私見・・霊視画を考える・・・@
先ず、以前に書いた、「あくまでも、私達夫婦が行う場合の鳴釜神事の事」の内容を前提として、私達が日頃の相談時や祈祷時に霊視をした霊視画について書いて行きたいと思います。
そして、これは私達の観る霊視画であって、他のこの領域の方が観る霊視画がどの様なものであっても、決してそれを否定はしないし、その様な霊視画も在るという事を再度明記して、最近行ったある祈祷時に出て来た霊視画を考えてみたいと思います。
その説明は、「某月、某日、(819)(820)(821)(831)(832)(833)(835)(838)(839)」の、(832)の霊視の後で一回目の祈祷に入りました。(読んでください)
「某月、某日、(838)」は一回目の祈祷の説明とその祈祷時の霊視画になります。(読んでください)
その最初の祈祷から18日後に二回目の祈祷を行いました。
今回は、その二回目の祈祷時に出て来た霊視画を考えてみたいと思います。
霊視とは、先入観を持って頭で考えて観るものでもなく、決して目で観るものでもありません。
何も考えずに、頭を空にして、出来たら目を瞑って行うものです。
頭で考えて観た霊視は、今、私たちが生きている現実の世界の形や物語に似たものになりがちです。
それは霊視ではないのです。
それは単なる思い込みです。
もう既に、頭で考えて形作られたものが観えているだけです。
私達の祈祷を受けられた方は気が付かれた思いますが、私が妻に、「何にも考えずに目を瞑っといて・・・今、何も観えてないな?」と言って霊視に入る事がよく有ります。
勿論、これは、その事象をもっと深く観たい場合が殆どで、大概はその前段階で観えて来るものは既に観えているものです。
そして霊夢の場合とは違い(霊夢の場合、何年たっても忘れずに覚えているものです)、何も考えずに出て来た霊視の場面は、直ぐに記憶から消えて行く事が往々にしてあります。
妻の場合、此処近年、その傾向が強く、祈祷の最中にでもそれが消えて行く事があります。
その傾向が有るので、この頃は、祈祷の最中でも、重要な意味の有る霊視を妻が観た時、直ぐに祈願の表白紙の裏に描いてもらい、その場に居られる方に説明させて頂く事が多くあります。
先ず、今回の祈祷の説明に入る前に、前回の祈祷の内容を簡単に説明したいと思います。
この会社は長年に渡り、輩の様な霊能者の言う事を真に受け、鳥居を建てて伏見系の稲荷神社の稲荷神を祀り、事務所には大きな神棚を作り、輩の言う通りにいろんな御札を祀り、その結果、会社は急激に衰退して、詐欺にも遭ったりして大変な状態になってしまいました。
輩の様な霊能者と一緒に悪事をしていた存在は稲荷社の御札に入ったのですが、幸いにも、伏見系の稲荷神社の神霊はそれから逃れて、私達の方にその窮地を知らせて来ましたので、一回目の祈祷でその御札を封じました。
輩の様な霊能者は、その後全身癌で亡くなったのですが、その霊能者に憑いていた存在は、一回目の祈祷では祓い消す事は出来ませんでした。
又、この会社の敷地(御社の在った辺りの土地)には水神様が居られるのは以前の霊視に寄って解っていたのですが、そして、一回目の祈祷時にその水神様の勧請も計画していたのですが、私の方の地神様は何故か、しなくても良いと言うのでしませんでした。
大きな神棚に祀っている沢山の御札の撥遣にしても、今回はしなくても良いという事でそのままになっていました。
要するに、一回の祈祷で全てをやり遂げるのは無理だったと言う事ですが、不思議に思う事は、霊能者と組んで悪事を働いていた存在をいくら呼んでみてもその姿が出なかったという事です。
大概のこの手の存在は何回も呼んでいる内にひょこっとその姿(形)を見せるものですが、全く姿が出ませんでした。
その事や、このものから発せられる念が、妻やこの会社の奥さんの身体の同じ部位に作用する事から観て、「相当の悪」だという想像はついていました。
一回目の祈祷の帰りに泊まったホテルでは、金色の形のものが二体出て来ました。
本来、この会社の敷地に居られる水神様と観ました。
この金色の二体の存在を上に上げる為には、絶対に二回目の祈祷が必要になります。
それと、輩の様な霊能者と組んで悪さをしていた存在の消除をしなければ、この金色の二体の存在も上に上げる事が出来ないという事になります。
二回目の祈祷の前の晩、ホテルで、「地神さんの身体が真っ直ぐに立って出て来てるわ・・・」と妻が言いました。
「ああ…そう言うと、一回目の祈祷の時の釜で、釜から(地面の下から)、一直線に線が上がって、その上に丸い玉が出ていたな・・・確か・・・今回は下から上がって来られるな」と思いました。
二回目の祈祷は、先ず、大きな神棚に祀られた沢山の御札の祓いを行いますが、その沢山の御札の中には拝み屋と組んで悪事を働いていたものの影響を受けなかった御札も在り、その御札に対しては、こうこうした理由が有って御札の祓いを行いますが、どうか此方の思いを組んで、理解して頂きたい旨をお伝えしました。
又、依頼者の家に在った、拝み屋が開眼したという仏壇と本尊、繰り越し位牌、過去帳も持って来て頂きました。
鳴釜で祓いの祈祷を行う訳ですが、「地神さん、神棚の祓いやが・・・やはり筋を通して榊を置き、お酒を供えましょうか?」と尋ねると、地神さんはうなずきました。
「まあ・・・何も汚れていない御札もあるからな・・・せなあかんわな・・・」と思いました。
この一つ目の釜の祓いの対象は、全身癌で死んだ拝み屋と、それと組んで悪事を働いていた存在の消除になります。
亡くなった拝み屋ですが、一応、呼んでみましたが、何も見えて来ませんでした。
拝み屋と組んで悪事を働いていた存在ですが、何回か呼んでる内に出て来ました。
「あれ?・・・出て来るんかい」と思いました
「舌を出せ」と伝えると、「ピロッと縦の線が出て来たわ・・・此処に着いてからずっと・・・汚い人間の舌みたいなものが見えていて・・・舌の色も、人間の舌の色で・・・」と妻が言い出しました。
「あんたの口・・・見せてみ」と伝えると、「その縦の線の上にそれらしいものが出て来たわ・・・口やろか?」と妻が言います。
「あんた・・・案外素直やな・・・。ほな聞くが、あんた、元は神霊やな?。それで人に「有難う御座いました」と感謝されていた時代があったな、あんたは?」と伝えると、「縦の線の先に、何か?、白い紙のこんな格好をしたものが出て来たわ・・・」と、妻は手でその格好をしました。
「あ・・・此奴、やっぱり神さんやったんや。弊や」と思いました。
実際は、この段階まで来るには少し時間はかかっています。
このものにいろんな質問をしていると、「何か?、先が割れた汚い色の人間の舌の様な物がペラペラと左右に動いてるわ・・・動かしてるわ・・・」と妻が言います。
まあ、此処までの段階で、私もこのものに腹が立って来ていましたので、「お前、私の元は解かるな?。それが言うとるんやから、言う事を聞いたらどないやねん・・・お前、斬るぞ・・・落とすぞ・・・お前の行く世界は厳しいぞ」と何回も言っていると、「その・・・舌?の下に・・・こんな格好のものが出て来たわ・・・それが何個も下に重なって・・・で、その周りから・・・何かの力?の様なものがそのものに集まって?来ているわ・・・何かの力やわ」と妻が言いました。
(下記の霊視画は、妻がその時に表白紙の裏に描いたものです。舌の下に出て来たものは蛇の首辺りの形と観ます。妻の言う、何かの力の様なものが集まって、というのは、沢山の邪の力が集まって、このものを形成しているとも取れます)
下記の図は、私が妻にいつも言っている、「大概の方が分かる様に、解かり易く絵に描いて欲しい」と言っているので描いた図です。
一般受け?するのは、色付けした方になるとおもいますが、急いで表白紙の裏に描いた絵の方がその時の真実を表現した霊視画になると思います。
このものに、「家の仏壇、その本尊、神棚の殆どの御札に入って、拝み屋と悪事を働いていたのか」と聞くと、舌をペロペロと左右に動かしました。
このものが余りにも私の言う事を聞かないので、「地神さん、此奴、斬りましょうか?。釜が鳴ったら斬りましょうか?」と聞いたら、「「斬ったらあかん」と地神さんが言ってるわ」と妻が言いました。
「あ、そう言う事か・・・此奴の元がな・・・」と一応理解しましたが、しかし何故、この様なものをかばうのかが分りませんでした。
神棚と仏壇の撥遣の表白を読み上げました。
釜は大きな音で長く鳴りました。
「どや?。此奴・・・出たやろ?」と妻に聞くと、「???普通の男の人やわ・・・髪型も普通・・・普通の男の人の後ろ姿・・・つやの有るベージュ?・・・アイボリー?の背広・・・昔の歌手が来ていた様な背広を着て・・・階段が出て・・・この男の人、その階段を上がっているんやろか?・・・降りてるんやろか?・・・歩いているのか停まっているのか?・・・解からないわ・・・階段の周りは・・・???・・・」と妻が言いました。
単純に、このものが階段を上に上がって行っているのなら?、又下に降りて行っているのなら?、その解釈に違いが有るが、後日、その事を地神に聞いたのですが、何も返事は有りませんでした。
このものに、「おい、俺の言う事は聞こえとるんか?」と聞くと、「向こうを向いた男の人の手がバイバイ?とする様に手首だけ動かしたわ・・・」と妻が言いました。(直ぐにその時の霊視画を表白紙の裏に描いて依頼者の方に説明させて頂きました。
後日、上記の霊視画を、大概の方が解かる様に、色を付けて描いてもらいました。
やはり、この霊視画にしても、その時の真実の瞬間を現わしているのは、表白紙の裏に描いた霊視画の方に分が有ると思います。
私の方の地神様とチビが、階段の男の人に頭を下げているところを観ると、拝み屋と組んで悪事を働いていたものは、元はそれ相当な地位の神霊だったと観ますが、私個人の考えとしては、この階段を降りて行って欲しい、もう一度修業をして欲しいと思いましたが、地神様が何も言わないので上に上がったのか、下に降りたのかは分りません。
意味の有る場面だと思います。
尚、一つ目の釜で祓った仏壇ですが、「今までは仏壇を開けた時、もや〜っとしたものが仏壇から出て来ていましたが、今はからっとしています」、とこの家の方が言われました。
一つ目の釜で拝み屋と組んで悪事を働いていた存在が消えましたので、本来、この土地に居られるであろう水神様(巳神)の勧請を行いました。
勿論、もし釜を焚いても出て来られなかったらどうしよう、という不安も感じながら、巳神様の勧請の表白、巳神様が出て来られるであろうとして、事業繁栄の表白、この家の家族の病気平癒、心願成就の表白を読み上げ、釜を焚きました。
釜は大きな音で鳴り出し、長い間鳴って音が止まって行きました。
「どや?。出て来てあったか?」と妻に尋ねると、「出て来てあった。釜から金色のものがパチパチと光って釜の周り一面に出て来たわ・・・」と妻が言いました。
「そいで・・・巳さんや・・・巳さんは出てるんか?」と尋ねると、「出てる・・・金色の中に金色の巳さんが出とってやわ」と妻が言いました。
正直な気持ち、「良かった」と思いました。
「これが一回目の祈祷の帰り、ホテルで出て来られた巳さんやったんやな・・・」と思いました。
(釜を焚くと、金色の巳神様が出て来られた瞬間を、妻が表白紙の裏に描きました。@とAは金色の巳神様ですが、場面が金色でしたのでくっきりとは見えていません)
上記した表白紙に描いた場面を、誰にでも分かる様に、別紙に色を付けて描いてもらいました。
色を付けた方の絵は、祈祷から一週間ほど経った時点で描いたものですが、妻にしても日にちが経つと細かい部分の記憶が定かではありません。私がいつも、誰もが解かり易い様に描いてと言っていますので、金色の巳神が出て来た@とAの部分辺りにそれを協調して描こうとしたのですが、そうすれば実際の霊視場面とは異なりますので止めました。
やはり、この霊視画にしても、その時に妻が表百紙の裏に手早く描いた方の霊視画の方が、その時の真実を現わしていると思われます。
この金色の巳神様には、今までの無礼を詫びて、これからこの会社や家族を守ってくれる様に頼みましたが、全て良い返事を頂きました。
尚、この金色の巳神様(地神様)をお祀りする場所を決める訳ですが、いくら綺麗になったとは言え、庭に在った御社と鳥居は廃棄し、金色の巳神様に聞いて、会社の中にお祀りする事になりました。
この後は、この家の先祖がした宗旨変えの矛盾に気が付いて、それを正したつもりが、輩の様な霊能者にひっかかって、余計に複雑になってしまった先祖の供養を行いました。
その始終は省きます。
お経が終わって、「何が出てる?」と妻に聞くと、「斜めの線が出て・・・線の上は光っていて、線の下は黒・・・斜めの線はず〜っと上に続いていて・・・」と言いました。
この段階まで来ると、妻も大分疲れている様子で、代わりに私が表白紙の裏に描いて妻に見せると、「そう」と言いましたが、私は目を開けてする事が沢山有りますので、私が描いたこの霊視画の判断は信用性が薄いと取ってもらって結構です。
後日、上記した絵を妻に見せ、私がその時の情景を説明し、妻が思い出して描いた霊視画です。
只、この霊視画の解釈は、斜めの線を境に明暗が分かれていますので、宗旨変えをした時期を境の直径の先祖の安定度を現しているとも取れるし、この家は奥さんの実家、親戚全てが新興宗教に宗旨変えをしており、片や主人の方は代々続いて来た宗旨を守っていますので、それを明暗で教えてくれたとも取れます。
この後、金色の地神様祀る場所を決めたのですが、その時に出て来られた地神様は金色から真っ白な色の地神様になって、巳神のお姿の置物に似た形で出て来られました。
尚、この祈祷の後、直ぐに巳神のお姿を置いて祀られました。
それから数日後、この方からメールを頂き、地神様の向かって左側の榊が右側に比べると元気がないのと、翌々巳神のお姿を見ると巻物をくわえている下の牙が欠けてなくなっていると言われます。
確かに、よく見ると、此方から見て、巳神の左の下の牙が欠けてありません。
ネットで買われたらしく、不良品です。
それで向かって左側の榊の元気がなかったのかも知れません。
また新しいのを置けばそれで宜しいです。
妻が絶えず言っています。
目で見たものなら描けるが、頭の中で見たものを描けと言われても、それは大変難しい。
頭の中で見る色にしても、それを無理をして、限られた色鉛筆の色に置き換えて描いても、それは本当の色ではないので、真実味に欠ける・・・と。
尚、霊視画というものは、この領域の者に影響を与えている存在の程度を観るのに好都合な手段の一つでもあります。
(926)