西沢幹雄




 さる(昭和)46年7月1日、NHKの夜の番組で、三国中学校体育館で録画された“ふるさとの歌まつり”が放映された。
 小さな三国町がほとんど単独で、この番組を埋める素材を提供したのも素晴らしいことだが、しかも演出の担当者は、民謡“みくに節”こそ三国町を象徴し、福井県を代表するものだとして、この番組のトップに、その唄と踊りをとり上げてくれたのである。 せいぜい2分間足らずの短い時間であったが、巧みな演出の手法と相まって、その効果は先ずは充分であった。
 果たせるかな、4・5日たつと、県内外の人から、改めてみくに節のよさを認識したとか、踊りはきれいでよかったなどの賛辞が寄せられてきた。 賞められてみれば、保存会としては、ふだん苦労して稽古を積んだ苦労が酬いられたわけで、悪い気持ちはしないが、本来の民謡保存という立場からすれば、きれいだとか、美しいとかいう表現で賞められることは、必ずしも当を得たものでないという反省がなされたのである。
 私は、民謡とは、その発祥が古ければ古いほど、その唄にしても踊りにしても、単調で素朴なものだと思っている。 格別すぐれた音楽的素質のある者によって作られたものでない限り、誰の作とも誰の振りつけともわからない、自然発生的な形で生まれてきたのが、本当の民謡ではないかと考えるのである。
 ところが最近、全国的な民謡ブームにのって、あちこちの民謡がテレビに、舞台に、コンクールなどに取り上げられるようになると、競ってその舞台効果や宣伝効果をねらう結果、民謡のもつ本来的な素朴さが失われ、変曲されたり、近代化されたりする傾向が少なくない。 たとえば “越中おはら節”など、唄はまことに美しい旋律であるが、それが数十人の踊り子によって手の込んだ振りが舞台の上に展開されると、ただその見事さに陶然とするだけで、いったいこの民謡の源流は何であるかを見失いそうなのである。
 もう60年も昔の話しになるが、そのころ三国神社の近くに住んでいた私は、浜で踊りが立つ旧盆の前後になると、5キロの道も遠しとせずに見物に行ったものである。 踊りは毎年のように三国の浜で、盛大に行われた。
 夕闇が海水浴場一帯を包んで、凪いだ海面に月影が落ちる頃になると、どこからともなく浴衣姿の老若男女が集まってきて、それが自然に踊りの輪をつくる。 誰が指揮するのでもなく、喉に自信ありげなのが先ず音頭をとると、みんなの者がこれに唱和して唄いながら踊り出す。 人の増加につれて踊りの輪はだんだん大きくなり、しまいには、2つも3つもの輪が浜一ぱいにつくられることもある。 民謡ブームの今の時代とちがって、ただみくに節一点張りであるが、それでいて夜の更けるまで踊り抜くのである。 唄は、いま保存会が正調として唄っているものより、もっと素朴で、踊りの手ももっと単調であったように思う。 いまにして考えれば、私は伝来された“みくに節”の源流を、そこに見たわけである。
 こうした盆踊りは、三国町内でも性海寺の境内やその他の場所でも行われていた。 しかし昭和10年代にはいるとだんだん戦時色が濃くなってきたのと、いまひとつは、こうした単調な唄や踊りが次第に若者たちの感覚に合わなくなったため、急速に衰退した。 そして戦後昭和29年になって、やっとみくに節保存会が再興され、その人たちによって辛うじて伝承保存の命脈が保たれてきたのであるが、保存会はこの間、これまでの踊りに多少とも時代感覚を織りこむため、長唄の師匠から振りをつけてもらい、これを2番、3番の踊りの手として現在に及んでいる。 だから原型はどこまでも、1番の踊りの手だけである。
 ところで、郷土民謡としての“みくに節”は、全国的にはかなり高く評価されている。 昭和38年、日本フォークダンス連盟では、“みくに節”を優秀民謡の一つとして取り上げ、そしてその年6月、富士裾野国立青年の家で行われた全国民謡指導者講習会において、貝殻節、郡上踊り、江州音頭、木曽節、ひでこ節、大漁唄い込みなど、名のある13の代表民謡とともにこれを全国に紹介した。
 この連盟が採用した“みくに節”は、若い世代に容易に受け入れられるよう、可成り大胆に変曲され、そしてテンポも早く踊りも元の形を失わない程度に振りを変えたものであった。 この踊り指導書は、「日本フォークダンス連盟 世界のおどり・日本編」として全国に普及された。 ところが古い“みくに節”を知るある古老から、保存会に横やりがはいった。 「みくに節に、“新みくに節”とは何事か」という、きついお叱りである。 しかしこれは、あくまでフォークダンス連盟の変曲したみくに節であって、第二のみくに節では決してない。
 私どもは文化財、観光財としての“みくに節”の普及宣伝につとめながら、一方ではあくまでその源流を追求し、古き三国の心を伝承し保存することに努めねばならない、それが保存会の使命でもある。
 さて話しを本筋にもどして、“みくに節”の起源であるが、これには二つの説が行われている。 その一つは、いまから220年ほど前の宝暦年間に、地元三国神社の境内拡張の際、古刹性海寺の陽山上人によって創められ、これを地ならし唄として唄わせたものだという説と、みくに湊の船頭の舟唄として発祥したものだという説とである。 当時の性海寺と三国神社との深いかかわり合いからすれば、第一の説も充分考えられるわけであるが、格式高い一山の住職が、作詞も作曲も自ら行ってこれを唄わせたとは、にわかに首肯できないふしもあるので、これはやはり、当時すでに唄われていた元唄にのせて、上人自らが作詞したいくつかのものを大衆に唄わせたものと解釈するのが妥当ではなかろうかと思う。
 亡くなった郷土史家の光成魚氏によると、「みくに節は、男一匹度胸と腕で板子一枚下は地獄、大荒波をものともせず縦横に乗り廻した三国船頭の船唄である」と断定しておられるが、若しそうだとしたら、これはやはり鎌倉時代以来開けた三国湊の粋な船頭衆のあいだに、いつの頃からか、誰いうとなく口ずさまれた節まわしが、いつか唄となって生まれたものではなかろうか。 江戸時代の三国湊は、酒田や新潟や境港と肩をならべる、日本海沿岸でも屈指の港であった。 出船入船で賑わうこの港町は、同時に色街としても大いに繁盛した。 何しろ人口五千人余りの帯のような長い町に、三ヶ所の遊郭があり、百五十人からの傾城が息づいていたというから、あるいは“みくに節”もそうした紅燈の下、絃歌の中から生まれてきたのではないかという仮説も成り立つ。 みくに節には、東北地方の民謡などとちがい哀調とか、暗さというものが感じられないのも、これを裏書きしているように思えるのである。
 以下に列記する百にあまる“みくに節”の歌詞は、郷土史研究家であり、町文化財保護委員でもある面野藤志氏によって、苦心の末、克明に集められたものであるが、これらの歌詞に目を通すと、いかにも江戸時代の三国湊の繁栄を背景として作られたと思われる格調高いものもあれば、また中には、明治大正のころ酔人の宴席で、即興詩的に作られたと思われるものも少なくない。 また歌詞の中には、全国どこでも共通的に歌われているものや、歌詞の一部を振りかえたものもあって、これらはいわゆる本来の“みくに節”の歌詞ではないかと考えられる。
 たくさんある歌詞の中で、現在保存会が唄っているものは、十指に足らないのはまことに残念である。 まだまだ優れた歌詞がたくさん残っているので、保存会の方たちも、もっと数多くのものを唄いこなして、旧い“みくにの心”をいつまでも唄いつづけていただきたいと念願する次第である。




※昭和56年9月に、三国町文学の里づくり委員会により出版された「みくにの民謡」誌上に、当保存会の副会長を歴任された故・西沢幹雄氏が寄稿された論文「みくに節 考」に、三国節が生まれてから現在に至るまでの経緯が詳しく述べられていますので、ここに原文のまま紹介させていただきました。