Beside You 2

05


 深い霧が晴れ、視界が開けたレウラの丘へと続く小さな森-----その出口は、すぐ目の前に迫っていた。

「ガラルド……変現(メタモルフォーゼ)解かないの?」

 後ろを歩くフユラにそう尋ねられ、ガラルドは小さく頷き返した。

「結局、あの霧竜(ミストドラゴン)が何の為にこの森を支配下に置いていたのか分からねーままだからな……。それに、何となく気になるんだよ」
「? 何が?」
「アイツから敵意は感じたが、殺意は感じなかった……それが、何故なのか-----。この件は、もうひと裏ありそうな気がする」
「え……それって」

 息を飲んでフユラは足を止め、心配そうにガラルドを見やった。彼女の懸念を察した半魔の青年は、少し頬を緩めてこう促した。

「殺意は感じなかったって言ったろ。心配すんな、変現(メタモルフォーゼ)を解かないのは念の為だ」
「うん……」

 頷いて再び歩き出したものの、先程の件が尾を引いている為か、少女の顔からは完全に不安の色が拭いきれない。

「すまないね、フユラ。こんなに大事になるとは、わたしも思っていなかったから……」

 そう詫びるシュリに、フユラは首を振った。

「ううん。シュリさんが謝ることじゃないよ……あたしの気持ちが、半人前だっただけ。ごめんなさい、逆に気を遣わせちゃって」

 全ては、中途半端な覚悟で臨んでいた自分が悪い。

 パンパンと軽く頬を叩いて、フユラは自身に気合を入れ直した。

「ここまで来たんだもん! 最後まで、見届けなくっちゃね。-----ホラ、もう少しだよ」

 一歩一歩進むごとに、正面の木立の境界から差し込む太陽の光が大きくなっていく。その光を眩しそうに見つめながら、シュリは微笑み、瞳を伏せた。

「-----ありがとう」


 サワッ……。


 森を抜けると、そこには緑溢れるなだらかな丘が広がっていた。心地良く頬をなでていく風が、草花の上に緩やかな足跡(そくせき)を描いて、丘の向こうに広がる谷へ、その先の山々へと渡っていく。

「うわぁ……」

 その光景を目にしたフユラの口から、感動の溜め息が漏れた。

「絶景、だな」

 足元一面に敷きつめられた、柔らかな緑の絨毯(じゅうたん)-----深い渓谷を隔ててその先に広がる、険しくも美しい山々の稜線-----視界一杯に広がる大自然のパノラマを額の上に手をかざして眺め、ガラルドは紅蓮の瞳を細めた。

「ようやく-----たどり着けた……」

 シュリは感無量の面持ちでそう呟(つぶや)くと、まるで何かを懐かしむかのように、浅葱(あさぎ)色の瞳をゆっくりと周囲に走らせた。

 薄い雲の隙間から覗く太陽は、真上を少し過ぎたところだ。

「『黎明(れいめい)の空に月が浮かぶ頃、彼(か)の地で君を待つ』、だったな。約束の時刻までまだだいぶあるが……とりあえず、そこまで行くか」
「あぁ、そうだね……」

 ガラルドの提案にシュリは頷いて、

「こっちだよ」

 そう言って目的の場所まで二人を案内する為、先頭に立って歩き出した。

「ここは、本当に薬草の宝庫だねぇ……」

 あちらこちらに野生する薬草達を愛(め)でるように眺めながら、シュリは緑の道を行く。色鮮やかに舞う蝶を穏やかな瞳で追い、吹き抜ける風の匂いを感じながら。

 孫の想いを、叶える為に。


 その足が不意に、ピタリと止まった。


 シュリの視線の先を追ったガラルドは、紅蓮の瞳を瞠(みは)り、呼吸を止めた。

 崖に向かって張り出したレウラの丘の先端に、人影が見える-----何の気配も感じさせず、まるで最初からそこに在るようにして一人佇(たたず)むその人物は、クセのない腰の辺りまである白銀の髪を緩やかな風に遊ばせながら、透明な水を湛えた湖のような眼差しで、静かにこちらを見つめていた。

 スラリとした長身に、ぼんやりと霞んで見える、まるで雲を用いて作られたかのような不思議な素材の、ゆったりとした白い法衣-----男性とも女性ともつかない優美なその面立ちは、感情を窺(うかが)い知ることの出来ない、神の創り出した物言わぬ芸術品のようだ。

 白銀の髪から突き出たその両耳は長く、先端が尖っている。


 魔人(ディーヴァ)。


『神が産み出した災厄』と謳われる、この地上に於(お)いて最強の生物。


 天文学的な確率との遭遇に、心臓の鼓動が全身に響き渡るのを感じながら、ガラルドは息を殺して相手の様子を窺った。

 風景に溶け込むようにして佇む魔人(ディーヴァ)の表情は何も映し出しておらず、まるで静かな水面のようだ。じっとこちらを見つめたまま、彫像のように微動だにしない。

 セラフィスにしろディーゴにしろ、今まで見てきた魔人(ディーヴァ)達は現れただけでその強大な力を感じたものだったが、目の前の魔人(ディーヴァ)は、その力も気配も全てを内に潜めたまま、ただ異質なその存在だけをこの場に晒している。

 ガラルドは漠然と、その雰囲気があの霧竜(ミストドラゴン)に似ている、と思った。

 そのままどのくらい膠着(こうちゃく)状態が続いたのか-----ガラルドの背後でやはり息を殺していたフユラが、恐る恐る口を開いた。

「ガラルド-----あの人、魔人(ディーヴァ)、だよね」
「……あぁ」
「あたし、ハッキリとは覚えていないんだけど……何か、今までの魔人(ディーヴァ)達と、ちょっと違う感じがしない?」
「確かに、今までのヤツらとは、タイプが違うな」
「だよね……。こんな言い方したらおかしいけど、あんまり怖い感じがしない……っていうか」

 その時、それまで立ち止まっていたシュリが、ゆっくりと歩き出した。

「! おい……」

 声を上げたガラルドを静かに振り返り、老婆は思わぬ言葉を口にした。


「大丈夫……分かったんだ。あの人が、孫の想い人だよ」


「はぁ!?」
「えぇ!?」

 二人が耳を疑ったのも、無理はない。

 とんでもない爆弾発言だった。

「ちょ……待てよ! だいたいまだ、“約束の時刻”じゃねぇだろ!? 何の確証があって-----」
「これだよ」

 シュリはそう言って、左腕のブレスレットを二人に見せた。

 美しい珊瑚色の石を組み合わせたそれが、まるで何かに呼応するかのように熱を帯び、淡く光り輝いている。

「間違いない……あの人だ」

 ブレスレットを胸に抱きしめ、そう深く頷いて、シュリは再び魔人(ディーヴァ)の元へと歩き始めた。

 引き返すことも可能だったが、ここまで来たら、乗りかかった船だ。第一、シュリをこのままにしておけない。

「……行くぞ」

 覚悟を決めて振り返ったガラルドに、フユラは力強く頷いた。

 魔人(ディーヴァ)は相変わらず静かな瞳で、歩み寄る三つの人影を黙然と見つめている。

 お互いの顔がハッキリと見える距離まで来た時、形の良いその唇が初めて動いた。

「僕(しもべ)の気配が消え、見知った者に似た力を感じて目覚めてみたが-----どうやら、私の知る者ではなかったらしい」

 低い、涼やかな声だ。その声で、目の前の魔人(ディーヴァ)が男性であることが分かった。

「あれが半魔に倒されるとは、正直思わなかったがな……さすがはあの野獣の落とし胤(だね)、とでも言っておこうか」

 あの野獣、というのが誰のことを指すのかは、すぐに分かった。

 ガラルドは不機嫌な面持ちになりながら、年齢不詳の魔人(ディーヴァ)に物申した。

「アイツとオレは関係ねー。不本意ながら、遺伝子は受け継いじまってるけどな……」
「……」

 どうでもいいことと聞き流したのか、優美な面差しの魔人(ディーヴァ)は黙して、ごく薄い水色の眼差しを、目の前に佇む老婆に向けた。

 その眼差しを受け、緊張した面持ちのシュリがゴクリと息を飲みながら、左腕のブレスレットを差し出した。

「……これを-----わたしの孫娘から、貴方に、と預かってきました」

 現実離れした容姿を持つ異質の存在にさすがに臆するものがあったのか、シュリの身体が細かく震えている。

「受け取って-----いただけますか」

 言いながらブレスレットを手首から外そうとした老婆の手に、魔人(ディーヴァ)の彫像のような手が重なった。ビクリとするシュリ、剣の柄に手をかけたガラルド、ハッと息を飲んだフユラ-----彼らが耳にした魔人(ディーヴァ)の台詞(セリフ)は、意外なものだった。


「何故、そんな嘘をつく」


 静かな湖の水を湛えたような、ごく薄い水色の切れ長の瞳が、薬師(くすし)の老婆の浅葱色の瞳を射る。


「マシュリー」


 魔人(ディーヴァ)の口からこぼれた聞き覚えのない名前に、ガラルドとフユラの動きがぎこちなく止まる。対照的に、それを聞いたシュリの瞳が、驚きに見開かれた。

「ど……どうして……」

 茫然とした面持ちでそう呟く老婆を見つめ、魔人(ディーヴァ)は抑揚のない声でこう答えた。

「私が、お前を見誤るとでも思ったのか」
「-----レ……レイヴァン……」

 シュリの口から、様々な感情と共に、白銀の髪の魔人(ディーヴァ)の名前が紡がれた。

 その瞬間、それまで何の感情も映し出していなかった魔人(ディーヴァ)のごく薄い水色の瞳に、わずかな感情の光が浮かんだ。

「私が眠りについている間に-----世界では、それほどの時が流れていたのだな……」
「あれから……五十年以上が経ちました……」

 シュリの浅葱色の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。

「ごめんなさい……帰ってくるのが、遅、すぎた……」

 瞳を閉じ、両手で顔を覆って罪の意識に打ち震える老婆の小柄な身体を、長身の魔人(ディーヴァ)は、その腕を伸ばしてゆっくりと包み込んだ。

「マシュリー……」

 目の前で展開される、思いもよらなかったその光景に、事情がいまひとつ掴めないガラルドとフユラは戸惑い気味に顔を見合わせた。

「どうなってんだよ……」
「よく分からないけど……多分、とてもいい仕事をしたんじゃないかな。あたし達」

 フユラはそう言って、静かに抱き合う老婆と魔人(ディーヴァ)とを見やった。

「何だか、とっても温かいものが伝わってくるもん……」

 ガラルドはひとつ吐息をつき、剣の柄から手を離して、静観する構えを取った。

「ったく……さっきの言葉、そっくりそのまま返してやるぜ」
「ふふ……」

 フユラは微笑んで、そっとガラルドの側に寄り添った。



*



「黙っていて、すまなかったね……。本当のことを言うと、絶対に引き受けてもらえないと思って……魔人(ディーヴァ)と聞いただけで、世の中の人間はみんな怖がるからね。それに本当のことを話したところで、到底信じてはもらえないだろうと思っていた……。まさかお前さんが、その血を引く者だとは思っていなかったしね」

 シュリはそう言って、ガラルドとフユラに深々と頭を下げた。

 シュリの話によると、五十年以上前、マウロで薬師の修行をしていた彼女は、貴重な薬草を採取する為に度々訪れていたレウラの丘で、ある日偶然、レイヴァンに出会ったのだそうだ。

 まさかの魔人(ディーヴァ)との遭遇に、さすがの彼女も青ざめたらしいが、そんな彼女とは裏腹に、レイヴァンは黙したまま、薬師見習いの人間の様子をただ漫然と眺めていたらしい。

 話に聞いていたのと違い、魔人(ディーヴァ)にも色々な者がいるのだと、シュリはその時初めて知ったのだと言った。

「世間では『神が生み出した災厄』と謳われ、破壊と殺戮の権化のように言われているからね。ひと口に魔人(ディーヴァ)と言ったって、全ての者が粗暴なわけじゃないんだと、初めて気が付いたんだよ……。そういう意味では、人間と一緒さ。個々に人格があって、それぞれの考えがあって、それに基づいて行動する。なのに、強大なチカラを持っているというそれだけで、人々は怖れ、『魔人(ディーヴァ)』というひと括(くく)りにして、色眼鏡で見る。何故怖ろしいと思うのか、考えようともしない……いや、考えるキッカケがない、と言った方が正しいのかもしれないね。事実、わたしも彼を知るまではそうだった……嘆かわしいことだけどね」

 彼女のその言葉を聞いて、ガラルドはハッとした。

 幼い頃、『半魔の子供』というだけでいわれのない差別を受け、怖れられ、疎まれ……そんな人間達を蔑(さげす)んだ目で見ていた、自分。けれど、その人間達と多分同じ目線で、自分も魔人(ディーヴァ)のことを見ていた-----そのことに気付かされたのだ。

 何故怖ろしいと思うのか-----それは、自分が弱いからだ。

 言ってみれば、上位捕食者に対する、生物の本能的な怖れだ。

 だから、怖れ、疎み、係わらないようにしようとする。

 人間側の感情も、魔人(ディーヴァ)側の感情も、唐突にガラルドには理解出来た。

 シュリの話は、続く。

「それからも-----わたしは薬草を摘む為に、度々レウラの丘を訪れた。そして、それを見計らったようにレイヴァンが現れるようになって、いつしか、ここに来た時には必ず彼の姿が傍らにあるようになった……」

 何度か顔を合わせているうちに二人は次第に心を通わせるようになり、やがて恋に落ちたのだが、薬師としての資格を得たシュリは、故郷へ帰らなければならないという使命を背負っていた。

 彼女の故郷は近隣の村も含め、薬師も呪術師もいない、医療の未開拓地域だったのだ。

 自分の持つ知識と技量をなるべく多くの者に伝えて医薬の地盤を築き、十年をめどに、いずれ必ずこの地へ戻ってくると、シュリはレイヴァンに約束し、彼は彼女にあのブレスレットを贈った。


『黎明(れいめい)の空に月が浮かぶ頃-----彼(か)の地で、君を待つ』


 故郷に戻ったシュリはレイヴァンとの約束を果たすべく奔走したが、現実は若い彼女が思っていた以上に険しく、厳しかった。

 近隣の地域に、たった一人の薬師。そこからの、スタートだったのだ。

 病やケガを抱えた者が毎日、一人では対応出来ないくらいやってくる。

 薬となる薬草の調達、調合、そして、深夜にまで及ぶ薬学の勉強-----貧しい地域だった為、薬師を目指したいという未来の希望達には、文字の読み書きから教えなければならなかった。

 日々の業務に忙殺され、気が付いてみれば、約束のめどだった十年を遥かに上回る月日が経過し、ふと目にした鏡の中には、ずいぶんと老けてしまった自分がいた。

 中年となった彼女は焦りを覚えながらも、自分の信念を貫く為、立ち止まらず、邁進(まいしん)し続けた。

 自分の使命を全うする為-----そして、一日も早く、愛しい者との再会を果たす為に。

 しかしなお、磐石な地盤を築くには程遠い現実が、彼女の前に立ちはだかっていた。

 そうして、様々な労苦の末、ようやくそれを達するに至った頃-----彼女の年齢は、初老と呼ばれる域に達していた。

 シュリは、レイヴァンとの約束をあきらめた。

 時間が、かかり過ぎた-----。

 あの頃と全く変わらないでいるだろう彼の容姿に比べて、自分の容姿は-----あまりにも、年輪を重ねすぎてしまっていた。美しい彼の前に、その姿を曝(さら)け出す勇気のない自分が、そこにいた。

「-----なら、どうして今頃になって、その約束を果たす気になったんだ」

 ガラルドにそう問われたシュリは、悲しい微笑を浮かべた。

「自分の余命がわずかだと悟った時-----ワガママなものでね、無性に、レイヴァンに会いたくなったんだ」

 衝撃的な告白に、ガラルドとフユラが息を飲む。レイヴァンはそう語るシュリの傍らで、静かに彼女を見つめていた。

「不治の病に冒された身体は、思い通りに動かすこともままならなかった。ベッドの上で、ただ自分の時が過ぎていくのを感じながら-----思い浮かぶのは、彼のことばかりだった。そして、ある日-----わたしは、長い間大切にしまっていたこのブレスレットを取り出して、ふと、それを腕に嵌(は)めてみたんだ。そうしたら-----不思議なことに苦痛が消えて、身体が自由に動かせるようになった」

 美しい珊瑚色の石を組み合わせた、繊細な細工のブレスレットが、シュリの左の手首で淡く悲しい輝きを浮かべている。

「ブレスレットを外すと、途端に元の状態に戻ってしまう。病気が治ったわけじゃない……どういう理屈なのかは分からなかったけれど、ブレスレットを身に着けている限りは、苦痛から解放され、自由に身体を動かすことが出来る-----それが分かった時、わたしは、どうしてもレイヴァンに会いたくなった。どんな形でもいい、この命が尽きる前に、ひと目、その姿を見たいと願った。そして、家を処分し、残る財産を持って故郷を離れ-----この約束の地へと向かったんだ……」

 その時の心情を思い出したのか、彼女はそう言って瞳を伏せた。

「その途中、運良くお前さん達と出会うことが出来た……。ブレスレットの加護だったのかねぇ……今にして思えば、奇跡的な確率の出会いだったと思うよ。その意味では、最初にヘボ傭兵を雇っていたのは正解だったね……。代わりに雇ったお前さん達に孫の願いを叶える為と偽って、ようやくこの地まで導いてもらうことが出来た-----。護衛を依頼したのがお前さん達でなければ、わたしはきっと、ここにたどり着くことは出来なかっただろう」

 かみしめるように語りながら、シュリは、そっと自分の胸を押さえた。

「今のわたしは、ブレスレットの不思議な力に助けられ生かされている、言うなれば仮初めの身体-----本来なら、もう死んでいるはずの人間だ」

 フユラは驚くほど冷たかったシュリの手を思い出し、ハッと息を飲んだ。それに気が付いた老婆は小さく頷き、彼女の危惧を肯定した。

「自分の身体のことだから、分かる。長い旅路で、どうやらブレスレットの加護もそろそろ限界だったようだ……わたしの心臓は、もう止まりかけている。けれど-----お前さん達のおかげで、間に合ったよ。ありがとう……」

 シュリはそう言って、ガラルドとフユラを見やり、穏やかに微笑んだ。聖母のような微笑みだった。

「え……シュリさん……」

 あまりにも穏やかなその笑顔に、不安を覚えたフユラが老婆の名前を呼ぶ。

 シュリは傍らのレイヴァンを見上げると、ゆっくりと左の手首を差し出した。

 静かに頷いて、優美な面差しの魔人(ディーヴァ)が、その長い指をブレスレットへと伸ばす。

「おい……」

 ガラルドがためらいの声を上げる中、シュリはレイヴァンの足元に目をやり、小さく微笑んだ。

「わたしの為に……ありがとう、レイヴァン……。貴方のことを想わなかった日は、一日とてなかった……。ここで待ってくれているだろう貴方に、ただそれを伝えたかった……」
「マシュリー……来世で生まれ変わったお前と再び巡り合う日を、待っている……」


 祈るようにそう囁いたレイヴァンの指が、シュリの手首からブレスレットを取り払った。


「!!!」


 ガラルドとフユラが目をいっぱいに見開くその前で、強制的に命を永らえさせていた肉体(うつわ)から魂が解き放たれ、目も眩(くら)むような光を伴い、まるで何かを語りかけるかのようにふわりとレイヴァンの身体を包み込んだ後-----ひと際眩(まばゆ)い輝きを放ち、大気に溶け込むようにして、消えていった。

「-----……分かった……」

 瞳を閉じてそう呟いた、長い白銀の髪を風にそよがせる魔人(ディーヴァ)の手には、天寿を全うした愛しき者の、亡骸(なきがら)だけが残された。

「う……嘘……、シュリさん……」

 あまりにも突然の展開に、思いがけなかった唐突な別れに、フユラが感情の定まらない声を漏らし、緑の大地に膝をついた。両手で顔を覆って泣き出す少女を見やりながら、何ともやりきれない気持ちで、ガラルドは整った表情を崩さないレイヴァンを見た。

「……それで、良かったのかよ」

 長い睫毛に縁取られたごく薄い水色の瞳を心持ち伏せて、彼は答えた。

「我々魔人(ディーヴァ)の寿命に比べて、人間の一生というものは、刹那の光だ。魂が生まれ変わり、新たな生を紡ぐまでの時間を、幸いなことに私は待つことが出来る……失われた肉体に縛りつけられることよりも、未来を共に過ごす方を、彼女も望んだのだ」

 愛しい魔人(ディーヴァ)の腕に抱かれ、永久(とこしえ)の眠りについた老婆の亡骸は、ひどく穏やかな、安らかな表情を浮かべていた。



*



 レイヴァンはその能力(チカラ)をもって、土を掘り返すことなく、シュリの亡骸を“約束の地”に埋葬した。

 そこは、崖に向かって張り出したレウラの丘の先端-----五十年以上もの間、レイヴァンがシュリを待ち続けていた場所だった。

 その場所に両膝を着き、澄み切ったすみれ色の瞳を赤く泣き腫らしながら、フユラが両手を合わせて祈りを捧げている。

 その後ろに佇み、黄色い草花に彩られたシュリの墓標を見つめていたガラルドは、微妙に距離を置いた場所で、無表情でその光景を見つめているレイヴァンに尋ねた。

「あの霧竜(ミストドラゴン)、お前の僕(しもべ)だったんだろ……何の為にアイツを使ってレウラの丘への入口を塞いでいたんだ? あれじゃ、あのバ……マシュリーだって通れねーじゃねーか」
「……本来ならば、このブレスレットが道標となり、霧の道を開くはずだったのだ。しかし、既にその力がブレスレットには残されていなかった……」

 呟くようなその声に、ガラルドはぎこちのない言葉を返した。

「何で、人間なんかと……いずれこうなるってコトは、分かりきっていたコトじゃねーか……」
「生まれ持った寿命の違いなど、些細なものだ……。今流れているこの時が一瞬一瞬のものであり、二度とはないものなのだということを-----私はマシュリーから教えてもらった……。我々魔人(ディーヴァ)は寿命が長い分、それを見失いがちな傾向にあるのかもしれんな……」

 ごく薄い水色の瞳をガラルドに向けて、レイヴァンは言い結んだ。

「何を大切とするかは、それぞれの価値観だろう……。くだらない概念に囚われることなど、ない……」

 その会話を後ろに聞きながら、祈りを終えたフユラは、約束の地に咲き誇る小さな黄色い草花をそっと指でなでた。

「可愛い花……」
「私とマシュリーの出会うきっかけとなった花だ……ようやく、ここまで増えた」

 涼やかな声が斜め後ろから響き、フユラは少し意外な面持ちで白銀の髪の魔人(ディーヴァ)を振り仰いだ。レイヴァンからそんな答えが返ってくるとは思っていなかったのだ。

「出会いの……きっかけ?」
「あぁ……」

 レイヴァンの長い睫毛が、ふわりと風で揺れる。

「我々魔人(ディーヴァ)の寿命は長い……私は生まれてからずっと、自分の生に意味が見い出せないでいた……。他の生物達と比べて、あまりにも長すぎる寿命……いったい何をなす為に、自分は存在しているのか……この膨大な時間を、どうやって費やせばいいのか……自分の存在意義が、私にはずっと分からなかった……あの日、マシュリーに出会うまでは-----」

 独白に近い調子でそう述べ、白い法衣を纏った魔人(ディーヴァ)は遠くの稜線にその視線を移した。

「あの頃の私は、ただ生きているだけの毎日に辟易(へきえき)していた……。特に為すこともなく、丸一日空の雲の流れを見ていたり、一本の木に何枚の葉があるのか数えてみたり……。日がな一日、どうすればこの退屈な時間を凌ぐことが出来るのかと、そればかりを考えていた……」

 レイヴァンのその気持ちは、ガラルドにもよく分かった。半魔の自分でさえ、人に比べて長すぎるその生を持て余し、あてもなく各地を放浪する日々を送っていたのだ。

 だが、しかし。

「……。もっとマシな過ごし方はなかったのかよ……」
「趣味とか……ねぇ?」
「……。興味を抱く対象がなかった……」

 至極真面目にそう答えるレイヴァンに、ガラルドとフユラは何とも言えない微妙な表情を見せた。

「無趣味、ってヤツか……」
「ツラそうだね、それ……」

 淡々とした印象のこの魔人(ディーヴァ)は、実はちょっと天然なのかもしれない。
 
 二人のそんな様子に気が付いているのかいないのか、レイヴァンは変わらない口調でマシュリーとの出会いを語り始めた。

「-----あの日、私はたまたまここを訪れ、この景色を眺めて時間を過ごしていた……そこへ、薬草を採りにマシュリーがやってきたのだ……」



*



 人間が来た気配を感じてはいたが、レイヴァンは構わずに景色を眺め続けていた。何をせずとも、向こうが悲鳴を上げて逃げ出していくのが定石だったからだ。

 しかし、彼の中の常識は意外な形で崩されることとなった。

『ちょっとっ!!』

 予想していた悲鳴ではなく怒声が響き、今までの彼の日常では有り得なかった事態が起きた。

 その人間は何と、彼に向かって渾身(こんしん)の体当たりをしてきたのだ!

 あろうことか、勢いよく弾き飛ばされてしまった彼の身体は宙に浮き、とさっ、と柔らかい音を立てて、緑の草の上に転がった。

 ぽかん、としか形容のしようのない表情で(傍目にはそうは見えなかったのだが)その人物を見上げたレイヴァンのごく薄い水色の瞳と、気の強そうな浅葱色の瞳がぶつかり合った。

『ちょっとあんた、何てことしてくれるんだ! ここにいるってことは、薬師の端くれだろ!? この草花が、どれだけ貴重で、重宝されるものなのか-----!』

 レイヴァンの踏みつけてしまっていた黄色い草花を手で覆うようにしながら、その人間の娘は怒り心頭の様子でキッ、と彼をにらみつけ-----その時になって、ようやく相手が人間ではないことに気が付いたらしかった。

『あ……あれ……?』

 吊り上がっていた浅葱色の瞳をまん丸に見開いて-----目の前の、男性とも女性ともつかない、優美な面立ちの異質の存在を凝視する。

 無言で見つめ返すレイヴァンに、ザッと及び腰で後退(あとずさ)りながら-----逃げ出す手前でどうにか留まり、息を詰めて、相手の様子を窺う。

 しばらくにらみ合いの様相を呈した後(レイヴァンは眺めていただけだったのだが)、彼女は恐る恐るといった様子で、こう尋ねてきた。

『あんた……もしかして、魔人(ディーヴァ)……?』
『-----……それ以外の、何に見える』
『え!? その声……男!?』
『……。そこが驚くところなのか……?』

 彼女は色々な意味で非常に驚いた様子だった。まじまじとレイヴァンを見つめながら、緊張ではち切れそうな胸を押さえている。

『-----お……、怒っている……?』
『私が男であることに、お前が驚いたことをか……?』
『いや……突き飛ばしちゃったことをさ……』
『あぁ……そのことか……』
『…………』

 しばしの沈黙の後、彼女はためらいがちにこう切り出した。

『この草花……キリュシオールっていうんだけどさ。この辺りではレウラの丘にしか野生していない、貴重な薬になる薬草なんだ。とてもデリケートな植物でさ、栽培することが難しくって……必要な分はだいたいここへ採りに来ていたんだけど、心ないヤツらが乱獲しちゃったせいで、極端に数が減ってしまって……。今は採取が禁じられている、とても希少な薬草なんだ。だから、つい……。ごめんなさい』

 レイヴァンは彼女の傍らの、小さな黄色い草花に目を向けた。

『キリュシオール……というのか』
『うん……』

 そんなレイヴァンの様子をしばらく見つめていた人間の娘は、やがて思い切った様子で、彼が思いも寄らなかったことを口にしてきた。

『ねぇ……。あの、さ……。触っても、いい……?』
『……? 何故だ……?』
『え……魔人(ディーヴァ)って触ったことないし……何かあんた、綺麗だし。記念に……ていうか』
『……』

 彼女にとっては、偶然遭遇した比較的性格の大人しそうな、毛並みのいい野生の獣を触ってみたい、という感覚に近かったのかもしれない。

 レイヴァンの沈黙を了承と受け取ったのか、ゴクリと息を飲んで立ち上がった人間の娘は、非常に緊張した面持ちでそろそろと近付いてきた。転がって上体を起こした状態のまま微動だにしていないレイヴァンの傍らに膝をつき、ためらいがちに手を触れようと差し出しながら、逡巡して引っ込める。それを何度か繰り返した。レイヴァンはその間、ずっと彼女を観察し続けていた。

 背の中程まである豊かな黒髪に、気の強そうな浅葱色の瞳-----ハッキリとした顔立ちの、人間の娘。

 考えてみれば、これほど近くで人間というものを見たのは初めてだった。

『ほ……本当に触るよ? 急にかみついたりとか……ナシ、だよ……』

 何度目かの逡巡の後、彼女はそう言って、そっと手を伸ばしてきた。

 レイヴァンはその手を、ただじっと見つめていた。

 クセのない長い白銀の髪に、人間の娘の手が触れる。まるで絹のような艶やかなその手触りに、浅葱色の瞳がふわっと見開かれた。

『うわ……何これ、スゴ……気持ちいい……』

 感嘆の声を漏らしながら、しばらくその感触を楽しむように、サラサラと魔人(ディーヴァ)の長い髪に触れる。されるがままにしているレイヴァンの整った顔を覗き込んで、彼女は言った。

『不思議な瞳の色だね……まるで、透き通った水を湛えた湖みたい……。肌もつるつる……魔人(ディーヴァ)って、みんなこんな感じなの?』

 頬に、そっと娘の温かい手が触れる。

『……他の者に触れたことはないが、見た目の印象としては、皆、それぞれ違うな』
『へぇ……』

 人間の娘に答えながら、レイヴァンは気が付いた。

 肌に感じる、他人の温度。

 誰かにこんなふうに触れられたのは、初めてだった。

 そして、もうひとつのことに気が付いた。

 誰かに触れるということを、彼はしたことがなかった。

『耳……長いね……』

 呟く彼女の頬に、何かに導かれるようにして、レイヴァンは静かに手を伸ばし、触れた。

 ビクリと震えた娘の身体は、そのまま彼の手から逃げ出すかと思われたが、彼女は少し緊張した面持ちのまま気丈な笑みを浮かべて、その手にそっと自らの手を重ね、こう言ったのだった。

『魔人(ディーヴァ)の手も……わたし達と同じで、温かみがあるんだね……。体温は、ちょっと低めだけど……』



*



「その時のマシュリーの顔と……彼女の手の温度が、何故だか深く印象に残った……。それを思い出すと、不思議な気持ちになって……それから……次第に、彼女のことばかりを考えるようになった……」

 懐かしむようにそう語ったレイヴァンの視線の先で、愛しい者の墓標に咲き誇る、小さな黄色い花びらが風に揺れている。

「それで……この花を、守っていたの……? ずっと……。だからシュリさん、最後にあんなに幸せそうに笑って-----……」

 すみれ色の瞳を再び潤ませたフユラは、そう言ってきつく唇を結んだ。

「その為に、霧竜(ミストドラゴン)を使ってここへの侵入者を防いでいたのか。キリュシオールの乱獲を防ぐ為に-----」

 ガラルドはそう呟いて、殺意を発していなかったあの霧竜(ミストドラゴン)を思い返した。

「マウロで聞いた情報だと、強引にレウラの丘へ入ろうとした連中は一人も帰ってこなかったって話だったが……」
「霧竜(ミストドラゴン)のブレスにやられて、どこか遠くの地へ飛ばされたのだろう。どこへ行くかはランダムだが、未だに誰も戻らないということは、よほど遠くまで飛ばされたようだな……」

 涼しげにそう述べたレイヴァンの顔を見て、フユラは泣き笑いの表情を浮かべた。

「じゃあ、誰も死んでいないんだ……」
「むやみに人間を殺しては、マシュリーに怒られるからな……」

 淡々と応じるその声を聞いて、ガラルドは唇の端を上げた。

「違いねーな……。さっきのエピソードにしても有り得ねー……魔人(ディーヴァ)を吹っ飛ばした人間なんて、他にいないぜ」

 レイヴァンは長い睫毛に縁取られた瞳をそっと伏せると、心持ち優しい雰囲気になった表情をガラルドとフユラに向け、こう言った。

「マシュリーからの餞別だ……残った金銭と、この薬をお前達に……と……」

 レイヴァンからガラルドの手へ、シュリの遺した品々が渡される。

「今回の報酬、ってワケか……。ち……ったく、これじゃ割に合わねっての……」

 憎まれ口を叩きながらそれを見つめる、ガラルドのその声には様々な思いが滲んでいた。

「それから……娘-----……」

 レイヴァンがフユラを呼んだ。

「え? あたし?」
「これは、お前の器(うつわ)次第だがな……」

 瞳を瞬(またた)かせる少女にそう言って歩み寄ると、レイヴァンはその頬をそっと挟み込むようにして両手を近付け、不思議な色彩を放つ両眼をスッと細めた。

 自分の中に何かが入り込んでくるのをフユラは感じた。それはまるで何かを探るかのように彼女の奥深いところへと入り込みながら、そこに眠る何かを揺り動かした。

「あ……!? あ、ぁ……!」

 魔人(ディーヴァ)の力に体内を浸食され、ドクン、とフユラの細い身体が脈打つ。

「フユラ!? てめぇ、何を……!」

 その様子に驚いたガラルドが剣の柄を握る。

 フユラは身体を硬直させながら、すみれ色の瞳を見開いた。大きな力に導かれ、自分の中の何かが引き出される。引き出されて-----溢れ、出る……!

 レイヴァンが微かに頬に力を込めた。その瞬間、溢れ出しかけていたその何かは彼女の器を満たすに留まり、反動で、彼女は崩れ落ちるようにしてその場に膝を着いた。

「……落ち着け。マシュリーからの依頼を実行しただけだ」

 瞳だけを動かして、自らの首筋に刃をあてがう半魔の青年を見やり、白銀の髪の魔人(ディーヴァ)はそう告げた。

「マシュリーからの依頼、だと……!?」

 紅蓮の瞳をギラつかせながら、ガラルドがレイヴァンをにらみつける。

 自らの胸に手を当て、大きく深呼吸したフユラは、その事態を見て慌てて保護者の青年の名を呼んだ。

「-----ガラルド、あたしなら大丈夫! 大丈夫だから!」
「……フユラ」

 少女が立ち上がった姿を確認し、どこにも異常がない様子を見届けてから、ガラルドはゆっくりと剣を引いた。

「お前にとって、大切な者らしいな……この訳ありの娘は……」
「-----コイツに何しやがった」

 形の良い眉を跳ね上げるガラルドには答えず、レイヴァンはフユラに向き直った。

「どうやら受け入れる素地はあったようだな……しかし、今のお前ではそれが使えるのは一度きりだろう。その状態のままではな……」

 彼女の左腕の護符を見やり、それだけを告げると、レイヴァンはゆっくりと踵(きびす)を返した。

「-----おい……」

 呼びかけるガラルドの声も聞こえぬ様子で、緑の丘を踏み、遠ざかっていく。

「-----あのっ……ありがとう!」

 白い法衣を纏った背中に叫んだフユラの声に応えるようにして、レイヴァンの前の空間がたわみ、道なき道が開かれた。長い白銀の髪を揺らしながら、その道に足を踏み入れる彼の背中が消えていく。

 黄色い草花の咲き誇る地で、その後ろ姿を見送りながら、フユラは両手をそっと自分の胸に当てた。

 シュリとレイヴァンの贈ってくれた心遣いが、温かかった。
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