福井県坂井市三国町に伝わる郷土芸能 「三国節」 は、今からおよそ250年前の1761年(宝暦11年)に、三国神社(例祭は北陸三大祭と云われている三国祭)の拡張工事を行う際、三国神社と深い関わりのある性海寺(通称おしょかいじ)の陽山上人という僧侶が、作業人夫の地突き唄として歌わせたのがその起こりと云われています。
それが、商港として繁栄していた三国湊の沖仲仕たちの間に伝わり、運送の荷積作業唄として歌われるようになりました。
沖仲仕たちによって歌われた三国節は、県内の敦賀港や、遠くは大阪・北海道など全国各地の港への出入りのたびに、各地の唄の良いところを歌詞に取り入れられたため、一般町民の間でも歌われるようになり、明治時代の終わり頃に歌詞が上品にまとめられて現在に至っています。
民謡には、全国各地の唄を真似て作られたものが数多くありますが、三国節独特の歌詞は 「やしゃでやのしゃで やのしゃでやしゃで やしゃでやのしゃで こちゃしらぬ」 の一節です。 この歌詞の意味については諸説がありますが、いずれも定説となるには至っておらず、現在においてもその意味は判明していません。
唄の形式は、まず七七七五調のもと唄を歌い、次に五七七五調のかえし唄を歌うかたちをとっています。
歌詞を替えてこれを繰り返し、最後に前述の「やしゃで〜」を1回だけ歌い締めくくります。
踊りができたのは、唄よりずっと遅れて明治時代の中頃です。 その頃から大正時代の中頃まで、毎年旧盆の8月15・16日の2日間、三国海岸の砂浜で盆踊り大会が開催され、三国節が歌い踊られました。
三国節は、各地の民謡に比べてそのテンポがあまりにもゆっくりしているため、歌ったり踊ったりする町民が徐々に減少し、昭和に入ってからは、三国芸妓の方たちが中心となって保存するかたちとなり、踊りも座敷踊りに振り付けられました。
しかし、町民の間では、なんとかして古い歴史を持つ三国節を保存しようという気運が高まり、昭和5年に神明神社(三国町神明2丁目)に於いて開催された三国節踊り大会を契機に、町民有志にて三国節保存会が結成されました。
当初、三国節保存会の会長職は三国町長が兼務しておられまれましたが、現在では一般会員の中から選出されています。
尚、三国節は昭和45年に三国町(現 坂井市)より無形民族文化財の指定を受け、三国節保存会は、その保有者の立場でもあります。
NEW昭和56年9月に、三国町文学の里づくり委員会により出版された「みくにの民謡」誌上に、当保存会の副会長を歴任された故・西沢幹雄氏が寄稿された論文「みくに節 考」に、三国節が生まれてから現在に至るまでの経緯が詳しく述べられていますので、ここに原文のまま紹介させていただきます。