年金2.5%減額法案について

昨年(平成24年)11月に政局のドサクサに紛れて年金の2.5%を減額する国民年金法等の改正案が成立してしまいました。この年金の引き下げ自体問題のあることと思いますが、それよりも問題に感じたのは政府の説明、社会保障審議会年金部会での議論のありさま、経済評論家と称する人たちの発言、そして特に新聞やテレビのニュース解説等マスコミの報道のあり方でした。全体として誰かに巧みに操られている印象であり、このような状態で今後のわが国の社会保障制度改革が適切に行われるのかについて絶望的な思いに駆られています。
以下事実経過を検証し、何が問題なのかを指摘します。その後問題の背景ついて私の推測を述べます。
長文になると思いますが、この問題については前述の経済評論家やマスコミのせいで、ブログや掲示板に間違いが溢れていますので、是非読んで正確な事実を把握して頂きたいと思います。なお私の認識や知識に誤りがある場合は是非ご意見にて指摘ください。

  1. 事実経過
  2. 何が問題か
  3. 背景にあるもの
  4. 今後について
  5. 終わりに

なお、本稿では2.5%減額法案の背景と問題点を取り上げています。平成25年度以降の年金額がどうなるかについて知りたい方は「 インフレにより年金額はどうなるか」をご覧ください。

1.事実経過

平成16年度まで

平成16年度の法改正までは、公的年金については5年毎の財政再計算時に見直しが行われ、他の年度についての年金支給額は前年の物価変動率により自動的にスライドするというものでした。財政再計算は平成11年度に行われました。平成11年、12年、13年は物価変動率の合計がマイナス1.7%であり、物価スライド制に忠実に従うと平成12年度、13年度、平成14年度の年金支給額も合計1.7%引き下げられるはずですが、特例法により据え置かれます。

これについて今では「人気取りのため」とか「圧力により」とかひどい言われ様ですが、そうでもないように思います。実は平成7年も0.1%ほどマイナスになりその時も特例法で据え置きが行われています。もともと物価スライド制は物価が上がることを想定したものであって、下がった場合は年金には反映させないという雰囲気があったのではないかと想像します。平成13年12月18日の坂口厚労大臣の記者会見での記者とのやり取りです。

(記者) 今の物価スライドですけれど、物価が下がる場合にスライドをさせなくてもいいんじゃない かという議論についてはいかがお考えですか。
(大臣) 現実問題としてはそうなっているわけ、そうなっているといいますか、3年連続してそういう ふうにしてきたわけですが、それじゃあそういうふうにして法律で決めてしまってはどうだとい う議論は当然3年も続けるのならば、やったらどうだという意見は当然私も出てくるだろうと いうふうに思うわけです。しかしそこは、(・・省略・・)もう少しやはり議論が必要だと思って おります。

どうして据え置いたかは本論のテーマではないのでこれで止めておきます。気に留めておくべきは平成13年度、14年度の特例法には附則がつけられたことです。例えば平成14年度の附則は次の通りです。

第二条 政府は、平成十四年以降において初めて行われる国民年金法による財政再計算(同法 第八十七条第三項に規定する再計算をいう。)が行われるまでの間に、本則の表の上欄に掲 げる額に係る同表の下欄に掲げる規定による額の改定の措置を、平成十四年度においてこの 法律に基づき行わなかったことにより、財政に与える影響を考慮して、当該額の見直しその 他の措置及び当該規定の見直しについて検討を行い、その結果に基づいて所要の措置を講ず るものとする。

きっとこれらの附則がなければ1.7%の据え置き分は平成7年の据え置き分同様定着してしまい、その後問題にされることはなかったのではないでしょうか。どういう経緯で入れられたのかは非常に興味があるところですが分かりません。  さて物価は下がり続けます。平成14年はマイナス0.9%となり、とうとうこの分は平成15年度の年金に反映されることになりました。平成14年12月18日の坂口厚労大臣の記者会見の一部です。

・・・・しかしながら、年金 額を据え置いた過去3か年と異なりまして、平成14年は現役世代の賃金の低下傾向が明 らかになっておりますことから、高齢者の生活の安定に配慮をしつつ、世代間の扶養の仕組 みの下で保険料を負担する現役世代との均衡を考慮する必要があると考えております。こ うしたことから、平成15年度の物価スライドの取扱いにつきましては、私の方から、現在の 社会経済情勢等を見て、物価スライドを行うこととされている厚生年金につきましては、特例 として平成15年度は平成14年度の物価の下落分、マイナス0.9から1.0%による改定を 行うこと、15年度の特例措置を講ずることによる財政影響を考慮をして、次期財政再計算 において、後世代に負担を先送りしないための方策を検討すること、この2点を提案をいた しまして・・・・

平成15年の物価変動率マイナス0.3%も年金額に反映されました。

平成16年の年金大改正

さて財政再計算の年平成16年はご承知のように年金法の大改正が行われる事になります。例の「100年安心年金」です。この改正の内容には今回の減額問題に関しマスコミ等でほとんど取り上げられない非常に重要な点が2つあります。一つは物価スライド制が廃止になり年金額は「改定率」により改定されることになりました。これがこの後にどのように影響するかは後で書きます。

第2は特例法附則で釘をさされた据え置き分合計1.7%の処置です。これについては年金額が1.7%引き下げられました。このことを説明する前に、年金における経過措置という事について書かせてください。

年金で最も大事なものは「信頼性」だと思います。約束された年金額は必ず支払われること。あるいは納付した金額に見合う給付が必ず行われること、の保証です。これがなければ誰も年金を当てにせず、また保険料の納付を避けようとするようになり、年金制度がなりたちません。にもかかわらず過去には何度か、年金額の引き下げ等条件を悪くする改定が行われました。その際「信頼性」をどのように担保したかというと、必ず加入者や受給者が受容可能な経過措置を設けたのです。年金引き下げの例として平成12年改正の5%適正化があります。このとき厚生年金の報酬比例部分が一律5%引き下げられました。これに対しては改正前の算定式に物価変動を反映した乗率(従前額改定率)を乗じた額が上回る場合、そちらの額を支給することになっています(従前額保障)。

平成16年改正の1.7%引き下げに対しても経過措置が設けられました。これが物価スライド特例措置です。物価スライド特例措置は次のようなものです。物価指数が現在の給付水準を決めている物価指数を上回った場合は給付額を引き上げず据え置きとする。下回った場合は給付額に反映させる。本来水準と特例水準の高い方を採用することにする。こうすると特例水準の年金の額は下がることはあっても上がることはありません。一方改定率は物価と賃金が上がれば1より大きくなり、改正後の本来水準による年金額は上昇します。そのうち本来水準が物価スライド特例水準に追いつくであろうから、自然と本来水準に置き換わる。そう見込んだわけです。  ここで「平成16年財政再計算結果」(厚生労働省)から引用します。

改正前の制度においても、消費者物価指数が低下した場合は、それに応じて翌 年度の年金額を引き下げることが原則であったが、平成12、13、14 年度の3 年間 は、消費者物価指数が低下したにも関わらず、年金額を引き下げずに据え置く特 例措置が設けられた。この結果、今回の改正時の年金水準は、特例措置が行われ た3 年間の物価水準の低下分に相当する1.7%だけ本来よりも高い水準に据え置 かれたままとなっている。
今回の改正法においては、このかさ上げ分の解消が組み込まれており、賃金や 物価が上昇した場合に、年金水準を引き上げないことにより、解消することとし た。また、物価スライド特例の解消は、マクロ経済スライドの適用に先行して行 うこととされている。すなわち、物価スライドの特例が解消されるまでの間は、 マクロ経済スライドは発動されない。

マクロ経済スライドという言葉が出てきますがこれは後ほど説明します。

実際に行われたことはその前に説明している通り法律の改正により年金額が1.7%減額になり(国民年金法第27条等)、それに対する経過措置が設けられた(国民年金法平成16年附則7条等)ということです。しかしながらこの厚労省の文書では年金額の減額ではなく”かさ上げ分の解消”と表現されてます。この段階では単なる見方だけの違いなのですが、この後厚労省はいつまでもこの説明のしかたに固執し続け、「貰い過ぎ」論が出てくる布石となります。また特例が過去の特例措置と改正法による経過措置のどちらをさすのか曖昧に使われているとも見えます。このダブルミーニングも混乱を招きます。

平成17年度以降の年金額推移

平成17年度以降の本来水準、物価スライド特例水準については以下の厚生労働省の報道発表資料が分かりやすいです。
・年金額改定の仕組み(厚労省)
平成18年と平成20年に物価が上昇し、このため平成21年度に本来水準と特例水準の差が0.8%まで縮まりましたが、その後物価は下がり続け平成24年度では2.5%に拡大しています。

しかし何故1.7%だった差が2.5%まで拡大したのでしょうか。先ほどの「年金額の推移」をじっくり見てください。このグラフの物価変動は各年度の前年の値を示します。平成16年から平成23年まで物価の変動は差し引きマイナス1%です。これに対応し物価スライド特例水準は平成17年度から平成24年度まで1%下がっています。つまり物価の低下を忠実に反映しています。ところが本来水準の方は1.8%下がっています。すなわち物価の下落分以上に下がっているのです。これは本来水準が物価変動率ではなく前述の通り「改定率」によって決められていることによります。改定率そのものについてはやや複雑なので説明しません。興味のある方は国民年金法の第27条の2、第27条の3を参照してください。ここではグラフについてのみ説明します。

平成18年度に物価が0.3%上がっています。しかしながら改定率の決め方に従い改定率の改定率は1(据置き)となりました。また平成20年度には物価は1.4%上がっていますが平成21年度で本来水準は0.9%しか上がっていません。これは改定率の決め方のルールに従い改定率の改定率として名目手取り賃金変動率を採用したからです。名目手取り賃金変動率も分かりにくいものですが、大雑把にいうと、過去の物価変動と賃金変動の関係の傾向に従い物価変動率から賃金変動率を予想し、さらに厚生年金の保険料率の増加による手取り賃金の減少を考慮したものです。平成20年以降は物価が下がり続けますが、ここではルールに従い改定率の改定率として物価変動率を採用しています。つまり物価上昇局面では物価変動率ほど改定率を上げず、物価の下降局面では物価変動率を採用するということをしたため物価変動率よりもさらに0.8%マイナスになったのです。

年金法の改正

平成23年11月23日の提言型事業仕分けで厚生労働省が特例水準が解消されていないため平成21年度まで5.1兆の払いすぎが生じているという資料を提出し、それに従い行政刷新会議が特例水準を解消すべきだという提言を出します。これに従い、早速厚生労働省は24年度から26年度までの3年間で特例水準を解消する国民年金法等の改正案を平成24年2月に提出します。可決は平成24年11月16日で、対象の3年間も平成25年度から平成27年度までの3年間に修正されています。改正の内容は平成25年度、平成26年度の特例水準の改定は本来水準の改定率マイナス1%を使用し、平成27年度からは特例水準を廃止するというものです。

2.何が問題か

政府の対応

今までの説明で分かるとおり、2.5%の減額は、一般に思われているように「過去に物価が下がっても引き下げなかった年金分を今引き下げる」というものではなく「年金引き下げに伴う経過措置を途中で打ち切り3年という短期で強制的に引き下げる」ものです。これは年金の信頼性を損なう禁じ手です。もし本当に財政的に必要な処置であるのなら政府は平成16年当時の見通しの甘さを素直に謝罪し、今引き下げなければならない急迫した理由を国民に丁寧に説明しお願いすべきなのです。ところが小宮山厚労大臣はテレビ各局に出演し、「年金を下げるべきときに下げなかったので現在貰い過ぎになっている。下げるのは当然である」と不適切な説明を連呼して回りました。

提言型事業仕分けというのも資料で見る限りひどいものです。厚労省の資料(論点別シート)で、長い資料の一部にトラップのように「特例水準により平成21年度までに5.1兆の乖離が生じている」という内容や、ほうっておけば差が拡大し続ける事を示唆するような内容があります。厚労省の(あるいは官僚の)決まり文句なのか各文末を「これをどのように考えるか。」という書き回しで結んでいます。資料全体が(厚労省のやりたい方向へ誘導するような内容を記述)+「これをどのように考えるか」という結び、という構成に見えます。5.1兆の中には平成16年以前の特例法により生じた差まで「特例水準」により生じた差であるかのように含めていたり、差が拡大したのは特例水準の決め方に問題があるかのように書いており、いかにも特例水準を廃止せよという結論を導き出そうとしているように見えてしまいます。先ほど説明したとおり特例水準の決定の仕方はきわめて自然、妥当であり、問題があるとすれば改定率の決め方の方なのです。

財政当局の資料の方はもっとひどいです。特例水準に「貰い過ぎ」という言葉を使用しているのです。前に説明した5%適正化に伴う従前額保障もデフレという全く同じ理由で解消されていないにも拘らず言及されていないことなど恣意的に誘導している疑いは免れません。昭和61年の改正で厚生年金の報酬比例部分は25%下げられましたが、これに伴う経過措置として昭和21年4月1日以前生まれの人は以降の人より有利な年金をもらっています。また寡婦の方や障害のある遺族年金の受給者等、経過措置として現行の年金制度よりも有利な年金を支給されている場合が他にもいろいろあります。経過措置を貰い過ぎと呼んで良いのならそれらがすべて「貰い過ぎ」ということになります。違います。年金である以上保障されなければならない権利であり、年金制度を成り立たせるため必須のことなのです。
 しかしながら仕分け評価者の方々は、それに向かって誘導していると伺われる結論どおり、提言の一番に「年金の特例水準を解消することを決めるべき」としました。これだけ見ても事業仕分けなるもののレベルが伺われます。

社会保障審議会

社会保障審議会年金部会ではどのような議論が行われたのでしょうか。この問題については平成23年9月29日の第3回会合にて取り上げられています。議事録を見るとまず厚生労働省の年金課長という人の説明が、わざとでしょうか、誤解を与えやすいものになっています。これについては 別項としますので興味のある方のみご覧ください。委員の発言を見る限りそれを指摘するどころかむしろ完全に引っ張られてしまっています。雰囲気を知るために特例水準の廃止についての言及を発言があった議員についてのみ以下にまとめます。

特例水準解消に対する反対意見はゼロです。最大の理由はマクロ経済スライドという議題の元で議論が行われているからと思われます。2.5%問題は委員にとっては付け足しに等しく、言及していない委員も多いのでも分かります。これは厚労省の策略の可能性があります。後から述べます。  とにかくこれらの議論が平成23年12月16日の第8回会合で、年金課長より次のようにまとめられています。

「議論の整理」としましては、特例水準については早急な解消に取り組むべきという意見が多数だったと理解してございます。

マスコミ

最大の問題はマスコミだと思います。テレビはニュースや報道番組等いろいろ見ました。ありとあらゆるものを見たわけではありませんので全部がそうと言いませんが、見た範囲では平成16年改正内容に触れず、また「過去に3年間引き下げなかったことがあり、そのための貰い過ぎ分を3年かけて引き下げる」としているものが全てでした。これを政府の見解として報道するだけでなく、ニュース解説としてしたり顔で伝えました。ある年金通で知られるキャスターなどは「さっさと下げれば良い」と吐き捨てるように言っておりました。一例として NHK解説委員室をご覧ください。

新聞については朝日新聞についてはずっと見ていますが、それ以外の新聞についてはチェックしていませんでしたのであわててオンライン版で調べました。一つの記事だけですので他の趣旨の記事が別の機会に発表されていた可能性は残ります。

記者の中にも年金減額をすべきと思っている方も居るでしょう。その場合も事実を正確に伝え、減額すべき理由をきちんと主張する姿勢が必要です。マスコミは政府の発表の恣意性や不適切性を全く指摘できず、チェック機能を果たせなかった。却って政府の方針をそのまま正当化する誤った知識を流布したと言えると思います。背景には「世代間の不公平」という感情的に訴えやすいスローガンのもとに作られた、高齢世代の年金減額が全て善であるような社会的雰囲気もあるとは思いますが、それと共に年金制度に対する知識不足がある気がしてなりません。  では経済評論家、経済ジャーナリストと言われている人たちはどうだったでしょうか。例を見ます。

荻原博子氏 朝日新聞デジタル 2012年11月21日

現在の年金は、物価が下がればそのぶん支給額 も減ることになっていますが、ここ数年、デフレが続 いても支給額を下げなかったために、実際には払 い過ぎになっていました。この払い過ぎを解消する 改正国民年金法が国会を通過し、来年10月から 2015年にかけて年金支給額が段階的に減ること になりました。

森永卓郎氏 日経BPネットSafety Japan 2012年1月17日

公的年金では、物価変動に対応するため、消費者物価に応じて給付水準を調整する「物価スライド」という仕組みが採られている。本来、物価が上昇したときに年金の価値が目減りするのを防ぐための仕組みだが、逆に物価が下がった時には年金が減額されることになっている。  しかし、高齢者の反発を恐れた政府は、デフレが続いたこの10年で、何度も年金水準の引き下げを見送ってきた。その結果、現在の年金給付は物価スライドを実施した場合の本来の水準より2.5%も割高になっている。これまで、物価スライドを完全実施しなかったことによる過剰給付の累計は7兆円にも及んでいる。

お二人ともテレビなどで、適切なコメントに感心し、また窺われるお人柄にも親しんできた方たちなので悲しくなります。ご意見以前に、「ここ数年」あるいは「この10年」下げるべきときに下げていない等と事実の認識が間違っています。一見政策批判をしているようで、実は年金額を引き下げるという政府方針の正当性の主張をサポートする結果になっています

問題点まとめ

この項長くなりましたので、前項の内容も合わせてまとめておきます。


一般に間違って理解されている点。

問題と思われる点

平成16年改正時に物価据置き分1.7%年金の引き下げが行われた。物価スライド特例水準はその際に急激な減額を緩和するため緩やかに引き下げが行われるように定められた経過措置である。政府の人気取りのために存在しているものではない。平成16年以降、厳格に法律(国民年金法平成16年法附則第7条等) に従って支給されている。それを過払いとか貰い過ぎというのは不適当である。

政府はそれを説明せず誤った説明を行い、マスコミもそれをチェックするどころか政府の説明を垂れ流した。その結果現在の年金は貰い過ぎであり下げるのは当然という誤った知識が蔓延した。もし物価スライド特例水準という制度が誤りだったとしたら、平成16年当時見通しを誤った当時の政府と年金官僚、及び改正法を可決した国会が悪いことになる。

3.背景にあるもの

経過を検証すると、その背後に現行水準を本来水準まで引き下げたいという年金官僚の意図を感じずには居れません。しかしこれは年金ではやってはいけない暴挙であることは当の年金官僚が一番良く分かっていたものと思います。「年金を物価に従い引き下げなかった為の貰い過ぎ分を引き下げる」という説明が浸透し、決して「経過措置を途中で打ち切り強制的に引き下げる」という本質に話が向かわなかったのは、彼らの説明のしかたによるところが大きいと思います。「財政的理由による経過措置の途中打ち切り」ということを正当化すると当然5%適正化の従前額保障等他の経過措置にも影響が及びます。現在の傾向は「世代間の公平」のために高齢世代の年金の下げられるものはすべて下げろというところにあるようなので、他の経過措置の打ち切りもすぐ要求、実現されかねません。しかしながら考えてみてください。そのようなことが簡単に行われるのであれば、ひるがえって現役世代が将来もらう年金も全くあてにならないものであるということになります。その結果年金制度の崩壊につながることは官僚の恐れるところに違いありません。

特例水準により5.1兆(23、24年度も入れると7兆)の払いすぎになっているというのはいつからアピールし出したのかは分かりませんが、見つけたものの中で早いのは年金部会第3回の資料です。この16ページをご覧ください。”特例水準による貰い過ぎ”に類した言い方はしていません。要約すると次のような論理展開です。

マクロ経済スライドと調整期間についてはすぐ後に説明します。特例水準が続くことそのものが問題だとは全く言っておらず、マクロ経済スライドが発動していないことが問題だと言っていることに注意してください。(1)(2)と(3)は実は論理的に全くつながっていないのです。5.1兆は特例水準が解消されないことによる影響の見積もりであり、マクロ経済スライドが発動していないことによる影響ではありません。(3)のデータはここで出す必然性の無い無関係なデータです。そればかりでなく、特例水準は法律に従って正当な額として給付されているものですから、この値は、例えば「10年前にxx%年金を引き下げていたら現在xx兆円財政が好転している」というような言い方の場合とほとんど変わらないたいした意味が無い数値です。しかも前述のように特例水準設定以前の平成15年度以前の数値も含めた恣意的に多く見せようとした数値です。全く同じ内容の資料が提案型事業仕分けの厚労省資料に出てきます。

何故このようなデータの出し方をしたのか分かりません。しかし結果として「物価スライド特例は問題があり、そのために5.1兆の損が生じている」という誤まった受け取り方が広がったように見えます。策略だったとしたらうまく行ったわけです。

社会保障審議会年金部会等では”マクロ経済スライドの発動を阻むもの”という取り上げ方をして停止に賛同を得ます。それを追い風としてか今度は事業仕分けに持ち出します。議員等の評価者達は5.1兆の貰い過ぎというキャッチーなほのめかしの方に目を奪われ、物価スライド特例水準は事業仕分けで悪と断ぜられます。そして、経過措置の途中打ち切りという本質は語られること無く、マクロ経済スライドさえどこかに行ってしまい、物価スライドを停止したための7兆の貰い過ぎという誤った(かつ感情に訴えやすく、説明しやすい)情報のみ、厚労大臣やマスコミによりひとり歩きし出します。事業仕分けをうまく利用したと言って良いように思えます。背後でさらに根回しや働きかけがあったかどうかまでは知ることができません。

私の想像通りだとすると、何故官僚は、策を弄してまで、年金制度に悪影響が及びかねない危険のある物価スライド特例措置の打ち切りを行いたかったのでしょうか。厚労省は打ち切るべきという方向に誘導するために、2つの誘因を示し続けてきました。一つは5.1兆(あるいは7兆)の貰い過ぎというほのめかし。もう一つはそれがためにマクロ経済スライドが発動しないという事実の提示です。実は後者が本音であると私は半ば確信しています。

 マクロ経済スライド(国民年金法第27条の4、27条の5等)は平成16年改正法「100年安心年金」の目玉でした。前述の通り現在の法律では「改定率」により毎年の年金額が改定されますが、財政の均衡を保つために必要と政府が定めた期間(調整期間)の間は改定率にさらに「調整率」が乗じられます。調整率は公的年金の被保険者数の減少と平均余命の延びから計算した係数で1より小さい数です。物価、賃金の上昇に対し年金支払い額の上昇を低く抑えやがて現役世代の賃金に対し50%程度まで低下させようというものです。しかしながら法律(国民年金法平成16年附則第12条等)により、物価スライド特例水準が本来水準を上回る場合は適用しないとされています。つまり本来水準が物価スライド特例水準に追いつくまでは適用されないのです。このため調整期間は平成17年度に開始しているにもかかわらず未だ発動していません。
いつまでも目玉政策であるマクロ経済スライドが発動せず年金財政改善の見通しが立たない状況に、年金官僚があせっていたであろうことは容易に想像できます。しかしながらマクロ経済スライドといっても一般にはアピールしないと考え、さらに「貰い過ぎ」をほのめかしたとは考えられることです。

しかしながら、マクロ経済スライドの阻害要因という認識の方も正しいのでしょうか。マクロ経済スライドのためには、本来水準が物価スライド特例水準に追いつかなければ発動しないというルールを変えればすむことです。すなわち本来水準を廃止し現在の特例水準を本来水準にし、改定率の使用、調整率の発動をすればよい。マクロ経済スライドの発動のために、正当な権利である経過措置を強制打ち切りにするというのはどう考えても本末転倒です。それなのに何故あえて無理な手段をとったのか。こちらについては想像をたくましくするしかありません。

一つ考えられるのは現行レベルを下げたいという強い思いがあったのではないかということです。平成13年、平成14年、平成15年の特例法に附則が附された背景は分かりませんが、あるいは自分たちが考えたシステムを政治主導により止められたという事に対する年金官僚の反発だったかも分かりません。第1節で引用した「平成16年財政再計算結果」に見られるこだわりについては説明済みです。改正法以降は物価スライド特例水準も改定率による本来水準も従来とは異なった改定がなされており、両者の差は”かさ上げ分”という意味を失ってしまっていますが、彼らの意識の中には、据え置かれたため生じた”かさ上げ分”であり解消すべきであるという強いこだわりがあったのではないかということです。民間の人間にはこういう偏執は理解しがたいものですが、官僚という人たちのメンタリティにはあるのではないかという気もするのです。あるいは平成16年改正で導入した本来水準の廃止が自分たちの間違いを認めることになりやりたくなかったか。根拠の無い想像はこの辺でやめておきます。

4.今後について

どうすれば良かったのかを考えると、そもそも平成16年改正時に1.7%の引き下げを行わなければ良かったのだと思います。物価スライド特例水準という経過措置が不要になりその後の展開がずっとすっきりしたものになりました。現状に至った後では前述の通り特例水準ではなく本来水準のほうを廃止すべきであったと思っています。しかしながら法律は改正されてしまいました。今後実際に物価の下落以上に年金が下がっていくことになります。それによる年金生活者の悲鳴や「改定率」という奇妙なシステムが政治やマスコミのまな板の上に載ることになるのでしょう。また、マクロ経済スライドがデフレ下は働かないという次の問題も顕在化することになります。

それにしても政府、議員、審議会、そしてマスコミがやすやすと誤った情報、あるいは理解に乗ってしまい、世の中がその方向に動いてしまった経過には慄然とします。もちろん私としても年金の改革の必要性を否定するわけではありません。しかしそれは正しい情報に基づき正しく設計されたものでなければなりません。また他の社会保障施策や税と総合的に考えられたものでなければならず、実施に当たっては激変緩和措置も必要です。今回のように、下げられるものはどんどん下げろとばかりの、なし崩し的な年金減額で実現されるべきものではありません。

5.終わりに

以上今回の年金減額の問題点を明らかにしたつもりです。今回の経緯を見ると政治家たちが金科玉条のように言及する社会保障国民会議(社会保障制度改革国民会議)なるものにも不信感を抱かざるを得ません。本当に有効なものになるためには、厚労省の官僚が議事次第を主導するようなものであってはならず、委員も常に年金制度について調査・研究している人以外については、複雑な年金制度や厚労省側の出してくる巧妙な資料を調査・研究するに十分な時間を有している人に限るべきでしょう。他に忙しい業務に就いていて、官僚の作成資料のみに基づいて印象を述べるだけというような委員は公害以外の何ものものでもありません。

初稿2013/1/2
修正2013/2/13
●社会保障国民会議のリンク先修正
修正2013/3/16
●一部不正確な記述を修正:(誤)改定率→(正)改定率の改定率
改訂2013/5/23
●「インフレにより年金額はどうなるか」へのリンク追加