その草叢の中で、フユラはガラルドの言いつけを守り、彼とハルヒの帰りを一人待ち続けていた。
彼女の周囲を取り囲むのは、姿と気配を隠す為の結界。その身を包み込むのは、仄かに白い輝きを放つ最上級の守護の呪術。共に、運命を共有する青年の手によって施されたものだ。
彼女は特別、現状に対して恐怖という感情を抱くことはなかった。
夜というのは、暗いもの。
森というのは、たくさんの生物達が生息するところ。
夜の植物達は、夜露でじっとりと濡れるもの。
事実を事実としてありのままにしか捉えない彼女には、「暗くて怖い」だとか「何だか不気味」などの、想像力が働く故に起こる感情というものがなかった。
先程大きな衝撃音がして夜空が一瞬明るくなった時も、それを事実として認めただけで、特に何の感情も抱かなかった。
その表情に変化が現れたのは、森が異様な緊張感に包まれたその時だった。
フユラのかすみがかった大きなすみれ色の瞳の奥が、揺れた。
びくり、と顔を上げ、彼女はガラルド達が消えて行った方角を見やった。そちらから、おぞましい、何か異様な力の波動が伝わってくる。
その波動は、彼女の遠い記憶を刺激した。
それは遠い遠い記憶-----まだ物心もおぼつかない頃、魂というべきものに刻印された、彼女自身も知らざる、戦慄の記憶。
この波動に近いモノを、彼女は知っていた。いや、魂が忘れざるものとして刻み込んでいた。
小さな身体はいつしか激しく震え出し、カタカタと音を立てながら、あえぐようなか細い吐息を喉の奥からもらさせた。
それは、フユラが初めて体験する『恐怖』という感情だった。
「……るどぉ」
怖くて怖くて、カチカチと歯を鳴らしながら、彼女は運命を共有する青年の名を呼んだ。
「がらるどぉ……」
自分でもどうしていいのか分からないその収拾のつかない感情に、彼女はパニックに陥った。
ガラルドの言いつけを守らなかったことなど、一度もなかった。
いつだって、彼に言われたことはキチンと守ってきた。
けれど今、彼女の混乱ぶりは極致に達していた。
恐ろしい波動は、ガラルド達の向かった方角から伝わってくる。けれど、そこに行けば、ガラルドがいる。
フユラは胸の前にぶら下がったキンキラのペンダントトップを、小さな両手でぎゅう、と握りしめた。
恐怖と安らぎ-----どちらを取るのか、そのせめぎ合いで彼女は揺れたが、それは長くは続かなかった。
震える足で、フユラは結界の外へと一歩を踏み出した。
彼女はガラルドに会う方を選んだのだ。
そして、おぼつかない足取りで、そこへ向かって歩き出す。いつでも自分を守ってくれる、運命を共有する青年の元へ、と-----。
*
その声が聞こえた時、ガラルドは自身の耳を疑った。
「がらるどぉ……」
この五年の間にすっかり耳に馴染んだ、舌ったらずな声。
それは、結界の中に置いてきたはずの少女のものだった。
彼女が自分の言いつけを守らなかったことなど、これまで一度もない。
何より彼が驚いたのは、その声に怯える響きが宿っていたことだった。この五年間の間、一度もなかったことだ。
「フユラ!?」
振り返ったガラルドの瞳に映ったのは、今にも泣き出しそうな顔で、よたよたと木立の間から現れた幼い少女の姿だった。
変現(メタモルフォーゼ)しかけていた彼の肉体は、その瞬間元の姿を取り戻していた。
「がらるどぉ……!」
「おまっ……どうした!?」
駆け寄り、その小さな身体を抱き上げると、彼女が激しく震えていることが分かった。
「フユラ……!?」
「……やはり、いたわね」
凍てつくような冷気をはらんだファネルの声に、腕の中のフユラの身体がビクリと震える。
-----ファネルを怖がっている、のか……!?
「……てめぇ。どうしてこいつを知っている。まさか、始めからこいつを狙って来たのか」
「誤解しないで。何よりも貴方に会いたくて来たのよ。彼女と会ったのは初めて……ここにいるという確証もなかったわ。けれど、疑念はあった」
「『もたらされた記憶』とやらと関係あんのか。お前の言う『災いの元』ってのはこいつのことか」
ファネルは氷の微笑を浮かべた。
「えぇ……そうよ。その子供はわたしと貴方の運命を狂わせる、災いの種。できれば貴方とその子供が巡り合う前にどうにかしたかったけれど、まさか、この時点で既に一緒にいるとはね。今夜、摘み取ってしまわなければ-----」
「……オレにも分かるように説明しろ」
「その子供を殺して、貴方を手に入れた後で、ゆっくりと説明してあげるわ」
その言葉から察するに、ファネルはガラルドとフユラを繋ぐ『絆』については何も知らないようだった。
「交渉決裂、だな。力ずくで聞き出すしかねぇってことか」
ガラルドの暗い緋色の瞳が凶暴な光を帯びた。ざわり、とその身に纏う気配が変わった瞬間、フユラの身体がビクリと跳ねた。怯えた様子で、じっとガラルドの顔を見つめてくる。
「……そういうことか」
その様子を見たガラルドはひとつの推測に至った。ゼルタニアの酒場で聞いたアヴェリアの噂話が耳に甦ってくる。
フユラはファネルに怯えているわけではない。彼女の中に流れる魔人(ディーヴァ)の気配に怯えているのだ。
フユラの母は、恐らく件(くだん)の呪術師-----母親が魔人(ディーヴァ)に襲われたその現場に、子供である彼女もいたのだろう。そして、その時の体験が忘れえぬ恐怖となって、彼女の中に焼きついているのだ。
「……おい、こいつを頼む」
ガラルドはそうハルヒに声をかけた。他人にフユラを任せることなど、しかもこんな得体の知れない人物に任せるなど、絶対に有り得ないことだったが、そうせざるを得ない状況に彼は追い込まれていた。
「……信用するぞ」
「任せて」
頷いて、ハルヒはガラルドからフユラを受け取った。
「ごめんね、ガラルド。あの女とこんな風に戦うことになっちゃって……しっかりとどめをさしたつもりだったんだけど、甘かったみたい」
「その話は後だ」
そう言い置いて、ガラルドは二人に結界を張った。不安げなフユラの姿を視界の隅に捉えながら、その表情を直視することはなかった。
対峙するファネルが、超然と微笑む。
「……そんな結界でわたしの攻撃を防げる、とでも?」
「……十秒持てばいい」
そう答える彼の変現(メタモルフォーゼ)はすでに始まっていた。
細胞が配列を変え、筋肉が、骨が、人外のモノへと変化していく。耳は先端が尖り、薄茶色の髪からは色素が抜け、瞳は燃えるような紅蓮の宝玉と化した。犬歯と爪が異様に発達し、頬や腕など体表には深緑の紋様が浮き出る。
ガラルドの変化にフユラが怯え、ハルヒにきつくしがみついてきた。そんな彼女を抱きしめながら、ハルヒは優しく言い聞かせる。
「フユラ、大丈夫だよ。ガラルドは何も変わっていない。彼は二つの外見を持っている、ただそれだけのこと。すぐに、分かるよ」
戸惑ったように見つめてくる、薄もやがかったすみれ色の瞳を、澄み切ったすみれ色の瞳が静かに見つめ返す。
「とても良く似た波動かもしれない。でも、フユラを襲ったモノとは、違う。全く違うんだよ」
変現(メタモルフォーゼ)を終えたガラルドは、いまいましそうに泰然と佇(たたず)むファネルを見やった。
「変現(メタモルフォーゼ)の間に襲ってこないとは意外だな。それだけその妙な力に自信があるってことか」
変現(メタモルフォーゼ)の十数秒間においては、完全に無防備な状態になってしまう。それが魔人(ディーヴァ)と人間との混血に生まれついた彼らの弱点だ。変現中、その肉体は鋼鉄並みの強度に覆われるが、より強い力を持つ者の前ではそれは何ら意味をなさない。致命的な弱点であると言える。
「人から魔へと変わる瞬間の貴方は、最高にセクシーだわ。わたし自身も命懸けだし、そうそう見れるものじゃないもの……そんなもったいないこと、出来るわけないじゃない。貴方こそ、小娘達に結界を張って自分はそのままなんて、わたしの力を見くびっているの? それとも、小娘達にちょっかいを出されないように自分の身を囮にしたのかしら?」
「-----オレがそんなダサい真似するとでも? ふざけんな」
口元を歪めるガラルドに、ファネルはゆっくりと紅い唇の端を上げた。
「そうでないことを祈るわ-----……わたしの知っている貴方は、何物にも縛られず、誰にも捕われず、自由奔放で超然としていた。わたし以外の者の為に、貴方が変わることなど許さない-----それは、絶対にあってはならないことよ!」
「ファネル-----お前とは生涯話がかみ合わねぇな!」
その瞬間、戦いの火蓋は切って落とされた。
剣を構え、ガラルドが走る! ファネルの繰り出す火炎竜が唸りを上げ、獲物を飲み込まんと牙を剥く!
「だぁッ!」
気勢を上げ、ガラルドは剛剣で一刀両断にした。炎の竜が四散し、爆音を伴って周囲の木々を破壊する。
なおも止まらず走り続ける彼に、ファネルが容赦なく次々と火炎竜を送り込む。魔人(ディーヴァ)は人間と違って、呪紋(じゅもん)を使わずに力を放つことが出来る。その分、より多くの攻撃が出来るようになるのだ。この姿となった彼女もその能力を如何なく発揮できた。
襲いくる火炎竜を次々と薙ぎ払い、ガラルドがファネルに肉薄する。彼女の周囲は黒炎の壁によって護られていたが、彼は構わず愛剣を振りかぶった。
刀身に蒼白い光が収束し、振り下ろされたその瞬間、森が震えた。
凄まじい剣圧が黒炎の壁を斬り裂き、その奥にいたファネルの肉をもぎ取る! その衝撃は後ろにそびえ立つ木々にまで波及し、地響きと共に土煙を上げて多くの樹木を大地へと沈めた。
しかし、ガラルドも無事では済まなかった。主(あるじ)を護っていた黒炎の壁がその瞬間反撃したのだ。まるで生き物のように身体のあちこちにそれがまとわりつき、嫌な音を立てて皮膚を焦がしていく。
「うふふ……首を狙ったの? 惜しかったわね」
炎の中から、どこか楽しそうなファネルの声が聞こえてきた。
鎖骨の辺りの肉をごっそりと抉り取られ、ちぎれかけた腕がぶらん、と揺れている。紅い唇に薄い笑みを浮かべ、血にまみれたその姿は、さながら地獄の使者のようだ。その深い傷口の周囲からぶくぶくと黒い泡が立ち、瞬く間に傷口を埋めていくのを見て、ガラルドは息を飲んだ。
「てめぇ……!?」
「ガラルド、貴方はやっぱり強いわ。以前のわたしだったら、今の一撃で勝負が決まっていたかもしれない。でも残念ね……そうはいかないわよ」
琥珀の視線が、蛇の如くガラルドに絡みつく。
「貴方はわたしのもの……誰にも渡さない!」
その刹那、ガラルドの身体にまとわりついていた黒炎が急速にその勢いを増した!
「……ッ!」
自らの肉を糧に燃え上がる炎-----その熱と痛みに奥歯をかみしめながら、ガラルドは剣の柄を握りしめた。
「血は赤いようだが、その肉体(カラダ)は生きてんのか……?」
「抱いて、確かめてみる……?」
傷の癒えた白い肌を晒し、黒髪の美女が嫣然と笑う。
「ハッ、ざけんな!」
吐き捨てて剣を構え、走る!
「また炎の洗礼を受けたいの?」
「-----ようはそいつに当たんなけりゃいいんだろ!」
言いざま、ガラルドは宙に飛んでいた。炎の壁はファネルの四方を覆っていたが、その上空は開いている。
「いい考えね。だけど空中じゃ身動きが取れないわよ!」
迎え撃つファネルの両の掌に暗黒の炎が灯る! その背に、氷の槍が続けざまに突き刺さった。ハルヒの呪術だ。
背から胸にかけて透明な槍に貫かれ、ファネルの呼吸が一瞬止まる。そこにガラルドの一撃が叩き込まれた。
重い音を立てて大地が陥没し、深い森が鳴動する!
上手いタイミングだったが、ぎりぎりのところでかわされた。
舌打ちするガラルドの前で、右耳を削ぎ落とされたファネルが片膝をつき、琥珀の瞳をぎらつかせる。空気が漏れるような音を立てて傷口を再生させながら、彼女は低い低い声を漏らした。
「見事な連携攻撃を見せてくれるじゃない……息はぴったりってわけ?」
そこがファネルの自尊心をいたく傷つけたらしい。
ゆらりと立ち上がった彼女の周囲から、暗黒の火柱が吹き上がった。
ガラルドの身体を蝕む炎もその激しさを一層増し、骨をも溶かすようなその高熱と痛みに、彼は思わず剣を取り落としそうになった。何とか持ちこたえるが、柄を握る掌から、しゅうしゅうと白い蒸気が立ち昇る。
「本当に目障りな小娘……死ぬがいい!」
カッ、とファネルが目を見開いた。怒号と共に火柱が絡み合い、巨大な炎の奔流となって、ハルヒとフユラに襲いかかる!
「くっ……!」
燃え盛る腕を伸ばし、ガラルドは二人の結界を強化した。次の瞬間、凄まじい音を立てて炎が結界にぶち当たり、その衝撃波で周囲の木々が根こそぎ吹き飛ばされた。
ブォンッ!
森を抉り、その周辺を巨大な更地へと変えながら、炎は少女達の生命を飲み込まんと、小さな結界を破壊しにかかる。
フユラを抱きかばいながらハルヒが内側に二重の結界を張ったが、所詮人間の力では、混血(ハーフ)とはいえ魔人(ディーヴァ)の力には遠く及ばない。しかも今のファネルの力は、どういうわけか、より魔人(ディーヴァ)に近いものとなっている。
激痛をこらえ、ガラルドは走った。
二人を護る外郭の結界にヒビが入り、ファネルが更に駄目押しの一撃を放つ!
「-----させるかッ!」
結界の前に回り込み、ガラルドは剣でその一撃を受け止めた。凄まじい衝撃波に、身体ごと持っていかれそうになるのを、どうにかこらえて踏みとどまる。
「……ッ!」
熱風が吹き荒れ、ただでさえ熱いガラルドの身体を容赦なくなぶり尽くす。
「貴方らしくないわね、ガラルド! そんな小娘を、どこまでかばえば気が済むの!? そんなにその小娘が大事!?」
逆上するファネルの声が、炎と共に耳を打つ。
『小娘』のうちの一人は、自分の生命と繋がっている少女だ。必死にならざるを得ない。ファネルにそれを言うつもりはさらさらなかったが、そんなガラルドの心中など知るはずもなく、彼女は嫉妬に猛り狂った。
「殺すわ……絶対に殺す……!」
赤黒い巨大な炎の塊が、続けざまに一発、二発、三発-----炎の五連撃がガラルドの後ろの少女達を狙い繰り出される!
「ガラルドッ!!」
悲鳴のようなハルヒの声-----生意気な呪術師の少女にこんな声を上げさせてしまう自分自身に、ガラルドは猛烈に腹が立った。
「-----っせぇ! ガタガタすんなッ!」
ガラルドの紅蓮の瞳が燃え上がり、炎の奔流に耐え続ける大振りの剣が、主(あるじ)に呼応し唸りを上げる!
「-----ぅ……がァァッ!」
獣のような咆哮と共に目の前の炎が吹き飛ばされ、霧散する!
息つく暇もなく目の前に迫る、炎の塊-----一撃、ニ撃、三撃と、信じられないくらい重い痺れを掌に伝えてくるそれをどうにか弾き飛ばした四撃目、返す刃が間に合わず、ガラルドは自らの身体に被弾する覚悟を決め、歯を食いしばった。
後方から何か強い力が放たれたのはその時だった。ガラルドの眼前を薄い青色に輝く光の膜が覆い、外界の脅威から遮断する。
! 結界……!?
目を見開くガラルドのその前で巨大な炎の塊が立て続けに炸裂し、耳をつんざくような爆音を轟かせて散る。赤黒く染まる視界の向こうに、その光景に息を飲むファネルの姿が見えた。
その周囲に炎の壁はない。ガラルドの剣は手元に戻ってきている!
「う……おぉーッ!」
その一撃に、彼は残る力の全てを込めた。異変に気が付いたファネルを、閃光と化した激烈な衝撃が襲う!
ズァッ!
宙に漂う炎の残滓(ざんし)を貫き、それはファネルの胸を深々と穿った。予想だにしなかった反撃-----その直撃を受け、彼女の身体は勢いよく吹き飛ばされた。大音響と共に木々を破壊し、立ち上った土煙がもうもうと辺りを覆い尽くす。
「……っ、く……」
がくり、とガラルドは大地に膝をついた。身体にまとわりついていた炎はようやく消えたが、限界だった。皮膚は赤く焼けただれ、剥き出しになった肉はところどころ炭化し、息をするだけで全身がひきつれるように痛む。
その彼の身体を、背後から誰かが優しく包み込んだ。
「痛(つう)ッ……!」
真綿でくるむように触れられても、転げまわりたくなるような激痛が全身に走る。
「我慢して。すぐ楽になるから……」
ハルヒの声だった。
「……フユラ、は-----」
熱で気道をやられたのか、かすれたような声しか出ない。痛みをこらえ、無理矢理背後の少女を振り返ったガラルドは、その姿に息を止めた。
「大丈夫。結界の中にいる」
そう答えたハルヒは別人のようなオーラを放っていた。燃え立つように光り輝く、澄み切ったすみれ色の瞳-----そのほっそりとした肢体はみなぎるような生命力で溢れ、眩しい、とさえ感じられる。
「-----……お前……!? さっきの結界も、お前、が……!?」
切れ切れにそう問うガラルドに、ハルヒが頷く。
「うん、そう。……今は傷を治すことに集中して」
諭すようにそう言われ、口を開きかけたガラルドは、荒い息をつきつつ、それに従った。彼女の言うことはもっともだった。
ファネルの心臓を直撃する攻撃だったが、今の彼女があれで大人しく死んでくれるという保証はない。むしろ再び立ち上がってくると警戒するべきだった。
ハルヒの触れる部分から、癒しの力が流れ込んでくる。気が狂いそうな痛みがゆっくりとやわらいでいき、沸騰しかけていた血液がゆるやかに元の温度を取り戻していく。体温も徐々に下がり始め、呼吸が楽になってきた。
回復に努めながら、ガラルドは不思議な心地良さを感じていた。身体が癒されていくのはもちろんだが、同時に猛り立っていた心まで鎮められていくような気がする。
どこかで経験したことのある感覚だった。
これは……何だ? いったい、どこ、で-----。
春風のような香りが鼻先をかすめたのはその時だった。
ガラルドは目を見開き、背後のハルヒの手を取った。
「なっ、何!?」
驚くハルヒを強引に引き寄せ、その左の手首を目の前に晒す。
そこに、禍々しい呪印はなかった。
「-----……」
「ガラルド……!?」
フユラと良く似た色合い。同じような香りを持つ、少女。
「まさか、な……」
そう呟いて、ガラルドはハルヒの手を離した。
ファネルは『空間転移』と呼ばれる呪術を使うが、それはあくまでこの世界を行き来する為のものだ。時空を行き来する呪術など、聞いたことがない。そもそもそんなものが存在していたなら、今頃世界は大混乱に陥っている。有り得ない話だ。
一瞬でもそんなことを考えてしまった自分に自嘲しながら、ガラルドは立ち上がった。
我ながらどうかしている。
結界の中のフユラを見やると、彼女は怯えたような、戸惑ったような複雑な眼差しを向けてきた。
過去に幾多も受けてきた視線だ。人間にはあるまじき、異形の姿-----それが、当然の反応なのだろう。彼女の過去を推察すればなおさらのことだ。
今更痛いとも思わないはずだったが、不思議とその姿を見つめることには抵抗があった。
フユラから視線を逸らし、ガラルドは対照的に、自分のこの姿に全く動じた様子を見せない謎の少女に向き直った。
「……お前は何なんだ」
ハルヒは魔人(ディーヴァ)に限りなく近い今のファネルの攻撃を結界で防いでみせた。人間では有り得ない力だ。
その質問に彼女は微苦笑を浮かべ、こう答えた。
「ごめんね、禁じられていたのにな……能力を開放しちゃった。一瞬だけだったし、今は全開にしていないから、多分大丈夫だと思うんだけど……面倒なことになっちゃったらごめんね」
「毎回のことだが、お前の言ってることは意味分かんねーよ。オレは今かなりイラついてるんだ、分かるように言え」
「……ガラルドとは違うんだけど、あたしの生まれもちょっと特殊なの。さっきした話、覚えている?」
ガラルドはかすかに目を瞠った。まさか、と思いながらハルヒの澄み切ったすみれ色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「……『夢の人類』、か?」
彼女が口を開きかけたその時、土煙の中から禍々しい気配が伝わってきた。会話を中断し、二人が同時に身構える。
うっすらと残る土煙の中、ゆらり、ゆらりと歩み寄る、不浄なオーラを放つシルエット-----やがて現れたその姿に、二人は息を飲んだ。
ダメージは隠せないものの、ファネルはほとんど無傷だった。白磁のような肌は薄汚れ、黒絹のような髪は乱れてはいるが、胸に空いた風穴はごぽごぽと音を立て修復しつつあり、それ以外に目立った外傷は見当たらない。
「……。マジかよ……」
口元を歪めて、ガラルドは剣を握りしめた。
一方ファネルも、傷を回復したガラルドと雰囲気の変わったハルヒを見て、瞳を険しくした。
「……小娘……お前の仕業なの? 以前はお目にかからなかった力だわ……お前-----その妙な力は何なの?」
言いながら、ファネルを取り巻く負の力が増幅していく。ざわざわとうすら寒い音を立てて彼女を軸に暗黒の気流が巻き起こり、その長い黒髪を宙に舞い上げる。
「邪魔だ邪魔だとは思っていたけれど、まさかここまでくせのある邪魔者だったとはね……お前のような小娘に二度も翻弄されることが、わたしにとってどれほど屈辱的なことか分かる……?」
「さぁね……あんたの雰囲気がヤバいってことしか分からないよ」
底知れぬその力に青冷めながら、ハルヒは強気で邪気の塊と化したファネルを見返した。
今や彼女の振りまく殺気は肌に痛いほどとなり、なおも高まっていくその負の力はとどまるところを知らない。
「-----来るぞ」
ガラルドの呟きにハルヒが頷いた、その瞬間-----異変は、起こった。
「-----……っ」
突然瘧(おこり)にかかったようにファネルの身体が震え、次いで、腕、首筋、顔面-----全身にぴしぴしと音を立てて青筋が浮き上がり、赤い唇から苦痛の声が漏れたのだ。
「あ……う、あぁぁぁ……!」
悲鳴を上げるファネルの全身から淀んだ瘴気のようなものが噴き出す。白い肌は瞬く間に黒く腐食を始め、眼球は半ば飛び出し、美しい容姿が見るも無残な様相となった。
「何だ……!?」
突然のことに目を剥くガラルドの隣でハルヒが小さく声を上げる。
「もしかして、オーバーロード……!?」
「あの怪しげな波動のせいか!?」
「多分……他に考えられないもの。これは推測だけど、あたしに倒された後、彼女の怨念というか魂の破片とでも言うべきものが、あたしにくっついてここへ来てしまったんだと思う。そして途中で何らかの力を得て、ここに眠る彼女の封印を解き、その肉体と一体化した。けれど本来の肉体の許容量を上回るその力に、器が耐え切れず、暴走を始めたんじゃないかな」
「……待て、混乱してきた」
額を押さえるガラルドに、ハルヒが鋭く警告する。
「ガラルド、気を付けて。彼女は命と引き換えに呪いをかけてくるかもしれない」
「-----お前がかけられたっていう呪いか」
「うん。彼女はその命を代償に、次元の狭間を切り開く能力を持っている。……狙われるのは、多分-----フユラ」
思いがけないその言葉に、ガラルドは紅蓮の瞳を見開いた。
「何だと-----」
その時、ファネルの目から、口から、負の力が逆流し、溢れ出した。
「おごぉぉぉ……!」
怨嗟(えんさ)の声を上げながら、崩れゆく肉体-----眼窩からもはや血とは呼べない黒い液体を流しながら、彼女は最後の力を振り絞り、朽ちかけた指を伸ばした。
その先にいるのは-----結界に護られた、幼い少女。
「-----させるかッ!」
ガラルドがその腕を斬り落とすのと、指先に収束した禍々しい光が放たれるのとが同時だった。
光は呪紋(じゅもん)の形を取り、まっすぐフユラへと襲いかかる!
「くっ……!」
駆け出そうとするガラルドの背後から、妄執の念と化したファネルがしがみついてきた。しゅうしゅうと瘴気を上げガラルドの皮膚を焦がしながら、もはや声にならない声で呪詛の言葉を叫ぶ!
「イ……カセナ……イ……!」
「ファネル……!」
彼女にとどめを刺すため、ガラルドの動きが一拍、遅れた。
「フユラッ……!」
振り返った彼の目に飛び込んできたのは、ファネルの呪いを呪術で相殺するハルヒと、無防備になった彼女に今まさに襲いかからんとする、解き放たれた負の力の渦-----ガラルドは剣を構えた、が-----。
-----間に合わない!!
「はるひぃっ……!」
絞り出すようなフユラの声-----襲い来る力に気付いたハルヒが、澄み切ったすみれ色の瞳を向ける。その全てが、スローモーションのよう見えた。
心臓が一回、鼓動を飛ばす。こんなことは初めてだった。
説明のつかない突き上げる衝動に、知らず、ガラルドはその名を叫んでいた。
「-----ハ…ッ……フユラァァーッ!!」
目を見開いたハルヒが、輝くような笑顔を浮かべたその瞬間-----時空が、捻れた。
意識はあるのに動けない-----時が止まる瞬間というものを、ガラルドは初めて体験した。
ハルヒの頭上の空間が裂け、こぼれる光と共に、そこからたくましい腕が差し出された。それを見たハルヒが、笑顔でその腕を取る。
ガラルドは目を疑った。その腕に、見覚えがあった。
深緑の紋様が刻まれたその腕は-----……。
硬直するガラルドとぽかんとしたフユラにもう一度笑顔を投げかけ、ハルヒは-----いや、成長したフユラは元の場所へと帰っていった。
空間が閉じ、時空の捻れが戻ったその場所に、もはや彼女の姿はなかった。
目標を失った負の力の渦が大地に激突し、土埃を立ち上げる。
呆然としている暇はなかった。
「……っくしょー、何だってんだ! わけ分かんねぇ!!」
収拾のつかない感情を爆発させながら、ガラルドが剣を構える。
とりあえずはこいつを何とかしてからだ。ゆっくりと考えるにしろ、悩むにしろ、こいつを何とかしなければ-----。
そんな彼の思惑は、突如放たれた大きな力によって打ち消された。
強烈な閃光を浴び、負の力の渦が一瞬にして消滅する。
「!?」
いったい何が起こったのか、とっさには理解出来なかった。背後に強い力を感じたのは次の刹那-----反射的に飛びのき、それを確認したガラルドは、戦慄した。
そこに忽然と佇(たたず)んでいたのは、一人の魔人(ディーヴァ)だった。