昨日ドヴァーフ城に戻ってきたのは夜もとっぷりと更けた頃で、険しい山道を歩いて疲れていたはずなのに、しかも昨夜は感情が昂っていてなかなか寝付けなかったはずなのに、太陽が昇り始める頃、何故か自然と目が覚めてしまった。
ベッドの上で半身を起こしながら、あたしは自分の唇に指で触れて、改めて昨夜のことを思い返した。
嘘みたい……。
アキレウスとキスしたなんて……。
彼に、想いが通じたなんて……。
それをかみしめる度、とくん、と心臓が音を立てる。
頬を染めたまましばらくの間昨夜の余韻に浸っていたあたしは、何だかそんな自分が急に恥ずかしくなってきて、頭をひとつ振り払うと、部屋の洗面所で顔を洗った後、朝の空気を吸ってこようと身支度を整えて部屋を出た。
誰もいない早朝の中庭を歩きながら、戦火を免れた美しく咲き誇る花達に目をやるけれど、頭の中に浮かんでくるのは昨夜のことばかり。
「はぁ……」
悩ましい溜め息をつきながら、あたしはまだ眠りの中にいるに違いないアキレウスのことを考えた。
今日これから、どんな顔をしてアキレウスに会えばいいんだろう? 何だか気恥ずかしいな……。
ちょっと赤くなりながら、あたしは近くのベンチに腰を下ろし、自分の膝の上に肘を立てて頬杖をついた。
幻想的でとっても綺麗だった幻影ホタル達の光。その光が氾濫する中で起こった、夢のような出来事……。
……。
本当に、現実の出来事だったのかな。
ふと、そんな思いが頭をかすめた。
あのアキレウスと両想いになれたなんて……実は、夢の中で夢を見ていたんだったりして。
一度そんなふうに思ってしまったら、何だかだんだんそっちの方が現実味を帯びてきたように思えてきてしまって、あたしは無意識のうちに指で唇をなぞりながら、独り言を呟いた。
「夢……だったのかなぁ……」
「何が夢だったって?」
背後から突然響いたその声に、あたしは飛び上がるくらい驚いて後ろを振り返った。するとそこにはいつの間にやってきたのかアキレウスが立っていて、彼と会う心の準備が全く整っていなかったあたしはひどく動揺した。
「アッ……アキレウス!? はっ……早いね!?」
「オーロラこそ」
そう言って爽やかに笑うアキレウスは何だかいつにも増してカッコ良く見えて、あたしはたちまち耳まで赤くなりながら、ぎくしゃくと口を開いた。
「あっ、あたしは何だかたまたま早く目が覚めちゃってっ……お、おはようっ」
どもりながらぎこちない笑顔で挨拶すると、アキレウスは軽く吹きだしながら挨拶を返した。
「おはよう」
そしてあたしの隣に座りながら、面白そうにこちらに視線を向けてくる。
翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳に真横から見つめられて、あたしはどうしたらいいのか分からなくなった。
こ、困る。こんなに早くアキレウスに会うことになるとは思わなかったっ……。
赤くなってうつむくあたしの顔を覗き込むようにしながら、アキレウスは笑みを含んだ声で問いかけてきた。
「で……何が夢だったって?」
「え……や、それは……」
もごもごと口ごもるあたしを楽しそうに見やりながら、アキレウスは悪戯っぽく笑った。
「もしかして、昨夜(ゆうべ)のこと?」
ズバリ言い当てられて、あたしはあせりながら顔を上げた。
「えっ、いや、あのっ……」
その途端、思いの外(ほか)間近にあった彼の精悍な顔とぶつかりそうになって、ドキンッ、と鼓動が跳ね上がる。
「もう二度と、夢だなんて思えないようなキスをしてやろうか……」
艶めいた眼差しで見据えられ、低い声でそんなことを囁かれて、あたしの心臓は一気にオーバーヒートを起こしてしまった。
「え……え、えぇっ……!?」
いっ、今、何て……!?
これ以上赤くなれないほど赤くなって目を白黒させながら、あたしはベンチの上をじりじりと後退した。
「そんなに下がるとまた落ちるぞ」
アキレウスはそう言ってあたしの背中に腕を回すと、これ以上後ろに下がれないようにしてしまった。
昨日は夜だったし、幻想的な雰囲気に包まれていたこともあって、何より予期していなかったことだけに、そのままの流れに自然と身を委ねることが出来たんだけど、今は早朝で、間近にあるアキレウスの顔がスゴくハッキリと見えて、そんな状態であんなことを言われてしまったら、とても平静でなんていられない。
心臓が壊れそうな勢いで胸を叩く。
「アッ、アキレウス……!」
迫ってくる彼の胸を半ば腕で押し留めるようにして牽制しつつ、言い表しようのない緊張で全身を赤く染めあげながら名前を呼ぶと、アキレウスはまるで聞き分けのない子供をあやすようにそっとあたしの髪に手を差し入れ、柔らかく梳(す)いた。
「しっ……。静かに」
囁くようにそう告げながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。
うわ……あっ……!
あたしはもう目を開けていることが出来なくなって、ぎゅっと瞼を閉じ、真っ赤な顔でその時を待った。
けれど、ちゅっと軽い音を立てて彼の唇が落とされたのは、予期していた唇ではなく、おでこの方だった。
えっ……?
意外に思いながら、あたしはその後も何秒間か目をつぶったままだったんだけど、それっきりアキレウスが動く気配がなかった為、そろそろと目を開けてみた。
するとそこにはイタズラ小僧みたいな顔をしたアキレウスがいて、彼にからかわれたということに気が付いたあたしは、顔から火を吹きかねない様相で怒りの拳を振り上げ、叫んだ。
「しっ……信じらんないっ! バカーッ!」
アキレウスは肩を揺らしながらあたしの拳を受け止め、謝罪した。
「悪い悪い。オーロラがあんまり可愛い反応見せるからつい、さ」
「そんなんでごまかされると思ったら、大間違いなんだから!」
もうーっ、どうしてくれるの!? バカバカ、恥ずかしくて死んじゃいそうだよ!!
「バカアキレウスッ!」
どうにも感情の収拾がつかず、真っ赤っかになりながら再度拳を振り上げると、アキレウスはやんわりとあたしの手首を掴んでそれを止め、自分の方に引き寄せた。
「悪かった、ごめん。もうしないよ」
アキレウスの胸の中に倒れこむような形になって、半分涙目で彼を見上げると、そこに彼の唇が降ってきて、あたしは唐突に唇を塞がれてしまった。
あっ……。
不意打ちみたいなキス。
悔しいくらい胸がきゅっとしなって、そこから何も考えられなくなる。
二度、三度、柔らかく唇を重ね、最後に軽く吸われて彼の唇が離れた後、あたし達は至近距離で見つめ合った。
綺麗な翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳が甘い光を宿して、あたしだけを見つめている。
「二度と夢だなんて思えないようなキスをしたいところだけど、こんなトコじゃな……」
単純なあたしはその台詞だけで再び湯気を噴き出しかねないくらい赤くなりながら、アキレウスから瞳を逸らした。
「じゅ、充分だよ。もう、夢かもしれないなんて思わない……」
アキレウスはくすっと笑って、ゆっくりとあたしから距離を取った。
「残念、どのみちタイムリミットだったみたいだ」
「え?」
その意味が分からず、瞬きをした直後、あたし達を呼ぶパトロクロスの声が聞こえてきた。
「アキレウス、オーロラ。ここにいたのか。二人共、早いな」
そう言って歩み寄ってきた彼にあたしはちょっと居住まいを正しながら、朝の挨拶をした。
「おっ、おはよう、パトロクロス」
「ああ、おはよう」
「っはよ。そういうパトロクロスこそ早いな。こんな朝っぱらからどうしたんだ?」
「ああ、実はレイドリック王から先程連絡があってな。朝食後、例の飛空艇の件で話があるそうだ」
その言葉で一気に現実に引き戻されるのを覚えながら、あたしは身を引き締めた。
伝説の大賢者-----シヴァ。全てを知る者、全人類の希望-----彼の元へ赴く為の飛空艇がいよいよ完成したに違いない。
あたしはきゅっと拳を握りしめた。
ついに、この時が来た-----。
あたし達は絶対に、彼の封印を解いてみせるんだ。
*
ところが、朝食後に集まった貴賓室でレイドリック王からもたらされた話は、あたし達の予想に大きく反するものだった。
「修復不能……!?」
「あぁ……そうだ。実は先日の四翼天セルジュとの戦闘の影響で飛空艇の格納庫が破壊され、飛空艇そのものも大きな被害を被ってしまったのだ。どうにか修復できないものか調査を進めていたのだが、機関部が大きく破損しており、修復は不可能だという結論に至った」
そう告げるレイドリック王の端正な顔はここ数日の激務の為か、だいぶやつれたように見えた。
「すまぬな……出立を目前に控えていたというのに」
「いえ、それは……。しかし……いったいどうすれば……」
唇を結び、パトロクロスが難しい表情で考え込む。あたしとガーネットは顔を見合わせ、それぞれ何かいい方法はないかと頭を巡らせたけれど、すぐには何も浮かんでこない。
レイドリック王と彼の背後に控えるエレーンとオルティスは、そんなあたし達を見やりながら沈黙を守っている。
室内が重苦しい空気に包まれた時だった。それまで口を閉ざしていたアキレウスがこう発言した。
「……ガゼ族に助力を請い、竜に乗って島へ渡る方法はどうだろう」
みんながハッとして彼を見た。
確かに……その方法なら、シヴァの島へ渡ることが出来る。
けれど……。
「その方法には二つ問題がある」
レイドリック王はそう言ってアキレウスを見やり、理由を述べた。
「ひとつ。ガゼ族の現在の村の位置を知り得る者がいない。そしてもうひとつ。『紅焔(こうえん)の動乱』以後、ガゼ族は人間に対して極度の嫌悪感と不信感を抱いている。協力を取り付けるのは難しいだろう」
「……それは分かっています。けれど他に方法がないのなら、やるしかない。偶然ですが、私達はドヴァーフに来る途中でガゼ族のイルファという少女に出会いました。彼女は人間である私達に対しても屈託がなく、王都のずっと西の森の中に村があると言っていた……全てのガゼ族が人間を嫌っているわけではないと思います。それに、ルシフェルの掲げる人類殲滅計画は彼ら自身にも関わってくることです。他人事ではありません」
確かにイルファは明るくあっけらかんとしていて、あたし達に対して警戒心や物怖じした様子なんかはまるで見せていなかった。アキレウスとガーネットには助けてくれたお礼、って言ってキスまでしていっちゃってるし……それに、村に来てくれたら改めてお礼をするようなことも言っていた。
可能性は、決してゼロじゃない。何より、アキレウスの言う通り、これは彼らも含めた全人類の未来に関わってくることなんだ。
「そうか……ここへ来る道中でそのようなことが……だが、族長ホレットや当時を良く知る者達を説き伏せるのは難しいぞ。人の心とは、繊細で複雑なものだ。一度失った信頼を取り戻すのは、容易ではない。険しい道程になるぞ」
「元より、覚悟の上です」
そう言い結んだアキレウスの瞳に迷いはなかった。レイドリック王はあたし達にも意思の確認をする視線を投げかけ、あたし達はそれに対して頷くことでアキレウスの考えに賛成であることを示した。
あたし達には、シヴァの封印を解く使命がある。飛空艇が失われ他に手立てがなくなった今、『紅焔の動乱』の当事者といえるアキレウスがガゼ族に対して臨む決意を持っているのであれば、あたし達に否はなかった。
「そうか……分かった。では、我がドヴァーフは其方達の意思を尊重し、それを全面的に支援することを確約しよう。それから……アキレウス。其方に話がある。例の“約束”についてだ」
レイドリック王のその言葉を受けて、アキレウスの身体がわずかに緊張するのが分かった。
「この後、私の部屋へ……」
「-----いえ、ここで話して下さい」
レイドリック王の言葉を遮ってアキレウスはそう言った。そんな彼をパトロクロスとガーネットが驚いた様子で見やる。
「……あの事件は、私の中でもガゼ族の中でも今だに続いるんです。そして陛下……恐らくは、貴方の中でも」
真っ直ぐなアキレウスの眼差しを、レイドリック王の静かな眼差しが受け止める。
「私の仲間は、私を通して既に『紅焔の動乱』に関わっています。これからガゼ族の元へ赴くとなれば、なおさらです。みんなには聞く権利があると思うし、それに何より私はみんなにも……聞いてもらいたいんです」
「アキレウス……」
パトロクロスとガーネットが微かに目を瞠り、彼の名を呟いた。
アキレウスはそんな彼らとあたしを見やり、同意を求めてきた。
「いいか……?」
「あぁ……もちろんだ」
「水臭いわね、そんなこと聞くなんて」
パトロクロスとガーネット同様、あたしも頷いてそれを了承した。
「一緒に聞かせてもらうね」
あたし達の同意を得たアキレウスはレイドリック王に向き直り、改めて願い出た。
「我が儘を言い申し訳ありません。ここで、みんなと一緒に聞かせて下さい。私の父の死の真相を-----まだ語られていない、あの日の“真実”を」
その様子を見ていたレイドリック王はわずかな沈黙の後、少しだけ頬を緩めて、鷹揚(おうよう)に頷いた。
「……分かった。では、其方の望み通りこの場で語ることにしよう」
レイドリック王の背後、左右に控えるエレーンとオルティスは何も発せず、神妙な面持ちで主君のその言葉を聞いていた。
そして、これから語られる『紅焔の動乱』の“知られざる真実”は、あたし達の未来に大きく関わってくることになる。
この時のあたし達はまだそれを知らず、今はただアキレウスと共に過去の真実を知ってそれを受け止めようと、そして全てを知った上でガゼ族の人達に向き合おうと、ただそれだけを考えていたのだった。