ネパール日記Ⅱ

2006.1.17(40日目)

「ガーサ→タトパニ(1189m)」

今日はよく寝た。電気のない生活では9時間ぐらい寝なければいけない。一ヶ月以上旅行しているというのに、海外いる夢を未だにみていない。いつも設定は日本。どんなに壮大な景色の中での慎ましい生活に興味を感じても結局は知ってしまったら離れられない便利さと、清潔さが備わる日本の夢ばかりだ。
今日で1000mちかくまで降りてしまう。ムキナをすぎてからと言うものたくさんのトレッカーに会う。長旅の疲れもだいぶ出てきており、途中の休憩場所では彼らと話したりしながら、普段より長めに休憩を取っている。ある休憩場所では途中で追い抜かされたネパール人の学校の先生がお酒をおごってくれた。油で炒めたお米が浮いたこのお酒の名前はジャインホッテと言うらしく、最高においしく道中にもかかわらずたくさん飲んだ。ほろ酔い加減で、たくさんのネパール人と友達になり、陽気な気分で山を下る。
やはり今日も武装した軍隊のチェックポイントが多い。村を守ため、土嚢から突き出た機関銃、双眼鏡で監視する兵士。これはやはり怖い。

(ジャインホッテを勧められる)

 

(ひどい道だ)

 2006.1.18(41日目)

「タトパニで休息日」

今日は温泉のある村タトパニでゆっくり休憩することにした。朝ご飯を食べ、ガネッシュを一日ガイドから解放してやる。親切のつもりで言ったのだが、どうしてそんなに一人になりたいのか?俺に問題があるのか?などと、なかなか一人にさせてくれない。午後からは、見つけられないよう逃げて村人たちの写真を撮りに行った。仕事熱心なのはいいのだが一人でゆっくりしたい時間もあるのだよ・・
今日温泉に行くとフランス人と韓国人も入っていた。湯の温度は相当高い。唯一風呂の文化のある日本人としては、彼らより早くギブアップはできないと粘っていたが、一番最初に足湯に切り替えたのは私だった。情けない
夕方バルコニーで飯を食っていると、下をロバの長い行列が通っていった。いつもの風景なのだが、一頭が急に止まり私の方を向いて口をモグモグさせている。一瞬ドキッとした 「どうしてお前だけ、そんなに優雅に遊んでいられるんだ?」と言われたような気がしたからだ。怠け者は死んだらロバに生まれ変わるなんてことを聞いたことがある。ここでは荷物運びのために飼われ、悲しげな目で地面や、前をゆく仲間の尻を見つめ歩き続ける・・・そんなことを考えていると、後ろから来た男に、思いっきり石を投げられている。我に返ったような顔をして走り出す。・・・・・・絶対にいやだロバにはなりたくない!
晴天に映えるヒマラヤをみながら、ホテルのハウスアプリコットブランデーを飲み、哲学者になってみたり、詩人になってみたりと今日は本当にいい休憩になった。

 

2006.1.19(42日目)

「いざ、プンニヒルを目指す」

昨日の夜、今後の予定をどうするかガネッシュと相談した。今回のアンナプルナサーキットコースを廻るためにガネッシュを25日間雇っている。しかし、このまま行くと15日で廻りきってしまう計算になるからだ。一時間以上話し合った結果、明日もう一度標高2800mまで上る遠回りコースに切り替えることになった。そして下山した後、ガネッシュの実家にホームスティすることになった。
今日の道のりはタトパニからゴレパニで、1200mから2800mまで上がる。はっきり言ってもう下るだけだと思っていたのに、1日で1000mも登る道だ。精神的、肉体的に参る。
登るにつれてマウントドラギリ、やサウスアンナプルナの堂々とした姿が見えてきた。人を寄せ付けない8000m級の山々が連なるのが見えてきた。わざわざ遠回りをして帰る理由はここにある。明日の朝もう少しあがって丘(プンニヒル)の上からすばらしい景色が見えるのだとか。たのしみだ
プンニヒルだけ目指してくる観光客は日本人を含めて多いと聞いていた。しかしどうだろうホテルは一軒をのぞいてすべて閉まっていて、客も少ないようだ。どうやらマオイストの活動が酷くなってきたことで観光客は激変しているそうだ。 今日もたくさんのネパール人の輪の中に入って暖をとっていたのだが、ここに集まる人もほぼマオイストを支持しているそうだ。後で知ったのだがゴレパニはマオイストの集金の拠点にもなっていてプンニヒルへの道で金を取られるのは当たり前だという。

一つ嬉しいことがある。トロンパスして来たと言うと、結構みんな驚いてくれる。特にガイド業をしている人に言わせると日本人のほとんどが4300m付近で高山病にかかり降りてきてしまうのだとか。眉唾だとは思うが、これまでにいろんな人に言われて、少しうれしくなった。

 

 

2006.1.20(43日目)

プンニヒル

起床は5:00。ほかの宿泊客と共にプンニヒルを目指す。ヒマラヤを望むポイントの中でも指折りの場所だけあり、サウスアンナプルナ、アンナプルナⅠを中心にドラギリやマチャプレが一望できる。まだ暗いうちに到着しご来光を拝む。 自分が今回の旅で回ってきたアンナプルナの存在感をものすごく感じた。確かに登ってきた印である足にできた無数の豆、筋肉痛。これらのおかげで、頂上でも感じなかったぐらい胸がジーンとした。
帰り道は段々畑の間を縫って急斜面を下っていく道だ。下りには慣れていない膝が悲鳴を上げる。学校の少ないこのあたりでは毎朝片道2~3時間この坂道を通っているのだという。頭が下がるばかりだが、私は二度とこんな道は歩きたくない。
そして7時間歩き続けた結果、今回のアンナプルナトレッキングの終着点になるナイヤプールの村に着く。やっと車の通る道が見える。TATAと言うインド製のオンボロの車だが、何か文明に帰ってきた安堵感に包まれた。
せっかく文明が近づいてきた実感を得ていたのだが、今日はずっと電気が使えなかった。普段も電力不足のため決まった時間にしか電気は使えないのだが、今日はどうやらマオイストが何か起こしたそうで、ずっと使えなかった。 

 

2006.1.21(44日目)

「ナイヤプール→アルバス」

早朝まだ暗い内からバスに乗るため出発する。そして道路でガネッシュが呼び止めたのはTATA製のオンボロトラックだった。いわれるままに飛び乗ってしまうが、サスペンションは効かないし、爆音のクラクションを鳴らし続け爆走する。途中乗り込んできたネパール人も含め5人で助手席に詰め込まれた。 どうやらトラックをバス代わりにするスタイルはネパールで普通なようだ。ガネッシュの村までの5時間何人ものネパール人が入れ替わり立ち替わり乗ってきた。ほかの正規のバスが止められて荷物の点検を受ける場面でも商業用の別口からすんなりと通ってしまう。驚くほど運賃が安いし、これは意外な裏技なのかもしれない。バスの中ではこの後10日間どうなるのかすごく心配になった。山奥の農村、その中でたった一人の外国人になるわけだ。どう扱われるのだろうか?。
ガネッシュの村は山の頂上に位置し、車道からは2時間歩いていかなければならないらしい。思っていたよりも急な山で、1500mまで一気に斜面が続く道にやられてしまった。朝食に食べたチベタンブレットのせいでお腹の調子も斜めだ。
村に着くと、想像以上に貧しい村だ。茅葺きの家が建ち並び、どの家にも家畜がたくさんいる。電気、水道、その他当たり前だと思っているものがほとんど無い。
今日は私の誕生日だとガネッシュにいうと、好きな鶏を選べ、それでパーティーをしようと言っている。何軒かの家を巡り生きの良さそうなのを一匹選ぶと、目の前で首をちょん切り、さばいてくれた。いろりを囲み、さっき殺した鶏の肉が入ったダルバートを食べる。もちろん箸もスプーンもない、手で食べる。原始時代の体験ツアーにでも参加しているのではないだろうかと思った。
夜になり寝床を用意してくれるという。一体今日はどんなところに泊まらせてくれるのか自虐的な好奇心が芽生えていたが、期待通りすごいところに寝かされることになった。家畜小屋の二階に簡易ベッドが作ってある。水牛が3頭、山羊が8頭、ウサギ、鶏もたくさん居るようだ「今日から10日間よろしく」

(トラックをヒッチハイク)

(今日のパーティーを彩る鶏・・・)

2006.1.22(45日目)

「アルバス3日目」

何かゴリゴリ音がする。寝袋の中でいったい今俺はどこにいるのだろうかと考えを巡らす。音はベットのすぐそばで聞こえるようだ。実は夜中、下にいる水牛が変な鳴き声で暴れていて、小屋全体が揺れていた。そこで、寝袋のファスナーを上まであげ完全ミノムシ状態で寝ていたのだ。それにしても、規則正しいゴリゴリという音、次は何だって言うんだ。  ファスナーを開けた途端目を疑った。なんと老婆が隣で石臼で豆をひいているではないか。私の25歳初めての朝はとてつもない場所で始まった。ネパールでは基本的に2食しか食べない。10時頃の昼ご飯の準備を始めたらしい。私は全くネパール言語を覚えてないし、ガネッシュ家族は自国語を紙に書くことすらもできない。英語もわかるわけが無く、驚きを伝えられなく辛かった。
自家製ヨーグルトを飲み、いざ村を一人で探検しにいった。今日は「服を作る人たちが住む集落」と「革製品を作る集落」に行ってきた。村には、カースト制度で分けられた身分集団がまとまって集落を作っている。どうやらそこに生まれると職業も決まってしまうと言うことなのだろう。
珍しがってついてくる子供たちを引き連れていろんな家におじゃました。私一人の時は子供を引き連れていた方が、大人の警戒心も低下させてなかなかいい。今日の思い出は、機織りりをしていたお母さんの写真を撮っていたら、仕事の後家に招いてくれて、白い粘土状のものをこね始めた。そこに水を加えロキシーだと言う。謎の漬け物も出てきて、優しさのあまりお腹のことを考えず言われるまま飲み食いする。どうやら噂を聞きつけたらしい村人たちが周囲を囲んで笑っている。旅はこうでなくっちゃ!
探索している最中、人だかりが見えた。真ん中では男の子二人がとっくみあいの喧嘩をしている。引っ掻き、殴り、投げ飛ばし合う姿を上級生たち、近くの大人たちは温かく見守る。片方が泣いたところで、やっと大人が止めに入る。なんてフェアな喧嘩だろう、もう日本ではみることのできない風景だ。

1(与えられた寝室)

 

2(喧嘩を見守る上級生)

2006.1.23(46日目)

「アルバス4日目」

昨日、夕食の時間が終わりみんなが床に向かおうと準備していると、ものすごい形相で年寄りが家に走ってきた。なんと娘さんの出産が始まったようで、村の女手を借りに回っているそうだ。そして今日の朝は、初めて牛の出産を見させてもらった。私が到着した日に生まれたばかりだった山羊の子供はもう遊び回っている。逆もまた日常茶飯事である。食べるために動物を殺す。ここでは、そうやって生命の営みがもろに感じられるのだ。
今日は、一人の老人の様子が気になりずっとチェックしていた。どうやらガネッシュの話では彼はバラモン階層に属する人だという。朝、石垣で瞑想をしているところを発見。すると同じ高階級の人たちが集まってきて雑談が始まる。この雑談、何をすることもなく2時間を費やす。私は昼飯を食べに一度家に戻り、再び彼の元に行くと、みんなでトランプをしていた。かなりの額が賭けられているようだ。これが1:30だ。終わる気配が無く4:00まで他に写真を撮りに行っていた。そして帰ってきてみるとまだトランプをやっている。ガネッシュを通訳にずっとやっていたのかと聞くと「日課だからね」との答えが。そして太陽が傾き6:00頃、牛にやる葉っぱを取りに近くの木によじ登る。これが今日唯一行った生産的な行為だった。

 

(バラモンの日課)

 

(奥さん登場。夫婦共に半端無い年輪が刻まれている)

2006.1.24(47日目)

「弱音」

今日は朝、ガネッシュに弱音を吐いてしまった。ここに来てからと言うもの食文化の違いで腹はずっと調子が悪いし、当たり前にあっていいはずの物がすべてない。電気がないから夕ご飯の後8時から朝の6時までは活動が全くゼロになる。自由に使える水がない。等々、いろいろな不満をぶちまけてしまった。今考えてみると、失礼極まりない話だ。しかし、こんな私を説得するように、ガネッシュすばらしい提案をしてくれた。明日、親戚のお兄さんが結婚式をするのだが、招待してやろうというのだ。これは願ってもない機会になる。よし、どれだけ我慢できるか試してやろうじゃないか。
意外にも不満を口から出したことで、すべて吹っ切れて悟りを開きそうになった。というのも、なにやら老人が自分のすっていたパイプを勧めてきたのだ。吸っていると、異国人が吸っていることに興味を持った人たちが集まってきた。そして少し視野を広げると牛、水牛、鶏、山羊、イノシシが目に入る。ゆっくりとした時間に包み込まれた、。こんなに贅沢な時間があっていい物だろうか・・・・
(この時点では知らなかったのだが、ネパールを去る少し前に日本人に聞いたところ、ガネッシュが「オピューム」と説明した黒い粒はアヘンだったのだ・・・・確かに普通じゃない甘さと、リラックス感だった。もしかすると気をやんでいる私のためにこのタイミングで体験させたのかもしれない。まあ、これも旅の一つの経験か。)
その後も、いろいろな家に招待されロキシーやつまみをいただく。今日特に印象的な思い出は、学校の近くで子供たちの写真を撮っていたところ、学校の先生が是非見せたい物があるというので、彼の家に行った時のことだ。そこにはなんとこの村で唯一のテレビがあった。馬鹿でかい箱の割に画面は小さい。横には車のバッテリーが二個、そこから屋根に向かって配線がしてあり、ソーラー発電機につながっている。電源を入れると白黒で、インドの番組が流れてきた。さすがは数学と理科の教師と言うだけある。

 

こんな和やかな状態で、誰が麻薬だと思うだろうか?
2006.1.25(48日目)

「ネパールの結婚式」

独特な角笛の音楽が我々結婚式行列総勢14人の出発を見送る。ネパール農村での結婚は遺伝的な意味で、同村内での結婚は認められていない。そして、日本と同じようにお見合い結婚、親同士の取り決めによる結婚もあるようだ。他にもヒンズー教で定められた多くの取り決めがある。カースト制度をまたいでの結婚は基本的に認められていないが、もし結婚したら高階級側の家は階層が一つ落とされるという。
今日の結婚式はまず、婿が嫁の村まで歩いて迎えに行くと言う設定から始まる。私も伝統にならいティカ(赤い粉と米粒を混ぜた物)をオデコにつけられ行列について行く。この時点で今日の旅がどれだけ歩くことになるのか見当がついてなかった。裸足で先頭を行く13歳の男の子、食料、お酒などを運ぶ女たちもサンダルで元気よく歩いている。隣村まで、ここから徒歩で5時間+バス1時間かかるなどとは夢にも思っていなかった。歩く道は当然彼らの生活の道なのだが、整備の行き届かない登山道のようで日本人の私には負担になった。私一人が登山靴を履いていて、裸足の子供たちに負けているようでは情けないので歯を食いしばってついて行った。
村に到着すると日本人が混じっていると聞いた村人たちが大勢集まってきた。どうやらこの村にある小中学校は日本人が建てたらしい、だから日本人に好意的なのだとか。この村に来た日本人第一号をねらっていたのに、日本人は結構なところまで支援の手をさしのべているのだな、と感心しするが、同時に残念でもあった。
いよいよお嫁さんの家に到着と思いきや、寸前で行列の何人かが傘を取り出している。いやな予感がした。ここでカメラを準備していれば良い絵がとれるだろうが、カメラに良くないことが起こる予感があったので仕舞っておいた。予想は的中、赤い粉と米が我々の行列に降り注ぐ。それにしてもお婿さんまで傘を差しているのにはいただけなかった。伝統はしっかり体で受け止めよう。
近所の人たちの人だかりに囲まれながら結婚の儀式が行われる。まず、我々が運んできた食料、動物が嫁の家に渡される。次に、新郎新婦とその兄弟たちが前に座り、彼らの額に真っ赤なティカを親戚が塗りつけていく。そしてお金を手渡す。日本の祝儀と変わらないようだ。これが終わると大宴会。目の前で山羊の断頭が行われ振る舞われる。ここでの料理はお世辞にもおいしい物ではなかった。大きな鍋で大量に作られたダルバートは見るも無惨なゲロにしか見えない。我慢して食べるが3口目で小石が入っていて噛んでしまう。出てきたチベタンブレットも明らかに古い油のにおいがする。一緒に歩いてきたネパール人もこれにはあまり手をつけていない。少しでも手をつけると、それ以上にまた盛られるのだ。日本の盃の風習によく似ている。 途中、吐き気を催して、みんなから離れたところに避難した。
もう、辺りは暗くなっている。今日泊まるのはガネッシュの親戚の家らしい。真っ暗な中をペンライト頼りに1時間ほど歩く。その家ではおいしいダルバートを食べさせてもらい、軒下に寝ることを許される。寝袋で満天の星空を見ながら長い一日を振り返った。

 

 

 

 

2006.1.26(49日目)

「結婚式帰り」

意外にもよい目覚めだった。どうして軒下なんかで寝られるようになったのだろうか、この旅で得られた能力である。
朝ご飯の後、ガネッシュは久々に集まった親戚で積もる話があったようで、私は自由にくつろいでいた。家の前のいすに座ってボーッとしていると、山羊や鶏が寄ってきてそばで遊び出す。自然と手が伸びて撫でてしまう。カメラをどこに向けても絵になる。こんな時間が人間には必要なんだなぁ。
正午を回り、ガネッシュの村アルバスに帰ることになる。しかし、どうも様子がおかしい。みんなが深刻な顔をして話し合いをしている。なんと、マオイストが大きな事件を起こしたおかげで、政府が全交通網をストップさせている最中なのだという。このストはいつまで続くか解らないので、山の中を縫って帰るしかないと言うことだ。1500mの山を2つ越え、3つめの山のてっぺんだ。かすんで見えるアルバースに本当に今日たどり着くのだろうか。途中で100戦錬磨のネパール人老人でさえ足を挫いてしまった。私以外は、途中のわき水を飲んでいるのだがガネッシュ曰く日本人が飲んだらほぼ間違いなく腹痛を起こすと言われ何も飲まずにひたすら歩いた。もうやけっぱちで歩くこと7時間、やっとでアルバースに到着。ここで最後の儀式が行われる。結界のような物を糸で作り、その中にヒヨコの生き血をこぼすのだ。目の前でかわいいヒヨコの頭がポチッと取られる風景は心痛んだ。

今から越えなければならない山を見て途方に暮れる結婚式帰り

嫁の家から送られた財産をみんなで運ぶ

苦しい道のりを共にし、だいぶとけ込んでいる様子

 

 

2006.1.27(50日目)

「アルバス最終日」

今日で田舎農村での生活1週間がたつ。朝、ガネッシュが今後の予定を少し急がせないとやばいことになると言ってきた。想像以上にマオイストが選挙に向けて大きな動きをしているようで、これから総選挙までの期間に交通機関がストップする確率は高いという。もし可能なら今日は交通網が動いているようなので、カトマンズに戻った方がいいとのことだった。昨日もたくさんの政府関係者が含まれる殺人事件があったという。その死体の輸送と、マオイストの動きを封じ込めるための交通網ストップだったらしい。
その他にもいろいろな事件の話をしてくれた。一ヶ月前に政府の輸送車行列が襲撃され大惨事があったり、ガネッシュのお婆さんの村はマオイストが大半を占めているらしいのだが、、軍で働いている若者が祭りのため実家に帰ってきたところ、見せしめに公開銃殺されたという。こうしてはいられない、すぐにもこの国から脱出したほうが良さそうだ。
昼ご飯を食べ、準備がすむと世話をしてくれた人たちに挨拶をし、そそくさと村を後にした。今はお別れを悲しむよりも、無事に帰れるのか心配なのだ。山を無事下りバスに乗り込む。昨日のストのおかげで今日は込んでいる。しかも事故をよく見かけるし、検問も厳重すぎてなかなか前に進まない。途中、新聞にも載っていた12人の警官が殺されたという警察署の無惨な爆破跡も見た。
カトマンズでのゲストハウスは、他の日本人と情報交換したかったため、日本人宿を探した。チェリーゲストハウスというのがそれに当てはまり泊まることに。くつろいだ後、ロビーで他の客と話す。実に23日ぶりに日本人との会話。 他の人も困り果てているようだ。交通網がいつストップするかわからない状態でカトマンズから離れることができないし、今日も夜間外出禁止令が敷かれているそうだ。
カジノに行くと言う人がいたのでついて行きカジノの豪華なビュフェスタイルのご馳走をタダ食いして今日は終了。バンドの生演奏もタダで見ながら昨日までの田舎生活が夢だったような気がした。

朝の食事風景。今日でこんな風景ともおさらば

 

 

2006.1.28(51日目)

「文明との再会」

朝、ベッドに寝ている幸せを感じた。久々に文明にふれた感触は何ともいえないものだった。どれだけ癒されようとも、のんびりした時間が流れていても、やはり私は文明がないと生きてはいけない体になってしまったのかもしれない。
ロビーに行くと日本人がNHKを見ながらくつろいでいる。そこで情報交換した後、買い物に出かけた。一日使って買い物ができるため、ほとんどの店を冷やかしビックリするほどやすくなってしまったら、買うことにした。
今日買ったのはチベットミュージックのCD2枚、ターコイズ、ヤクの皮でできた肩掛け鞄だ。鞄については、思わず気に入ってしまい1時間30分の交渉の末1000ルピーで買ってきた。後でガネッシュに妥当な値段を聞いてみると2000ルピーまで値切れば日本人としては好成績じゃないかな?と言っていたので健闘したようだ。制作の方法から苦労話まで聞かせてくれた老人には少し悪いような気もがした。
今日もカジノにタダ飯を食いに出かける。どうも王宮近くにいくつかあるようで、一番敷居の高いと言われるところに行ってきた。ビュフェスタイルの豪勢な食事とダンスショーで大満足。

 

 

2006.1.29(52日目)

「強引航空券予約」

今日は、朝9時からロイヤルネパールの本社に向かう。ガネッシュが日にちの予約を手伝ってくれることになったのだ。彼曰く、今満席だろうけど、俺が裏技を使って席を確保してやるとのことだ。しかし、いざロイヤルネパール社に到着すると、客の多くが怒っている。なんとメインサーバーがダウンしてリコンファームや予約ができないそうだ。それに対しのんびりしていて、無駄に態度のでかい社員たち。パソコンをのぞいてみると国際線を扱っている会社のパソコンだとは到底思えない旧型のパソコンを使っている。OSはWindows98、自分が命を預ける航空会社だけに笑えない。
2時間待ったところで、エンジニアが現れてサーバー復旧。ガネッシュが取り合ってくれて、明日の便でバンコクに飛べることになった。あまりにも急な話でビックリした。どうやら、後で聞いたところ「彼(私)の親戚に危篤の病人がいて、今すぐに帰国しなければいけない。」と言う説明を行ったらしい。さすがである。
カトマンドゥについてからはお腹の調子を整えるために和食を食べ続けている。どうやら、日本で修行してきた料理人などがいて、タメル地区にある和食料亭のクオリティーには驚かされた。午後からは買い物にいそしんだ。CDを視聴しまくり、計5枚も買ってしまった。

2006.1.30(53日目)

「ネパール→タイ」

ネパールでは、まだやりたいことがいっぱいある。見るべき大自然や刺激的な体験を破格で体験することもできる。日本語を話す奴に悪い人はなかった。もっと写真が撮りたい。しかしながら、今日の飛行機を逃すと選挙の真っ直中に滞在することになってしまう。主要な新聞を読んでみてもマオイストの鼻息の荒さはものすごく、今日話したホテルの従業員でさえ選挙の最中はカトマンズから逃れ自宅で待機するようだ。
朝5:40にホテル従業員がドアを叩いて叫んでいる。どうやら寝坊してしまったようだ。しかしなんと準備のいいことか昨日の夜の時点でホテルにタクシーを手配させていたのだ。予定時間に降りてこないので、おかしいと思った彼が起こしてくれたのだ。こういうときに限って、8:30発のフライトはロイヤルネパールにしてはめずらしく定刻に飛んだ。

 
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