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独り言12 h16/10/15
ヤドカリとイソギンチャク」の文章構造図へ

私の「ヤドカリとイソギンチャク」指導計画

 単元名は,「だん落とだん落の関係を考えて」です。ですから,「段落相互の関係を考えて,書かれている内容を正しく読み取る。」ことが目標です。私なら,15時間を次のように使います。
<学習の準備>・・・・1時間
@ 「ヤドカリとイソギンチャク」を通読します。
  ・ヤドカリやイソギンチャクのことを紹介します。
  ・形式段落に番号を打ちます。
  ・分からない言葉と漢字の指導をします。
  ・何回も読みます。(これが大事です)

<説明文の読み取り>・・・・8時間
@ この説明文を「頭」と「おなか」と「しっぽ」に分けます。
A これから学習するための学習問題をつくります。
  大問題  「ソメンヤドカリとイソギンチャクはどんな関係があるのだろう。」
  小問題1 「なぜ,ヤドカリは,いくつものイソギンチャクを貝がらに付けて
        いるのでしょう。」
  小問題2 「ヤドカリは,石に付いたイソギンチャクを,どうやって自分の貝
        がらにうつすのでしょうか。」
  小問題3 「イソギンチャクは,ヤドカリの貝がらに付くことで,何か利益が
        あるのでしょうか。」
B 小問1「なぜ,ヤドカリは,いくつものイソギンチャクを貝がらに付けている
   のでしょうか。」について読み取る。 (2時間)
C 小問2「ヤドカリは,石に付いたイソギンチャクを,どうやって自分の貝がら
   にうつすのでしょうか。」について読み取る。
D 小問3「イソギンチャクは,ヤドカリの貝がらに付くことで,何か利益がある
   のでしょうか。」について読み取る。
E 大問題「ソメンヤドカリとイソギンチャクはどんな関係があるのだろう。」に
   ついて読み取る。
F 著者の考えを伝えるための文章の構成について調べてまとめる。

<読み取ったことの表現>・・・・3時間
@ 読み取ったことをもとに,「イソギンチャクからヤドカリへ」「ヤドカリからイソギンチャクへ」日ごろの感謝の手紙を書く。(2時間)
A 感謝の手紙を発表する。

<発展学習>・・・・3時間
J 他の動物の共生関係について調べて発表する。(3時間)

独り言11 h16/9/29

説明文の構造4

B しっぽ
 説明文は,必ずと言っていいほど最後にまとめの段落があります。それはわずか1行であることもありますが,マンボウのように大きな「しっぽ」になる場合もあります。「しっぽ」には,「筆者がこの説明文で言いたかったこと」が書いてあります。「筆者の意見」であったり,「読者への呼びかけ」であったりします。
 どこから「まとめ」なのかをつかむ時にヒントになるのが,「このように」とか,「つまり」といった「まとめ」であることを示す「接続語」です。また,「しっぽ」は,「あたま」で提示された「問題文」(問いかけ)の答えになっていることを忘れてはいけません。形式と内容の両面から読み取っていくと,説明文の内容を理解すると同時に,説明文を読み取っていく方法も学ぶことになるのです。
 「ヤドカリとイソギンチャク」では,12段落が「まとめ」の段落になります。「ヤドカリとイソギンチャク」の「このように,たがいに助け合って生きているのです。」という文章は,1時間をかけて学習し,「このように」を自分のものにする最適な教材です。
独り言10 h16/9/25

説明文の構造3

A 「おなか」
 説明文は,筆者の伝えたいことが順序よくきちんと整理して説明されています。そうでないと,読む人に意図が伝わらないからです。疑問文があると必ずその答えが書いてあります。Aの話とBの話をごっちゃにして説明することはありません。説明されている内容をまとまりとして整理したものを「意味段落」といいます。「形式段落」が,単純に1文字下がっているという形式で見分けられるのに対して,「意味段落」は内容で分けていきます。この「意味段落」の順序やまとまりをつかむ手がかりになるのが,「問いかけの文」と「指示語」や「接続語」です。書いてある内容は十分つかんでいなくても,「指示語」や「接続語」によっておおまかな構造をつかむことができます。「ヤドカリとイソギンチャク」を例に考えてみます。
2段落 最初の疑問文(問いかけ)
「(それなのに)なぜ,ヤドカリは,いくつものイソギンチャクを貝がらに付けているのでしょうか。」
3段落 このことを調べるために,
4段落 (まず)おなかをすかせた・・・・・
5段落 次に,イソギンチャク・・・・
6段落 問いかけの答え・・・・それで,「ヤドカリは,イソギンチャクを自分の貝がらに付けることで,敵から身を守ることができるのです。」
7段落 2番目の疑問文(問いかけ)
では,「ヤドカリは,石に付いたイソギンチャクを,どうやって自分の貝がらにうつすのでしょうか。」
8段落 ・・・・・観察しました。
9段落 問いかけの答え
・・・・すぐ近づいてきて・・・・・そして,・・・・おし付けるのです
10段落 3番目の疑問文(問いかけ)
では,「イソギンチャクは,ヤドカリの貝がらに付くことで,何か利益があるのでしょうか。」
11段落・・・・ヤドカリに付いていれば,・・・・その結果,・・・・また,・・・・できるのです

 3つの「問いかけ」がありますから,この説明文の「おなか」は,大きく3つの「意味段落」に分けられます。教科書では,実験の順序を示す「まず」はありませんが,「まず」とか,「はじめに」という接続語がある方が3年生の説明文としては親切だと思います。「はじめに」「次に」「さらに」といった順序の分かる接続語が,読解の大切な手がかりになるからです。説明文を構造的に読むことによって,「では」という話題を変える接続語や「このことを」といった指示語の大切さも分かります。
 「おなか」には,内容として大変興味深い事実が書いてありますが,それは,「まとめ」で自分の思いや考え,主張へ読者を導くための一つ一つの布石なのだということを忘れてはいけません。指示語や接続語を手がかりにして内容を理解していくと,「しっぽ」も見えてくるのです。
独り言9 h16/9/22

説明文の構造2

@ 「あたま」
 説明文は,伝えたいことを分かりやすく説明する文です。伝えたいことが何なのか書いてあるのが「あたま」です。話題提示や問題提示がしてある段落です。その説明文全体に係わるような「学習問題」を設定できる段落です。文章の中にそのまま提示されている場合もありますが,キーになる言葉や文章から学習問題を作ることができます。例えば,「ヤドカリとイソギンチャク」では,「ヤドカリのなかまで,さんご礁に多いソメンヤドカリは,貝がらにイソギンチャクを付けて歩き回っています。」という文章から,
 ・なぜ,イソギンチャクはソメンヤドカリの貝がらにくっついているのだろう。
 ・なぜ,ソメンヤドカリはイソギンチャクをくっつけて歩くのだろう。
 ・ソメンヤドカリとイソギンチャクはどんな関係があるのだろう。
といった学習問題をつくります。説明文を読んだ時に,「へえ」とか「なんで」といった驚きをもって読む力や,より全体の学習にかかわる問題を作る力が必要です。「二つから四つ」「中には九つも」という言葉は,それを補強するに十分です。
 説明文を読み取る力とは,「より書かれている内容にそった学習問題を作ることができる力」も一つの側面です。説明文の構造を理解することで,そうした力もついていきます。
独り言8 h16/9/12

説明文の構造

 私は,今教頭をしていますが,この学校に来たとき,会計の多さにびっくりしました。「給食」「PTA」「文化財愛護」「環境整備」「修学援助」「福祉教育」「給食運営費」etc。それをほぼ一人で切り盛りしています。特に「給食」の会計は,複雑で大変です。詳しいことは書きませんが,昨年の4月の段階では,これは大変な仕事だと不安に駆り立てられたことでした。しかも,他の仕事の合間にやるのですから,「給食会計に追いまくられていた」といった状態でした。各地区から持ち込まれる納入状況をチェックして記録し,通帳と照らし合わせて,帳簿に記録。教師分,他校からの納入分をetc。 しかし,私は,今,こうした毎月の給食の会計をほぼ一日で処理します。臨時の処理でもほとんど時間をとられることはありません。それは,私が,給食会計の仕組みを理解し,それに応じた対応ができるようになったからです。どうすれば,効率的に処理できるかを考え対策を立てたから,私は「給食会計に追いまくられること」はなくなったのです。
 説明文の学習も同じです。毎回,説明文に出会うたびに,「説明文の読解」に追いまくられていたのでは,子どもたちはいつまでたっても,説明文の仕組みを理解できないし,毎回,苦労しながら説明文への対応を迫られることになります。説明文の構造を理解することは,説明文の学習を主体的に効率的に進めるための対策や手段を手に入れることなのです。
 では,説明文はどういう構造をしているのでしょう。私は,教科書に登場する説明文は,ほとんど次の3つの内容から書かれていると考えています。

@ 話題提示  「私は,これから○○のことについて話をしますよ。」
A 説明     「まず,Aのことについて話します。次にBのことについて話します。・・・・」
B まとめ    「ほら,まとめると,○○って△△なんですよ。」

 「当たり前だ」と言われるかもしれませんが,パターンで整理することが大事です。中には,「結論が先に来ている説明文」や「話題提示がほとんどない説明文」もあるかもしれませんが,それらは,「応用問題」として,まず,この基本を徹底します。
 私は,子どもには「セツメイタイ」という魚にたとえて話します。
 説明文というタイには,必ず「頭」と「おなか」と「しっぽ」があります。「頭」には,「筆者がこれから説明しようとする「話題」が書いてあります。」「おなか」は,そのことの説明が順序よく書いてあります。」(ここが一番おいしいんですよ)「しっぽ」には,「今まで説明してきたことのまとめがしてあります。」
 説明文の構造の学習は,まず,説明文を「頭」と「おなか」と「しっぽ」に分けることから始まります。
独り言7 h16/9/7

説明文の授業は,「話す」「書く」の指導か

 説明文の授業は,様変わりしました。最近では,内容の読み取りに多くの時間をかけるのでなく,「同じ様な内容の説明文を書いてみよう」「パンフレットを作ろう」といった表現に時間をかける構成になっている説明文の単元が多いように思います。
 東京書籍の4年生の説明文の単元の教材に「ヤドカリとイソギンチャク」があります。指導書では,15時間の指導時数に対して,1時間で学習の計画を立てて,読み取りの時間は5時間〜6時間が設定されています。「書かれている内容を紹介するパンフレット作り」や「ヤドカリやイソギンチャクになって対談をする」学習や発表が7時間,「共生」について調べる発展学習が2時間設定されています。この単元でも,内容に係わって,「パンフレット作り」や「対談」に多くの時間をかけるような構成になっています。
 これは,「児童の意欲を喚起し,教材を主体的に読み進める」ために「パンフレットを作ろう」とか,「なりきって対談をしよう」という目的意識を持たせることがねらいなのだそうです。
 「表現力が弱いから表現力を重視する」「主体的に楽しく学ぶ支援的な学習形態を」「説明文や長い物語文を学ばせると,国語嫌いになる」など,さまざまなことが言われて,説明文や物語文が教科書からガンガン消えて,説明文の構造の学習や読解の指導の時間が少なくなってきました。そして,パンフレットを作ったり,楽しく対談をすることが「説明文学習の目的」になってしまったのです。
 確かに「話すこと」や「書くこと」は,大切な学習です。しかし,わずか5時間で,本当に説明文を主体的に読み取ることができるのでしょうか。説明文の構造を理解できるのでしょうか。「目的に応じて,中心となる語や文をとらえて段落相互の関係を考え,文章を正しく読む」という指導要領の内容が学習できるのでしょうか。
 私は,説明文の構造をきちんと理解しないで,書かれた内容を活用する学習はできないと思います。「段落相互の関係に注意して読む」という学習は,教師がきちんと指導しなければ,児童はできるようになりません。平面的で浅い読み取りのまま「話す活動」や「書く活動」に取り組んでも,説明文を読む力は身に付いていかないと私は思います。「ことば」や「段落」に着目し,「説明文はこう読むのだ」という説明文の学習をするべきだと思います。
独り言6 h16/6/15

表現読み2

@ 体を柔らかくして,肩の力を抜いて読みます。
 体を柔らかくするというのは難しそうですが,歌うときでも読むときでも基本は同じです。「体を楽器」にするのです。がちがちに体が硬直していては,声は響きません。体と共に精神を柔らかくして,脳が働きやすいようにするのです。すうと自然と体が動くぐらいの方が自分を表現するときはいいようです。

A 呼吸を深くして,声に思いを乗せて全身で読みます。
 歌うときでも読むときでも呼吸はとても大切です。「呼吸は準備」です。「ため」をつくる瞬間でもあります。その一瞬で,心も体も「読み」への構えができます。私は,子どもに,「はい,吸って。」と声をかけてやります。
「おかんは,たったひとり」という読み出しで,8割はその後の読みのレベルが分かります。その時すぐ「内容を込めて読む指導」をします。最後まで読み終わってから指導しても,効果はあまり上がりません。「読み方の指導」ではなくて,「内容を持った読み」をするための指導です。教師は,その場で,子どもの読みのレベルに応じた指導をする力を持たなければ子どもに力をつけることはできません。

B 自分の中でイメージができてから,声に出します。
 遠く離れた都会で,年老いた母を思う作者の姿を思い浮かべて,朗読します。その姿をイメージしながら声を出します。声の大きさよりも,声にイメージがあるかどうかが大切です。イメージのないまま声に出すと,平板で聞いている人に伝わらない朗読になります。内緒話のような声でもいいです。
100m先の運動場にいる友達に聞かせる声でもいいです。大切なのは,「イメージ」です。

C どこで切ろうと,どこをゆっくり読もうと自由です。自分のリズムを大切にします。
 「おかんは,たったひとり」という一文でも,「おかんはたったひとり」と一気に読んでもいいし,「おかんは,たったひとり」「おかんは,たった,ひとり」と読んでもいいです。切った場合でも,その時間は,それぞれです。「たった」を強調する読みもあれば,「ひとり」に思いをのせる読みもあります。自分の読みのリズムをもてるまで,練習させるといいです。そういう作業を通して,子どもは力をつけていきます。「読む」という学習で,子どもたちは発見をし,表現し,ほめられ,自信を持っていきます。

D 聞かせる対象を明確に持って読みます。
 「○○くんに聞こえるように読もう。」とか,「内緒話をしているように読もう」とか,「隣のクラスの○○先生に聞いてもらおう。」といった明確な対象を持って読むことは,読みの輪郭をはっきりさせます。そして,驚きの声や拍手をもらえると,次々と読み手が出てきて,学級全体の「表現読み」のレベルは上がります。そして,みんなの前で読むことの抵抗がなくなってしまうと,その効果はぐんぐん広がっていきます。そうなると,次は,机やいすを取っ払って,歩きながら読んだり,掛け合いをしながら読んだりして,表現読みを楽しむことができるようになります。
独り言5 h16/5/7

表現読み

 子どもを鍛え,自信を持たせ,心を開かせるのに有効な指導に「表現読み」をさせる方法があります。
 「声に出して読むという学習」(音読)を軽視していませんか。黙読することで,授業の中の「読み」に代えたり,機関銃のように素早く読んでいても見逃したりしていませんか。高学年になると,声に出して読むという学習を軽視する傾向があるように感じます。「1年生や2年生じゃないんだから大きな声を出して読むなんて恥ずかしいし,必要ない。」と思っているとしたら,大きな間違いだと思います。「音読」は,声に出すことで内面の声だけでなく耳からも声が聞こえます。友達の読みも分かります。指導する方も,「読みの実態」がよく分かります。「読んでいるふりをする子ども」も発見できます。読書とは違う指導が「音読」にはあるのです。
 国語の教科書には,(最近は少なくなりましたが)すてきな詩が掲載されています。こうした詩は,暗唱させて朗読させるといいですね。私は,何回も読ませました。「今,読んだ人と違う読み方をしなさい。」「あなたの読みで朗読してください。」と言った指示を出しながら朗読させます。みんなで声をそろえて読むのもいいですが,一斉に読んでも,バラバラで読むことを要求したことが多かったように思います。そうすることで,「一人一人の読み」を大事にしたかったのです。みんなが読み終わった後でも,一人の声だけ教室の中に響いて,その声にみんなが耳を傾けていて,その声が消えた瞬間,教室がしーんと静まりかえる。それだけで,学習の雰囲気はできあがります。教師は,最初の発問をするだけでいいのです。
 音読には,よい詩や名文がいいですね。「声に出して読みたい日本語」という本も,最近は出版されていますので,暗唱して読ませたい文章を引っ張り出してやってみたらどうでしょう。意味が分からなくても,繰り返し読むことで何となく意味を理解していきますし,日本語のリズムや美しさにふれることもできます。
 しかし,もっと,国語の力をつけることができて,子どもを内面的に高めるのは「表現読み」だと思います。「音読」よりも,高い表現力が要求されると同時に,教師にも深い読解力と指導力が要求されます。私が,「読む」という学習の奥の深さを痛感したのは,「教授学研究会」という研究団体の夏の研修大会で,斉藤喜博先生が,参加されていた先生方に「春」「坂本遼(さかもとりょう)」という詩を朗読させたときです。大学の先生や参加されていた先生方が,指名されたり自主的に挙手してそれぞれ朗読されました。斉藤喜博先生の指導で,それぞれの先生の読みが大きく変わっていきました。朗読を聞いて,「教師の弱点を露呈している(朗読だ)」という感想も強烈でしたが,指導で「読みはこうも変わるものか。」「おとなでも,これほどの読みができるなら,子どもならどうなるのだろう。」と,それまでの「読み」を反省させられたことでした。なにしろ,同じ朗読を聞いていながら,私には「朗読している先生の表現の違い」が全く分からなかったのですから。
 
     春

おかんはたった一人
峠田のてっぺんで鍬にもたれ
大きな空に
小ちゃなからだを
ぴょっくり浮かして
空いっぱいになく雲雀の声を
ぢっと聞いてゐるやろで

里の方で牛がないたら
ぢっと余韻に耳をかたむけてゐるやろで

大きい 美しい
春がまはつてくるたんびに
おかんの年がよるのが
目に見へるやうで かなしい
おかんがみたい
 こんな深い内容を持った詩が,5年生の教科書にあったのです。
 表現読みをするときには,こんなことに気をつけます。
@ 体を柔らかくして,肩の力を抜いて読みます。
A 呼吸を深くして,声に思いを乗せて全身で読みます。
B 自分の中でイメージができてから,声に出します。
C どこで切ろうと,どこをゆっくり読もうと自由です。自分のリズムを大切にします。
D 聞かせる対象を明確に持って読みます。

 そんな私も,子どもたちと練習を重ねて,こんな表現読みが指導できるようになりました。
 あなたなら,どう表現しますか。
独り言4 h16/4/29

参観日と家庭訪問

 どの学校も,そろそろ家庭訪問が始まったのではないでしょうか。(もう終わっちゃいましたか)教師と子どもの出会いは「始業式」ですが,保護者との出会いは「参観日と家庭訪問」です。
 4月に参観日があり,「PTA総会」がある学校は結構多いのではないでしょうか。私は,4月の参観日は,保護者に品定めをされていると思っていました。保護者は,「この先生は,1年間私の子どもを預けるに足る教師なのか。」をいろんなところで観察して点数で評価していきます。保護者は,わずか45分の授業で,自分の担任の品定めをするのです。「自分の子どもへの声のかけ方」「勉強の教え方」「その教師の人間性」を一瞬のうちに見抜き,採点します。
 ですから,学級担任は,周到に準備してその「最初の関門」を切り抜けなければなりません。ここで,保護者の信頼を得れば,1年間自分のやりたい実践に深い理解を得ることができます。他のどの参観日よりも大切なのが,4月の参観日です。
 私は,必ず授業の終わりに合唱を取り入れていました。4月の参観日の合唱は,今まで聴いたこともないような子どもの声を保護者に聞かせました。上手ではないけれども生き生きとした真剣な合唱を保護者に聴かせようとしました。
 授業は,4月は国語をしました。それは,一つには一番得意とする教科だったからですが,国語の表現や読み取りで,保護者を圧倒したかったからです。「この先生は,ちょっとすごいぞ。」とか,「この先生の授業は,わかりやすいぞ。」と思わせることができたら,保護者は厚い信頼を寄せてくれます。授業は,何よりも「その教師となり」を如実に保護者に示すのです。
 4月の参観日が,うまくいくと家庭訪問では,授業や合唱の驚きが話題になります。そうすると,自然に自分の一年間の方針や子どもへの関わり方などについて話すことができます。実践の力をつけることが,結局は保護者の理解を得たり,信頼を得たりすることにつながるのです。
 「自分の子どもの成績を上げてほしい」「分かるように勉強を教えてほしい」というのは,保護者の切なる願いであり,4月は,保護者にとっても不安が募る時期です。教育に携わる者としては,「もっと大切なことがあるんですよ。」「子どもの心が分かっていますか。」と言いたい気持ちはあるのですが,そこは,ぐっと我慢してまず信頼関係を築きましょう。信頼関係さえ築いておけば,これから厳しい指導も受け入れられていきます。早い時期に「自分の受け持つ子どもの保護者と協力できる環境を作る」ことは,保護者に「誤解」や「不信感」を抱かせないためにも大切なことなのです。
 教育者を取り巻く環境は,ますます厳しくなってきていますが,「4月の参観日と家庭訪問」で保護者のハートをがっちりつかんでください。
独り言3 h16/4/6

新学期スタート

 学校の新しい1年がスタートしました。私の学校も4月5日に始業式が行われ,子どもたちが希望に胸をふくらませながら,新しい担任の先生と出会いました。喜びに胸をふるわせた子どももいれば不安いっぱいでスタートした子どももいたことでしょう。
 私は,担任の発表の時にたくさんの子どもから「やったあ」と叫ばれたいと思いました。若いときは,その若さだけで,子どもたちは喜んでくれたものです。しかし,いつまでも若さだけで子どもたちは喜んでくれません。特に,何年もひとつの学校にいると,どんな先生か子どもたちは知っていますから,「ええっ」という声にもなりかねません。学級担任の発表の時にドキドキしているのは,実は先生の方かもしれませんね。
 子どもたちは,どんな先生を望んでいるのでしょう。私は,次のような先生を子どもは欲していると考えています。

 @ 明るい先生
 A ひいきをしない先生
 B 勉強を教えるのがうまい先生

 人によっていろいろな意見があると思いますが,私はそう考えて学級担任をしてきました。子どもは,明るく楽しい先生が好きです。教室で,いつもしかめっ面をされていたのでは,気持ちも重くなってしましまいます。子どもはみんな学ぶ意欲を持っています。その学ぶ意欲を引き出し,一生懸命教えてくれる先生を子どもたちは望んでいます。成績のいい子だけをかわいがったり,先生の言うことを聞かない子やいたずらをする子の心を理解しなかったりその子のよさを認めない先生は,子どもたちはすぐ見抜きます。
 元気で明るく,教えたことが分かるまで,子どもととことんつきあい,どんな子どもにも可能性があることを信じている先生が子どもの望んでいる先生だと私は思います。
 私は,子どもたちから「先生のクラスになると,歌を歌わされるからいやだな。」とも言われました。特に,男の子は歌うことに抵抗がある子どもが多かったようです。しかし,持ち上がりや以前受け持った子どもたちを再度受け持つときには喜ばれました。「やったあ。また合唱ができる。」というのがその理由でした。出会いはうまくいかなくても,1年間で子どもたちの意識を変えることはいくらでもできます。出会いが「やったあ」で始まらなかったからといって,悲観することはありません。1年間を終わるときに,涙のひとつも流してくるような関係を作っていけばいいのです。
 悩みながら新しい1年のスタートを切った若い先生方を心から応援しています。がんばってください。
独り言2 h16/3/10

「学級目標の設定」

 学級は,子どもたちに自由にさせていてよくなるものではありません。学級は,子どもと共に育てていくものです。そして,その中心にあるのは担任です。
 私は,学級を受け持ったとき,その1年のテーマを決めます。例えば,「今年のテーマは「愛しむ」でいく」「今年は,「命の尊さ」を感じる」といったものです。そして,そのテーマに沿ってその年の具体的な目標を立てるのです。
 テーマは,学年や児童の実態や私の願いや子どもたちの思いを大切にして決めていきます。しかし,最も大切なのは,「自分が受け持った子どもたちの可能性を引き出し,子どもとともに成長していこうと思う教師の思い」だと私は考えています。前学年で,「だめなクラスだ」といわれたり,「この子どもたちは,だめだ」とレッテルを貼られたり,「手がかかる子どもがいる」と敬遠されるクラスほど,「だからこそ,こんなテーマで1年間がんばるんだ。」と燃えるような情熱があってはじめてテーマも生きてくるのだと思います。
 学級の正面に掲げた「子どもの顔を貼り付けた学級のテーマ」が,形だけにとどまることがないようにしたいものです。

 ある年の,私の掲げた学級の目標です。
 
 @ 日記を毎日朝自習で書き続ける。
 A 合唱で学級を鍛え、「大地讃頌」に挑戦する。
 B 算数のワークテストで平均95点以上の回数を1回は達成する。
 C 図工で全員が満足するような作品を学期に1回は完成する。
 D 図書室の本を全員で1000冊以上借りて読む。

 学級の目標は,「具体的で,明確なものがよい」と私は思います。4月,5月は覚えていてもいつの間にか,子どもの頭の中から消えてしまうような(ついでに教師の頭からも)目標は,形式的といわれても仕方ありません。学校には,意外と「形式」で終わっているものが多いのではないでしょうか。ホームページに掲載しているような作品は,こうした目標の下に,1年間かけて作り出された作品です。
 勉強は,いつも楽しいものではありません。その過程は,むしろ苦しいものです。しかし,きついことや苦しいことを乗り越えたところに感動や喜びがあり,その繰り返しが「勉強を楽しいもの」にしていくのです。そのためには,担任が学級の中心にあり,子どもたちと学級を育てていく姿勢こそが望まれるのです。
 
独り言1 h16/3/1

「今思うこと」

 私が,この学校へ来てから1年が過ぎ去ろうとしています。これまで,27年教育の仕事に携わってきています。学級担任として,TT担当教員として,教頭としていろいろな学校で子どもたちの教育に関わってきました。特に学級担任としては,子どもたちと毎年真剣勝負をしてきました。つらいことやうまくいかないことの方が多かったような気がしますが,教師として身に付けたものも多かったように思います。これまでの,自分の取組を振り返りながら,この急激に変化する教育界を自分の目で整理してみたいと思います。
 私は,今教頭職に就いていますが,教頭という仕事も雑用に追われて,なかなか本業に力が注げないでいるところです。学校教育法第28条には,「小学校には、校長、教頭、教諭、養護教諭及び事務職員を置かなければならない。ただし、特別の事情のあるときは、教頭又は事務職員を置かないことができる。」とあります。そして,その第4項に「教頭は、校長を助け、校務を整理し、及び必要に応じ児童の教育をつかさどる。」と書いてあります。
 私がいろいろな場でよく指導されるのは,「教頭の仕事に雑用はない。すべて大事な仕事だ」ということですが,本当に雑用はないのでしょうか。辞書によると【雑用】とは,「種々のこまごまとした用事」だそうです。電話の応対,調査書類の提出,諸文書の整理と提出,保護者や来校者への応対,校内の設備の点検修理,etc。「種々のこまごまとした用事」はあきれるほどたくさんあります。これらを分刻みでこなしていくことから教頭の仕事は始まります。こうした「雑用」で,一日が終わることもあります。「校務を整理」が,雑用になってしまっては「私の学校での存在意義」までなくなってしまいます。
 私は,「校務を整理」とは,きちんと学校の運営に関わり,職員が児童の教育の成果をあげるために全力を尽くせる環境を整えたり,さまざまな諸問題を職員とともに解決していくことだと思っています。ですから,上記の「雑用」は,とっととすませて,どうやったらより効果的な学校運営ができるかをいつも考えるようにしています。
 私の中で,今一番気になっているのは,職員の指導と保護者との協力です。こんな厳しい中,学校の先生になろうとしている若者や,先生として仕事を始めた若い先生方をつぶれないように何とか子どもたちと葛藤しながら成長していける自信を持たせたいと思うのです。そして,保護者と協力して一人一人の子どもを豊かに育てられる学校にしたいということです。