ネパール日記1

2006.1.4(28日目)

「バンコク→カトマンズ」

ロイヤルネパールの飛行機で「世界に4番目に貧しい国」ネパールに向かう。週一便しかないこの航空会社は定刻に飛ばないことで有名だ。今日も例に漏れず13時搭乗から16時過ぎに離陸、ビジネスマンたちはプンプン。機内食のテレピアはおいしかったワイングラス二杯とブランデーまで頼み、気持ちのよいフライトだった。到着間際、ヒマラヤが夕日に染まるのが見えて、期待が膨らんできた。
しかし、いざ到着してみると国際線を扱う飛行場にしては案内の表記が少なすぎる。そして、押し寄せる客引きたちに圧倒される。その中で日本語を堪能に操る男が「地球の歩き方」に載っていたホテルの看板を持っていたのでついて行くことにする。この時、もう一人の男が一緒に車に乗り込んできた。当然同じホテルの人だと思っていたのだが関係のない男だった。そしてこのブッディーと名乗る男がネパールでのスケジュールを決める上で重要な人物となる。
カトマンズでも、インターネット喫茶はあるようだったので日本と連絡をとることにする。しかし128kb時代を思わせる通信速度でチャットもままならなかった。夜10時を過ぎたのでホテルに帰ろうと外に出ると、機関銃やショットガンで身を固めた人が街角に立っている、ただならぬ危険を感じた。

 

2006.1.5(29日目)

「トレッキング支度」

朝起きたのは8時。太陽が昇り息を吹き返した町は昨日の夜感じた危険をまったく感じさせず、立ち上る水蒸気、煙突の煙、清潔な感じのする人たちが行き交う気持ちのいい町になっていた。 そんな気分に浸っていると、昨日空港からついてきていた男が面会を求めてきた。この男、日本人さながら名刺を渡してくる。彼は旅行会社を経営しているらしい。今のネパールの国内の情勢をこと細やかに説明し、結局自分の会社のツアーに参加してくれというようなことを行っている。それでは、あまりにも面白くない。帰ってくれる気配がないので、1ヶ月の滞在予定があること、ヒマラヤに登るために来たことを伝える。山岳ガイドは探していると切り出すと、連れて来ると言い出す。ここからは呆れてしまうほどのスピードでスケジュールが立っていく。時間にして1時間ぐらいで、25日間のアンナプルナサーキットトレッキング(ガイド、飯、寝袋、防寒具レンタル、ホテル代込み)1000㌦のトラベラーズチェックにサインをしてしまった。
何人か面接してガイドを決めるつもりだったが、最初に紹介されたガネッシュ君は日本語が多少でき、同い年。妙に親近感あふれる男だったので即承諾する。
まずはアンナプルナについての大まかな情報と日程の確認を行う。その後。必要なものを揃えるためカトマンドゥの町に出る。登山靴を新調しレンタルの寝袋、ジャケットも仕入れる。また現在アンナプルナエリアは保護区域(ACA)に指定されており、保護区入域料(ACAP )の2000ルピーを支払う。
カトマンズの町にはさほど興味がなかったのだが、ぜひ見てほしいと言われ、ヒンドゥ教の寺院を見て回ること2時間。火葬場は実に印象的だった。その場で人が焼かれていく。カーストが違えば焼かれる場所も違うらしい。人間が焼ける甘いに香りが何ともいえない

2006.1.6(30日目

「カトマンズ→ベシサハール」

朝 7時バスに乗り込みスタート地点となるベシサハールという町に向かう。ガイドのガネッシュによるとHigh wayなんだそうだが、整備をしていない峠道だ。途中いくつもの検問があり軍隊に荷物を調べられる。そんなに警戒するほど治安が悪いのかとガネッシュに聞くと、彼は金がたまり次第インドに逃げ出したいほどだと言っていた。しかし、金をもらったからには命を懸けてあなたを守ってやると言っている。実に頼もしい奴だ。
聞いてはいたが、こちらの運転はものすごい。必要以上にホーンを鳴らし煽り、追い抜き追い抜かれ、センターライン真ん中を走りチキンレースをする。今日だけで事故現場を2件見た・・。
もう少しヒマラヤに近づいてくれと願うも、遥か彼方に白い山が見える場所でバスは終わり。実にここから300km近い距離を徒歩で行かなくてはならない。しかも5400mの標高まで登ることになる。どれだけのペースを保っていけるのか、高山病にならないだろうか、俺の腹はここの食事に耐えられるだろうか。心配事は増えるばかりである。
このあたりにはモンゴル民族が集落を作っており、日本人に似ている。しかも、現代日本人ではなく懐かしさ漂う昔の顔と言った方が良いのだろう。

2006.1.7(31日目)

「ベシサハール→バウンダーラ(1311m)」

朝8時に入山許可を受け、いざヒマラヤトレッキングの開始である。今日は新しい靴が足になじむのか、自分の体力でどれだけ通用するかテストするための一日である。昼の2時ごろまで歩いてバウンダーラという村までたどり着いた。どうやら、昨日もそうだったが私以外お客さんは村にいないようだ。冬季に加え、治安の面でみんな控えているのだとか。しかし、3日前に韓国人トレッカーがこの村に泊まっていったそうだ、できることなら追いつきたい。ホテルでは、私のために門の鍵を開けてくれて、私のためだけにご飯を用意してくれる、ガイドもずっと貸しきり状態。少し贅沢な気分になるのと同時に、村に外国人一人だけだという、とてつもない心細さもあった。
村を散策中に学校の先生に会った。ぜひ学校を見てくれというのでついていくことに。生徒数400人だと言うその学校はあまりにも小さすぎた。しかし幸いにも今日は土曜日で学校が休みだった。なぜ幸いかと言うと、子供たちがいたら、先生から寄付を頼まれたとき断りきれず金を出していただろうから・・・。結局寄付目的だったのだ。

(段々畑が印象的な村バウンダーラ)

 2006.1.8(32日目)

「バウンダーラ→タル」

ダイナミックな地盤の隆起でできた山が両側にせり出しており、太陽が拝めるのは9:00を過ぎてからである。まだ標高500メートルに満たないこのあたりでは、太陽が出るとすぐに汗が出る。涼しい間にできる限り歩いておきたいので、早めの時間を選び朝7:00に出発した。今日はバフンダラを出発して、ジャガートで昼食、タルという村まで歩く予定だ。民族はモンゴル系からグルー民族に替わってきたようだ。麓から徐々に服装などが地味になってきており、素朴さがかえって美しく映った。
このあたりまで来ると、風景が壮大になってくる。これだけ大きな風景に慣れていない私は視点を動かすと大きすぎる風景がグルグルと廻り、軽く酔ったような気分になる。
結局タルについたのは16:00をまわっていた。歩いた時間は8時間にも及び、足が悲鳴を上げている。ガイドと競うように登ってきた結果無理をしてしまったようだ。
しかし、今日はホテルの人たちがすばらしい歓迎をしてくれて疲れを忘れさせてくれた。ネパール着いてから毎食食べているダルバートを作るのを手伝わせてもらい、ロキシー(地酒)を振舞われ右手で飯をダルスープと混ぜつつ食べる。老人が一回しで一回お経を読んだのと同じ効果がるんだと言いながら、マニ車の手ほどきをしてくれた。幸せいっぱいお腹いっぱい。
ネパールは停電が多く懐中電灯を手放すことができない。このあたりの山奥に来ると電気が使える時間帯のほうが少ない。今日は深夜に腹痛を催し、何度も外の草むらで懐中電灯の明かりを頼りに下痢。満天の星空の下、寂しさ紛らわせるため遠吠なんかしてみた。

 

2006.1.9(33日目

「ササクレ」

今日は、深夜からの腹痛で最高に気分が悪かった。それに加え、ガネッシュが、「昨日の酒は今回のツアーの代金には含まれない、俺が立て替えておいた分を払ってくれ」と言う。宿代の5倍ほどだというから頭にきて一悶着あった。気分がすぐれないまま4時間のトレッキング。途中米国人トレッカーと会う。何故か彼のガイドとガネッシュが意気投合して「登山は助け合わなければ成し得ることはできない。4人で一緒に歩こう」と言い出した。これには米国人も私も頭にきた。ガイド二人は仲良くすこし先を話しながら歩き、我々がついていくという不恰好な状況になった。 宿も同じところがいいと言い出すが、金を払っているのは私だ、今日は大目に見るが、明日からは自分のペースで歩くと釘を刺しておいた。 まったく体の調子が悪いのも手伝ってササクレだった一日だった。
村に着き宿に荷物を置くと、すぐガネッシュから離れた。村人たちと遊びに行った。ガイドなしでも村の人たちとコミュニケーションとれるところを見せつけたかったのかもしれない。意地を張っていたのだろう。
全く言葉がわからないが、村人も外国人に興味があるらしく、私の周りにネパール人の輪ができる。 デジカメで写真を撮ってプレビューを見せると喜んで、着替えをして撮ってくれなんて、戻ってくるものもいた。子供たちとおはじきみたいに石をとばすゲームもした。みんないい笑顔

 

2006.1.10(34日目)

「Bharangという村」

今日記を書いている場所は終わっている。ほとんどの家が廃墟みたいになっていて、今泊まっているホテルも交渉の末やっとで空けてもらった。昼から酒に飲んだくれた男が徘徊しているし、カメラを持っているだけで「NO!!!photo!」!とさけぶ婆さん。若者や子供はまったくいない・・・・。標高がすでに2800メートルを越え、寒さが余計に寂しさを強調させる。
なぜこのような村に泊まる事になってしまったのか?それは、少しがんばって歩きすぎたせいだ。旅人が泊まることが多い村はどんどんと発展して行く。だから結局、平均的なトレッカーが一日で歩ける距離の村ばかりが発展し、他は淘汰されていく。 今日は2時間前に通ったチャームと言う村に泊まるべきだったのだ。
今日、歩いている途中で、カラスが鳴いていたので、ガネッシュに「日本ではカラスは不幸のシンボルだ」と教えてやると、ネパールも同じだという。そこで、黒猫が横切るのも不幸だと言うと、驚いた様子でそれも同じだという。もともとはモンゴルあたりから生まれた迷信なのだろうか。
まだ腹の調子が整わないというのに、饐えた匂いのする、風通しの良すぎる宿だったので、初めて寝袋を使った。

(廃村寸前)
2006.1.11(35日目)

「Bharatang→マナン(3469m)

朝6時ごろに目が覚め、起きる寸前まで見ていた夢を思い返し一人でニヤついていた。なんと、銀座通りに自分の車で乗り付け、買い物をしているという設定の夢だ。しかもあまりにもリアルに再現されていた。一人で苦笑するのも無理がない。ここは電気も水道もない、廃村寸前の村だ。道を通るのはロバと馬・・・まったく皮肉もいいところだ。たくさんの考えが頭の中をめぐって1時間ぐらい放心状態だった。
いったいこっちで生まれた同世代は寝床でどんな夢を見るのだろうと。俺が新車を買って走り回る夢を見ているとき、ネパ人は親父から馬を譲り受け走り回る夢。家族が出てくる夢では、薄暗いカマドを囲んでいるといったところか?さて今日はBhratangを出発してマナンまでの長距離をあるいた。平坦な道で一気に歩いた。マナンという村はかなり大きく、一応、電気、電話、病院がそろっているという話だった。これ以降5416mの頂上を越えるまで期待できない。高山病への備えのためにここでドクターチェックを受けなければいけないらしいのだが、なんとシーズンオフだから医者がいなくパス。久々に日本の家族と話せると思っていったサテライト電話局も冬休み。期待していただけにかなり落ち込んだ。
大きな村だったが、若者たちは皆オフシーズンにはカトマンズに出稼ぎに行っており寂しい。ホテルの環境は必要以上にしっかりしていて、これまでのひどい宿と比べ刺激が無かった。どうやらすっかり退廃した「ネパールらしさ」にはまってしまったようだ.

2006.1.12(36日目)

「マナン→レダー(m)」

このあたりからは、自分にとって未知の標高なので、ここからは比較的ゆっくり4時間ぐらいでいける場所を目標とした。
会う人は皆純粋で、文明に汚されない良さを醸し出す人ばかりだ。しかも、厳しい自然環境の中で生き抜く力強さが皺に刻まれている。
特に思いで深かったのは、途中ヤクカルカ族のひょうきん者が先導してくれる形になった時のことだ。奇声を上げながらくるくる回ったり、はしゃいで躓いたり、道化師みたいな奴だ。ガネッシュも彼女の話す言葉が理解できないが、一緒になって3人で奇声を上げていると、道中いろいろ楽しませてくれた。 
やっとこれまで遠くにしか見えてなった雪山が、近づいている実感を得られるようになった。アンナプルナの8000メートを越えるピークが目の前に広がる。 一つ一つのピークの名前を確認して頭に叩き込んでおいた。いつか、またネパールに帰ってきて、あそこまで登りたい。
アンナプルナは、標高番付で見ると以下のように10位だ。しかしトップテンの内8峰がネパールにあるとは驚きだ。

1 エベレスト       8,848m  ネパール
2 K2           8,611m  パキスタン
3 カンチェンジュンガ  8,586m  ネパール
4 ローツェ         8,516m  ネパール
5 マカルー         8,463m  ネパール
6 チョーオユー       8,201m ネパール
7 ダウラギリ I 峰     8,167m  ネパール
8 マナスル          8,163m  ネパール
9 ナンガパルバット    8,126m  パキスタン
10 アンナプルナI 峰   8,091m  ネパール

 

(道化師ヤッカルカ族)

2006.1.13(37日目)

「レダー→トロン・ハイキャンプ」

昨日の夜中も腹痛に悩まされていた。しかも、零下にまで下がる気候のせいなのか、高山病のせいなのか、風邪気味の兆候も見え始めてきた。
今日は一気に4800mまで上がることになった。4500mを越えたあたりから頭がボーっとしてきて体もすごく重い、思うように体が進まなくなり休憩の回数が増える。目的地であるハイキャンプにつくころには吐き気も伴っていた。完全に高山病にかかってしまったようだ。 ただ、風景が圧巻で、しばし高山病を忘れ見とれてしまうこともあった。
ハイキャンプにあるホテルでぐったりしているとガネッシュが温かいお湯を勧めてくれた。これが高山病にうまく作用して、苦しさは半減した。高山病は死に関わる恐ろしい病気だ。明日の朝起きたとき気分がそぐわなければマナンまで下ることになるかもしれない。
本気で頂上を目指すことが無理なのではないかと思った。重い体に鞭をいれ見晴らしのいいところまでいき、最後の撮影になるかもしれないと、記念撮影までしていた。

 

2006.1.14(37日目)

「ハイキャンプ→トロン・パス(5416m)→ムキナ(3792m)

昨日の夜は死ぬ思いだった。熱いお湯で、吐き気を飲み込むことを繰り返していた。宿の管理人たちが賭博トランプをしているのを見ながら、一人このまま死んでしまうのではないかと考えるぐらいだった。 しかもここの飯はすごくまずいと来た。寒くてみんなでガスコンロを囲んでいるのだが、洗ってない鍋をその上で温め、ナン(パン)と卵焼きを作っている。いったい卵はいつの物だろう・・。オフシーズンは若い賭博好3人組が切り盛りしているらしく、何もかもが心配だった。
出発は朝6時だった。5時に起きてみるとどうやらだいぶ回復したらしく少々の頭痛だけだった。しかし、いつまたぶり返してきてもおかしくない感覚があった。 もうここまできて後戻りする選択岐何とか避けたい。後悔だけ残して帰るわけにはいかない、行ってしまおう。
5416mまでの道は、高山病以外にもたくさんの困難を振りかけてきた。冷たい強風が容赦なく吹き付けてマスクについた鼻水が凍る。道のところどころは氷に覆われ、薄く雪が積もっている状態。切り立った崖を横目にゆっくり進む。 自分を責めるしかないのだが、冬山に行くには装備が貧弱だった。
5416mの頂上についたのは9:20、熱いものが胸に込みあがってきた。ガネッシュ曰く、これまでにたくさんの日本人のガイドをしてきたが、冬山の時期に頂上まで来れたのはお前が初めてだという。しかもここまで8日目にして成し遂げてしまったことに驚いているようだ。普通では11日ぐらいかかるという。シーズン外なのでお茶を飲めるはずの施設もなく、容赦なく吹く突風と高山病のため惜しい気持ちを残してすぐに下山することになった。 頂上を目指すという最大の目的を終えてしまったものの、今回のトレッキングのいいところは周遊コースで、帰り同じ道を通らないことだろうか。それぞれの村は民族が違い、文化の違いも見られ、贅沢なトレッキングだ。本当に時代錯誤してしまいそうな文明の違いもあり、「歴史の中」をあるいているような気分にもなった
泊まる村のムキナまで一気に1000メートル近い標高を下った。このコースは逆の道をたどるとこの町までしか来ることができない。この村を通って頂上を目指すとあまりの標高差にかなり慣れた登山家でも高山病になる。 逆周りの最終地点となるため結構発展していた。電気も夕方以外は使えるし、サテライト電話もある。 早速日本の家族に無事難所を通過してきたことを伝える

 

 

2006.1.15(38日目)

「ムキナ→マルファ(2632m)」

出発してまもなく、ジャコットという村あたりまでの風景は最高だった。一見人が住んでいる形跡がないように見える。でも探すと確かに、息づいている感じの村は絵になった。子供が一人寂しくで泣いていた場面が最も印象的だった。もっと写真を撮りたかったが、最近コンセントの環境がなくバッテリーを気遣うあまり、最低限しか撮れなかった。残念
3800mから2700mまで下る。ガネッシュ曰く、帰りの下り道は飽きるといっていたが、しばらくして、やっとその意味がつかめてきた。谷は広大に開けており、我々の足で歩いたぐらいでは視界が変化しないのだ。一日中遠くに同じ山が見え、歩く気力が失われていく。 途中雪解け水が川の形を変えており、川を裸足で3回渡った。川幅20mぐらい、余裕で腰までつかる始末、冷たすぎる。
マルファにつくと今日こそはコンセントのある宿を探し泊まることにした。やっとのことで見つけ荷物を落ち着け充電器をコンセントに差し込む。夕方だったのだが、一瞬にしてショート真っ暗に・・・。私のせいで一帯の家も停電してしまったようだ。どうやら自分の前に歩いていた韓国人に追いついたようだが、彼らにも危害を加えてしまったようである。今日はあきらめよう。
夜、ガネッシュより気になることを聞いた。2月5日に総選挙を控えおり、反政府組織マオイストが武力闘争を本格化させているとうことだ。テレビニュースではカトマンズの警察署が爆破され12人の警察官が殺されたことを伝えていた。しかも、その中の一人は警察庁長官にあたる人物だったという。少し前には首相(大臣?)7人の中の一人が殺されたとも報じていた。なるほど、今日はやたら自動小銃を持った警官や軍隊がパトロールしているわけだ。
10人ぐらいのネパール人がテレビを見るために集まってきていたのだが、どうやらガネッシュに同時通訳を頼み話していると、ほとんどの人が「今の国王は馬鹿だ。あんなやつは早く死ぬべきだ」と言っている。それに対して、マオイストの現リーダーを務めるドクター・バブラン・バトライという人物の話になると、まるで神様の話をしているのではないかと聞こえる伝説的な話を大まじめにしている。大きな声では言えないがほとんどの人が転覆することを願っているらしい。 総選挙の前には何とかネパールを去らないと大変なことになる予感がしてきた。