あくまでも、私達夫婦が行う場合の鳴釜神事の事
 私が「龍神の鳴釜神事」というホームページを開設した20数年前(実際に釜を買ったのはその数年前)、今日の様に釜を焚く方はそう居なかった様に記憶しています。

 初めて京都の伏見稲荷大社に行き、釜を買おうと思って神具店を回ったのですが、確かに、釜は各店に一つは置いてあったのですが、買う方が居なかったのか、殆どの釜が日焼けして商品にならない状態のものばかりでした。

 そして神具店の方からも、「まだ釜なんか焚く人・・・居ますか?。何年も釜なんか売れてません・・・」、と言われた事を覚えています。

 今日の様に釜を焚く方が増えた事は、今の社会がそれを必要としているのかどうかという事についても私は解りません。

 そして他の方が何を考え、どの様な形式で釜を焚かれているのかも私は知りません。

 只、一つ、私が一番納得、安心させて頂いているのは、鳴釜神事の祈祷の展開の詳細に関し、私がホームページに書いている内容と同じ様な事を書いている方が居られないという事です

 それは決して私達の鳴釜神事だけが正道だという事ではなく、私達と同じ祈祷の展開は無いという事だからです

 鳴釜神事を行う方に付いている神霊や、その方の修行の仕方、程度により、祈祷時において、その祈願成就の為の様々な展開があって然りなのですが、私が自身のホームページに書いている様な展開は他の方には無い、展開しないという事です。

 例え霊系は同じであっても、妻が絵に描いている様な、私達が行う鳴釜神事の折に展開される場面は在り得ないという事です。

 もし他の方で同じ様な展開が在るとすると、その方は御自分の霊視をしていない、強いては御自分の正確な霊視をしていないという事です。

 私は私のホームページの中で、この領域の方のほんの一部を批判する様な事は極偶に有りますが、決して否定はしていません

 それは、この領域の方が千人居られれば、千通りの霊視が成り立つからです

 各人、いろんな観え方があって当たり前だからです。

 只、私達と同じものが観えるという事が在り得ないというだけの話です

 「霊視の事」にも登載していますが、祈願は同じでも、霊視(釜が鳴った時に伴う霊視)は、観る者によって様々な形を取って見えて来ます

 私達夫婦が観る、釜が鳴ったら見えて来るものは、私達夫婦だけが見える形であって、他の釜を焚く方が私達と同じ様なものが見えて来るというのは在り得ない事です

 釜が鳴って、私達夫婦が観る形と同じものが他の釜を焚く方に見えたとしたら、それはその方が正確な霊視(御自分の霊視)をしていないという事です

 釜を焚くこの領域の方のお役や修行の程度、その方に付いている神霊によっては、もっと様々な霊視があって然り、不思議な事ではありません

 千通り、万通りの霊視の形があっても当然な事です

 

 







 

 







 

 
霊視画を考える・・@