ドヴァーフ編

炎の闇


 茜色に染まり始めた空が、戦場と化した広大なフロアを憂愁の漂う色彩へと染め上げていく。

 天井が完全に吹き飛び、壁も軒並み破壊され吹きさらしとなった、まるで廃墟と化した室内。瓦礫の散乱するそこから臨める、黒煙を吐き上げる混沌とした街並。そこかしこに横たわる、悲劇の傷跡。

 今日一日で、いったいどれだけの生命が失われたのだろうか。

 血臭をはらんだ生ぬるい風が、何かを語りかけるかのように動きの止まった人間達の間を吹き抜けていく。

「さぁ、国王レイドリック。真実を語ってもらいましょう。十年前-----炎の闇に包まれて消えた、この国の秘宝-----『真実の眼』にまつわる真相を」

 セルジュのムチによって拘束され身動きの取れない国王レイドリックへと小剣を突きつけながら、元ガゼ族の占い師シェスナは、わずかに上ずる声で自らの要求を告げた。

 その琥珀の双眸は昏(くら)くたぎる想いに溢れ、突きつける剣を握る痛々しい呪紋の刻まれた細い腕は微かに震えている。彼女は冷静であろうと努力していたが、ようやくたどり着いた舞台を前に、感情が高ぶるのを完全には抑え切ることが出来ないでいた。

「真実の眼……?」

 初めて耳にするその響きにアキレウスが眉をひそめる。

 シェスナの口からこぼれる数々のキーワードは彼の心にわだかまる忘れられない記憶と合致し、その鼓動を不規則なものにさせていた。

 十年前の動乱。消えた秘宝。これは、まさか-----。

「真実の眼-----魔法王国ドヴァーフに古くから伝わる門外不出の秘宝です。それを手にした者は、己の意思に関わらずあらゆる『真実』を目にするのだとか-----手に入れたがる者は、大勢いたことでしょうね」

 アキレウスの疑問に答えるように、シェスナは語る。

「それが十年前、動乱の最中に消失した。この国は、それを一人のガゼ族の仕業だと断じ、いわれのない罪を着せた! そう-----この私の、父に!!」

 溢れ出すシェスナの怒りが茜色の空の下に響き渡り、流れる風にさらわれて消えていく。驚きに目を瞠るアキレウス達とは対照的に全く表情を動かさない国王レイドリックを射(い)殺しかねない眼差しで見据え、シェスナは続けた。

「忘れたとは言わせない……あの日から、私の世界は180度変わってしまった。この国の謀略によって父を失ったあの日から、私の人生は絶望の闇に閉ざされた! 大国の顔色を窺い仲間の汚名を晴らすことも出来ない腑抜けた部族、権力を笠に着て弱き者をおとしめる見下げ果てた輩、欺瞞(ぎまん)に満ちたこの世界……! 私は全てに絶望した! ただひたすら復讐の刃を研ぎ澄まし、今日この日の為に生きてきたのです!」



*



 その地に初めて足を踏み入れた時、12歳のシェスナはただ圧倒された。

 彼女の目の前に広がっていたのは、まるで未知の世界だった。

 見慣れない形状の建物が整然と立ち並ぶ、広大で美しい街並。石畳が敷きつめられた通りには目にも眩しい色鮮やかな色彩が溢れ、魔法王国と呼ばれる国の王都らしく長衣(ローヴ)を着た大勢の人々が行き交っている。軒を連ねる店には見たこともない珍しい品々が所狭しと並べられ、彼女の好奇心を大いに掻き立てた。

 街の最奥には断崖絶壁を背後にそびえ立つ巨大な建造物が見え、その重厚で荘厳な存在感がこの街に独特の雰囲気をもたらしているのだと、シェスナは子供ながらに感じ取った。

 -----大きくて綺麗な街。それに、何てたくさんの人がいるんだろう。

 ドヴァーフの北西の辺境にあるガゼ族の村からこの日初めて外の世界に触れたシェスナは、琥珀色(アンバー)の瞳を感動に揺らし、食い入るようにその光景を見つめた。

 深い森に囲まれたガゼの村は植物達の緑の色と大地の土色、そして青く澄み切った空の色、この三色でほぼ構成されているような気がしたが、それに比べて、ここには何てたくさんの色が溢れているんだろう。

 住んでいる人々にしても纏う色彩がまるで違う。ガゼの者は浅黒い肌に金色の髪、そして金もしくは琥珀の瞳をしているものだが、ここの人々は肌の色だけでも白、黄、褐色、黒……と様々だ。髪や瞳の色にいたっては多彩すぎて挙げきれない。そして、その中でもことさらシェスナの目を引いた者達がいた。

 エルフやドワーフといった亜人種達だ。ガゼも分類上は亜人の一種とされるが、外見上は人間とほぼ相違ない。長く先端の尖った耳を持つ痩身で美麗な種族や赤ら顔のずんぐりむっくりした種族を興味津々で見やり、シェスナは小さく感動の息をもらした。

 あれが話に聞くエルフやドワーフ……初めて、見た。

 竜使い(ドラゴンマスター)としての鍛錬を積んでいる同い年の友人達は、最近は訓練がてら近くの町まで竜に乗って飛んでいくこともあり、シェスナは彼らから人間達の町の様子や外界の話などを聞いていた。その中に亜人種達の話もあったのだ。

 ガゼの中でシェスナの一族は代々占術師の役を担う異色の家系であり、その家に生まれついた彼女は幼い頃からその後継者として占術の道を歩むことを義務付けられていた。その為、同年代の子供達とは異なり、これまでは直接外の世界に触れる機会がなかったのだが-----。

「どうだい、シェスナ。初めての街は。驚いたかい?」

 頭上から降ってきた低く落ち着いた声の主を振り仰ぎ、シェスナは弾けるような笑顔で応えた。

「ええ、お父様。素晴らしいわ! みんなの話で聞いてはいたけれど、私、外の街がこんなにも大きくて立派なものだなんて思っていませんでした。すごいんですね!」

 興奮で頬を紅潮させる娘を見やり、ガゼの占術師トゥルクは整えられた顎髭をわずかに揺らした。

「はは、この街は外の世界でもまた特別だよ。我々ガゼの村があるこの国-----魔法王国ドヴァーフの王都……王様が住んでいる街だからね」
「勉強したから知っています。その王様に呼ばれて、私達は来たんですよね」
「ああ、そうだよ」
「わぁ……すごい!」

 父の言葉にシェスナは瞳を輝かせ、はちきれんばかりに胸を躍らせた。

 こんなに立派な街に住む王様がわざわざ自分達を招待してくれたのだ。ただでさえ浮き立っている心はますます弾んでいく。

 そんな彼女とは対照的に、トゥルクの傍らに立つ族長ホレットはいかめしい顔を曇らせ、街の奥にそそり立つ王城に鋭い眼光を投げかけた。

「ワシはどうも気が乗らん……あれほど巨大な城に住まうこの国の王が、何故(なにゆえ)ワシらガゼと親睦を深めたいなどと申し出てきたのか……」
「竜を操る技を持つのはガゼだけです。“竜使い(ドラゴンマスター)”の名は、大国にとっても脅威であると同時に、非常に魅力的な響きを持つ名でもあるのです。懇意にしておきたいという王の意図は充分に理解出来ると思いますよ」

 やんわりとそう返すトゥルクをちらと見やり、ホレットは難しい表情で続けた。

「なるほど、我々の技は彼らにとってひどく魅力的だろうな。それを手中にすれば国家としてのドヴァーフの力はより強大なものとなる。何かと不協和音の絶えない隣国、ウィルハッタとのパワーバランスを崩しかねんほどにな……。だからこそ、懸念が絶えん……余所者は誰も知り得ないガゼの村を、未開拓の森の奥深くに迷い込んだこの国の兵士が“偶然”発見し、それを知り得た国王から親交の書状が届く……出来すぎと勘繰るのは、ワシだけか?」
「歴史というものは、往々にして偶発的な事由によって端を発し紡がれていくものです。ドヴァーフの現国王オレインは革新的な思考の持ち主で、より良いものを積極的に取り入れようとする姿勢が見受けられます。人事においても、これまでの通例を打ち破り、魔力の有無に関わらず優秀な人材を登用しているようです。最近では、平民出の魔力を持たない男が騎士団長に就任したとか」

 それを聞いたホレットはむっつりと黙り込み、ややしてからぼそりと呟いた。

「固定概念に囚われぬ実利主義、というわけか」
「はい。ですから、彼が我々に興味を持つのは至極当然のことと言えるかと」

 鷹揚(おうよう)に頷くトゥルクを見やり、ホレットは溜め息をついた。

 占術師は代々族長の相談役を担い、その地位は実質的に族長に次ぐものとなっている。明晰な頭脳と類稀なる占術の能力で一族の長を助け、ガゼの未来を導いていくのが占術師に課せられた役目なのだ。

 シェスナの父トゥルクは代々の占術師の中でも稀代の能力を持つと言われ、その占術はこれまでに一度として外れたことがない。そんな彼に対するガゼの者達の信頼は厚く、族長であるホレットもその実力を認めていた。

「仮にも国王から書状が届いてしまった以上、無下には出来ません。新しい歴史の扉を開くには勇気が要りますが、それはきっと、これからのガゼの為になります。門戸が開かれればドヴァーフの様々な技術や学術はもちろん、豊富な物資と潤沢な資金が流れ込み、ガゼの暮らしは今まで以上に豊かになるでしょう」
「うむ……」
「時代は移り変わっていくものです。ご存知のように、私の水晶も吉兆を示しました。大丈夫ですよ」

 なおも浮かない表情のホレットだったが、トゥルクにそう促され、腹を決めた。もともと村でさんざんこの議論が尽くされた末に王都へ赴くことが決定し、彼らは今ここにいるのだ。

 そのメンバーは族長であるホレットと占術師のトゥルク、そして護衛役の竜使い(ドラゴンマスター)二人の四名で、シェスナの同行はガゼの村から外へ出たことのない娘を慮(おもんぱか)るトゥルクの申し出によって実現したものだった。早くに妻を亡くしたトゥルクは、一人娘であるシェスナを大変可愛がっていた。

「参りましょう」

 大人達が歩き出したその後を追って、シェスナも歩き出した。これから何が待ち受けているのか、溢れんぱかりの期待に、その小さな胸を膨らませて。



*



 ドヴァーフの王城は、何もかもがシェスナの想像を超えていた。

 風を受けて翻る、両翼を広げた白竜(ホワイトドラゴン)の旗。それが幾つも掲げられた、壮大で堅固な城壁。立派な門をくぐり抜けた先にあったのは、厳粛な空気の漂う格調高い様式の広々とした空間だった。長衣(ローヴ)を着た魔導士達や甲冑姿の騎士達が行き交う広大な回廊の向こうには色とりどりの花が咲き誇る手入れの行き届いた美しい庭園が臨め、時折すれ違うきらびやかな衣装に身を包んだ貴婦人達や豪奢な装束を纏った要人達など、その全てがシェスナの目を奪った。

 やがて通されたひと際荘厳な雰囲気のフロアの中央にはふかふかの赤い絨毯がひかれ、その最奥の壇上には玉座に深々と腰下ろした国王オレインとその王妃イレーネがいた。大人達が難しい挨拶を交わしている間、シェスナの目は常に周囲へと注がれていた。

 国王夫妻の傍らには身なりの良い二人の少年がいた。一人はシェスナと同じくらいの年頃で栄養の行き届いたぽっちゃりした頬をつやつやさせている。もう一人は少年、というよりは青年と呼んだ方が良さそうな年頃だった。理知的な顔立ちで、高貴なオーラを醸し出している。

 後になって、それがこの国の二人の王子だということを父に教えてもらった。兄弟にしてはずいぶんと似ていないものだとシェスナは思ったが、この時はそれをさほど気に留めることはなかった。

 その夜催された晩餐会では、贅を凝らした、見たこともない繊細で美しい盛り付けの料理が食べきれないほど出された。絢爛豪華なその料理はとても美味で、耳慣れない音色の音楽が流れる華やかな宴の中、シェスナは興奮しきりだった。ガゼの正装に着替えた父達はドヴァーフの要人達に囲まれて、終始忙しそうにしていた。

 その夜、割り当てられた立派な客室のベッドの上で、シェスナは父からこの国にしばらく滞在することになった旨を伝えられた。もちろん、シェスナは喜んだ。

 ガゼの村とは何もかもが違うこの街で、まだしばらく色々なものを見聞きしたかった。

 彼女の胸は、希望で満ち溢れていた。



*



 翌日から、父達は度々国王と話し合いの席を持つようになった。その間シェスナは一部の立ち入り禁止区域を除いて王城内を自由に歩き回っても良いとの許可をもらい、あちらこちらを見て回るようになった。

 広大な敷地内はともすれば迷子になってしまいそうな広さだったが、方向感覚の鋭いシェスナは入り組んだ城内の配置図をすぐに覚え、一度通った道を間違えることはなかった。

 城内にあるものは全てが目新しく新鮮で、彼女を飽きさせることはなかった。

 そんな生活が三日ほど続いた頃。

 シェスナはふと、自分を呼んでいる“声”に気が付いた。

 明確な“声”ではない。それは、この城に足を踏み入れてから薄々感じ続けていた気配だった。

 最初は気のせいと思う程度のものだったのだ。けれどその何かは日増しにその存在感を増し、彼女の心を揺らすようになっていた。

 その気配が、呼んでいる。

 花壇の花を愛でていたシェスナは立ち上がり、導かれるようにその“声”のする方へと向かって歩き始めた。

 近づいていくにつれて、次第に“声”は強くなっていく。

 ある場所でシェスナは足を止めた。それは、立ち入りを制限されている区域との境界地点だった。意図的に植樹された観賞用の木々がその先の視界を遮っている。そちらから、“声”は聞こえてきていた。

 シェスナは木々の間に頭を突っ込み、息を殺してそちらの様子を窺った。遠くに、厳重な法印の施された古い扉が見える。扉の前には二人の兵士が見張りに立ち、周囲には結界が張り巡らされているようだった。

 その時、不意に背後から肩を叩かれ、シェスナは飛び上がらんばかりに驚いた。慌てて木の間に突っ込んでいた頭を抜き、振り返ると、そこに立っていたのは父トゥルクだった。

「お父様……!」

 怒られる、そう覚悟してシェスナは父に向き直ったのだが、その口から出た言葉は意外なものだった。

「お前もあれを感じたのか、シェスナ」

 その言葉で、シェスナは父にも自分と同じ“声”が聞こえていたのだということを悟った。

「はい……」
「そうか……さすがは私の娘だ」
「あの……お父様、この“声”はいったい……?」

 尋ねるシェスナの肩を抱き、ゆっくりと踵(きびす)を返しながらトゥルクは言った。

「“声”……あぁそうだね、これは……確かに我々を呼ぶ“声”だ」
「……?」
「シェスナ、これから言うことは二人だけの秘密だ。いいかい?」

 見上げた父の顔は、いつもと同じ穏やかな顔だった。だから不思議に思いながらもシェスナは頷いた。

「? はい……」
「いい子だ」

 瞳を細めて娘の金色の髪をなでながら、トゥルクは声のトーンを落として語り始めた。

「この“声”の主は、『真実の眼』と呼ばれる古代の黒水晶-----この国に古くから伝わる、門外不出の秘宝なんだ」
「しんじつのめ……? ひほう……?」

 父が何を言い出すのかとっさには理解出来ず、シェスナは琥珀色(アンバー)の瞳を瞬かせた。

「真実の眼という呼び名は、読んで字の如く。それを手にした者は、己の意思に関わらずあらゆる“真実”をその目にするのだという。だが、これまで真実の眼を手にした者達は、そのことごとくが廃人となってしまった。いずれも真実の眼の力に引きずられ、己を見失ってしまったのだ」

 父の話を聞いて、シェスナは何だか怖くなった。あの“声”にそんな不吉な印象は受けなかったのだが、実はとても恐ろしいものだったのだろうか。

 そんな娘の様子を察したトゥルクは少し笑って、言葉を続けた。

「シェスナ、何も怖がることはない。真実の眼自体は、そう悪いものではないのだよ。ただ、それを扱う人間の側に力が足りなかったというだけだ。真実とは、時に残酷なものでもあるからね。精神的に強い者でないと、その全てを受け止めきれないんだ」
「……その真実の眼は……どうして、私達を呼ぶの……?」
「私達も真実の眼と同じ、“真実”を扱う者だからだよ」

 あ、と声を上げて、シェスナは肌身離さず持っている懐の水晶球に服の上から触れた。

「そう、我々占術師は時に、過去や現実のあらゆる“真実”を水晶球の中に映し出し、更には未来に起こり得る出来事を“予兆”として導き出す。時が経ち、“予兆”が“現実”になれば、それは未来に於ける“真実”を映し出していたことになる。……優れた占術師は、常に“真実”の傍らにあるものなのだ」
「だから、真実の眼は私達を呼ぶのですか? 真実を扱う仲間だから……?」
「真実の眼は、自らの使い手を求めているんだよ。先程少し話したように、今までに真実の眼を手にした者達は誰もその力を扱いきれず、ことごとくが壊れてしまった。故に、真実の眼は諸刃の凶宝として人々に恐れられ、今では地下深くに厳重に封印されてしまっている。そこから解放してくれる者を、真実の眼は求めているんだよ。我々のように感覚の鋭い者には、その“声”が聞こえる」

 シェスナは先程見た物々しい警備の風景を思い浮かべた。

「……何だか、可哀相ですね……。私達以外に、この“声”は聞こえないんですか?」
「さぁ……もしかしたら、私達の他にも聞こえている者がいるのかもしれないがね。でも、あれだけ厳重な封印下だ。あの微かな“声”が聞こえる者はほとんどいないと言っていいだろうね」

 トゥルクはゆっくりと膝を折り、シェスナの瞳を正面から見つめてこう言った。

「真実の眼は、この国の秘宝だ。普通の人々はその存在さえ知らない、秘密中の秘密なんだ。その“声”が我々に聞こえていると知られたら、大変なことになってしまう。……シェスナ、決してこのことを他の人に言ってはいけないよ。族長達にもだ」

 肩に置かれた父の手に、力がこもる。これはとても大事なことなのだと子供ながらに悟って、シェスナは緊張した面持ちで深く頷いたのだった。



*



 それからほどなく、シェスナの父トゥルクは毎晩のように国王オレインの私室へと召されるようになった。

 族長ホレットの話によれば、トゥルクの占術の力に魅せられた国王が毎晩様々な占いを依頼しているらしい。

「面倒なことにならなければいいが……」

 国王のトゥルクへの執着をホレットは危惧しているようだった。

「族長様、大丈夫ですよ。お父様はガゼの民だもの。いくら国王様に気に入られたって、お父様の居場所は族長様の隣と決まっているのですから」

 そう言うとホレットは苦笑いをして、そうだな、と呟きながらシェスナの頭をなでた。普段鷲のように鋭いその瞳がこの時深い懸念の色を帯びていたことに、子供のシェスナは気付くことがなかった。

 毎晩広い客室で傍らの空のベッドを見つめながら、シェスナは真実の眼の“声”を子守唄代わりに寝るようになっていた。

 そんなある夜、不意にその“声”が途絶えた。うつらうつらしていたシェスナは、しばらくして感じた、身体を突き抜けるような強い歓喜の渦に驚き、飛び起きた。

 心臓が、すごい速さで脈打っている。

 -----何……?

 不穏な気配を纏った、強烈な感情の波動だった。

 汗で張りついた前髪をそっと指で払いながら、シェスナは早鐘を打つ胸を押さえた。何だか嫌な予感がした。

「シェスナ……!」

 その時、ノックの音と共にあせりを含んだホレットの声が聞こえてきた。ドキリ、とシェスナの胸がひと際大きな音を立てる。族長のこんな声を聞くのは初めてだった。

 急いでドアを開けると、飛び込むようにして部屋の中へ入ってきたホレットがベッドの近くに置いてあった荷物を手に取り、驚くシェスナの腕を有無を言わさずに掴んだ。

「ここにいてはまずい! 逃げるぞ!」
「!? え……!?」

 状況が飲み込めず目を白黒させるシェスナの腕を引っ張り、厳しい表情でホレットが促す。

「逃げるんだ、早く!」
「ま、待って族長様……! お父様は!?」

 シェスナの問いかけにホレットは一瞬押し黙り、沈痛な面持ちで彼女を見やった。

 その表情を見て、シェスナの胸に暗い戦慄が走る。

 息を殺す少女から視線を逸らして、呻(うめ)くようにホレットは言葉を紡いだ。

「……詳しいことは後で話す。今は、ワシの言う通りにするんだ」

 シェスナはもう何も言えなかった。胸に冷たい氷の刃が刺さったかのような錯覚。早鐘のように打つ心臓の音だけが頭の中に響き渡り、自分の腕を引きながらドアを開け放つホレットの後ろ姿がまるでスローモーションのように見えた。

 しかし、廊下に出たところで彼らは行く先を阻まれてしまう。甲冑に身を包んだドヴァーフの兵士達が剣を抜き放ち、辺りを完全に包囲していたのだ。

「族長……!」

 隣室から出てきた二人の竜使い(ドラゴンマスター)も同様にして囲まれている。

「くっ……!」

 唇をかみしめ、ゆっくりとホレットが両腕を上げる。あまりにも多勢に無勢な状況だった。

 ガゼ族に抵抗する気がないことを確認してから、ドヴァーフの兵士達が無機質な金属音を響かせ、ゆっくりと近づいてくる-----シェスナはまるで悪い夢でも見ているかのような心地でその光景を見つめていた。

 悪い夢、本当にそうであると、思いたかった。



*



 地下にある冷たい石造りの牢獄にシェスナ達は押し込まれた。シェスナとホレットは同じ牢に、二人の竜使い(ドラゴンマスター)はその隣の牢に入れられた。

 荷物や身に着けていた超音波笛は取り上げられ、着の身着のままとなったガゼ族達は為す術もなく、石造りの壁にその怒りをぶつけた。

「くそっ……! こんな所に押し込めやがって!」
「オレ達が何をしたっていうんだ!」

 地下牢に反響する竜使い達の怒りの声を聞きながら、シェスナはただ身体を震わせて泣いていた。

 怖かった。わけも分からないうちに様々な恐怖がいきなり自分の上に圧し掛かってきて、ひどく怖かった。

「お父様……お父様、助けて……」

 小さくなって泣きじゃくるシェスナの背を、ホレットのしわがれた腕がゆっくりとなでる。

「シェスナ……」
「族長様……お父様は……お父様は、どこに、いるの……?」

 そう問いかけると、ホレットの顔が再びあの沈痛な表情を作り出した。

「シェスナ」

 涙を溢れさせながら、シェスナは覚悟を決め、震える声で恐ろしいその言葉を紡ぎだした。

「亡くな、って、しまった、の……?」
「……。おそらく、な……」
「うっ……うそ……そん、なっ……」

 声を詰まらせ、顔をくしゃくしゃに歪めるシェスナをホレットが抱きしめる。その胸にしがみつき、シェスナは慟哭(どうこく)した。

「どう、して……どうしてぇっ……!」
「-----トゥルクはその占術能力の高さ故に、知ってはならないことを知ってしまったのだ……」

 重々しい口調でそう告げるホレットを見上げ、しゃくりを上げながらシェスナは尋ねた。

「知っては、いけないこと……?」

 真実の眼について語った時の父の顔が、脳裏をかすめる。

「族長、それはいったい何なのですか!?」

 壁越しに二人の会話を聞いていた竜使い達がそう問いかけてきた。

「ワシにも分からん……ワシ達に迷惑が及ぶといけないと言って、トゥルクはそれを決して口にはしなかった……」

 瞳を伏せてそう話していたホレットは突然ハッと口を閉ざし、扉の方を見やった。彼の視線の先を追ったシェスナは恐怖に息を飲み、思わずホレットにしがみついた。

 いつの間に現われたのか、大柄な甲冑姿の男が鉄格子の向こうから不気味な視線をシェスナ達に注いでいたのだ。

 地下牢を申し訳程度に映し出す薄暗い灯りを浴びて伸びたその影は、ひどく大きく、不吉なものに見えた。

「浅黒い肌に金の髪と瞳……ガゼの者達だな」

 確認する口調の低い声は、言いようのない冷たさを含んでいた。

 沈黙を守り様子を窺うガゼの者達の前で、男はおもむろに牢獄の鍵を取り出すと、無言で竜使い達の房の扉を開け始めた。

 もしかして、この男は自分達をここから出してくれるつもりなのか-----息を詰めながらその動向を見守っていたシェスナの淡い期待は、無残にも肉を斬る音と共に打ち破られた。

「ぎゃあッ!」
「ぐあッ!」

 悲痛な竜使い達の叫びに混じって、幾度も幾度も響き渡る、肉を貫く生々しい音-----口元を押さえ、青ざめるシェスナを背にかばうようにして、ホレットが牢獄の奥へ後退(あとずさ)る。

 やがて男は、血染めとなった甲冑姿を二人の目の前に現した。

「さ……先程の話を聞いていただろう! 我々は、何も知らぬ!」

 叫ぶホレットの声など耳にも入らない風情で、男は淡々と牢の鍵を開けにかかる。ガチャリ……と冷たい金属音が響き、牢の扉が開いた瞬間、恐怖と混乱とで、シェスナは頭がどうにかなりそうになった。

「本当だ! 我々は、何も……!」
「そんなことはどうでもいい」

 切迫したホレットの叫びを遮り、抑揚のない声で男は告げた。

「ガゼとドヴァーフに親睦を深められては、困るんだよ……」

 絶句し目を瞠るホレットの前で、血塗られた長剣が薄暗い光を反射して禍々しい輝きを放った。

「-----ま、待て! ワ、ワシはいい……せめて、この子だけは……」

 哀願する無力な者を嘲笑うかのように、殺戮者の刃がゆっくりと振り上げられる。ホレットの背中越しに、シェスナはただただ震えながら、涙で歪む無慈悲なその光景を見つめていた。

 その時だった。

「何をしている!」

 鋭い声と共に、振り返った男の向こうで金属と金属のぶつかり合う重い音がした。一合、二合、三合-----火花を散らしながら続けざまに激しい剣戟が展開され、四合目に男は血飛沫を上げて崩れ落ちていた。

「この太刀筋は-----」

 わずかな驚きを含んだ低い声-----崩れ落ちた男の陰から現われたのは、メタリックホワイトの全身鎧(バトルスーツ)に鮮やかな濃い緑色(グリーン)の外套を纏った一人の騎士だった。

「貴殿は-----」

 その姿を目にしたホレットが驚愕の声を上げる。

 屍と化した暗殺者をしばし凝視していたその騎士は、顔を上げシェスナ達の元へ歩み寄ってきた。

「ケガはないか?」
「あ、あぁ、我々は……だが……」

 その様子を見た騎士は隣の房を覗き込み、暗い表情で首を横に振った。

「申し訳ない。私がもう少し早く駆けつけていれば……」

 トン、と壁に背を預け、シェスナはずるずるとその場に座り込んだ。

 父が死に、今また、見知った二人の竜使いが殺された。自分自身ももう少しで殺されるところだったのだ。

 茫然と見開かれたままの琥珀色(アンバー)の瞳から、とめどのない涙が流れ落ちる。

 彼女が受けた精神的なショックは、あまりにも大きなものだった。

 そんなシェスナを痛ましげに見やりながら、ホレットは窮地を救ってくれた精悍な顔立ちの騎士に問いかけた。

「この男は……」
「ドヴァーフの甲冑を着てはいるが、どうやら我が国の兵士ではなさそうだ」
「……。いったい、何が起こっている?」
「私もまだ全てを把握してはいない。だが、色々と入り組んだ事態が勃発していることだけは確かだ」

 静かな、だが強い意志を秘めた黒茶色(セピアブラウン)の瞳が真っ直ぐにホレットを貫く。

「族長-----この一連の件の発端となったあらましを、貴方はご存知のはずだ」
「…………」
「私はこの国の中枢に関わる人間の一人-----国家の威信が揺らぐ事態は避けたいところだ。……単刀直入に申し上げる、お互いの為に取引がしたい。こんなことは本意ではないが、今は時間がない。いかがだろうか」

 深く照射し、全てを見抜くような騎士の瞳-----唇を結んでいたホレットは肚(はら)を決め、深い吐息と共に頷いた。

「……話を聞こう」



*



 茫然自失としていたシェスナは、ホレットに強く肩を揺さぶられ、虚ろな視線を彼へと向けた。

「シェスナ、しっかりするんだ。ここを脱出するぞ」
「脱……出……?」
「ああ、そうだ」

 魂が抜けたようになってしまった少女の顔を覗き込み、涙の痕の乾かない幼さの残る頬をかさついた指で拭いながら、力強くホレットは言った。

「生きて、村に帰るんだ」

 生気を欠いていたシェスナの瞳にわずかな光が戻ってくる。

「村へ……」
「そうだ。村へ帰るぞ」

 おぼつかないシェスナの身体を抱きかかえるようにして、ホレットは立ち上がった。その彼へ荷物と超音波笛とを手渡しながら騎士が言う。

「屋上へ向かう。そこで竜を呼び、貴方達は村へ-----時間がない、行こう」

 階段を上り牢獄のある地下から地上へと出ると、城内は騒然とした空気に包まれていた。

 大勢の者がせわしなく動き回る気配、話し声。辺りには異常を知らせる警笛が鳴り響き、由々しき事態が起こっていることを知らしめている。

 緊張で身体を硬くするホレットとシェスナを振り返り、落ち着いた声で騎士は言った。

「心配しなくていい。貴方達のことは、この命に換えても私が必ず守り抜く」

 その声には不思議な力強さがあった。

「-----走るぞ」

 先導する騎士の後を追い、シェスナ達は走り始めた。

 シェスナの思考は半ば麻痺していた。自分のあずかり知らぬところで勝手に事態が進んでいく。何が何だか、訳が分からない。

 つい先刻まで、自分は確かに平穏な日常の中にいたはずなのに。何故自分達は捕えられ、殺されかけ、そして今、生き延びる為に決死の脱出を図っているのか。父と二人の竜使いは、何故殺されなければならなかったのか。何故、何故。

 -----いったい、何故!

「これはこれは、騎士団長殿」

 どのくらい走り続けたのか、息苦しさで目がくらむ頃、鼻にかかった嫌味な声がシェスナ達の行く先を遮った。

「……ロイド卿」

 足を止めた騎士の前に立ちはだかったのは、きらびやかな甲冑に身を包んだ壮年の痩躯の男と、その背後に控える十人ほどの兵士達だった。

「謹慎中の身であるはずの騎士団長殿とよもやこんなところでお会いするとは、思いもよりませんでしたよ。しかもどういうわけか、罪人として捕えられたはずの蛮族達を伴っていらっしゃる……」
「口を慎んでいただきたい。彼らは罪人ではありません」
「ほう。どういった根拠に基づかれてそう仰られる? 返答いかんによっては貴方を拘束せざるを得ませんよ」
「今は貴方と論述を交わしている暇はありません」
「……残念ですよ、鋼の騎士殿-----魔力を持たない平民出でありながら騎士団長の位にまで上り詰めた歴史に於ける寵児、それをまさかこんな形で捕えることになろうとは-----」

 言葉だけはどこまでも丁寧に、しかしその裏には隠す気もないあからさまな悪意をこめて、ロイド公爵は薄い唇を歪めた。

「-----捕えろ!」

 裏返り気味の号令に従って兵士達が動いた次の瞬間、濃緑の外套を纏った騎士は目にも止まらぬスピードで剣を抜き放ち、それを振るっていた。

「先に剣を抜いたのはロイド卿、貴方達の方だ-----」

 苦悶の声さえもらせぬまま数人が吹き飛ばされ、派手な音を立てて転がった。

「-----こっちへ! 早く!」

 目を瞠るシェスナ達を振り返り、騎士が促す。自慢の兵士達が一瞬にして昏倒させられ茫然としていたロイド公爵は我に返り、慌ててわめき散らした。

「な、何をしている! 早く捕えろ! 相手はたった一人、あとは老いぼれと小娘だぞ!」
「はっ、し、しかし……」

 たった今見せつけられた相手の圧倒的な力量と『鋼の騎士』の名の前に、残りの兵士達は萎縮し、二の足を踏む。それを見たロイド公爵は真っ赤な顔で憤慨しながら叫んだ。

「ええい、この腰抜け共が! 応援だ、応援を呼べ! 奴らを逃がすな!」

 金属音を響かせ、背後から大勢の兵士達が追ってくる。シェスナは必死で階段を駆け上った。もうどれくらいの段数を上ったのだろう。石造りの階段は、果てしなく続いているように思えた。

 足が鉛のように重い。肺が酸素不足を訴える。心臓が爆発しそうだ。後ろから時折聞こえる剣戟の音が、朦朧としかけるシェスナの意識をかろうじて保ち、両の足を動かせ続ける。

「シェスナ、扉だ!」

 ホレットのその声にシェスナはハッ、と目を見開いた。視界の先に、永劫に続くかと思われた階段の終わりが見える。そしてそこには屋上へと続く扉があった。

 体当たりをするようにして、シェスナとホレットは扉を開け放った。夜のひんやりとした空気が頬をなで、漆黒の空に浮かぶ満月の明りが冴え冴えと二人の影を映し出す。

 屋上の端まで移動して、ホレットは超音波笛を吹いた。それに導かれるようにして、濃緑の外套を纏った騎士とそれを追った兵士達とが屋上になだれ出てくる。

 時同じくして、月夜を滑空する影が現われた。ホレットの呼んだ翼竜だ。翼竜は主の待つ屋上で大きなその翼を羽ばたかせると、気流を生みながらゆっくりと舞い降りてきた。

「竜に乗って逃げる気だぞ!」
「阻止しろ!」

 その様子を目の当たりにした兵士達が叫びながら駆け寄ってくる。怯えて振り返るシェスナの前で、その間に立ちはだかった騎士が剣を振るった。

 衝撃が、夜の闇を駆け抜けた。

 凄まじい音を立てて屋上に亀裂が走り、巻き起こった剣圧で一斉に兵士達が吹き飛ばされる。

 目を疑うような光景に息を凝らすシェスナの前で、月の光を纏った騎士はゆっくりと振り返り、黒茶色(セピアブラウン)の真っ直ぐな眼差しを竜に乗ったガゼの者達へと向けた。

「約束は果たした」

 その言葉にホレットは重々しく頷き、孤高の騎士に約定の誓約を述べた。

「誇り高きガゼの名に於いて、契りは違(たが)えない」

 一瞬視線を交し合った後、ホレットは再び超音波笛を吹いた。翼竜が主の意図に従い、大きな翼を羽ばたかせて屋上から飛び立ち始める。湧き起こる気流に煽られて、見送る騎士の深い緑色の外套が大きく揺らめいた。

「ぞ、族長様、あの人は-----」

 てっきり騎士も一緒に逃げるものだと思っていたシェスナは戸惑いながらホレットを振り返った。

「彼はここに残る。為すべきことがあるのだ」
「で、でも-----」

 シェスナは上昇する翼竜の背からゆっくりと遠くなっていく騎士の姿を見下ろした。屋上に大きく走った亀裂の向こうで、倒れていた兵士達が一人また一人と起き上がり、剣を構えるのが見える。

 こんな、敵だらけの中にたった一人で、この人は残るというのか。こんな状況で、果たして彼は大丈夫なのだろうか。

 子供心にも無茶だ、と思ったその時、長衣(ローヴ)を身に纏った一団が屋上になだれ出てきた。

「ええい、逃がすな! 撃て撃て! 撃ち落とせぇッ!」

 扉の奥から一番最後に出てきた、きらびやかな甲冑姿のロイド公爵がいきり立って叫ぶと同時に、幾つもの炎の矢が夜空を走り、シェスナ達のすぐ側を唸りを上げて通り抜けていった。

「くっ! 魔導士共か……!」

 ホレットは翼竜を操り、その首の向きを王城の方角へ変えると、呪文を唱える魔導士達へ向かって炎の洗礼を浴びせた。

「ぎゃっ! ふ、防げっ!」

 悲鳴を上げるロイド公爵の前で魔導士達が結界を張り、翼竜の火炎を防ぐその場へ、濃緑の外套を纏った騎士が剣で斬り込んだ。魔導士達がどよめき混乱するそこへ更に騎士を捕えんとする兵士達がなだれ込み、屋上はにわかに乱戦状態となった。

 その隙を狙ってホレットは翼竜をぐん、と上昇させると、王城上空を一度旋回するようにした後、ガゼの村へと向けて飛び去った。

「蛮族が火を放って逃げたぞー!」

 翼竜の背の上に伏せるようにして後ろを振り返ったシェスナの耳をかすめた、誰かの声。遠ざかっていく王城、混迷の最中見えなくなっていく、名も知らぬ騎士の姿。

 いったい何の涙なのか、よく分からない涙が後から後から溢れ出て、ドヴァーフの夜空へと散っていく。

 涙で滲む夜の王都は、何故か赤い炎の光に彩られ、きな臭い匂いを放っていた。

「これは、いったい-----」

 驚きの声を上げながら紅蓮の炎を吹き上げる眼下の街並を見下ろしていたホレットは、次の瞬間、夜空に突如走った眩(まばゆ)い閃光にハッと顔を上げ、そちらを見やった。彼と同じようにそちらに視線を送ったシェスナは、驚愕の光景に言葉を失った。

 純白の巨大な竜(ドラゴン)が漆黒の闇を切り裂き、王城上空に出現していたのだ。

 街を飲み込む炎が赤々と夜の闇を照らし出す中、満月の下でひと声高く啼(な)いたその姿は、どこか物哀しげに感じられた。

 月夜に浮かぶ白竜の姿を最後に、シェスナ達は王都の空を疾走し、離脱していった。



 この夜の出来事は、『紅焔(こうえん)の動乱』の名でドヴァーフ史上に遺されることとなる。



 国王オレインとその王妃イレーネは何者かによって殺害され、王家の秘宝『真実の眼』は忽然とその姿を消した。

 王都は大規模な火災に見舞われ、数千人にも及ぶ死傷者を出した。

 父王の死去により即位した新国王レイドリックは全力を挙げて王都の復旧に取り組み、動乱の真相究明に当たったが、混乱の残る現場では思うような調査がままならず、現在に至るまでその真相は明らかにはなっていないとされる。

 そんな中、脱獄した蛮族達が街中に火を放って逃げたのだという噂がまことしやかに囁かれ、ドヴァーフ中へと広がっていった。王家の秘宝を盗み出し、国王夫妻暗殺を企てた蛮族達が、逃走の時間を稼ぐ為にそれをやったというものだ。その首謀者は、蛮族の占い師であったと噂された。

 公式の発表がなく、その噂を王家が否定も肯定もしなかった為、世間ではそれが事実上の真実として認識されていった。

 罪深い蛮族達の脱獄を手助けしたとされる一人の騎士が国王レイドリックによって騎士資格を剥奪され、事実上の追放をされたのち、異国で非業の死を遂げたという噂をシェスナが知ることになったのは、それからだいぶ後になってのことである-----。
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