だから、それまでにどうしても、あたしは彼の誤解を解いておきたかった。
昨日弁明の機会を得ることが出来なかったあたしは、朝食後、それを実行しようと、アキレウスを人気のないバルコニーに呼び出した。
まだ低い位置にある太陽の光と、朝の澄んだ冷たい空気が肌に触れる。緩やかな風に髪を揺られながら、あたしは緊張に震える胸をどうにか落ち着かせようと努力していた。
昨日のことがあるからかな。彼の前でこんなに嫌な緊張感を覚えるのは初めてだった。
ううう、別にやましいことがあるワケじゃないのに……。
なかなか口火を切れないあたしにしびれを切らしたのか、バルコニーから見渡せる景色を一瞥しながら、アキレウスが口を開いた。
「話って、何?」
昨日とてもそっけなく感じられた彼の態度は、今日は表面上は普通に感じられた。
「あのね……」
落ち着け、落ち着け、あたしの心臓。
早鐘を打つ自分の心臓にそう言い聞かせ、平常心を保とうと努めながら、あたしは昨日の出来事をなるべく簡潔に、明瞭に、アキレウスに説明した。
街で偶然オルティスに会って、その時に彼が警護を申し出てくれたこと。彼は所用で街に出てきていたので平服だったこと。石畳に躓(つまづ)いたあたしを彼がとっさに支えてくれたのだということ-----。
じっと黙ってあたしの話に耳を傾けていたアキレウスは、あたしにとって予想外の反応を示した。
彼はちょっと笑って、こう言ったのだ。
「何だ、そんなことか。改まって話があるって言うから何かと思った。そんなこと、わざわざオレに言わなくても良かったのに」
え……。
思いがけないその言葉に、あたしは茫然としてアキレウスを見つめた。
そんなこと、って……。
まさか、こんなふうに返されるとは思っていなかった。
お前が誰と何をしていようがオレには関係のないことだと、どうでもいいことだと、言外にそう言われたのと一緒だった。
アキレウスにとっては……あれは、どうでもいいこと、だったの?
言葉を失ったあたし達の間を、風だけが吹き抜けていく。
悲しくて、不意に目の奥が熱くなってきた。
確かにあたしは……アキレウスにとって、仲間以外の何者でもない。
けれど、あたしにとってアキレウスは、大切な-----仲間以上の特別な存在、だから。
これまでの様々な出来事の中で、もしかしたら彼も、仲間以上に自分のことを想ってくれているのかな、なんて-----そんなふうに思えた瞬間もあったから。
だから、彼のその言葉を聞いた時、あたしの中にあった様々な感情が渦巻き、捩(ねじ)れ、音を立てて溢れ出した。
「話、それだけ? ならそろそろ戻ろう。ここは風が冷える-----」
「-----アキレウスは」
言い表せない激情に支配されながら、あたしは震える唇を開いた。
「アキレウスにとっては、どうでもいいことだったのかもしれない。大したことじゃなかったのかもしれない。でも、あたしは……あたしには-----」
言葉を紡ぐうちにどんどん感情が高ぶっていって、涙で視界がぼやけてきた。
-----泣いちゃ、ダメだっ……!
唇をかみしめて堪(こら)えながら、あたしは彼の翠緑玉色(エメラルドグリーン)の瞳を見つめた。
「あたしには、どうでもいいことじゃなかったから……アキレウスに誤解されているかもしれないっていう、この状態が耐えられなかったから……! アキレウスには、絶対に誤解されたくなかったから! だから……!」
そこまで言うのが精一杯だった。
驚いた表情のアキレウスに涙混じりの言葉を叩きつけるようにして、あたしは背を翻(ひるがえ)した。その瞬間、堰(せき)を切ったように涙が溢れ出して、あたしの頬を幾重にも濡らしていった。
階段の隅で、声を殺して、あたしは泣いた。
一人であんなに悩んで、バカみたい。
ぎこちなくなっていたアキレウスとの仲をどうにかしたくって……普通に話せるようになりたくて頑張ったのに-----それなのに-----。
あぁ、あたし、何やっているんだろ……。
とめどなく押し寄せる後悔と、切なさと、やるせなさと。
色んな感情が入り乱れて、涙はしばらく、止まりそうになかった。
*
黄金(きん)色の髪の少女が消えていった方角を見つめ、アマス色の髪の青年-----アキレウスは深い溜め息をついた。
自己嫌悪と様々な葛藤で、彼の胸はいっぱいだった。
あの少女-----オーロラは、きっと今頃、泣いている。
涙を一杯に溜めた藍玉色(アクアマリン)の瞳を思い出すと、胸が詰まる思いがした。
だが、今、彼女の後を追うことは出来ない。
かけるべき言葉が、見つからない。自分はいたずらに彼女を傷付けてしまうことだろう。
故郷ドヴァーフに帰ってきてからというもの、自分の精神状態がひどく不安定になっていることをアキレウスは感じていた。
ずっと背を向けてきた過去と向かい合う-----父親の足跡(そくせき)の残る王城に足を踏み入れる-----そのことも一因になっているのだろうが、それだけでは説明出来ない、正体不明の苛立ちとあせりが、彼の心を追い詰めていた。
こんなことは、今までになかったことだ。
何なんだ……?
自問しても、答えは見つからない。
「くそ……」
呟(つぶや)いて、アキレウスはぎり、と唇をかみしめた。
先程の涙を一杯に溜めたオーロラの顔が、頭から離れない。
あんなふうに泣かせたくは、なかったのに……。
彼女に対する自分の気持ちも、アキレウスは処理出来ずにいた。
最初は、保護者のような気持ちで彼女のことを見守っていたのだ。
古(いにしえ)の術法により見知らぬ世界に突然招かれてしまった、不幸な少女。
右も左も分からず、この世界で初めて出会った自分にすがるような眼差しを向けていた彼女をどうしても放っておけずに、手を差し伸べ行動を共にした。やがて思いもかけぬ任命を受け、一緒に旅をするようになってからも、どことなく危なっかしい彼女から目が離せず、何かと気にかけていた。
それが、あの日-----まほろばの森で、彼女が自身の心情を泣きながら吐露した、あの瞬間-----自分の中で、何かが変わった。
言葉では上手く言い表わせない、何かが。
それは今もゆっくりと形を変えながら、自分の中に息づいている。
未だ明確な形を成さないその感情を何と呼べばいいのか分からず、アキレウスは困惑していた。
先日の図書館での衝動的な行動には、自分自身驚いた。
ふわりと鼻先をかすめた、彼女の髪の香り。頬を染めてうつむいた、彼女の表情。その細い柔らかな肢体と温かな体温を自分の腕の中に感じた、あの時-----気が付いたら、あの行動に及んでいた。
あのままパトロクロス達が来なかったら、いったいどうなっていたことか-----。
アキレウスは自身の行動を顧みて、あの後密かに自省したものだ。
衝動的、そうとしか言いようのない行動だった。自制を覚える間もなかったのだ。
そして昨日、彼女がオルティスに抱き寄せられるようにしていたところを見た時には、何とも言えない複雑な気分になった。
自分が彼女に抱いているものは、恋愛感情-----それに近いもの、なのかもしれない。
だが、そのものではないように思う。それと呼ぶには何かがしっくりこないのだ。
それに彼女は、異世界の住人だ。
元の世界に戻る為に、自分の居るべき場所に戻る為に、彼女はこの過酷な旅を続けているのだ-----彼女がどれほど元の世界に帰りたいと願っているのかは、自分が一番良く知っている。
不安定な心はざわめくばかりで、答えをなさない。
何より、正体不明の焦燥感が彼から精神的な余裕を奪っていた。
アキレウスは瞳を閉じた。
自分で自分の心が、掴めなかった。
*
同じ頃、ぼんやりと窓の外の景色を眺めている少女がいた。
ガーネットだ。
いつも勝気に輝いている茶色(ブラウン)の瞳はその光を失い、窓枠に両肘をかけたまま、顎の辺りでそろえられた漆黒の髪を風に遊ばせている。
幼なじみのフリードに思いがけないプロポーズを受けた彼女は、この数日間、人知れず悩んでいた。
自分の気持ちは、パトロクロスにある。
しかし、フリードの真剣な想いと、彼の投げかけた言葉は、確かにガーネットの心を揺らしていた。
ドヴァーフを発つまで、あとわずか-----それはすなわち、フリードへの回答の期限が迫っているということでもあった。
自分は、答えを出さなくてはならない。
だが、その前に事の真偽を-----パトロクロスの真意を確かめなくてはならない。
怖い、とガーネットは思った。
こんな怖さを覚えたのは、初めてのことだった。
もしもパトロクロスが、フリードの言っていた通りの答えを自分に返したら-----。
そう思うだけで足がすくむ。
自分がこんなに臆病な人間だとは、思わなかった。
毎日毎日、同じことを繰り返し考えて、身動き出来ずにいる。
けれど、期限はすぐそこまで迫ってきてしまっていた。
もう、動き出さなければ……。
深い深い溜め息をついて、ガーネットは自身に決断を促した。
いずれは向き合わねばならなかったに違いない問題だ。
パトロクロスの答えがどうであれ、最後に決めるのは自分自身-----自分を想ってくれるフリードの為にも、偽りのない、真実の気持ちを伝えよう-----。
逃げ出したくなる衝動を抑えつけて胸の中にしまいこみ、ガーネットは晴れ渡った空を見上げた。
皮肉なほどに澄み切った青い色が、目に痛いほど眩しかった。
*
間近に迫ったシヴァの眠る孤島への出立を控え、パトロクロスには気がかりなことが幾つかあった。
そのひとつがメンバーの精神的な不調だ。
特にドヴァーフに入ってからのアキレウスの変調ぶりは著しく、パトロクロスに深い懸念を抱かせていた。
シヴァの孤島へ向かう道中、敵はおそらく何らかの形で接触してくるだろう。
一瞬が生死を分ける戦いに於(お)いて、精神面が果たす役割は非常に大きい。
それでなくとも、紙一重の差と言える勝利でどうにか生き残ってきた自分達だ。わずかな気の乱れは、そのまま死へと直結する。
それは何よりも、アキレウス自身が分かっていることだろう。それ故(ゆえ)に、彼は今、精神の奥底でもがいているはずだ。
あの大胆にして不敵なアキレウスをそこまで追い詰めるもの-----それは果たして、騎士団長だった父親の一連の件によるものだけ、なのだろうか。
彼自身が何も語らない以上、それ以上詮索することをパトロクロスはしなかったが、彼の抱える葛藤の重さのようなものは、ひしひしと感じていた。
これはおそらく、アキレウスが自分で乗り越えなければならない壁なのだ。そしてそれを分かっているからこそ、彼は自身の中で決着をつけようと、懸命に努力している。
それを見守ることしか出来ないというのは歯がゆいものだったが、本人がそうと決めこんでいる以上、パトロクロスに出来ることは信じて待つこと、そしていざという時にフォロー出来るよう留意しておくこと、それくらいだった。
シヴァの地図に認められし者-----アキレウスの力は、絶対に必要なのだ。
誰も彼の代わりになることなど、出来はしないのだ。
最近の余裕のないアキレウスの表情を思い浮かべて、パトロクロスはひとつ息をついた。
思い悩める時、人はしばしば、思考の迷路に陥ることがある。
考えれば考えるほど複雑に枝分かれしていく悪循環に囚われ、しまいには自らの思考にがんじがらめにされて、単純な真実さえ見えなくなってしまうのだ。
今夜カシュールという酒場で予定されている、壮行会という名目のアキレウスの誕生会。彼自身には知らせていないその会で、少しでも彼の肩の力が抜ければ、と思う。
心にわずかでも余裕が出来た時、小さな光明は見えてくることがあるのだから-----。
そして、パトロクロスには今一人、気になっている人物がいた。
ガーネットだ。
暇さえあればパトロクロスにまとわりついてくるこの少女は、彼にとっては頭痛の種でもある人物だが、頭の回転が速く、その持ち前の明るさで、パーティーのムードメーカー的な存在になっている。
その彼女の様子が、ここ数日、どうもおかしい。
表面上はいつもと変わらないし、体調が悪いわけでもなさそうなのだが、ふと気が付くと、ぼんやりと考え込んでいたりする。
それに、ここ数日はどういうわけか、パトロクロスにまとわりついてくるということをしなかった。
普通に会話はする。
だが必要以上に話しかけてきたり、抱きついてきたりすることがないのだ。
共に旅をするようになってから、ほとんど初めてのことだった。
パトロクロスはそんな彼女に戸惑いつつ、一抹の寂しさのようなものを感じている自分に気が付いて、慌ててそれを打ち消した。
彼には、ガーネットの変調となる原因にひとつだけ心当たりがあった。
彼女の幼なじみ-----フリードだ。
ドヴァーフとアストレアの国境に位置する町ルイメンで、パトロクロスに一方的に宣戦布告した美麗な青年は、『これからは、全力で彼女の心を奪い取りに動く』と宣言していたのだ。
ガーネットの様子がおかしくなったのは、フリードにアイテムをもらいに行った後のことだ。
公言通り、フリードは動いたのだろう。おそらくは、彼女に告白した。
そして、思いがけない告白を受けたガーネットは、思い悩んでいるのに違いない。
それは容易に想像がついたが、だからといって、パトロクロスにはどうすることも出来ない。
フリードの中では自分が恋敵として認識されてしまっているようだが、自分にはそのつもりがないのだ。
それにこれはフリードとガーネットの間の問題なのであって、決めるのはガーネット自身だ。自分が口を挟むことではない。
決めるのは、あくまでもガーネット自身なのだから……。
自らにそう言い聞かせるようにして、パトロクロスは思考を閉ざした。
さざ波のように胸に広がっていく波紋を頭の片隅で意識しながら、気付かないふりをして、パトロクロスは冷静さを保とうとしていた-----。
*
何で、こんなことになっちゃったんだろう-----。
すっかり泣き腫らしてしまった自分の顔を鏡に映して眺めつつ、あたしは切ない溜め息をついた。
ようやく泣き止み、落ち着きを取り戻した今でも、先程のアキレウスとのやりとりを思い出すと、じわっと涙が滲んできてしまう。
あーあ、腫れぼったい目になっちゃって……夕方までに、治るかな?
……。アキレウスに、どんな顔して会えばいいんだろう-----。
「はぁ……」
ぼふん、とベッドに顔をうずめて、あたしは瞳を閉じた。
アキレウスの前では笑顔でいよう、って決めていたのに-----。
さっきの驚いたような彼の顔が、脳裏をよぎる。
アキレウス、ビックリしていたな……。
だけど悲しくて、切なくて……色んな感情でいっぱいになって、自分の気持ちを抑えることが出来なかった。
アキレウスにとって、あの図書館での出来事は、何だったんだろう?
鼻先が触れ合うほど近付いてきたアキレウスの顔-----その瞳の中に映っていた、自分の顔。あの時のことを思い出すと、今でも甘酸っぱい想いが胸を締めつけ、心臓が切ない音を立てる。
先のない恋だって、分かっている。
だけど、あの時、心臓が壊れそうな鼓動を奏でる中で、あたしは確かに嬉しかったから。
嬉しいと、思ったから。
だから、さっきのアキレウスのあの言葉は……とても、ショックだった。
あたしは丸テーブルの上に置いてある、綺麗にラッピングされたアキレウスへのプレゼントに視線を送った。
あたしからアキレウスへの、最初で最後のプレゼント。そうなってしまうに違いない、プレゼント。
後悔したくない。
笑顔で、渡したい。
アキレウスには、笑顔のあたしを思い出してほしいから-----……。