Beside You

05


 肩ほどまであるつややかな金の巻き毛に、神経質そうな繊細な眉。物憂げな氷蒼色(アイスブルー)の瞳に、高い鼻筋-----蒼白い顔色がどこか病的な雰囲気を感じさせる、整った顔立ちの青年-----その背からは、白い羽毛に覆われた見事な翼が生えている。体表に、ガラルドのような呪紋(じゅもん)は、ない。

 ゆったりとした淡い緑色の長衣(ローブ)に身を包んだその青年は、明らかに異質な空気を纏っていた。

 魔人(ディーヴァ)。『神が産み出した災厄』と謳われる、この地上に於いて最強の生物。

 目の前の青年は二十代後半ほどに見えたが、長命の魔人(ディーヴァ)のことだ-----実際はどのくらい生きているのか、検討もつかない。

 自身も見た目と実年齢にかなりのギャップのあるガラルドだったが、その彼の人生をもってしても、純粋な魔人(ディーヴァ)を見るのはこれが生まれて初めてのことだった。

 いつ彼がこの場に現れたのか、全く分からなかった。

 慄然としながら呼吸を整え、注意深く彼を見つめるガラルドなど全く目に入らない様子で、魔人(ディーヴァ)の青年は無造作にその指先をふっ、と動かした。

 その瞬間、ファネルの遺体が白い光で浄化され、辺りに漂う瘴気ごと消え去った。

 それを確認すると、青年は結界に護られた幼い少女の元へと歩み寄った。

「-----もう大丈夫だ。君を狙う者はこの私が消し去った」

 やや高めの落ち着いた声が、形の良い薄い唇からもれた。

「ずいぶんと探したよ。-----おいで」

 差し伸べられたその腕を、フユラは拒絶した。結界ぎりぎりまで後退りながら、かぶりを振る。その身体は激しく震え、全身に冷たい汗が流れているのが遠目にも分かった。

 怖がりかたが、ファネルの時の比ではない。

 そんな彼女の様子を見た魔人(ディーヴァ)の青年は、おもむろに結界に手を触れた。その途端、パシン、という音を立てて結界が消え去り、そこに二人を隔てるものは何もなくなった。

 恐怖のあまり、フユラがすとん、とその場に座り込む。

「怖がることはない。おいで……私は君を大切にするつもりなのだから-----」

 にこりともせずに長身をかがめ、青年は震える少女の頬に手を触れた。

「この変わり果てた姿はどうしたことだ? ……この妙な呪印のせいか-----これではなかなか見つからないはずだ。しかも厄介な代物つきとみえる……君の母親は、なかなかに私の手を煩わせてくれるな」

 わずかな苛立ちを含んだその声に、フユラはただ震えることしか出来ない。その彼女の恐怖を少しだけやわらげてくれる声が響いた。ガラルドの声だ。

「-----待てよ。そいつをどうする気だ」

 魔人(ディーヴァ)の青年は不快そうに眉をひそめ、眷属の血を半分だけ引く青年を見やった。

「……私は醜いものが嫌いでね。本来は貴様のような者とは利く口を持っていないのだが……不本意ながら貴様は私のモノと深く関わってしまっているらしい。故に、特別に妥協しよう」
「……てめぇに醜い呼ばわりされる覚えはねぇぞ」

 ガラルドが眉を跳ね上げると、魔人(ディーヴァ)の青年は涼しい顔でこう述べた。

「では見苦しいと言い換えようか。二つの姿を使い分けねば己の力を振るうことも出来ぬ、未熟な存在……中途半端に我々に近いその姿は非常に不快で目障りだ」
「だったらてめぇらが人間と交わらなけりゃいい話だろ。こっちは生まれた時からこの身体なんだ。責任転嫁も甚だしいぜ」

 怒りを露わにするガラルドに、青年は嘆息した。

「貴様の言うことももっともだ。そういった連中の気が私には知れん。文句は貴様の親に言ってもらおう。とにかく私は醜いものが嫌いなんだ」
「能書きはもういい、さっきのオレの質問に答えろ」

 吐き捨てるようにそう言うと、魔人(ディーヴァ)の氷蒼色(アイスブルー)の瞳に冷たい光が走った。

「口の利き方に気をつけろ。私は話をしてやっているんだ」

 ガラルドはその瞳をにらみ返したが、反論はしなかった。いや、出来なかった、という方が正しい。

 一見ほっそりとして見えるその身体に内包された、凄まじいまでの力の圧力を彼は感じていた。純粋な魔人(ディーヴァ)との差がこれほどまでのものとは----------力があるが故に認めざるを得ない現実だった。

「私はずっと以前からこの少女に目をつけていた。彼女の母親のおかげで少々てこずったが、今日ようやく見つけることが出来た。彼女を私の元に連れて帰る」
「連れて帰る? こんなガキを連れて帰ってどうする気だ」
「私は美しいものを集めるのが趣味でね。彼女を私のコレクションに加えるつもりだ」

 ガラルドには理解不能な言葉だった。

「……何言ってんだ、てめぇ」
「分からないのか? 呪紋(じゅもん)という名のヴェールの下に隠された彼女の魂の煌めきが」

 ガラルドの脳裏に、別人のようなオーラを放つハルヒの姿がよぎった。燃え立つようなすみれ色の瞳に、全身にみなぎる溢れんばかりの生命力-----その輝きを確かに眩しい、と彼自身もあの時感じた。

 しかもその時の状態を、彼女はこう言っていたのだ。『今は全開にしていないから-----』と-----。

 能力を完全に解放した時の彼女の姿を、ガラルドは目にしていない。

『面倒なことになっちゃったらごめんね』

 そう言ったハルヒの言葉の意味が、ようやく分かった。

 この魔人(ディーヴァ)はあの時一瞬だけ解放された彼女の力を察知して、この場に現れたのだ。

 認めるにはまだ頭と心の整理がつかないが、ハルヒの正体は未来のフユラ-----ならば、目の前の幼いフユラにも、同様の力が眠っている道理だ。その覚醒が呪紋(じゅもん)によって妨げられているのだと、魔人(ディーヴァ)の青年は言っているのだ。

「上手く隠されてはいるが、ここまで近くにいればその輝きは隠しようがない……自然と人工の融和した、この世にまたとない奇跡的な煌めき-----どうやら貴様には見えていないようだがな」

 見下げた響きも露わに、青年はフユラの左手首を覆う黄色のリストバンドを取り払った。

 少女のぽよんとした細い手首に現れた、黒い呪紋(じゅもん)-----彼女の母親によって施された、ガラルドとフユラを繋ぐ、『絆』。

「自分に繋がる呪印のことで手一杯か……何故貴様のような者が彼女をかばって戦っていたのか、これで得心がいった。小賢しい女だ……『運命を繋ぐ呪印』とはな」

 言い当てられて、ガラルドは奥歯をかみしめた。魔人(ディーヴァ)というのはどうやら何でもお見通しらしい。

「それにしても嘆かわしいことだ……このような人間の術に、半分とはいえ我が眷属の血を引く者が縛られるとは。半魔は人間にすら劣るのか」

 遅れを取ったことは反論しようのない事実だったが、触れられたくない過去の汚点を最も知られたくない種類の人物に指摘され、ガラルドは牙を剥いた。

「遅れを取ったことは否定しねぇ……だがな、偉そうに説教される覚えはねーぞ! てめぇだってあの女に煙に巻かれて五年間、こいつを探し出せなかったんだろーが!」

 ぴくり、と神経質そうな青年の眉が跳ね上がった。

「この私を貴様と同列にするな」
「同列? 願い下げだ!」

 ガラルドは言い捨てた。

「オレはオレだ。お前ら魔人(ディーヴァ)とは違う」

 凛とした紅蓮の瞳を受け、氷蒼色(アイスブルー)の瞳が険しさを帯びる。両者の間を緊迫した空気が流れたが、その流れを解いたのは意外にも魔人(ディーヴァ)の青年の方だった。

「……貴様のような格下を相手に熱くなるのは美しくない。だが、これ以上私の視界の中にいることは許さない。消えろ」
「-----消えたいのは山々だが、オレの事情は知ってんだろ?」

 苦々しく呟いたガラルドだったが、続いてもたらされた青年の言葉は、彼にとって思いもよらないものだった。

「貴様の懸念は彼女と繋がる自分の命運に尽きるのだろう? 幸運なことに、今の状態は私にとっても好ましくない。彼女と貴様を縛りつける呪いの鎖を断ち切ってやろう」

 そのあまりにも意外な申し出に、ガラルドは愕然として魔人(ディーヴァ)の青年を見つめた。

 にわかには、信じられない展開だった。

「本当、か……!?」

 動揺を押し隠したつもりが、紡いだ声は震えていた。

「私は貴様の全てに興味がない。呪いが解けたらどこへなりとでも行くがいい。ただし、二度と私の目の前には現れるな」

 無表情でそう言い切った魔人(ディーヴァ)の言葉に含みはなかった。

 元来、自分以外の者には無関心と言われる種族だ。もっとも彼らは気紛れで、いつ、どこへその関心が傾くのか知れたものではなかったが。

 目の前の魔人(ディーヴァ)はフユラに強い興味を持っている様子だったが、ガラルドに関しては道端の石ころ同然だった。石ころに意識を割くなど、彼の美学に反する行為なのだろう。

 屈辱的ではあったが、それは、待ち望んだ瞬間だった。

 五年以上にも及ぶ、長い旅路-----遥かな魔法都市アヴェリアを目指して、更にその倍の月日を幼い少女と共に旅する覚悟を決めていた。

 その旅が、今、ここで終わる。

 自分はこの忌々しい呪縛から解き放たれ、ようやく、自由になれるのだ。

 長かった-----。

 ガラルドは瞼を閉じ、長い長い息を吐き出した。

「……分かった。見届けたら行く。二度と会うことはない」
「いいだろう」

 男達の会話に不安げな表情を見せていたフユラは、再びこちらに向き直った秀麗な顔の青年に怯え、後退った。しかし左腕を取られている為、距離を取ることが出来ない。

「怖がらなくていい。君の魂と繋がった不浄なものを取り除くだけだ。それが終わったら、君を元の輝く姿に戻してやろう。生命の躍動溢れる、あの美しい姿に-----」

 ふわふわの銀に近い灰色の髪をなで、魔人(ディーヴァ)の青年がうっとりと呟く。

 ガラルドはまるでばい菌扱いだ。

 苦々しく口をつぐんで見守っていると、助けを求めるフユラの薄もやがかったすみれ色の瞳とぶつかった。

 反射的に、ガラルドは瞳を逸らしてしまった。

 胸に、何とも言えない苦い感情の渦が広がっていく。

 ……何だ、これは?

 胸が詰まるような、ひどく息苦しい、その感覚。

 心臓が、嫌な鼓動を打ち始めた。

 ガラルドが見つめる前で、フユラの左の手首に、鋭く爪のとがった魔人(ディーヴァ)の青年の指が伸ばされる。その指が不意に方向を変え、少女の胸元へと移動した。

「……私は華美なものは好まない」

 少女の胸にかかっているキンキラのペンダントがどうやら彼の美意識にそぐわなかったらしい。

 鎖ごと引きちぎろうとするその行為にフユラが激しく抵抗した。小さな手でペンダントトップを覆い、頑として離そうとしない。

 その抵抗にとりあえずあきらめる気になったのか、魔人(ディーヴァ)の青年はペンダントから手を離した。

 そして次の瞬間、少女の左手首の呪紋(じゅもん)に向かって解呪の力が放たれたのだ!

 白い閃光と共に、フユラの小柄な身体がビクリと跳ねた。その小さな口から、声にならない悲鳴が漏れる!

「……っ……あ、あ、あぁ…ッ……!」

 まるで電気ショックを受けたかのように激しく痙攣を起こしながら、安物のペンダントトップをきつく握りしめ、フユラの可愛らしい顔が苦痛に歪む。

「や……あ、あ、あぁーッ!」

 少女の苦悶の声が響く中、ガラルドも左の足首に尋常ならざる熱を感じていた。

 フユラの母親に術をかけられた時と同じ状態だ。しかし、フユラのこの苦しみようは……!? あの時、彼女はこんな風に苦しんだりしなかったはずだ。

「おい……!?」
「大丈夫だ」

 ガラルドの疑念を察した様子で魔人(ディーヴァ)の青年が答えを返してきた。

「この呪紋(じゅもん)はあの女のオリジナルだ。通常は術者以外の者には解けない仕組みになっている……複雑に絡んではいるが、解けない代物ではない。多少時間はかかるが問題ない」
「フユラの身体は持つのか!?」
「フユラ? 貴様が便宜上つけた名か……。私は彼女を必要としている……死なせるつもりはない。肉体の損傷は、後で修復する」

 事も無げに、魔人(ディーヴァ)の青年はそう言い結んだ。

「後で、修復する、だと-----」

 ガラルドは言葉を失った。

 耳を塞ぎたくなるようなフユラの悲鳴が、切なく辺りに響き渡る。

 便宜上つけた名-----確かに、そうだ。

 月光の輝きに似た子供だと思った。だから単純に月の女神の名を取って、『フユラ』としたのだ。

 単独行動を好むガラルドは、それまで誰かと旅をしたことがなかった。

 この生い立ちも影響しているのだろう、協調性は皆無だったし、他人と馴れ合うのはごめんだった。

 人間は皆、自分を置いて死んでいく。幼い頃からそれを知っていたから、自然と一人で生きていく術が身に付いていた。だから、特に誰かを必要とする理由がなかった。知り合いらしい知り合いといえば、年老いたあの呪術師くらいだ。

 そんな彼にとって、突然降りかかったフユラの存在は災厄以外の何物でもなかった。普通の子供と比べて泣きわめかないだけマシだったが、彼女は何しろ一人で何も出来ないのだ。食事、着替え、トイレ、風呂……日常的なことから数え上げればきりがない。ガラルドのペースはすっかり狂わされてしまった。

 運命を共有する存在となったからこそ、仕方なく、耐えに耐えて面倒を見てきただけのことだ。それが今日、解消されるだけ-----ようやく元の日常に戻る、ただそれだけのことだ。

 -----なのに。

 ガラルドはぐっと拳を握りしめた。

 胸が、疼く。

 この感情は、何だ。得体の知れない衝動が、胸の奥からせり上がってくる。ひどく、苦しい。まるで悪い病気のようだ。

 目の前の魔人(ディーヴァ)は、その言葉通りフユラを死なせることはないだろう。

 肉体は深いダメージを受けるかもしれない。しかし、その傷は彼の手によって瞬時に回復するはずだ。

「-----そういう問題じゃ、ねぇ……」

 無意識のうちに、ガラルドは首を振っていた。

 彼女と初めて言葉を交わしたのは、いつのことだったのだろう-----感情の抑揚がほとんどない子供だった。

 魔人(ディーヴァ)の青年によれば、この少女は母親によってもうひとつ、その存在の輝きを隠す為の呪術をかけられているらしい。おそらくはその影響だったのだろう。今もその翳りはあるが、術自体が弱まってきているのか、以前に比べるとその状態は顕著ではないようだ。

 少しずつ、少しずつ-----ゆっくりと成長していった、フユラ。そして、少しずつ、少しずつ……同じ時を過ごすうちにガラルドとフユラの間に築かれていった、何か。

 その何かが、熱病のようにガラルドを冒し始めている。

 そしてそれは、彼自身を思いもよらなかった方向へと導き始めた。

「痛がってんじゃねぇか……」

 ぎり、と奥歯をかみしめ、ガラルドはきつく瞼を閉じた。

 子供特有の高い体温を放つ、小さな手。
 いつの頃からか無償の信頼を宿すようになった、いたいけな瞳。
 ふとした瞬間にこぼれた、笑顔。

 他愛もない、そんな過去の映像達が脳裏をよぎり、ガラルドをかき乱す。

 フユラが唇に残していった、熱-----。

 熱い。熱い。
 左の鼓動が、胸を叩く。

「やめろ……」

 絞り出すような声が、喉の奥から漏れた。

 苦痛の涙で頬を濡らした少女が、息も絶え絶えに、こちらを向く。

 どくんっ、と響く、鼓動。

 胸の前でペンダントを握りしめたフユラの口から、絶叫が迸(ほとばし)る!

「がら、る、どぉぉっ……!」

 その瞬間、未知の感情が臨界点を突破した。わずかに残る理性は激情で焼き切れた。

「フユ、ラァァ-----ッ!」

 剣を掴み、ガラルドは先の見えない道へと駆け出した。

 紅い瞳をした白髪(はくはつ)の半魔に強襲され、魔人(ディーヴァ)の青年が作業を中断する。

 剛剣がその蒼白い頬をかすめ、うっすらと赤い痕を残した。その驚愕と屈辱に、氷蒼色(アイスブルー)の瞳が見開かれる。

 解呪の力から解放され、フユラがその場に崩れ落ちる。その彼女を背にかばい、ガラルドは魔人(ディーヴァ)の青年と対峙した。

「……貴様……血迷ったか」

 遠雷を孕んだ低い声音が、更地と化した夜の森に響き渡る。

「……誰よりも、オレ自身がそう思っている」

 気圧されそうになる自分を奮い立たせ、ガラルドはそう答えた。

 凄まじい威圧感だ。圧倒的な力の気配に、向き合うだけで冷たい汗が噴き出してくる。

「呪印を解いてほしいのではなかったのか……? 半分は我が眷属の血を引く者が、犬のように繋がれることを望むのか。それほどまでに私のモノに魅せられたか……!?」
「こいつは誰のモノでもねぇ……オレも、この状態を望んじゃいない。呪印は、こいつが苦しまない方法で、どうにかして解く」

 ハルヒの左手首にあの呪紋(じゅもん)はなかった。フユラの母親のオリジナルの呪術らしいが、解呪の方法はきっと他にもある。恐らくアヴェリアにその答えはあるはずだ。

「理解出来んな。今解けるものを、何故先送りにする。苦痛はこの瞬間だけのこと……肉体の損傷は修復すると言っているだろう」
「傷を回復すりゃいいって問題じゃねぇ……こいつは苦痛を感じる、恐怖を感じる、心に傷を負う。問題だらけだ」
「それが憂慮すべきことか? 時間の無駄だ」

 魔人(ディーヴァ)の青年はそう切り捨てた。彼らは他人を厭うことなどしない。そういう思考回路がないのだ。

「愚かな半魔だ……力の差も顧みず、この私に楯突くとは。格下を相手に力を振るうのは本意ではないが、邪魔者は排除しなければならない」

 魔人(ディーヴァ)の気配が変わった。押し殺した怒りを解放し、戦闘態勢へと入った。

 ガラルドはどうやら石ころから目障りな虫ケラへと昇格したらしい。

 魔人(ディーヴァ)の怒りに、大気が震える。びりびりと伝わってくるその強大な力の前に、ガラルドの本能と呼ぶべきものが慄(おのの)き、警鐘を鳴らす。

 力の差は火を見るよりも明らかだ。

 気を抜くと無意識に震えだしそうになる肉体を意志の力で抑えつけ、彼は背後の少女に告げた。

「-----逃げろ、フユラ」

 彼女が目を見開き、息を飲む気配が伝わってきた。

「お前が無事でいる限り、こいつはオレを殺さない。逃げろ!」
「確かにその選択肢は有効だろう。だが、生きながらにして地獄の責め苦を受け続けるのか? 苦しいぞ……死にかけたら回復させ、回復したら再び死にかけるまで痛め続ける。それがどういうことだか分かるか……?」

 ガラルドに、というよりはフユラに言い聞かせる調子で、魔人(ディーヴァ)の青年はゆっくりと右腕を上げた。

 次の瞬間、自身の肉体を貫いた衝撃に、ガラルドは呼吸を止めた。

 魔人(ディーヴァ)の青年の右腕が鋭い凶器と化し、彼の腹部を貫いたのだ。

 動きが、全く見えなかった。

 一拍置いて、激痛が脳天まで突き抜けた。

「……ッ!」

 迸(ほとばし)りかける苦痛の声を喉の奥で殺そうとするガラルドをなぶるように、魔人(ディーヴァ)の青年は空いた左手で彼の右手首を押さえ付け、赤く染まった右腕を抉るように突き動かす。傷口が広がり、熱い塊が口を突いて出る。ガラルドの口からたまらず呻(うめ)き声が漏れた。

「が……あ……ッ!」
「こういうことだ……分かったか?」

 あまりにも凄惨な光景に、立ち上がりかけていたフユラの腰が砕ける。衝撃で息も出来ない少女を見やり、圧倒的な力を誇る青年は傲然(ごうぜん)と言い放った。

「君が逃げたらこの半魔をこういう目に合わせ続ける。大人しく私の言うことを聞いた方が、君の、そしてこの半魔の為だ」
「フユ……ラ、逃げ……ろ……呪いが解けたら、どのみちオレは、殺される……」
「黙れ」

 血まみれの腕を引き抜き、魔人(ディーヴァ)はその腕でガラルドの顎を掴み上げた。同時に左腕に力を込め、思い切り捻り上げる!

「あ、があぁぁぁぁッ……!」

 嫌な音を立て、剣を持つガラルドの手首がおかしな方向に曲がる! 大きく開いた腹部の傷口からは大量の血が流れ出し、彼は瞬く間に鮮血に染まった。その姿を目の当たりにしたフユラはかすみがかったすみれ色の瞳をいっぱいに見開き、がちがちと歯を鳴らせた。

「がっ……がっ……がっ……」

 運命を共有する青年の名を呼ぼうとするのだが、あまりの衝撃に全身がわななき、声にならない。

 このままでは、犬死だ。

 何とか意識を保ち、折れた腕で剣だけは取り落とすまいと耐えるガラルドの傷口に、魔人(ディーヴァ)の青年は容赦なく再び指を突き立てた。

「……ッ、ぐ……!」
「まだ小賢しいことを考えているのか……? 私はようやく探しモノに巡り会えたのだ、貴様のような輩(やから)が邪魔することは許さん」

 その腕が動く度、ぐちゃり、と傷口が音を立てる。激痛に顔を歪めるガラルドを見据え、彼は語り始めた。

「……ある日のことだ。私は気になる輝きに気が付いた。それは溢れるような躍動感に満ちた、神秘的な生命力の輝き……その波動に気が付いた時、私は自分の心が震えるのを感じた。それを美しい、と思ったのだ。それから二年-----美しい、と感じる私の想いは変わらなかった。それを手に入れたいという欲求が日々募り、私はその輝きの元へと向かったのだ。そこは、アヴェリアという人間の街だった。驚いたよ。二年もの間この私を惹きつけてやまなかったモノ、それがまさか、人間の子供だったとは-----」

 その時の衝撃を思い出したのか、秀麗な顔立ちの青年はやや声をうわずらせた。

「目にした彼女の輝きは凄まじかった。至高の宝玉のようだったよ。しかし、彼女を連れ帰ろうとする私をあの母親は許さなかった。小賢しくも空間転移の術を使い、この私から逃れようとしたのだ。空間が閉じる寸前に、私は力を絞って放った。母親が彼女をかばうことを計算に入れて、母親だけが死ぬように算段したのだ。視認は出来なかったが、手応えはあった……しかし、同時に彼女の気配も失われてしまったのだ」

 フユラと最初に出会った小さな村が思い出された。野盗などに襲われたのではない、あれは、あの惨状は、この魔人(ディーヴァ)の放った力によるものだったのだ。

 フユラの母は何とか彼女を守り通したが、魔人(ディーヴァ)の思惑通り、その命を落とすことになった。彼にとって誤算だったのは、母親が即死ではなく死ぬ間際に彼女の気配を隠す為の呪術を使ったことと、偶然通りがかったガラルドがフユラと運命を繋がれ、彼女を連れ去ったことにあった。

「力の加減を間違えることなど有り得ない……私は彼女を探し回った。しかしどうしても見つけ出すことが出来ず、今日まで無駄な時を費やしてしまった。この私がここまで苦労して何かを手に入れるのは初めてのことなのだ……貴様のような半魔がそれを邪魔することは許されない」

 氷蒼色(アイスブルー)の双眸を鋭く細め、魔人(ディーヴァ)の青年はガラルドの腹部に突き立てた指を抜き去った。傷口から再び血が噴き出し、大地を朱に染めていく。

「がはっ……!」

 内臓がやられたらしい。口からも大量の血が溢れ出し、口中いっぱいに鉄の味が広がる。その返り血を浴び、真紅に染まった堕天使が、ゆっくりとフユラに視線を送る。

「-----おいで」

 青冷め、凍りつく少女に向かって、彼は両手を広げ、悪魔のように囁いた。

「君が私の元へ来たなら、今すぐこの半魔の傷を修復してやろう」

 残酷な天使の手から解放されたガラルドの身体が、血溜まりの中に崩れ落ちる。

「……!」

 声にならない声を上げ、小さな両手をいっぱいに伸ばし、フユラはガラルドの元へと駆け寄った。

「がら、る、どぉっ……!」

 可愛らしい顔をくしゃくしゃにして、その大きな瞳から大粒の涙をこぼし、血まみれの青年にすがりつく。

「がらるど……がらるど、がらるどぉぉっ……!」

 少女の体温を肌に感じながら、因果な運命になったものだと、彼は思わずにはいられなかった。

 自分の人生に、まさかこんな展開が待ち受けているとは思わなかった。

『長い人生だ、たまには変わったことがあった方が面白いさ』

 いつかの年老いた呪術師の言葉が、耳に甦る。

 -----ああ、そうだな……。

 ガラルドは瞳を閉じ、深く息を吐いた。

 誰かに必要とされることが、こんなにもくすぐったく、心満たされることだとは思わなかった。誰かを想う気持ちが、こんなにも温かく、力強いものだとは知らなかった。

 以前の自分であれば、冷笑の対象だった生き方-----だが。

 -----だが、悪くない……。

 あの呪術師が、今の自分を見たならどう思うだろう。きっと父親気取りの表情を見せ、大きく頷くことだろう。

 これが多分、彼が教えようとして教えきれなかったことだ。他人を想い、想われること------一人ではない、生き方。

「……フユ、ラ」

 血まみれの腕を伸ばして、ガラルドは大切な少女の頬に触れた。

 涙が幾筋にも流れるその頬を引き寄せ、小さな唇に、自分の唇を重ねる。

「オレの言うコトを、聞けよ……」

 口の周りに血糊をつけ、潤んだ瞳を見開く彼女を、ガラルドはいっぱいに突き飛ばした。

「-----行け! 逃げろ!!」

 眉をひそめ、フユラを捕えようとする魔人(ディーヴァ)の前に、傷だらけの身体を引きずり起こし、ガラルドは立ちはだかった。

「見苦しいぞ……醜悪にもほどがある」

 魔人(ディーヴァ)の青年は不快さも露わに、全身を真紅に染める半魔の青年をにらみつけた。

「……どんだけ、見苦しかろうが、関係ねー……てめぇを、全力で阻止する……!」
「ほう? 貴様にそれが出来るとは思えないが……」
「……半魔を、なめんなよ-----!」

 何が何でも、フユラを逃がす。

 その強い想いが爆発的に高まった時、ガラルドの中の何かが目覚めた。

 体表に表れた深緑の紋様がそれに呼応し、淡い輝きを放つ-----同時に同じ色合いの結界が生まれ、彼の周囲を包み込んだ。何が起きているのかは分からない。肉体(カラダ)が、精神(ココロ)が、沸騰しそうなほどに熱い。肌が粟立つほどに、全身の感覚が研ぎ澄まされていく-----まるで自分が生まれ変わっていくかのようだ。

 身体の奥底から力がみなぎり、闘気となって全身から溢れ出す。傷口からの出血が止まり、ひとつひとつの細胞が新たな力に目覚めていく。

 見慣れぬ現象に、魔人(ディーヴァ)の青年がかすかに目を瞠った。

「これは……!?」

 左腕で折れた右手首を無理矢理固定し、ガラルドは奥歯をかみしめた。何故かは分からないが、治癒力が上がっている。完全とはいかないまでも、どうにか骨がくっついた。

 一撃、持てばいい。

 -----この一撃に、全てを懸ける!

 爛々と瞳を輝かせ、ガラルドは大振りの剣を構えた。湧き起こる闘気が白髪(はくはつ)を逆立て、蒼白い光を収束した剣が唸りを上げる!

 魔人(ディーヴァ)の青年が動いた。

 鋭い爪を構え、ガラルドの首筋めがけて襲いかかる!

 先程は全く見えなかったその動きが、今はどうにか見ることが出来る。ガラルドの結界を貫く際、そのスピードがほんのわずかだけ弱まった。

 首をもぎ取られそうな風圧を伴うその攻撃を、ぎりぎり皮一枚でかわす。すれ違いざま、全ての力を注ぎ、その脇腹に激烈な一撃を叩き込む!

 手応えが、あった。同時に、右の手首が違和感を訴えた。骨が砕けたのだ。

 思いがけぬ事態に、魔人(ディーヴァ)の青年が目を見開く-----しかし次の瞬間、彼はすぐに反撃に転じた。後頭部を強打され、ガラルドの身体が勢い良く弾き飛ばされる!

「が、はぁっ……!」

 凄まじい音を立てて大地に激突し、もんどりうった彼は、その場に無様に転がった。全ての力を使い果たし、体表の紋様から輝きが失われる。

 強い。

 その事実を、思い知らされた。

 純粋な魔人(ディーヴァ)と、人間との混血である自分にはこれほどまでの差があるのか。

 敵わ、ねぇ……。

 息も絶え絶えのガラルドに、憤怒の形相の魔人(ディーヴァ)の青年が歩み寄る。

「貴様……半魔の分際で、この私に傷を……許さんぞ……!」

 彼の脇腹はざっくりと裂け、そこからは確かに赤い液体が滲み出ていた。

「-----純粋な魔人(ディーヴァ)の血も……赤いんだな……」

 単純に、それが不思議だと思った。その言葉を、彼は侮辱と受け取ったらしい。

 空気を裂く音がして、両の足首に激痛が走った。

「ぐあぁあッ……!」

 腱を切られたのだ。呻(うめ)くガラルドを憎々しげに見やり、返り血で紅く染まった堕天使が怒りに震える声で告げる。

「彼女の呪いを解いたら、存分に苦痛を味わわせてから楽にしてやる。覚悟するがいい」

 すでにどこが痛いのかも判然としない中、遠のく意識の片隅で、ガラルドは運命を共有する少女のことを想った。

 フユラは……少しでも、ここから離れることが出来ただろうか?

 随分と分の悪い賭けであることは分かっている。でも、それでも、祈らずにはいられない。

 どうか……どうか、この魔の手から逃れてほしい。

 初めてなのだから。

 誰かを大切に想い、この身を賭して戦うことが出来たのは-----。

 途切れかけた意識は、右腕に走る激痛で呼び戻された。

 念には念を入れるつもりなのか、魔人(ディーヴァ)の青年が右腕を潰したのだ。

「う、が、あぁぁぁッ……!」
「こうすれば、先程の妙な力をもってしても簡単には修復すまい。これで、もはや剣は握れない」

 冷酷にそう宣告すると、彼は四肢の中で唯一無傷の左腕にも狙いを定めた。掌に、白く輝く冷たい光が産み出される。

 ガラルドは歯を食いしばった。

 逃れる術は、ない。

 魔人(ディーヴァ)の青年の掌から容赦のない力が放たれたその瞬間、ガラルドの眼前に黄金に輝く光の壁が立ち上がった。白い光がそれに弾かれ、轟音と共に霧散する!

「-----……!?」

 状況が飲み込めず、茫然とするガラルドの前で、魔人(ディーヴァ)の青年がいまいましげに空中を仰ぎ見た。その視線の先を追ったガラルドは、二重の驚愕に息を飲んだ。

 夜から朝へと移り変わろうとする紺碧(こんぺき)の空に、フユラを抱えた新たな魔人(ディーヴァ)が出現していたのだ。



*



 今日はいったい、何という厄日なのだろう。

 身体中に負った深い傷と多量の出血で意識朦朧(もうろう)としながら、ガラルドはその存在が定かではない神というものを呪いたくなった。

 フユラを荷物のように小脇に抱え、悠然と地上を見下ろすその魔人(ディーヴァ)は、腰まである乳白色の髪を風にたなびかせ、紅い瞳を楽しそうに輝かせている。筋肉質な赤銅色の肌を晒し、ゆったりとした黒のパンツを透け感のある水色の帯で留めただけの、大変ラフないでたちだ。その背には自分の身長ほどもある巨大な剣を背負っており、同じ魔人(ディーヴァ)でも目の前の青年とはだいぶタイプが違う。

 年の頃は三十代前半程度に見えたが、実際の年齢はもちろん知れたものではない。

 髪と同じ色の三角の耳は、顔の側面ではなく獣のようにこめかみの上にあり、その首筋から背にかけて、同色のたてがみが生えそろっている。足首から先は、まるで大型の肉食獣のようだ。翼はなく、別の力で宙に浮いているらしい。

 目の前の青年同様、体表に呪紋(じゅもん)はない。どうやら体表に呪紋(じゅもん)が表れるのは半魔特有の現象のようだ。

 突如出現したその魔人(ディーヴァ)は、フユラを小脇に抱えたまま、音もなく地上に降り立った。

「よぉ、セラフィス」
「……ディーゴ、貴様、何のつもりだ」

 セラフィスと呼ばれた青年が、剣呑な眼差しを眷属の青年に向ける。

 この世界のほとんどの者が居すくむに違いないその眼差しを平然と受け止め、ディーゴと呼ばれた魔人(ディーヴァ)はぞんざいな口調で笑った。

「そう怖ぇ顔すんなよ。お前に話があって来たんだ」
「内容いかんによっては許さんぞ。……まずは私のモノを離せ」
「……はいよ」

 腕の中でもがくフユラを、ディーゴはあっさりと解放した。転がるようにしてその腕を飛び出した彼女は、一目散にガラルドの元へと駆け寄った。

「がらるどぉ……!」
「フユ、ラ……」

 唯一自由の利く左腕を伸ばして、彼はその小さな身体を抱き寄せた。

 まるで悪い夢のようだ。この状況で、どうやって彼女を守り抜くことが出来る!?

 しかし、絶望的と思われたその状況は、巨大な剣を背負った魔人(ディーヴァ)の台詞(セリフ)で一変した。

「わりぃんだが、その子供を今回は見逃してやってくれねぇか」

 想定外のその展開に、ガラルドは息を飲んだ。今夜は耳を疑いたくなるような出来事の連続だったが、これはその極めつけと言えた。

 何がどうなっているのか、わけが、分からない。

 混乱し、息を殺すガラルドとは対象的に、セラフィスは静かな怒りを爆発させた。

「何を言うかと思えば……ふざけるな。その半魔を見た時から嫌な予感はしていたが、やはりそういうことか。貴様に情というものがあるとは思わなかったが、意外だったな。良く似た息子が可愛いとみえる」

 それこそ、息の根が止まるかと思うほどの衝撃だった。

「な、ん……!?」

 信じられぬ思いで、ガラルドはディーゴを見上げた。言われてみれば確かに、目の前の魔人(ディーヴァ)は変現(メタモルフォーゼ)した自分の姿と良く似ていた。

 父親、だと……!?

 生まれて初めて目にするその存在に言葉を失う息子を見やり、ディーゴは気色悪そうにセラフィスをねめつけた。

「バカ言うな、ンなワケねーだろ。太陽が西から昇っても有り得ねー」
「では、何故だ」

 もっともなその質問に、彼は肩をすくめ、事の顛末を語り始めた。

「実は、今回お前がその子供を見つけることが出来たのはな、ひとえにこのオレのおかげだと言える」
「何だと?」

 セラフィスの声に殺気がこもる。

「まぁ最後まで聞けよ。オレがある程度時空に干渉出来ることは、お前も知ってんだろ。この間色々試していた時、偶然オレが干渉していた次元と別次元から誰かが干渉した不完全な力がリンクして、異次元のモンが二つほどこっちの世界に飛び込んで来ちまったんだ」

 大仰に溜め息をついて、ディーゴは続けた。

「ひとつは個体で、もうひとつは思念体みてぇだったな。んで、思念体の方はその時にオレの力の影響をもろに受けちまったらしい。妙なことになると面倒くせーから一応気にかけておくことにしたんだが、そこに偶然オレのガキが関わってきた。どうやらそいつとの間に浅からぬ因縁があったらしくてな、戦闘になった。セラフィス、お前がさっき消滅させたのがその思念体のなれの果てだ。んで、お前が感じた輝きってのはもうひとつの個体が放った力さ。その個体はもう、在るべき場所へ帰っちまった。オレの言ってる意味が分かるな?」
「……その個体が、彼女の過去か未来の姿だったということか」
「ま、そーいうコトだ。だから目の前のその子供は、呪術がかかったままの状態で、お前の求める輝きは発していない。つまり、本来はお前に発見される状態になかったってコトだ」
「…………」

 しばし沈黙した美麗な青年は、不機嫌な面持ちで屈強な青年をにらみつけた。

「私を言いくるめる気か? 様々な偶然が重なった結果とはいえ、彼女を見つけることが叶ったのは私の起こした行動によるものだ。私が引く理由はないだろう?」
「お前、オレのコト嫌いだよな? いいのか? オレの働きかけあっての結果になるんだぞ? もちろん、オレはずーっとそれ、言い続けるぞ? それはお前の美意識とやらに反しないのか?」

 意地悪い笑みを浮かべ、ディーゴがセラフィスに詰め寄る。繊細な眉根を寄せ、秀麗な顔立ちの青年が唸った。

「汚いヤツめ……その話しぶりだとずっとこちらの様子を窺っていたのだろう、何故もっと早く出て来なかった」
「決まってんだろ、面白かったからだよ」

 あっけらかんと、赤銅色の肌の魔人(ディーヴァ)はそう言い切った。

「オレのガキがお前相手にどこまでやれるのかも見てみたかったしな。まぁ一撃でも浴びせられれば上等だ」

 その言葉にセラフィスの殺気が膨れ上がった。

「貴様も試してみるか?」
「わりぃな、オレは今そういう気分じゃねーんだ。まぁどうしてもって言うなら別だが、お互いに無駄と分かっている力を使うのはお前の美学にも反するんじゃねーのか?」

 二人の魔人(ディーヴァ)の実力はどうやら拮抗しているらしい。しばらくにらみ合った後、セラフィスが長い長い溜め息と共に殺気を消し去ったのがそれを証明していた。

「とんだ茶番に付き合わされたものだ。これで私が引き下がるとはよもや思っていないだろうな? 見返りに何を寄越す?」
「しょーがねー、好きなモンくれてやるよ。こっちに妙なモン招き入れちまったのはオレだからな……」
「-----では、『暁の宝玉』を」
「……分かった」

 魔人(ディーヴァ)達の間で、どうやら取り引きは成立したようだった。

「一年の猶予を置こう。それ以降、私は再び彼女を探し始める。その時邪魔立てすれば全力で貴様を殺す-----もちろん、貴様の息子もな」
「構わねぇよ。この件にオレが関わることは二度とねーし、ガキがどうなろうが知ったこっちゃねぇ。今回は結果的にオレの後始末に力を貸したことになるからな、特別だ」

 それを聞いたセラフィスは冷笑した。

「よく言う……その半魔があっさりと私に殺されていたなら、貴様は出て来なかったのだろう?」
「あったりめーだ。恥ずかしくて出て来れっか。オレの血を引いていながらそのざまじゃ、生きてる価値もねぇ」

 即答するディーゴと血まみれのガラルドとを見比べ、セラフィスは理解しがたいといった表情を浮かべた。

「……ディーゴ、貴様にひとつ聞きたい。何故、人間などと交わった?」
「あ? どんなモンか興味があったんだよ。それ以上でも、以下でもねぇ。まさかガキが出来ているとは思わなかったがな……この目で見て、正直驚いたぜ」
「正気の沙汰とは思えんな……そんな理由で自らの血を穢すとは。貴様はもちろんだが、それとは別の意味で、貴様の息子もどうかしている-----」

 長い睫毛を伏せ、血の滲み出た脇腹に触れると、セラフィスは紅く染まった白い翼をばさりと羽ばたかせた。

「……二度と出会わないことを祈る」

 そう言い置いて、最後にフユラにちらりと視線を投げかけると、彼は白々と明け始めた空に飛び立った。瞬く間にその姿は視界から消えていく。

 ひとつの、大きな脅威が去った。

「……さて、ずいぶんと手酷くやられたな」

 ディーゴにそう声をかけられ、ガラルドは悠然と佇(たたず)む父親をにらみ上げた。

「……礼は、言わねぇぞ……」

 上体だけを無理矢理起こし、左手でどうにか身体を支えているといった状態だ。

 その彼に寄り添うようにしたフユラが、隣の青年と良く似た姿の魔人(ディーヴァ)を戸惑った表情で見つめている。

「別に礼を言ってもらおうとは思っちゃいねー」
「……てめぇ、本当にオレの父親なのか」

 息も絶え絶えにそう問う半魔の息子に、魔人(ディーヴァ)の父は皮肉げに口元を歪めてみせた。

「感じねぇのか? 魂の根源に流れる、良く似た波動を」
「…………」

 口をつぐむ息子を見やり、彼は涼しい顔でこううそぶいた。

「まぁそんなこたぁどうでもいい……」
「どうでも、良くねぇ……」

 押し殺した低い声が、ガラルドの唇から漏れた。頭に浮かんだのは、年老いた昔馴染みの呪術師の顔だった。

『どんなモンか興味があったんだよ』

 母親について、目の前の魔人(ディーヴァ)があっさりとそう言い切った、その時-----ガラルドの中に全く予測しなかった感情が生まれていたのだ。

「-----何で、オレを作るような真似しやがった!」

 怒りに牙を剥き、ガラルドは叫んだ。

 魔人(ディーヴァ)の気紛れは、往々にして人間に不幸を呼ぶ。

「人間の女なら、誰でも良かったんだろう! 何で、あの女を選んだ!」

 感情を剥き出しにして、ガラルドはその言葉をディーゴにぶつけた。胸に湧き上がる思いが、抑えられない。

 将来を誓い合った相手を突然魔人(ディーヴァ)に奪われた、人間の青年-----バカみたいに一人の女に固執して、魔人(ディーヴァ)の子供を身ごもった彼女を、それでも一途に想い続けた。

 流行り病で彼女があっさり逝ってしまった後、酔狂にも、彼は遺された半魔の子供の面倒を見ることにしたのだ。その彼の周りから、当然のように人々は去っていった。

 若く精力に溢れていたその姿は月日と共に衰えていき、今ではみすぼらしい老人となってしまった。もしかしたら今頃、一人寂しくあの古い家の中で朽ち果てているかもしれない。

 呪術師としての実力はかなりのものだった。

 目の前の魔人(ディーヴァ)の気紛れさえなければ、彼の人生は全く違うものになっていたはずだ。

 あんな寂しい場所で、孤独な人生を送ることもなかったはずだ!

「てめぇの、その、気紛れのせいでっ……!」

 叫ぶ度、全身に激痛が走る。けれど、今は何故か、胸の方が痛い。

「何を熱くなっている? たまたま、お前の母親になる女がオレの目に止まった。そして、お前が生まれた。それだけのことだ」
「……っけん、な……!」

 込み上げるどうしようもない激情に、目頭が熱くなってきた。

 誰かの前でこんなにも感情を露わにしたのは生まれて初めてのことだった。

 巨大な剣を背負った魔人(ディーヴァ)はさして興味なさげにその様子を見やると、面倒くさそうに息を吐いた。

「過ぎたことをうだうだ言っても始まんねーだろ。現実を受け入れろ。とりあえず今のお前の為すべきことは、『生きる』ことだ。ここでくたばっちまったら、その子供は守れねーぞ」
「てめぇに、言われるまでも、ねぇ……!」
「この程度でくたばるようなら一年後にあいつと向き合う価値もねー。まぁせいぜい、オレに恥をかかせるなよ」

 そう言って、ディーゴはガラルドの隣のフユラに視線を向けた。

「お前の趣味にどうこう言うつもりはねぇが、何もヤツとおんなじモンを争わなくってもよ……あいつはしつっけーぞ。確かにそそられる波動は感じるが、オレだったら一抜けだね」

 ちょい、とフユラの頬に触れ、こう呟く。

「もうちょい、ってトコか……?」

 薄もやがかったすみれ色の瞳を覗き込み、意味ありげに薄く笑った彼の全身を風の気配が包み込んだ。

「あばよ、息子。せいぜい生き延びてオレを驚かせてくれ」

 その言葉を残し、赤銅色の肌の魔人(ディーヴァ)は乳白色の長い髪を風になびかせ、明け方の空に飛び立った。

「…………」

 その姿が見えなくなるまで気力で空を見上げていたガラルドは、次の刹那、糸が切れた人形のように血溜まりの中に崩れ落ちた。

 大量の血を失い、全ての力を使い果たし、肉体的にも精神的にも限界だった。

 急速に、意識が遠のいていく。

「がらるどぉ……!」

 驚いたフユラがしゃがみ込み、その顔を覗き込んだ。

「フユ……」

 ラ、と運命を共にする少女の名を呼びながら、ガラルドは深淵の闇に堕ちていった。



*



「がらるどぉ……!」

 意識を失った血まみれの青年の身体にすがりつき、フユラは為す術もなくその名を呼び続けていた。

 その青年は、物心ついた時からいつも彼女の側にいた。常に超然として、全てのものから彼女を守り、導いてくれる、かけがえのない存在。

 ぶっきらぼうな口調、時折見せる笑顔、大きな掌、広くて温かい、胸。彼女の記憶は、彼で埋め尽くされていると言っても過言ではない。

 その彼が、今、瞼を閉じ、血の海に沈んでいる。

 彼女の必死の呼びかけにも、ぴくりとも反応しない。

 初めて目にするその姿に、フユラは言いようのない恐怖を感じた。

「がらるど……がらるどぉぉ……!」

 涙でぐちゃぐちゃになりながら、助けを求めて周囲に視線を走らせるが、巨大な更地と化した戦場の跡に、佇(たたず)む者はいない。

 例え何者かがいたとしても、並みの者ではそこに近寄ることさえ出来なかっただろう。魔人(ディーヴァ)の残した濃厚な気配が、立ち入る者を拒んでいたからだ。

 しゃくりを上げながら、フユラはガラルドの頬に頬を寄せた。

 彼が自分の知らないもうひとつの姿に変身した時はひどく驚いたし、とても怖かった。

 けれど、ハルヒの言った通り、姿は変わってもガラルドはガラルドのままだった。彼女の大好きな、彼のままだった。

 今夜起こった様々な出来事は、フユラの心に深い衝撃を与えていた。

 これほどに精神を揺さぶられ、肉体と感情とが一体となる体験は、今までの彼女にはなかったことだった。

 恐怖で身体が震え、動けなくなる。

 大切な人が傷つくと、胸が痛み、たまらなく切ない気持ちになる。

 そんな当たり前のことを、彼女は初めて知ったのだ。

 そして、今-----大切な者を失うかもしれないという現実に直面した彼女の心は千々に乱れ、その痛みと恐怖にどうしようもなく涙だけが溢れてくる。

 ハルヒがガラルドを背後から抱きしめて、その傷を癒していた姿が脳裏をよぎった。

 どうすればいいのか分からなかったけれど、彼女と同じように彼を抱きしめてみた。

 血の気の失せた、けれどまだ温かい、生きている、ガラルドの身体。自分を守り、傷だらけとなったその身体。

 目を、開けてほしい。

 その声を、聞かせてほしい。

「がらるど……」

 いつものように、超然と、笑いかけてほしい。

「がらるどぉぉ!!」

 フユラの中の感情が、絶叫と共に弾けた。

 その瞬間、揺らぎに揺らぎ弱まっていた呪印が霧散し、凄まじい光が彼女の中心から溢れ出したのだ!

 母親の施した愛情の破片(カケラ)が、フユラの頬を柔らかくなで、散っていく。

 その光を遠く離れた空の上で感じたディーゴは後ろを振り返り、ニヤリと笑った。

「おーぉ、派手なこった。セラフィスの野郎、今頃歯噛みしてんだろうな。あと一年、あのキラキラしたモンを指くわえて見守ってなけりゃなんねーんだから」

 いつも澄ました顔をしている眷属の青年のその様を想像して、彼は満足げに肩を揺らした。

 人の手と、自然の摂理とが奇跡的な確率で創りだした、その生命(いのち)。

 自らの落胤(らくいん)がその生命(いのち)と巡り合った、数奇な偶然。

「おもしれー……」

 喉の奥で忍び笑いをもらしながら、ディーゴは再び空を飛び始めた。
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