を導く手伝いをさせていただいて、いいのでしょうか……?」
「エレーン……」

 主君の整った理知的な顔立ちに、ゆっくりとほころぶような笑みが広がっていく。それを見て、エレーンは彼にも自分の想いが伝わったのだということを知った。

「本当に、私で宜しいのですか……?」

 おず、と見つめ返す紫水晶色(アメジスト)の瞳に、レイドリックは極上の笑顔を贈った。

「もちろんだ」

 互いの想いが通じ合い至近距離で見つめ合う二人の近くから、狐につままれたような声が上がったのはその時だった。

「おっ、お前ら……本気、か……!?」

 それは今まで茫然と事の成り行きを見守っていたオルティスの口から発せられたものだった。

 当事者の二人にしてもまさかの思いがけない展開だったのだ。第三者であるオルティスの驚きようは当然と言えた。

「お前ら……」

 驚きのあまりレイドリックに対しても昔の口調に戻ってしまっているオルティスは、やがてその切れ長の黄玉色(トパーズ)の瞳を潤ませると、主君と僚友に歩み寄り、太くたくましい腕で二人の肩を抱いて祝辞を述べた。

「-----まったく、あんまりにもいきなりだから、オレともあろう者が取り乱しちまったじゃないか! 格好わりぃ……でも良かったな、レイドリック、エレーン-----おめでとう」

 友としてのオルティスの温かい祝福を受けて、二人の顔からも自然と笑みがこぼれる。

「ありがとう。しかるべき時までは、お前の心だけに留めておいてくれ。オルティス」
「オルティス……ありがとう」

 オルティスは未だ戸惑いの拭えない笑顔を二人に向けながら頷いた。

「お前らがそんなふうに想い合っていたなんて全く気付かなかったよ……やれやれ、当てられてしまったな。仕事どころの気分じゃなくなっちまった。……エレーン、オレは仮眠を取ってくるからその間、陛下のお守を頼んだぞ」
「えっ……」

 じゃあな、と手を振って二人に背を向けたオルティスはドアのところで立ち止まると、臣下の口調に戻って慇懃無礼に一礼した。

「では、陛下。ごゆっくり」

 片目をつぶってそう言いながら、執務室の外へと消えて行く。

 静かにドアが閉ざされた後、室内にはレイドリックとエレーンだけが残された。



*



 オルティスが出て行った瞬間、張り詰めていた気が緩んでしまったのか、エレーンはへなへなとその場に座り込んでしまった。

「エレーン!?」

 そんな彼女に驚いたレイドリックが身を乗り出すようにして、その傍らに膝をつく。

「も、申し訳ありません……大丈夫です……」

 そう答えるエレーンの全身が細かく震えていることにレイドリックは気が付いた。

「……すまない。驚かせてしまったな」

 今日、彼女に求婚をすることになろうとは、レイドリック自身思ってもいなかった。自分の想いを知らなかった彼女にとっては正に青天の霹靂、受けた衝撃は計り知れないほど大きなものがあったのだろう。

「いいえ……」

 慌ててかぶりを振りながらレイドリックを見上げたエレーンの瞳はうっすらと潤んで見えた。

 こんなにも動揺し、取り乱したエレーンをレイドリックは初めて見た。そしてそんな彼女を可愛らしい、と思った。

 常に冷静沈着な彼女はこれまで、自分に対して徹底的に臣下としての態度を取り続けていた。想いが抑えきれず、その髪や頬に思わず手を触れた時には、静かな口調で諫められた。彼女にとって自分は主君以外の何物でもないのだと、レイドリックはそう思っていた。

 だから、求婚すればほぼ確実に断られるだろうと覚悟をしていた。それ故にずっと踏ん切りがつかないでいたのだ。

 しかし、彼女は自分を受け入れた。その時初めて、レイドリックは彼女も自分を想っていたことを知ったのだ。

 一国の王たる自分への想いを内に秘めたまま、エレーンはそれを臣下の仮面の下に隠し続けていたのだ。それを自分に見せないようにする為、彼女もまた苦しんでいたのだろう。

「……立てるか?」

 エレーンの腰に手を回し彼女を支えながら、レイドリックは問いかけた。

「は、はい……」

 エレーンは頷き、レイドリックの力を借りて立ち上がろうとするのだが、膝が笑ってなかなか言うことを聞かない。

 そんなエレーンの様子を見たレイドリックは、彼女の腕を自分の首に回らせると、そのまま均整の取れた肢体を一気に抱き上げた。

「きゃっ!」

 エレーンの口から初めて耳にする女性らしい声がもれる。

「へっ、陛下! 降ろして下さい! 重いですから……!」

 耳まで真っ赤に染めながら、エレーンは慌てた様子でそう訴えた。

「このくらい重いとは言わない。過労気味の私でも平気だ」

 言いながら、レイドリックの足は執務室のソファーへと進んでいく。エレーンは痛いほどの胸の鼓動を覚えながら、至近距離にある主君の端正な顔を見た。

 思いの外(ほか)力強い彼の腕。衣服を通して伝わってくる、温もり。彼に横抱きにされているこの状態が、彼女にはまだ信じられない。

 エレーンを抱いたまま、レイドリックはゆっくりとソファーに腰を下ろした。

「あ……ありがとうございました。もう、平気ですから……」

 上気した頬でいたたまれないように視線を逸らし、腕の中から脱け出そうとするエレーンをレイドリックは押し留めた。

「しばらくこのままでいればいい」
「し、しかし……」

 落ち着かない様子で身じろぎするエレーンの身体をしっかりと抱え直し、自らにもたれかからせるようにしながら、レイドリックは緩やかなウェーブのかかった彼女の長い白銀の髪にそっと手を差し入れた。

 ピクリ、とエレーンの身体が揺れる。優しく彼女の髪を梳(す)きながら、レイドリックは腕の中の美しい想い人の名を囁いた。

「エレーン……」

 どうしたらいいのか分からない表情で、エレーンが熱に潤んだ双眸をレイドリックに向ける。

「陛下……」

 そんな彼女にレイドリックは微笑みかけると、その唇に自らの人差し指を柔らかく押し当て、囁くように告げた。

「敬称ではなく、名前で呼んでくれ」
「で、ですが……」

 戸惑いを隠せない彼女の唇をそっと指でなぞり、甘い光を瞳に宿して、レイドリックは優しく言い含めるようにエレーンを諭す。

「お前に、呼んでほしいんだ……私の名を」

 -----溶かされる、とエレーンは思った。

 主君の甘やかな眼差しに、聞いたことのない響きを帯びた彼の声に、既に臣下としての仮面は剥がれ、今、わずかに残った理性をも、溶かされていく。

 冷静沈着な自分は消え去り、生身の女性としての自分だけが、無防備なその姿をレイドリックという一人の男性の前に曝け出される。

「レイドリック……」

 消え入るような声で、エレーンは初めて、彼の名前を呼んだ。

 頬を染め、わずかに震えながら自分の名を呼ぶ彼女の姿が、レイドリックの胸に言葉に出来ない甘い想いを広げていく。

「エレーン……」

 もう一度彼女の名を囁きながら、レイドリックは静かに彼女の唇に唇を重ねた。一度触れて、至近距離で見つめ合い、再び唇を重ねていく。

 -----届くとは思っていなかった、この想い。

 蕩けるような幸福感と様々な感情とがないまぜになる中で唇を重ねながら、二人は知らず、互いに胸の中で誓い合っていた。

 全てを背負い生きて行こう-----この人と、この国と共に。



*



「ふー……」

 閉ざした執務室のドアに背を押し付け、オルティスは長い長い息を吐き出した。

 驚いた。今まで生きてきた中で一番、というくらい驚いた。それくらい、彼の中ではまさかの出来事だったのだ。

「あの二人が……なぁ……」

 ぽつりと呟きながら、オルティスは天井を見上げた。

 二人共、見事なまでに感情を隠し切っていたものだ。四六時中顔を突き合わせていたこの自分にさえ、全くそれを気取らせなかった。

 それとも自分が鈍いだけで、見る者が見れば気付く部分もあったのだろうか。そういえばセルジュはエレーンに対してそんなようなことを言っていた気がする。あの時は魔性の戯言、とさして気に留めてはいなかったのだが……。

「……」

 だとすると少し情けないような気もしたが、二人が自分の前で結ばれたということで、その思いもいくらか紛れるような気がした。

 このドヴァーフ中、いや世界中が驚き沸き立つようなこの事実を今のところ自分だけが知っている、という優越感じみた思いもある。

 -----落ち着いたら、オレもそろそろ人生のパートナーとやらを探してみるか。

 そんなことを考えていたオルティスの前に、意外な来訪者が現われた。

「オルティス、兄上はいらっしゃるか?」
「これは……アルベルト殿下。いかがなさいました?」

 ぽっちゃりとした王弟にそう声をかけると、彼はそのふくよかな頬を照れくさそうにうつむけながらこう言った。

「兄上は昼夜の区別なく膨大な量の職務をこなしておられるのだと聞いた……わ、私にも何か手伝えることがあればと思って……私は、その……兄上の弟なのだから」

 そんなアルベルトの様子を、オルティスは微笑ましい思いで見つめた。

 この国に、新しい風が吹いてきているのを感じる。

「陛下は今、執務室にて短い仮眠をお取り中です。エレーンが警護についています。起こしてしまうのも忍びないですから、目覚められるまで、殿下にはこちらで目を通していただきたい書類があるのですが……宜しいですか?」
「そ、そうか。うむ、分かった」

 胸を反らして頷くアルベルトに一礼しながら、オルティスは執務室のドアに入室禁止の旨の札を下げると、彼を先導して歩き始めた。

「陛下が目覚められたら、すぐに殿下の御心を伝えます。ひどくお喜びになりますよ」
「そ、そうだろうか?」
「ええ、間違いありません。お忙しくなりますから、覚悟しておいて下さい」

 そう言って笑うオルティスの表情は、ひどく晴れやかなものだった。
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