鳴釜神事に思う事
 私は加持、祈祷の折に、鳴釜の神事を、一つの手段として取り入れ、行っている者です。本職は美容室を経営しております。そして、私は既存の宗旨、宗教、団体とは何ら接点を持たない所に身を置いている者です。勿論、私にもこの道の師匠と呼べる方はいますが、民族的、宗教的、又言葉の関係も有り、少し遠回りをして、現在に至っております。日本人の先達からならば、短期間で理解、納得し、自分のものに出来るものも、普通の方の何倍、何十倍も時間を費やし、私なりに考え、体得して来ました。

 私が今から書いていく事は、あくまでも私流のやり方で、既存の宗旨、宗派、団体の方々とは相違が有ろうと思いますが、一拝み屋の言う事と我慢して読んでいただければ幸いです。

 私がこの鳴釜の神事について書こうと思ったのは、この神事の原理は余りにも単純で、誰にでも理解が出来、誰にでも釜を鳴らす事が出来ますが、この神事を理解出来ずに祈祷を続けている事の危険さを知っていただきたいと思ったからです。

 鳴っている釜を持ち歩く事で、場所によっては、釜鳴りが止まる場所があります。鳴りが止まる場所には、それなりの理由があります。不浄な場所、方角的な理由、建物の構造的なものから来るもの、又雑多な意味での邪神等、数え上げると限がありません。余談ですが、私の場合は、私が思っている事と、私の中に入っている神の思う事が異なると、釜は鳴りません。そこで、何故鳴らないのかと私自身が考え、判断し、神の思っている事と一致すると、釜は鳴り出します。その時点で、祓い等の祈願が成就したと解釈します。

 尚、この鳴釜の神事は、祓い、清めの為だけではなく、神仏に対し、感謝や許しを請う為に焚く場合も多々有ります。

 釜を持ち歩かずに固定して焚く場合も、釜を焚く場所、その場所に関する人間の事情、釜の向き、釜を焚く者の立ち位置、此方も数え上げると限がありません。勿論、技術的には、コンロ(七輪)の火の強弱、釜に入れる水量、米の種類、米のとぎ方等で、鳴る音の強弱、大小の違いが出て来ます。

 この最小限の事を頭に置いて、先達からの少しの指導で、一応釜は焚けて、鳴らす事は出来ます。又慣れない最初の内は、大きな音で鳴れば吉、鳴らなければ凶、と勘違いしやすいものです。これは決して間違いではないのですが、これはほんの表面的な現象だけで、一部の施術者を除いては、大部分の方がこの段階で止まり、この神事の本質を理解出来ずにいる様に思えます。


 しかも、この神事は、素人目に見れば、何もしない釜から大きな音が出て、何もしないのに、ある場所ではピタリと音が止まる。摩訶不思議に思う人が多いのは否めません。そして施術者の方も、確固とした自信や、鳴釜神事の理解無しに、この神事を行っている方が多いように思えます。

 そしてその内、人々からは釜を焚く先生ということで、方々から依頼が来ます。各所へ出向いて釜を焚く。自ずと金銭的なものも付いて来ます。しかしこの生活を続けていると、殆んどの施術者は大病を患うか、この人自身の身辺が不安定のものになって行くのは、私の思い過ごしでしょうか。

 
私はこの鳴釜の神事だけではなく、各種の祈祷や御祓いを行う方は、相当な修行を続けておられる方か、(お役について)私や私の家内の様に、決して自ら望むものではないが、そうしなければ、命をも取られる位の、お役の付いた者でしか行ってはならないように思えますそして施術者自身、常に清浄な気持ち、、行いに心掛ける事は言うまでもありません。常日頃、施術者自身を高めて行く事は、その施術者に影響を与えているものも、広い意味で高まって行きます。そして、入って来る情報も、自ずと程度の低い情報は入って来ないように思えますし、その情報を見分け、分析する能力も付いて来る様に思えます。

 しかし人は弱いもので、自分自身を高めようと思っても、兎角、安易で楽な方に流れる傾向が有ります。安易で楽な所には、自ずと程度の低いものが集まります。しかもその程度の低いものは、目先の事だけは良く言い当てたり、お金儲けに長けます。人を騙したり、事前に人を病気にさせておいて、その病気を治す事などは朝飯前です。わしは何々大明神じゃ、何々観音じゃ、等と高飛車に出ます。そして姿も見せます。施術者も騙されます。施術者自身、私には何々大明神、何々観音が付いている、有り難い事と、一生懸命にお祀りします。もっと酒をくれ、もっと何々してくれ、と要求はエスカレートして行きます。その通りにすると、お金や物が入って来ます。そのお金や物には、この領域のいろんなものも付いて来ます。生活も変わって行きます。一般の人から見ると、少し違和感が漂います。しかしこの様な事は長続きはしないものです。いつの日か失敗します。世間から批判を受け、やがて表面から消えて行きます。

 兎に角、施術者自身の身を、清浄な所に置き、清浄なものの考えを心掛けて神事にあたれば、正確な祈祷や答えが出て来る様に思えます。

 そして、祈祷を行う方と依頼する方の思いや考えが一致すれば、そこに自ずと完璧な結果が生まれて来ると思えます。私の場合、依頼する方の考え方の程度の低さ、ずるさ、私達に対する懐疑心が強すぎる場合、私の中に入っている巳神は姿を見せないし、頼んでも動きません。自ずと、その祈祷の良い結果は望めません難しいものです。

 本来私は、私が行ってきた祈祷の始終を、匿名ででも書き、発表するのは、私の主義ではないのですが、昨今、私なりに観て、この領域が少し違った方向に進んでいるのではないかと危惧し、少しでもお役に立てればと思い、発表する事にしました。勿論、時期、場所、名前等は架空のものとします。

 
私は祈祷の種類、順序に関しては、依頼の内容にもよりますが、線香による護摩、鳴釜の神事の順に行っております。何故なら、線香の護摩による祈祷や祓いだけで、依頼の内容が成就する事も多々有りますが、依頼の内容はそんなに単純なものだけではなく、複雑な、雑多な、又時間的にも相当な年月をかけて作られた強い原因、その原因の中に、何も関係の無い、他からのものも作用し、言葉で言って聞かせても効果の無い、がんじがらめになってしまった内容も多く、その様なものに対しては、有無を言わせずにこの神事を行い、強制的に事象を良い方に導く事が多々有ります。

 私がこれから書いて行く事は、何も特別な事ではなく、私が常日頃行っている事ですが、元となっている原因の経過年数によっては、稀に少し時間がかかる事も否めませんし、又根本原因がその人間の間違った考え方や行動が起因し、そこに私の領域が入り、複雑な事象になっている場合は、祈祷により私の領域のものは静まり、消えますが、やはり根本の人が作り出した原因を反省しない限り、祓い切った私の領域のものが、又入り込んで行く可能性は有ります。

 本来、私は、祈祷というものは、一回で完結させるべきものと考えています。そしてこれは、私自身の責任(祝、感謝の祈祷を除き、祈祷は一回で完結すべきものです。素人の方には納得しにくいし、私の言っている事にも矛盾が有るかも知れませんが、神様は全てを見通しています。何も言わなくても見通していますが、神様は自分の意思では動きません。何々して欲しい、こうこうして欲しいという内容は、私を通じて初めて神様の方に届き、私が神様の方に、こうこうして欲しいという旨を告げないと神様は動きません。事前の霊視で相当な量の情報は入って来ますが、祈祷を依頼する方が、私達が事前に霊視した情報の他に、いかに沢山の情報を私達に伝え、それを元に、私が神様にどう伝えるかに成否がかかって来ます)でもあり、私の中に入っている神の力不足でもあると捉え、日々反省し、自分を律しています。

 
そして私が、自分自身の住所、氏名を公にしているのは、この領域の仕事をする者にとっては、当然の事であり、依頼された仕事に対し、責任が有るからです。

 
又私は、近年再興して来たスピリチュアリズム(心霊主義)を、過大解釈し過ぎたものによる問題解明について、その様な言葉、知識の引き出しは持っておりません。

 所詮、施術者自身、又、施術者に影響を与えているものの能力以上の答えは、出て来ないものです。


 
鳴釜神事の実際と考察
清流の巳神