Beside You

03


 「もうゼルタニアを出るの?」

 出立の準備をするガラルドに、身支度を整えたハルヒがそう尋ねた。

「あぁ」

 短く返事を返しながら、金属製の胸当てを身に着け、肩から皮製の道具袋を斜めに掛ける。

 ゼルタニアは大きな街だが、アヴェリアからは程遠い為、これ以上の情報が期待できない。必要物資を揃えたら後は用がなかった。

 枯草色の外套(がいとう)を羽織り大振りの剣を背負うと、ガラルドはフユラを連れて部屋を出た。

 宿の精算を済ませ正門に向かうガラルドの後を、当然のようにハルヒもついてくる。

「てめぇ……まだついてくる気か?」

 うんざりと振り返ると、ハルヒは胸を張ってこう答えた。

「当然! あたしの未来はガラルドが握っているんだからね、嫌だったら早くあたしの名前を呼んでよ」

 ガラルドは重い重い溜め息をついた。

 また、この押し問答だ。やはりあの時、たたき斬っておくべきだったのか。

「あ、でもね、昨日街角に立って呪術ショーやったら結構おひねりもらえたんだ。ほら、道具袋買ったんだよ。携帯食と水筒も入ってんの。自分の分は自分で何とかするから、その辺は気にしないで」
「……」

 沈黙するガラルドと手を繋いで歩くフユラは後ろのハルヒを振り返り、キンキラのペンダントを嬉しそうに見せた。

「あっ、フユラのそれもおニューだもんね。ふふっ、あたしの道具袋と一緒。それ、可愛いよね。きらきらしていて本当に素敵」

 昨夜そのペンダントを見たハルヒは何やら感動した様子で『可愛い!』を連発していた。少女達のその感覚が、ガラルドにはいまいち分からない。

 ゼルタニアの街を出た一行は、一路北東に向かって歩き始めた。目指すマウロは遥か彼方、目的地のアヴェリアに至ってはそのまた彼方だ。二日ほど歩いた山間(やまあい)に小さな村があるようなので、とりあえずそこを目指す。

 街を離れるにつれ、すれ違う旅人達の姿は減り、やがて全く見られなくなった。休憩をはさみ、更に草原の道を進んで行くと、やがて鬱蒼(うっそう)とした森の入り口にさしかかった。

「うわー、深そうな森……」

 野鳥の声がこだまするその森を見上げ、ぽつりとハルヒが呟く。

 一歩足を踏み入れると、ひんやりとした独特の空気が肌を包み込んだ。しばらく歩き続けると森はその深さを増し、やがて木漏れ日も差しこまないほどになった。薄暗い森の中、野鳥の声に混じって、奇怪な生物達の声が響き渡る。

 普通の子供だったら泣き出してもおかしくないような環境だが、フユラは全く気にする様子もなく、てくてくと歩き続ける。

「うぅー、一人だったら絶対に来たくない感じだよね」

 どちらかといえばハルヒの方が怖がっている様子だ。

「今夜はここで野宿の予定だぞ」

 ガラルドが意地悪を言うと、ハルヒはぷーっと頬を膨らませた。

「そのくらい、覚悟しているってば。そろそろ日も暮れ始める頃だしさ-----」

 その時、ハルヒの目の前にぼとっと何かが落ちてきた。それが何であるのか確認した瞬間、彼女の口からは絶叫が迸(ほとばし)っていた。

「ぎゃ、あぁ-----っ!」
「……色気のねー悲鳴だな、おい」

 落ちてきたのは、人の腕ほどの大きさもある山蛭(ヤマビル)だった。褐色の細長い扁平な体に、毒々しい黒い縦筋が三本入っている。寒い地方以外のどこの山間部にもいる生物だ。彼らは木の上から落ちてきて獲物に張り付き、消化液を出してその皮膚を溶かし、肉を食べるのだ。

「きゃーっ、ぎゃーっ、いやーっ!」
「てめぇ、それでも呪術師か。ちったぁフユラを見習え」
「生理的にダメな系統って、あるでしょー! あたしの場合、まさにコイツがそうなんだってば!!」
「ちっ……」

 獲物に張り付くことに失敗した山蛭は消化液を飛ばして威嚇している。万が一フユラに当たると面倒なので、ガラルドは背中の剣で一刀両断にした。ぶしゅっ、と黄色い液体を噴き出して、山蛭が絶命する。

「ひぃぃ……」
「-----おら、おめーが騒ぐから余計なモンまで呼び寄せちまったじゃねーか」

 青冷めるハルヒにガラルドがそう文句をつけた。

「え……あ、本当だ」

 周囲を見渡しハルヒが呟く。三人を囲むようにして、いつの間にか狼の群れが忍び寄っていたのだ。

「よしっ、こいつらだったら平気! 汚名返上、ここはあたしに任せて!」

 どんと胸を叩くハルヒを、ガラルドが疑わしげな目で見やる。

「本当かよ……」

 しかし、彼女の手前を見ておく必要はあった。フユラをかばいながら、ガラルドはその場をハルヒに譲ることにした。

 狼達は徐々に包囲の輪を狭めながら、爛々と輝く凶暴な瞳をぎらつかせる。その数は十頭前後といったところだろうか。低い唸り声と荒い呼吸音が、せわしなく耳を打つ。

 先端に小さな宝玉の付いたロッドを手に、ハルヒが精神を集中させる。顎の辺りまである銀色の髪が風ではない力でふわりと揺れた瞬間、ロッドで素早く宙に呪紋(じゅもん)を描くと、その紋様が黄緑色に輝き、弾けた。

 その刹那、稲妻のようなものがぐるりと円を描いて走り抜け、狼達の体を貫いたのだ! 獣達の悲鳴が交錯し、ほとんどがその場に倒れたが、その内の一頭が怒号を上げながら繁みの間から飛び出してきた。体躯が大きい。恐らくは、この群れのリーダーだ。

 狼リーダーが口を大きく開け、波動砲のようなものを放つ!

 ハルヒはそれを結界で遮断すると、続く鋭い牙の攻撃を身体を捻って躱し、体勢を立て直しながら素早く呪紋(じゅもん)を描いた。

 先程のものより強い電撃が炸裂し、直撃を食らった狼リーダーが悲鳴を上げて絶息する。

 その一部始終を見ていたガラルドは、予想以上のハルヒの戦いぶりに驚いた。呪術師としての腕前はなかなのものだ。しかも、かなり戦い慣れている。

 この少女は、見た目とは裏腹にそれなりの修羅場をくぐり抜けてきているようだ。

「へへっ、どう? 汚名返上、出来たかな?」

 そう言って向き直ったハルヒの足元で、ぐちゃりという音がした。あの山蛭の死骸を思い切り踏んづけてしまったのだ。

「きゃ、あぁーっ!」

 黄色い体液のついた片足を上げ、ハルヒが悲鳴を上げる。

「やだーっ、もう!」
「……。また狼が来るぞ」

 そう言い置いて、ガラルドはさっさと先を歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待ってよーッ、置いていかないでッ!」

 大きめの野草の葉で必死にブーツを拭いつつ、半泣きになりながらハルヒがその後を追う。

「……そういえばお前、呪術師だったんだよな。念の為聞くが、アヴェリアに行ったことはあるか?」
「え、アヴェリア? うん、行ったことあるけど?」

 その意外な回答に、ガラルドは目を見開いた。

「本当か!? 嘘じゃねーだろうな!?」
「そんなこと嘘ついて、何の得があるの?」
「……アヴェリアで一番実力のある呪術師っていったら誰だ?」
「えー? そうだなー……多分、スレイドかウォルシュになると思うんだけど…でもスレイドは年だし、体調を崩しているらしいから……どっちかっていったらウォルシュの方になるのかな」

 赤煉瓦亭で商人風の男から聞いた話と一致する。アヴェリアに行ったことがあるというのはどうやら本当のようだ。

「スレイドは病気なのか」
「え……-----あ、いや、まだまだというか、今は大丈夫なんだけどね、多分」

 歯切れの悪いハルヒの台詞(セリフ)にガラルドは違和感を覚えた。

「まるでスレイドと会ったことがあるみたいな言い方だな」
「あたし、アヴェリアの生まれなの。知らないうちに会っていたってことは、あるかもしれないね」
「はぁ? っていうか、何、お前アヴェリア出身なのか!?」
「うん、まぁ。あまり長い間居たことはないんだけど」

 寝耳に水とはこのことだ。こんな身近にアヴェリア出身の人物がいるとは思わなかった。

「……お前が飛ばされる前に居た場所ってのは、もしかしてアヴェリアなのか?」
「ううん、それは違う。自分の生まれた街だけど、あたしあそこはあまり好きじゃないんだよね……」

 ハルヒはそう言って、今までに見せたことのない表情を見せた。少し物憂げで寂しげな、大人びた表情-----。

「……今更だが、オレ達はアヴェリアに向かっているんだぞ」
「うん、そうだと思った。いいんだ、アヴェリアに着くまでたっぷり時間はあるし、その前にガラルドは分かってくれると思うから」
「……お前と話していると、頭がおかしくなる」

 ガラルドはそう呻(うめ)いて眉間を押さえた。

「好きじゃない街の話で悪いが、アヴェリアのことを教えてくれ。どんな街だ? 何でもいい、情報が欲しいんだ」
「そうだなー、ひと言で言うと、『良くも悪くも魔法文明が進んでいる街』かな。新しい呪紋(じゅもん)の研究や開発が進んで、夜でも街の灯りが煌々と輝いていたり、生活はどんどん豊かになっているけれど、一方で高みを目指すあまり、物事の善悪の境界線があやふやになっちゃってるっていうか……。魔法技術の探究の名の下(もと)に、神の領域を侵すような実験が平気で行われていたりするの。理性と狂気が表裏一体になっている、怖い街だよ」
「神の領域を侵すような実験……?」

 初めて耳にする情報だった。おどろおどろしい物言いだが、ハルヒの口から語られた内容は、まさにそうとしか言いようのないものだった。

「魔人(ディーヴァ)っているよね。普通の人間じゃ、どんなに束になっても敵わない存在。じゃあ、人間を、人間の手で進化させてみたらどうだろう? 魔法の力をもって人を進化させていったなら、もしかしたら人間が魔人(ディーヴァ)に立ち向かえる日が来るかもしれない。-----それが、アヴェリアの多くの呪術師や学者達の考え方。夢の人類の誕生の為に、生まれる前の多くの胎児達がその犠牲になったって話だよ」
「……ぞっとしない話だな」
「でしょ? それにあそこの住民は、地位と名誉を何よりも重んじる傾向にあるんだよね。頭でっかちな階級社会なのよ。あの街にいると息が詰まる感じがするの、だから好きじゃない」

 途方もない話だったが、ハルヒの様子を見ているとあながち嘘ではなさそうだ。

「……用が済んだらとっとと退散したい街っぽいな。で、お前はどうしてそんなことを知っているんだ」
「えっ?」
「そういう実験が平気で行われていたとしても、普通は隠す内容だろ。倫理観からいって、そんなことが公になったら大問題になる。アヴェリアの普通の住民達は何も知らないはずだ。何でお前みたいなのがそれを知っている?」

 するとハルヒは、ほろ苦い顔で笑った。

「ガラルドなら、そのうち分かるよ」
「……またそれか」

 げんなりとしながら、ガラルドは呪術師の少女を見やった。どこまでが本当なのか怪しい限りだが、彼女が語る内容の端々から時折こぼれ落ちる、重みのようなものは何なのだろう。

 一行は、樹齢の古い大木の下で野宿をすることにした。山蛭を警戒したハルヒが張った結界の中で、途中で捕らえた野ウサギと携帯食で簡単な食事を済ませると、フユラはすぐにガラルドの隣で眠りについた。

 夜の森は、生物達の気配だけを残して、ひっそりと静まり返っている。

 焚き火を挟んで反対側にいたハルヒが辺りを見回しながら、心細そうな声をかけてきた。

「ねぇ、あたしもそっちに行っていい?」
「あ? 山蛭の心配はねーだろ」
「それはそうなんだけど、何かこういう雰囲気って苦手っていうか、落ち着かないっていうかさー……」
「怖いのか」

 鼻の先で笑うと、ハルヒはちょっと赤くなりながらこう反論した。

「こ、子供扱いしないでよ。怖いんじゃなくて、苦手なんだってば」
「だったらそっちにいろ。怖くて怖くてどうしようもないっていうんだったら考えてやる」
「ガラルドの意地悪!」

 けんもほろろなその態度にハルヒはふてくされて、背を向けて横になってしまった。頭まで白い外套(がいとう)をかぶり、体を縮めて徹底抗戦の構えを取る。

 そんな彼女を見ながら、ガラルドはこのやり取りを案外楽しんでいる自身に気が付いた。辟易させられることの方が多かったが、自分に対して物怖じせず、ありのままをぶつけてくるハルヒの反応は新鮮で、小気味好かった。

 その時、森が不自然に気配を変えた。そこに住まう全ての者達が息を殺し、真の静寂が辺りを包み込む。

 ガラルドは傍らの剣に手をかけた。ハルヒも異変に気が付いた様子で、呼吸を止める。

 焚き火の爆ぜる音と、フユラの健やかな寝息だけが静まり返った夜の闇に響き渡る中、辺りの様子を窺っていたガラルドは、夜空に無数の赤い火の粉のようなものが舞っていることに気が付いた。それは何かを探し求めるかのように不自然にゆらめきながら、森の上を通過していく。

 まさか、とガラルドは暗い緋色の瞳を見開いた。

 遠い昔の話だ-----彼はそれに、見覚えがあった。



*



 女は自らの分身に、想いを込める。

 長い長い黒絹のような髪をひと房切り取り、念じる-----すると仄(ほの)赤い呪紋(じゅもん)が浮かび上がり、それに軽く息を吹きかけると、髪は炎の羽と化し、風に乗って闇夜の空へと旅立った。

 ただ一人の男の所在を求めて、炎の羽は世界各地へと散っていく。女の目となり耳となり、その存在を探し出す為に-----。

 そうして女は、瞳を閉じる。

 後は、待つだけ-----。自らの分身が愛しくも憎いあの男を見つけだすその時まで、ただ待つだけだ。

 まどろみの中をたゆたいながら、彼女は融け合う二つの記憶を、力を、ひとつに構築させていく。

 間もなく訪れるであろう、運命の人との再会の時を夢見ながら-----。



*



 彼女に施したあの封印は、もうしばらくは持つはずだった。

 早すぎる-----だが、何故だ?

 舌打ちしたい気分で、ガラルドは夜空にひらめく炎の羽を見やった。昨夜のあの嫌な感覚は、どうやらこれが原因だったらしい。

 これが本当にあの女の仕業なのだとしたら、厄介なことになる。自分は今、一人の身ではない。フユラがいるのだ。

 苦々しく思ったその時、頭上を通過しかけていた炎の羽が揺らめき、眩(まばゆ)い光を放って霧散した。

 ガラルドは確信した。

 間違いない、あの女だ。あの女が自分を探すために放った呪術だ。

 その瞬間、彼の身体は反射的に動き出していた。素早く火を消し、傍らで寝ていたフユラを片手に抱きかかえると、全力で駆け出す。ハルヒが跳ね起き、慌ててその後を追った。

「ちょっと、『逃げるぞ』くらい言ってよー!」
「察しろ! それくらいの修羅場はくぐり抜けてきてんだろ!」

 あの女は『空間転移』と呼ばれる呪術を使う。この場を一刻も早く離れる必要があった。

「ねぇ、さっきのあれって-----」
「シッ!」

 ハルヒの声を鋭く制止し、ガラルドは彼女ごと近くの草叢に飛び込んだ。

 一瞬の間を置いて、空間がたわむ気配が伝わってきた。呪術によって扉なき扉が開かれたのだ。続いて異様な力の波動が辺りを包み込み、強い力を持った何者かがそこに降り立ったことを示した。

 自らが張った結界の中で、ガラルドはその違和感に形の良い眉をひそめた。

 自分の覚えている女のものと、それは決定的に何かが異なっていた。嫌な予感がする。

「ガラルド-----」

 先程までガラルド達が居た場所から、艶やかな女の声が流れてきた。その声はやはり、懸念していた人物のものだった。

「ガラルド……どこにいるの?」

 様子を窺うガラルドの耳元で、その声を聞いたハルヒが小さく息を飲む気配がした。

「この声……やっぱり!」
「……知っているのか」

 自分の予測が外れてほしいと願いながらそう問うと、その願いを打ち砕く答えが返ってきた。

「間違いない……あたしに呪いをかけた女、絶対にそうだ!」

 ガラルドは頭痛を覚えつつハルヒに尋ねた。

「ちょっと待て……何がどうなっている。お前に呪いをかけた女は死んだんじゃなかったのか? だいたいどうしてお前があいつを知っているんだ」
「あたしの方が聞きたいよ。何であれがここにいるの? あたしに呪いをかけたあの女は、確かにあの時死んだはずだったのに。あの女が、ここに現れるはずはないのに……」

 ハルヒも軽く混乱している様子だった。

「-----あの日突然、さっきの赤い光と共にあの女が現れて、いきなり襲われたの。話の前後からガラルド絡みだってことは分かったんだけど、いったいどんなふうに弄んで捨てたらこんなことになるわけ!? あたしは被害者なんだからね、説明してよ!」

 小声でそう憤慨するハルヒに、ガラルドは深い溜め息をついた。

 まったくもって、わけが分からない。

 ハルヒがあの女と今日以前に知り合うことなど物理的にあるはずはないのだが、彼女の主張は一貫しているし、おおまかな過去の出来事も何故か知っているらしい。

 一瞬の逡巡の後、ガラルドは簡単な事実だけを語ることにした。

「……あの頃はオレもガキだったからな。言い寄ってくる女がいて、そいつが自分の好みから外れてなければ、来る者は拒まずって感じだったんだ。その頃にあの女と知り合ったんだが、偶然オレとあの女にはある共通点があってな……で、あいつはオレを『運命の相手』だと勝手に思い込んじまったんだ。オレは始めから『その場限りの関係』のつもりしかなかったから、当然相手にしなかった。だがその思い込みの激しさと嫉妬深さは半端なくってな……行く先々でしつこくつきまとってくるし、しまいにはオレと口を利いただけの街の女やら宿屋のおかみにまで危害を加えるようになったんだ。あまりのうざさに殺そうかとも思ったんだが、まぁ気が変わってな。騙して腹に一発入れて、気を失っている間に人里離れた滝壷の下に沈めて封印したんだ。水が苦手な女だったから、もう十年程度は眠っていてくれると思っていたんだが……」

 それを聞いたハルヒは額を押さえてゆっくりと首を振った。

「ガラルド……あの女もどうかしていると思うけど、それじゃあ恨まれても仕方ないかもしれないよ……」

 それは別に構わないのだが、やはりあの時殺しておくべきだった、とガラルドは心の中で反省した。おかげでどうやら面倒くさいことになりそうだ。

「ガラルド……近くにいるんでしょう? 出て来ないと実力行使に訴えるわよ」

 響く女の声音に凄惨な色が滲んできた。

 この結界には姿と気配を隠す効果があるが、それなりの力のある者が探ればいずれは見つかってしまうだろう。それに確か、この女はそう気が長い方ではなかったはずだ。

 思った側から熱と光と轟音とが炸裂し、女の周囲の木々が薙ぎ払われた。

 やるしかないか……。

 ガラルドは決断した。

 他の者ならいざ知らず、この女とだけはフユラがいる時に戦いたくなかった。

 全力で戦わざるを得なくなるからだ。

「……おい、あいつと戦う気はあるか?」

 ガラルドの誘いに、ハルヒはひとつ返事で乗ってきた。

「もちろん! 色々聞きたいこともあるしね」

 出来れば目の届くところにフユラを置きたかったが、あの女が相手ではそういうわけにもいかない。

 寝入りばなを起こされ、状況が全く掴めていない連れの少女に、ガラルドはこう告げた。

「フユラ、オレ達はこれからちょっと戦いに行ってくる。なるべく早く戻ってくるからここでじっとしているんだぞ、分かったな」

 ふわふわの銀に近い灰色の髪を軽くなで、ガラルドはその頭上に掌をかざした。白く輝く呪紋(じゅもん)が浮かび、それが弾けると、フユラの周囲をゆっくりと取り巻く。

 最上級の守護の呪術だ。これで、滅多なことで彼女が生命を落とすことはない。

「いいな、ここを動くなよ」

 運命を共有する少女に再度そう言い聞かせ、彼女が頷いたのを確認して、ガラルドはハルヒを促した。

「行くぞ」
「うん。じゃあ行って来るね、フユラ」

 遠ざかる連れ人達の後ろ姿をじっと見つめ、無口な少女は一人結界の中に残された。

「……オレが呪術を使うことには驚かねーんだな」

 ガラルドがそう言うと、ハルヒは何を今更、といった様子で少し胸を張った。

「だーかーらー、最初から言ってるでしょ。ガラルドのことは知っているって」

 ガラルドはそれ以上の思考を一時停止することにした。とりあえず今は、目の前の戦いに集中することが先決だった。



*



 闇夜に浮かぶ月明りの下、凄艶(せいえん)な美を湛えるその女は、まるで一枚の絵画のようにしてそこに佇(たたず)んでいた。

 腰まである黒絹の髪に、長い睫毛に縁取られた、切れ長の琥珀の瞳。すっと通った鼻筋に、濡れたような紅い唇。白い胸元も露わな黒の長衣(ローブ)に身を包んだその姿は、さながら闇の美神のようだ。

「……ガラルド」

 闇の中から現れた青年の姿を見て、女は嫣然(えんぜん)と微笑んだ。

「ファネル」

 苦々しくその名を呼ぶと、女は優雅な仕草で一歩、前に進み出た。

「お久し振り……になるのね。わたしにとっては昨日のことのように思えるけれど、実際には……十年? 二十年? どのくらいの時が経ったのかしら。あの頃よりずっと精悍(せいかん)な顔立ちになったわね」
「オレの予定では、お前には後十年ほど眠っていてもらうはずだったんだがな……。いったい何があった? その怪しげな力の波動は何だ?」
「貴方のことを想うあまり授かった力よ。おかげでこうして、十年も早く貴方に会うことが出来たわ」
「オレとしては、出来れば二度と会いたくなかったがな……我ながら自分の甘さに反吐(へど)が出る」

 辛辣な台詞(セリフ)だったが、ファネルと呼ばれた女は怒る様子もなく、どこか懐かしむようにさらりと笑んだ。

「変わらないのね。……変わったのは女の趣味くらいかしら」

 妖しい輝きを浮かべる琥珀の瞳が、ガラルドの背後に立つハルヒへと向けられる。

「でも、それは一瞬のこと。わたしがこの世で貴方に一番ふさわしい女性なのだということが、いずれは貴方にも分かる。世界に『女』はたくさんいるけれど、貴方と同じ時を歩める者はわたしだけ。この広い世界で、わたししかいないのよ。それは貴方自身も良く分かっているでしょう?」
「“時間”に限って言えば否定はしねー……だがな、あいにくオレはそういうパートナーを必要としてねぇんだよ。何万回も言った台詞(セリフ)をまた言わせんな」

 うんざりとそう返すガラルドをハルヒが援護射撃する。

「そうよ、ガラルドはずーっとそう言ってるじゃない、振られたんだから潔く身を引きなさいよ」

 ファネルの両眼がすぅ、と細まり、その気分を表すかのように背後に黒い陽炎(かげろう)のようなものが立ち昇った。

「おだまり、小娘。お前はガラルドにふさわしくない。彼の運命の相手は、わたし。お前ではないわ」

 どちらも違う、と声を荒げようとしたガラルドは次の瞬間、我が耳を疑った。

「その証拠に、彼はお前の名を呼んでいない」

 紅い唇からこぼれたのは、衝撃的な台詞(セリフ)だった。

 ファネルはハルヒを知っていた。

 切り込むようなその言葉に、ハルヒの澄み切ったすみれ色の瞳が何故か驚きに見開かれた。

「……何で、あんたがそれを-----」

 それは奇妙な台詞(セリフ)だったが、ファネルには通じたらしい。紅い唇の端を持ち上げ、こう続けた。

「彼には、お前が『誰』なのか永遠に分からない。わたしには呪いを解くつもりがない。故に、お前は永遠に『彼』の元へは戻れない」

 ハルヒは息を飲んで目の前の妖艶な美女を見つめた。

「-----あんた、まさか-----……」
「わたしの想いがお前の力を上回った、ただそれだけのこと。悲しむことはないわ……今夜限りで楽になれる-----」
「……それは、こっちの台詞(セリフ)よ。ガラルドは分かってくれる。あんたを倒して、あたしは絶対に元の場所へ帰る!」

 凛と叫び、ハルヒは素早く宙に呪紋(じゅもん)を描きだした。青白く浮かび上がった紋様が弾け、ガラルドとハルヒの身体を青白い光のヴェールが包み込む。対炎用の防御呪術だ。

「随分とのぼせ上がったものね……お前如きにわたしが二度も遅れを取ると思うの?」

 ゆらり、とファネルの背後の黒い陽炎が揺れた。

「小娘が……これ以上わたし達の邪魔はさせない……その肉体も魂も、焼き尽くして永久に滅(めっ)してくれる!」

 その刹那、黒い陽炎は燃え盛る黒炎へと姿を変え、天を嘗(な)め尽くす勢いで立ち昇った。

「! 黒い炎!?」

 ハルヒが驚きの声を上げる。ガラルドも内心驚きを隠せなかった。

 ファネルは『炎の呪術師』と呼ばれるほど炎の呪術に長けている呪術師だったが、こんな呪術は見たことがなかった。しかもまだ、呪紋(じゅもん)を結んでいる状態ではない。

 -----これではまるで-----……。

 息を飲む二人の前で、ファネルが宙に右腕を掲げた。赤黒い巨大な呪紋(じゅもん)が浮かび上がり、黒炎がその周りに収束していく。

「死ね!」

 術師の怒号と共に、炎の風を纏った呪紋(じゅもん)が弾ける!

「ちっ!」

 ガラルドはとっさにハルヒに結界を張った。ハルヒも同じように結界を張る。

 竜の形にも似た黒炎の塊が二重結界に凄まじい音を立ててぶち当たり、衝撃波を巻き起こす!

 ズォンッ!

「……ッ!」

 炎の烈風が吹き荒れ、ハルヒの銀の髪を激しくなぶる。黒い炎を纏った竜は結界を破壊しその威力を弱めながら、なおも衝撃に耐える少女を捉えようと炎の舌を伸ばしたが、彼女の施した青白い光のヴェールによって阻まれ、四散した。

「ガラルド……何故その小娘をかばうの?」

 凍てつくような冷気をはらんだファネルの声が響き渡る。

「その小娘の何がそんなにも貴方を惹きつけるの……?」

 その表情には言い表せない苛立ちが滲んでいた。

「……オレはこいつにまだ聞きたいことがあるんだよ」

 それは事実だった。女二人の間で成立している会話が、ガラルドにはどうにも理解することが出来ない。

 ハルヒに対する彼の感情をファネルは完全に誤解している様子だったが、面倒くさいこともあってガラルドは特に否定することをしなかった。

「-----……貴方に騙し討ち同然に封印され、目覚めた時、わたしが何を思ったか分かる……?」
「……さぁな」
「怒り、憎しみ、愛情……狂おしいほどの激情が入り乱れた、言い表せないほどの感情の渦……その中で、わたしがたどり着いたのは貴方への絶愛だった。憎いわ、ガラルド……わたしの心を捕えて離さない貴方が、わたしのこの想いを理解出来ない貴方が、憎くて憎くてたまらない。けれど、同じくらいに愛しい。貴方を心から理解出来るのはわたしだけ、貴方と同じ尊い血を持つこのわたしだけ! それが何故、分からないの!」

 迸(ほとばし)る激情を叩きつけられ、ガラルドはげんなりと旧知の美女を見やった。

「お前は『血』ってヤツにこだわり過ぎだ。オレは自分の生まれを否定する気はねぇし、お前の人生を否定する気もねー。だが、お前がしがみついてんのは、そんなに大事なもんか? オレにはお前のその感情の方が理解出来ねー……」
「……わたしと貴方はどうあっても相容れない関係だ、と?」
「……そういうことだ」
「-----……」

 ファネルは長い睫毛を閉じ、深い深い息を吐いた。嵐の前の静けさが、深い森を緊張の渦へと包み込む。

「貴方は結局そういう結論を出すのね……。ガラルド……目覚めて、もうひとつ思ったことがあるの。二度と、貴方に同じ過ちは犯させない」

 琥珀の瞳がぎらり、と肉食獣の如き光を帯びる。

「過ちだと?」

 訝(いぶか)しむ青年に、女は蠱惑的(こわくてき)な笑みを浮かべた。

「その為に、わたしはここへ来たの。貴方が犯す過ちを防ぐ、その為に。その為の力を、わたしは手に入れた。誰にも邪魔はさせないわ-----」

 ざわり、と風もないのに木々が揺れた。

「最後に貴方を手に入れるのは、わたし。……この運命は、動かない。そのわたしを拒むのなら、力ずくで手に入れてみせる」

 どくん、とファネルの豊満な肢体が脈打った。

「……まずい!」

 ガラルドは手にした剣を振りかぶった。それに申し合わせたように、ハルヒが呪紋(じゅもん)を解き放つ!

「させないッ!」

 剣と呪術の同時攻撃を受け、無防備のファネルの白い肌が裂ける。ざっくりと裂けた傷口からは赤い液体が噴き出し、その肌を染めていくが、致命傷には至っていない。柔らかなはずのその肌は、普通では考えられない硬度に達していた。

 変現(メタモルフォーゼ)と呼ばれる現象が始まったのだ。

 ごきごき、ごきゅごきゅ。

 奇怪な音を立て、ファネルの身体の中が変化していく。ガラルドとハルヒは攻撃を続けるが、その変化は止まらない。そしてそれはやがて、外観にも現れた。

 耳は細長く先端が尖り、犬歯と爪が異様に発達する。頬や背、腕など体表にはえんじ色の紋様が浮き出、琥珀色の瞳は瞳孔が縮小し、獣の如き鋭さを帯びた。

 その間、わずか十数秒。

 外見の変化に比べ、その中身の変化には背筋が凍りつくものがあった。

「ちっ……おい、念の為聞くが、この姿のファネルとお前は戦ったことがあるんだな?」

 ファネルを見据えたまま後方のハルヒにそう尋ねると、威勢のいい声が返ってきた。

「うん! あたし一人じゃなくて、連れと一緒だったけどね。さすがに一人じゃ無理!」
「連れ?」

 初耳だったが、問い質している暇はなかった。

「この戦いが終わったら色々聞きたいことがある。分かるように説明しろよ!」
「努力する!」

 いつどこでハルヒとファネルが出会ったのか現段階では不明だったが、二人が過去に戦闘を交えたことは疑いようのない事実であると言えた。

 ファネルのこの姿は、彼女の肉体に流れるもうひとつの血によるものだ。普通の者はまず目にすることのない、異形の姿-----初めて目にした者ならば、大半の者は恐怖で戦意を喪失することだろう。その姿は、人々の脳裏に『あるモノ』を連想させるからだ。


 魔人(ディーヴァ)。


 それは、『神が産み出した災厄』として知られる、異形の生物。

 人間にとっては、禁忌とされる存在。

「ふふ……この姿は気分が昂揚していい感じだわ。軽い興奮状態っていうのかしら……」

 うっとりとそう呟き、ファネルはガラルドに流し目を送った。

「この肉体に流れる、尊き血……感じるわ……。ガラルド……まさか、そのままでわたしとやり合う気? 久々だもの……貴方の本当の姿を見せてちょうだい」
「……必要だと感じたらそうするさ」
「ふふ……まさかその小娘と二人で、この姿のわたしに勝てるとでも?」
「……さぁな」

 煮え切らないガラルドの態度に、ファネルは琥珀の瞳を妖しく細めた。

「-----ガラルド……不思議に思っていたことがあるのよ。貴方はどうして、わたしの呼びかけにすぐに答えなかったのかしら。わたしの執念深さは知っているはずだし、貴方の性格から考えて、逃げたり隠れたりするなんて似合わないわ。何かすぐに出て来られない理由でもあったの?」

 こういうところは相変わらず鋭い。炎のような激しさと氷のような冷静さを持ち合わせた女だ。

 表面上は極めて平静を装いながら、ガラルドは口を開いた。

「野暮なこと聞くんじゃねー。察しろよ、コイツと楽しんでいたんだ。すぐには出て来れねーカッコだったんだよ」
「ガ、ガラルド」

 演技か本気か、ハルヒが上手い具合に頬を赤らめる。

 しかしファネルは動じなかった。

「……本当にそうかしら? 貴方を想うわたしの気持ちが、警鐘を鳴らしているの。もたらされた記憶が、疑問を投げかけている。『災いの元は、いつから貴方と関わっていたのか』と-----」
「もたらされた記憶?」

 聞き逃せない言葉だった。

「どういう意味だ。お前のその妙な波動と関係あんのか」
「えぇ、まぁね」

 多分に含みを持たせた肯定だった。

「……災いの元ってのはどういう意味だ」
「そのままよ。ねぇガラルド、貴方、いったい何を隠したの?」
「意味が分かんねー……ったく何だってんだ」

 溜め息混じりに返しながら、ガラルドは不吉なものが肚(はら)の底からせりあがってくるのを感じた。

 ファネルは、フユラの存在に気が付いている。何故かは分からないが、その情報を得ている。そして、自分がフユラを隠したことを見抜いている。

 確信した。

 その瞬間に、彼の変化は始まっていた。

 どくん、と鍛え抜かれた肉体が脈動し、彼の中に眠るもうひとつの血が目覚め始める。

「お望み通り見せてやるよ……さっさと始めようぜ。ごちゃごちゃしてんのは嫌いなんだ」
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