家の前に小さな菜園がある以外は何もない、周りを一面の緑に囲まれたガラルドの故郷だ。
フユラの空間転移の呪術でガラルドの育ての親である年老いた呪術師の家へと戻ってきた二人は、二人の生命を繋ぐ呪術が解けたことを報告がてら、アヴェリアで起こった一連の出来事と、二人の関係性の変化を伝えに来ていた。
ガラルドの子供を見るまではくたばれない、と日頃から公言してやまない老呪術師は、その報告に小躍りせんばかりに喜んだ。
「そうか、そうか! いやあ、まとまるようにまとまって良かった、良かったわい! フユラちゃん、ありがとうのぅ! ガラルドは果報者だ、こんなに若くて綺麗でしかもよく出来た娘(こ)と一緒になれて……! ああ、ガラルドが変な意地を張らずに自分の気持ちに素直になれて、本当に良かった……! こんないい娘を逃(のが)しちまうんじゃないかと、ワシはもう気が気じゃなかったわい!」
フユラの手を取りながら感極まって涙ぐむ育ての親に、ガラルドは居心地悪げに苦言を呈した。
「何だよ、それ。人の気持ちを見透かしてたみたいな言い方しやがって……」
「ワシから言わせればダダ漏れだったぞ、ダダ漏れ! それを頑なに認めん空気を出しとるから、下手に口を出しても意固地になるだけだと思って、ワシがどれだけヤキモキしていたか……!」
フユラが空間転移の呪術を習得して以来、度々この家に顔を出すようになっていた二人の変化を一番敏感に察していたのは、この老呪術師だったのかもしれない。
「やれやれ、とにもかくにもこれでひと安心だわい。長い人生を持て余してフラフラとあてのない旅をしとったお前が、こうして一緒に生きていく相手を見つけてワシに報告しに来てくれるとは、今日はほんにめでたいのう。老骨に鞭打って待っとった甲斐があったわい。こうなると、一番の功労者はフユラちゃんのお母さんだったと言えるかもしれんのう」
「ちっ……安心してポックリ逝くんじゃねぇぞ」
慣れないこそばゆさから憎まれ口を返しながら、確かに育ての親の言う通りかもしれない、とガラルドは思っていた。
ああいった形でフユラと運命を繋がれた時はとんでもない災厄に見舞われたと自分の境遇を大いに呪ったものだったが、結果的にはそのおかげで様々な出会いを得、思いもよらなかったことを知り、これまで見えていなかったものに気付くことが出来、大切なものを取りこぼさずに済んだ。
そして何より、共に人生を歩んでいくかけがえのない相手を得ることが出来た。
「おじいちゃん、じゃなくてえーと、……お義父さん? て呼んだ方がいいのかな?」
はにかみながら老呪術師にそう尋ねるフユラに相手は相好を崩した。
「お義父さんか! いいのう! もう一度言ってくれ、フユラちゃん!」
「お義父さん?」
「くぅーっ、いいのう! ガラルド、ワシはまだポックリ逝かんぞ! ずーっと言っとる通り、ワシは死ぬのはお前の、いやお前達の子供を見てからと決めとるんだ!」
ウキウキと今にも寝室を整えだしそうな勢いの育ての親に、ガラルドは待ったをかけた。
「いや、気が早ぇ! 言っとくけどな、オレはフユラが成人するまではそういう行為(コト)はしねぇって決めてんだ。仮にも保護者だった者としての責任ってモンがある」
「えっ?」
このガラルドの発言には老呪術師ばかりかフユラまできょとんとした顔になった。
「えっ、そうなの?」
「いや、そりゃ、そうだろ……お前の成長を見守ってきた者としては、よ……。果たさなきゃいけねぇ責任ってモンがあるし、お前の親やスレイドにも顔向け出来ねぇだろ……」
赤くなって歯切れ悪く押し黙るガラルドに老呪術師がボソリと呟く。
「据え膳食わぬは男の恥とも言うがのぅ……」
「ああ!?」
「いやいや、ま、それだけフユラちゃんに対して責任を持とうとするお前の気持ちは尊重すべきだろうな。老い先短い者としてはちぃともどかしいが、まあ楽しみが先に延びたと思えばいいか。フユラちゃんが成人するまで生殺しを己に課すとは、昔のお前からすれば考えられんのう。愛だの、愛」
「くっ、てめぇはいちいち……! 分かったんなら当分くたばらねぇで待ってろってんだ!」
癇癪を起こすガラルドと老呪術師とのやりとりを照れくさくも微笑ましく見守りながら、素直な言い方じゃないなぁ、とフユラは苦笑をこぼした。
つまりはお義父さんに長生きしてほしい、ってコトだよね……まあ、そう素直に言えないのがガラルドなんだろうけど。
*
その夜、ガラルドの部屋でひとつしかないベッドに二人で横になりながら、フユラは就寝前のひと時を彼と語らって過ごしていた。
元々この家に泊まる時はこうして二人で一緒に寝るのが通例だったし、宿の部屋がいっぱいで一室しか取れない時も同じ部屋でひとつのベッドで眠ったりしていたので、二人の関係性が変わった今も、フユラ的には大きな意味での変化はない。
ただ、以前は甘えたりねだったりしてもけんもほろろだったガラルドの態度が関係性が変わった後はだいぶ軟化して、フユラの要望をずいぶんと聞き入れてくれるようになった。
ぎゅっとして、とお願いすれば優しく抱きしめてくれるし、おやすみのキスをして、とねだれば額にそっとキスを落としてくれる。
その度にガラルドと本当に恋人同士になれたんだ、という実感が湧いて、フユラは転げ回りたくなるくらい嬉しかった。
つまりフユラは現状にとても満足していて、昼間のガラルドの「成人するまでは」発言を意外には思ったものの、それを深く掘り下げて考えてはいなかったのだ。
大好きな人がいて、その人と心が通じ合えて、こうしてくっついていられるだけで、彼女はとても幸せだったから。
「お義父さん、喜んでくれて良かったね」
ニコニコと屈託なく笑いかけるフユラに、ガラルドは軽い溜め息を吐く。
「ああ。年甲斐もなくはしゃぎすぎだっての」
「ふふ。あたしはあんなふうに喜んでもらえて嬉しかったけどなぁ。……ねえ、『あたしが成人するまではそういう行為はしない』ってガラルド言ってたけど、いつからそんなふうに考えてたの? ガラルドがそんなふうに考えてたって知らなかったから、ちょっとビックリしちゃった」
「あー、あれは……」
ガラルドは少し気まずそうに目を逸らしながら言った。
「悪(わり)ぃ。あいつに先に言うんじゃなくて、まずお前とちゃんとそういうことについて話し合っておくべきだったよな。あれはオレの中にあった大人としての常識っつうか、一線っつうか、けじめっつーか……お前のことを大切に思っているからこそ、なし崩し的に関係を進めたくねぇと思って。お前は心身共にまだ成長途中なんだからよ……ちゃんと色々段階を踏んでからにしてぇと思ったんだ。あんな託され方をしたとはいえ、オレはお前の母親からお前のことを頼まれたワケだし……最低限の責任は持ちたいっつーか」
それを聞いたフユラは胸がじんわり温かくなるのを覚えた。
「……ガラルドって本当に、あたしのこと大事に思ってくれてるよね」
顔が緩んで嬉しさを隠しきれないフユラのおでこを、ガラルドが軽く指で弾く。
「いたっ」
「……ところで、お前は『そういう行為』が何を示すか分かって言ってんのか?」
少し意地悪く微笑んでお返しのような質問をするガラルドに、フユラはほんのり頬を染めながら答えた。
「えっ? ええっと……キス以上の、行為?」
「キス以上の行為が具体的にどういうものなのか、ちゃんと分かってんのか?」
「シュ、シュリさんから教えてもらったからちゃんと知ってる……」
旅の薬師(くすし)シュリから生理について説明を受けた際、性についての知識もフユラは一応聞き及んではいた。が、口頭でたった一度聞いただけの彼女の知識は鮮明ではなく、そこに至るまでの一連の流れなどもちろんよく分かっていない。
子供を成す行為の最終工程だけを知っているような状態の彼女は、ガラルドとの触れ合いの終着地点がそこであることに唐突に思い至り、顔から火を噴きかねない様相になった。
―――あ、あたし、スッゴく気軽に「そういう行為」とか言っちゃっていたけど、ものスゴいこと言ってた!
そんなフユラの様子を見たガラルドがたまりかねたように吹き出した。
「わ、笑わないでよ〜!」
真っ赤になって抗議するフユラの頭にポンポンと手を置いて、どこか楽しげにこう諭す。
「別に成人したからすぐにどうこうしなけりゃってワケじゃねぇし、ゆっくりで構わねぇよ」
この調子だと、成人してからも彼女の準備が整うまではしばらくかかりそうだ。
性に関するあれこれをキチンと教えてこなかったガラルドの責任でもあるのだが、そういう知識のほとんどないフユラのことだ、こういうことになるだろうと予想はしていた。
「何か分からないことがあれば悩まないで聞けよ。教えてやるから」
長期戦の覚悟を決めつつ、保護者としての責任感も相まってフユラにそう声をかけると、これ以上ないくらい赤くなった顔で素っ頓狂な声を上げられてしまった。
「ええッ!?」
「いや、そりゃそうだろ……」
「そういう行為」の疑問質問を自分以外のいったい誰に聞くというのだ。恋人という関係になった以上、他の誰かにそういった知識を請われたくはない。
少しすねたような面持ちになったガラルドを見たフユラは、色々な意味で許容限界を来(きた)し、不自然な挙動になった。
「あっ、そ、そうか!? そりゃそうだね!?」
「ふはっ、何だそりゃ」
つられて再び小さく吹き出したガラルドに、フユラは胸の奥がきゅうっとしなるような感覚を覚える。
二人の関係が変わったあの日から、ガラルドはそれまで見せてこなかった様々な表情をフユラに見せてくれるようになった。
それはフユラにとって特別で、とても眩しく感じられるもので、まだ耐性のついていない彼女の心臓はそれにいちいち過剰反応してしまうのだ。
そう、今も―――フユラは穏やかによく笑うようになった精悍な顔立ちの青年に逸る鼓動を覚えながら、その指にそっと指を絡ませた。
「ガラルド……大好き」
そんな彼女の呟きに応じて、長い無骨な指が優しくこちらの指を握り返すと、彼がこつんと額を合わせてきた。
薄茶色の髪の合間から甘やかな光を湛えた緋色の双眸が覗き、熱のこもった低い囁きが少女の耳朶を甘くくすぐる。
「……オレもだ」
枕元に小さな灯りだけが置かれた部屋で、視界の悪さを補う為にほんのりと輝きを帯びた彼の瞳に、幸せで蕩けそうな顔をした自分が映っているのが見えた。
気持ちを伝えると、それにちゃんと答えを返してもらえる。自分と同じ、熱のこもった眼差しを向けてもらえている。
大好きな人と互いにちゃんと特別なのだ……それは、何て特別で幸せなことなのだろう。
幸福感で胸をいっぱいにしていると、ガラルドが繋いだ手をそっと持ち上げて、かつてフユラの左の手首にあった呪印の痕をたどるように柔らかく口づけてきた。
「あ……」
温かくてしっとりとしたくすぐったいようなその感触に、フユラは微熱を感じて思わず小さく声を上げてしまう。するとそんな彼女を捉えた蠱惑的な緋色の瞳が柔らかく細まり、見つめ合う二人の距離が縮まって、ゆっくりと互いの唇が重なった。
まだ少しぎこちないフユラの緊張を解きほぐすように、ガラルドがその熱でゆっくりと彼女の強張りを弛緩させ、思考まで溶かしていく。
互いの体温を感じながら流れていくこの甘く優しいひと時が、何よりも大切で愛おしかった。
フユラのふんわりとした銀色の髪に頬を埋めるようにして、しなやかなその肢体を腕の中に収めながら、ガラルドは自身に訪れた奇跡のようなこの出会いに感謝する。
自分の居場所を見出せずあてどなく彷徨っていた自分がまさか、こんなにも大切と思える存在に巡り合えるとは、思ってもいなかった。
その腕の中でフユラもまた、改めてガラルドと結ばれた奇跡のようなこの現実を噛みしめていた。
特殊な出自であっても母がこの世に産み出してくれた、そのおかげで自分はガラルドと巡り合えた。その事実に、感謝してもし足りない。
ありがとう、お母さん。あたしという命を育んでくれて―――いつかあたしもガラルドとの子供を授かって、この生命の営みを繋いでいけたらいいな―――そして生まれてきた子供に、心から愛しているって伝えられたらいいな。
あなたはお父さんとお母さん、二人に望まれて生まれてきた大切な命だよって、愛しているって、いつかあなたもそういう人に巡り合ってねと、そう伝えたい―――。
始まりはレイラによって不条理に繋がれた呪いの楔であった呪印(それ)は、やがて彼らにとって何物にも代えがたい、かけがえのない絆となった。
そして互いを繋ぐ呪印は失われても、互いの存在に自分の居場所を見出せた二人は、もう彷徨うことはない。
この世界にしっかりと根付いて、自分達の人生を、共に生きていく―――。
草原に夜の帳(とばり)が下り、明りの消えた寝室には身体を寄せ合って眠る一組の男女の姿―――その寝台の傍らにある小机の上に置かれた鈍色のペンダントと、壁に立てかけられた大振りの剣が、窓から差し込む蒼白い月明りを受けて、淡い陰影を滲ませる。
二人の絆を見守り続けてきた長い旅路の象徴、共に修復されたその姿は、朝が来れば穏やかな陽光を浴びて煌めき、これからも二人の傍でその絆を見守っていくのに違いない―――。
<完>