九月のカレンダー小説

1.28秒だけ待って

 ピンポンパンポーン
『まもなく、当機は着陸します。シートベルトをお閉めください』
 混雑した機内で乗客たちがガサゴソやり始めた。……お父さんがいなくてよかった。お父さんは英語ができないから、今のアナウンスもわからなくてまたうるさかっただろう。
 そもそも、私一人だけ家族とは別の便になってしまったのもギリギリになってチケットを取ったお父さんのせいなのだけれど。
 窓ガラスの向こうにこれから降り立つ大地が見えた。見慣れぬ地。思わず愚痴が出た。

「……9月って嫌い」

 ずっと夏休みならいいのに、と日本中の中学生が思っているだろうことを考えていると、隣の席から声がした。

「私は好きですけどね、9月」

 慌てて窓からおでこをペリリとはがし、振り返る。
 人の良さそうなおじさんが微笑んでいた。
 背広にエプロンという奇妙な格好だった。料理用というより作業用エプロンという感じの。
「どうして? 知らないおじさん」
 ちょっと語気に怒りがこもってしまった。
「9月はいいですよ。敬老の日がある。私もそろそろ敬われるほうの年ですしね」
 ……あっそ。そんな理由。ちょっと呆れる。
「そんな祝日、とっくに形骸化して誰も本来の意味は覚えてないよ。今じゃただの休みの日じゃん。「けーろー」が何のことか誰も知らないよ」
「それは悲しいことです」
 おじさんは肩をすくめた。そして続ける。
「でも9月は他にもいろいろ重要な月です。そもそも、もっともたくさんの人間が生まれる月は9月なんですよ」
「……へえ。そうなの? なんで?」
「それと、北半球つまり地球の赤道より北側では夜が昼より長くなり、夜の勢力が昼の勢力を上回る月でもあります」
「夜の勢力? なにそれ」
「夜行動物。そしてその一部たる我々……夜型人間です」
「私、昼型。中学生だし」
「じゃあこれから衰退する勢力のほうですね。お疲れ様です」
「いえいえ、お気遣いなく」

 *

 空港に到着して、荷物を受取る場所まで、おじさんと一緒に歩く。
「歩きにくいですね。靴のせいでしょうか」
「そんなわけないと思うけど」
 ……と思ったがおじさんの足元を見るとなぜかサンダルだったので、そんなわけあるかもしれない。
「さて、着いたはいいですが……ここはどこですかね」
 私は眉をひそめる。
「静海県だよ。知らないで乗ってたの?」
「ええ。日本かどうかも自信がなかったもので。国際便に乗っていたらどうしようと思っていました」
「ずいぶんアバウトに生きてるんだね」
 このマイペースなおじさんに少し感謝していた。憂鬱だった気持ちが、話すうちわずかに楽になっていたからだ。
「たいがいのことはアバウトで良いのです。そうそう……最後に、9月の一番良いところを教えましょう」
「十五夜とか?」
 ……私がそう言うと、おじさんは人差し指を立てた姿勢で笑顔ごと固まった。そして少しの沈黙ののち、小さく答えた。
「……そうです」
「ごめん」
 なんか悪いことしたかもしれない。
「……特に今年の十五夜はちょっと特別です。たしか……29日だったかな、今年は」
「え? 十五夜って15日じゃないの?」
「旧暦の8月15日ですよ。新暦だと今年は9月29日です」
「キューレキ……。ああ、旧暦か」
 たしかに、大昔の日本の暦は今と少しズレていたんだっけ。
「そういえばお嬢さんは、どうして9月が嫌いなのですか?」
 話は急に、最初の私の呟きに戻った。
「え……いえ、2学期が始まるからです」
 ほほう、とおじさんは笑った。
「確かに学生さんにとっては夏休みの終わりですからね。でも、またクラスの皆に会えると思えば悪くないのでは?」
 また皆に、会える……か。
「会えないんだよ」
「え? どうして?」
「私、転校生なの。この2学期から新しい学校なの」
 父の仕事の都合で転校。ありがちな話だ。
 単身赴任してはどうかという愛娘の提案は受け入れられなくて、お父さんの転勤先へぞろぞろ家族でついていくことになった。
「それじゃあこちらは今日が初めてということですか」
「うん、しかもこれから新しい学校に直行。初日から遅刻だよ。お父さんが便の少なさを理解してなかったせいでチケット取り損ねたの」
 苦笑する。
「それはそれは。波乱ですね」
 そう、私の人生にとってはちょっとした波乱。なんで中学3年の2学期に転校なわけ? もうすぐ卒業だっていうのに。タイミング悪いことこの上ない。
「でも、ありがと。おじさんと話しててちょっと気が晴れた。ちょっと落ち込んでたんだ」
「そうですか。それは良かった」
 うん、と私は微笑む。
「あ、おじさんは何の用事? お仕事?」
「では私はこれで。新しい学校でも馴染めるよう祈ってますよ」
 おじさんは上げていた右手を振った。
 やれやれ。またしても質問には答えてくれないらしい。
「どうもありがとう。おじさんも、用事がんばってね」
 私が手を振ると、おじさんは軽く会釈をした。

「それでは、良い9月を」

 *

『ようこそ。静海第一中学へ。あなたのクラスの担任のダイス・リリーよ。よろしくね』
 出迎えた先生は結構若い感じの女の先生だった。まっ赤な眼鏡と口紅が色っぽい。美人の大人の女性ってのはあんまり好きになれない。微妙な乙女心を許してください先生。
『津区島美代子です。よろしくおねがいします』
 先生と同じように、私も英語で挨拶をした。
 ふと振り返ると、ついてきたお父さんはモジモジしていた。なんだ気持ち悪いなこの人、と思いかけたが気がつく。お父さん、今の英語もわからなかったんだ。もう、クリアな発音でゆっくり喋ってくれてるのに。
『あ、こちら父です。すいません父は英語ができないんです』
 私は仕方なく代わりに謝って、父親を紹介する。
『あらそうなの? 全く? ……お仕事の都合で来られたと伺ったけど、大丈夫なの?』
 ダイス先生は心配してくれた。
『全くできません。……でも仕事では通訳を雇っているらしいので』
 ああ格好悪い、こんなことならお母さんに来てもらえば良かった。でも弟の転校先についていってしまったのだから仕方がない。
『では、早速教室へ行きましょう。今日は先ほど始業式があっただけで、授業はないの。あとはホームルームだけよ』
 ダイス先生が先に立って校長室を出て行く。
 後について廊下を歩きながら、私は隣を歩くお父さんに小声で話しかける。
「ねえ、普段は国際感覚を身に付けろとか偉そうに言うんだからお父さん、英語ちょっとは勉強しなよ」
 課長のくせに時々新人に間違えられるらしい、頼りなさを全身に漲らせた童顔のサラリーマンは反論した。
「お父さんは英語が話せない訳じゃない。話さないんだ。英語は人類の話す言語の中でも稀に見る粗悪品だ。恐ろしく曖昧で表現力にも乏しい、出来損ないの言語だからな」
 ……子供か。
「はいはい。話さなくてもいいけど聞き取ってよ。先生に心配されてたのもわかってない癖に」
 私とお父さんの歩みが遅いのに気づいて、ダイス先生が立ち止まって待ってくれた。
『すいません、まだ歩き慣れてないんです』
 私が謝ると、ダイス先生は微笑んだ。
『いいんですよ。ゆっくり歩いて下さい。初めは誰でもそうです』
 わお。その魂を吸い込まれるような微笑みときたら女の私でも一瞬くらっとする。案外、いい先生かも。

 *

『こんにちは。良い夏休みだった? みんなにまた会えてとても嬉しいわ』
 先生が教室に入ると、逆再生のアニメみたいに生徒達が各自の席に戻っていった。
 この学校の公用語は、当然ながら英語だった。日本国籍が多いとはきいていたけれど、教室を見渡す限り、人種は色々みたいだ。
『今日は転校生を紹介するわ。東京から来た、津区島美代子さん』
 先生に促されて、私は自己紹介をする。
『はじめまして、津区島美代子です。初めての土地なのでわからないことだらけですが、色々教えて下さい』
 私がペコリとおじぎをすると、いきなり教室の真ん中あたりから甲高い声がした。
「私も東京にいたよ、美代子!」
 そのセリフは日本語だった。……だが、その声の主はド金髪の白人の女の子。目が大きくて肌も歯も白い。太陽みたいな子だ。
『こら、ジーラ。授業中は英語のみのルールは守りなさい』
「はーい」
 先生は英語で注意したが、ジーラは日本語で返事した。うーん、なんかあの子とは仲良くなれそうな気がする、と思って笑いかけたら、満面の笑みを返してくれて思わず嬉しくなる。
『じゃあ今日はもうこれで終わり。明日から通常授業よ。ではまた明日』
 いきなりホームルームは終了した。そそくさと先生は教室を出て行く。廊下に出るところで『休み時間や放課後は日本語でも良いのよ』と私に向けて言葉を残していった。
 教室は途端騒がしくなる。夏休み明け初日だからか、どこか皆高揚感に包まれたような雰囲気。私のまわりに集まってくる子たちもいる。
「美代子! 私はジーラ。よろしくぅ」
 ジーラが早速話しかけてきた。私は微笑んで日本語で応じる。
「こちらこそよろしくね。ジーラ?」
 にぃ、とジーラは笑った。
「日本語綺麗だねぇ美代子! 日本長いの?」
「生まれてからずっと東京だよ」
「ほえー! 純日本育ちかー」
 おお、と声が周りの他のみんなからも漏れた。そっか、ここだと転勤族の子多いだろうし、ずっと日本てのは珍しいのかもしれない。
「ていうか、こっちのセリフだよ。ジーラこそ日本語うまいね」
 私がそう言うと、ジーラの横で別の女の子が言った。
「このクラスの子は日本長い子ばっかりだから、みんな日本語できるけどね、ジーラは一番長いんじゃない? 12年いたんでしょ?」
「うん。ほとんど赤ん坊の時からだからにぇー。ヤンは8年だっけ」
 こっちの少女はヤンというらしい。真っ黒い長い髪で、前髪が切りそろえられている。見た感じ、この子こそ純和風・日本人形ガールだ。その黒髪をなでながらジーラが尋ねた。
「美代っちー。最近の東京の話聞かせてよぅ」
 さっそく呼び方が美代っちに進化した。

 *

 そのままあっという間に10日経った。こちらの授業はちょっと前の学校より進んでいたけれど、雰囲気はむしろのんびりしている。
 二時間目と三時間目の間の休み時間。私はボーッと空を見上げていた。外はまだ太陽の日差しがキツイけれど、強力な遮光・遮熱フィルタのおかげで室内にいる分には安全。ここの時間感覚にもだいぶ慣れてきて、慣れるとつい油断するもので、私は前の学校の友達を思い出してしまっていた。
「美代っちー。誕生日、いつ?」
 いきなり大声で呼ばれ、私は慌てて潤みかけていた目を拭った。
 声はお転婆姫のものだった。教室の入口から飛び込んでくる。ひらひらのドレスを着て教室の入口から大ジャンプ。天井スレスレを、器用に頭を縮めてぶつからないようにして飛んでくるジーラに、思わず私は、うぉお、と呻いてしまった。
「あはは。びっくりしすぎ美代っち」
「いや驚くって。しかもパンツ丸見えだったよジーラ」
 女の子でしょ、と私はジーラのドレスの裾を整えてあげながら言った。
「それより美代っち、誕生日いつ?」
「誕生日? なんで?」
「なんでじゃないよっ。 誕生日は一生に百回くらいしか無いんだよ!? 大事にしなきゃ」
「……そういう言い方するとあんまり大事な気がしないけど」
「だよねえ。ジーラ、それ言うなら例えば、十五歳の誕生日は一生に一回なのよ、とかでしょ」
 ヤンはどうやらツッコみ役なのだった。
「そういや誕生日で思い出したけど……9月生まれが一番多いらしいしね」
 私がおじさんの言葉を思い出してそう言うと、ジーラはさも「なんで?」と言いたげな顔で、
「ホワイ?」
 と言った。ジーラやっぱ英語ネイティブなのかしら。
「理由はわかんないんだ。そう聞いただけ」
「ヤン、わかる?」
「……もしかしたら」
 ヤンはそこまで言って顔を赤くした。
「なんでもない」
「……? ちょっと何よヤン、最後まで言ってよ」
 ヤンはもごもごと小さな声で言った。
「いやほら……人間はだいたい十月十日(とつきとおか)つまり9ヶ月で生まれるわけで、9月の9ヶ月前ってその」
 俯いたヤンの長い髪がその赤い顔を隠す。
「ああなるほど」
 私は頷いた。そして黙った。
「何? どういうこと?」
 ジーラだけが不思議そうな顔をしていた。

 *

 転校して20日経った。
 晴れもあれば雨もあり曇りもあれば時に雪も降る東京の天候が懐かしい。ここの空は明るいか暗いかの二通りしかない。
「美代っちさ……。よく空、見てるよね。……前の学校思い出してる?」
 ヤンは、時々察しが良くて困る。
「……まあね」
「高校は戻るの?」
「ううん、たぶん高校もこっち。ほんとは受験するとこも都内で決めてたんだけどね」
「……そっか」
 なんとなく、話題を変える。
「……ねえヤン、昨日、休みだったじゃん。何の日だか知ってた?」
 昨日は月曜日だけど休みだったのだ。ヤンは言う。
「ん? ハッピーマンデーでしょ。なんかの日なの?」
 ほれ。私は心の中でおじさんに、やっぱり誰も知らないじゃん、と言った。
「9月って休み多いよね。来週もでしょ」
「29日ね……楽しみだなあ」
 私はまた、空を見る。
「十五夜ねえ……わざわざ祝日にするほどかね」
 私がそう言うと、ヤンが腰に手を当てた。
「ここじゃ特別なの。東京とは違うんだから。それに今年だけは休みにしなかったら皆怒るよ。美代っちも、行くでしょ?」
「行くって……どこに?」
 ヤンが目を丸くした。
「え、何? 知らないの? 県民ドームだよ。皆であそこに集まるんだよ。……あ、じゃあジーラも誘って一緒に行こっか」
 ヤンは、行かない手はないよ美代っち、と笑った。

 *

 県民ドーム。工夫の無いネーミングのこの場所はだだっぴろい巨大なドームだが、すごいのは一面ガラス張りだってこと。おかげで太陽が出ている間は結構暑くて蒸し焼きになりそうなので、せっかくの一面芝生の広場が何ら活用されずあまり人の入りもない。
 なるほど確かにここは周囲に建物もなく、見上げる空は格別なのだった。太陽の出ていない時間なら、スモッグだらけの都心の空とは全く違う、それはそれは見事な星空を目にすることができるだろう。格好のデートスポットというわけだ。
 そのドームが今夜のイベント会場らしい。太陽光だけじゃない、あちこち派手にライトアップされていて、ところどころに屋台も出ている。
「で、何なのよ。ここで何があるっての」
 ジーラに聞く。
「だから十五夜だってば」
「月見でもすんの?」
「あはは何その冗談面白い。……ま、お楽しみ。とりあえず店行こうよ店」
「待ってジーラ。場所取りしなくちゃ。いい場所無くなっちゃうよ。すぐ混むもん」
 ヤンの忠告に従い、私達は持ってきたビニールシートを、広場の中央付近で陣取った。
「ねえヤン。言うほど人来てないみたいだけど……あとどれくらいで始まるの? イベント」
「ん? 11時」
「じゅ、じゅういちじ? 夜の? 嘘でしょ?」
 ……まだ6時だ。あと5時間もある。
「嘘じゃないって。夜中の11時。でも本当、たぶんすぐ埋まるからね」
「働いてる人がみんな仕事終わったら一斉に来るしさ」
「あ、見てあれ! せんせーだよ」
 ジーラがふいに声を上げた。いつもこの子はいきなり声のボリュームがマックスで喋り始めるのでびっくりするな。
「ほんとだ。ダイス先生だ。何してるんだろう」
「せーんせー!」
 先生はいつものぴしっとしたグレーのスーツ姿で、赤いフレームのメガネもそのままだった。授業中以外でもそのいかにも女教師って感じの格好なのか。
『あなたたち、子供だけ?』
『はい先生。大丈夫です。親には言ってあります』
『そうなの……先生もここにいていい?』
「おふ・こーす!」
 ジーラの日本語英語な発音に、先生は笑った。
「アリガト、ジーラ」
 ……片言の日本語だった。
 私とヤンは思わず顔を見合わせた。今日のダイス先生はいつもとなんか違う。オフだからかな。
「……ミヨコ、アナタハココノセイカツヲ、タノシンデイマスカ?」
 と思ったらいきなり先生、私に日本語で話しかけてきた。私は戸惑う。
「……え、ええ。まあ、なんとか」
「ナントカ……」
「ええ、なんとか」
 先生はじっと私の目を見た。なんとか、が通じなかったのだろうか。
「ミヨコ、サビシイデショウ? アナタノマエノガッコウノトモダチト、ハナレタカラ」
 答えにつまってしまう私。
「そうだよ美代っち、さびしんぼうだから」
「……いっつも空見てるもんね」
 うるさいなあ二人とも。
「寂しそうに見えますか?」
 私が言うと先生、いきなり、私をハグした。
「ちょっ。せんせ……」
「わーい」
 見ていたジーラが、嬉しそうに自分も入れてとばかりに私たちに飛びついた。
 むぎゅ。二人に囲まれ、息がしにくくなった。
 あのう私もご一緒したほうがよろしいのでしょうか、という困り顔で見ているヤンが二人の隙間から見えたので、いいから、いいから、と手を振る私。

 *

「ほんとだ。人だらけだ……。県民全員来てるんじゃないの」
 時刻はまもなく11時になろうとしている。ヤンの言うとおりだった。立ち上がって眺めると、ドームは人で埋め尽くされていた。酸素が足りなくなるんじゃないかと心配になるほど。
「全員は言い過ぎだと思うけど……。八割くらいはいるかも」
 私は飲んでいた毒々しい色の炭酸飲料を吹き出す。
「八割? どんだけ本気なのよこのイベント」
「そりゃ本気だよー。私たちのためのお祭りと言ってもいいもん」
 空はもうかなり暗くなっていた。
「なんか急激に暗くなったね。この感じも久しぶり」
「まだ街灯があるけどね、イベントが始まったらそれも落ちるから真っ暗だよ」
「……」
 私は空を見る。光の線が……球形の輪郭をなぞっている。
「綺麗だよねぇ……ダイヤモンドリングだね」
 ジーラがつぶやいた。
『ジーラ。リングにはならないのよ。完全に隠れてしまうから』
 先生が英語で解説した。
「えー。リングがいいー」
『先生だってリングがいいわ』
 先生の口調が少し投げやりだったので、見るとひとりビールを開けていた。
「なんかあったのかなダイス先生。いつの間にかお酒飲んでるけど」
「やけ酒?」
「フラれたとか? 先生、性格キツイいし、トウも立ってるし焦ってぐきゃ」
 ジーラの悪口がダイス先生の日本語ヒアリング能力にカバーされたらしく、先生はジーラの頭にチョップをした。
『私の年齢はいくつだと思うの? 言ってみなさいジーラ・ノリス』
「えーと、三十五歳……」
「NO!」
『何歳なんですかダイス先生』
『三十歳です』
「アラサーかあ」
「アラウンド、チガウ! ジャスト!」

 *

 そしてイベントが始まる。
『会場にお集まりの紳士淑女少年少女の皆様! まもなく十五夜を開始いたします!』
 なんだか軽快な声音の、英語のアナウンス。
 そして、バスンッという音とともに、会場中の照明が落とされた。
 うわ……真っ暗。
 空には、満点の星。満点の星の、その真ん中に暗くぽっかりと開いた星の影。
『本日、2061年9月29日の十五夜は、月食です。地球の影にすっぽりと月が隠れます。さあ見上げてください』
 会場中の皆が、夜空を見上げている。寝ころんでいる、私たちも。
 空はまもなく……漆黒に包まれた。
『太古からずっと、一番近くにある星よね』
 先生がつぶやいた。
 満点の星の中だからわかる、そのぽっかりと何もない黒い円の存在。否。何もない訳じゃない。
「ほら見て。光。街の光だよ。人が……あそこにいるんだよね」
 黒い円の中で、あちらこちらに、小さく光る点の集まりが見える。町の灯。都市の光。そこには人間が生きているという、証。
「今この星の人間がみんなあの星を見ていると思うと、すごいね。これは確かにちょっと、特別なイベントかも」
 私がつぶやくと、ヤンが言った。
「こうやって星と星と向かい合う時はそこに国境なんてないもんね」
「……ふたりともーいいから見てなってー」
 ジーラに窘められてしまた。確かにそんな話は今しなくてもいい。
「そだね。見てないと、見落としちゃう」
 私も黙って空を見た。
 ……。
 ……。
「……え!?」
 ……信じられないものを見た。

『皆さん この光が届いていますか』

「……メッセージが……!」
 会場を物凄い歓声が包んでいく。
 夜空に浮かぶその真っ黒い円の中に、街の灯りよりも強い光で、文字が浮かび上がったのだ。アルファベットが並び、それは英語の文になっていた。
 あっけに取られていると、メッセージが変わった。

『月はいつでも地球とともに 私たちはいつでもあなたたちとともに』

「向こうの人たちが……光を灯して字を書いてるってこと!? 地面に……すっごく大きな文字を。ライトを並べて」
 そのライトをオン・オフして、表示するメッセージを変えてるんだ。そんな大掛かりなことができるなんて。
 信じられない。いったいどれほどの数のライトを、いったいどれほどの明るさのライトを使って? だって、こんな大きさの……。いったいどれほどの広さにまたがって配置されたのか。何百キロ……? 何千キロ……? もっともっとだ。星の地表をメッセージボードにするなんて。

『遠い距離を越えて、私達の大切な仲間へメッセージを届けます』

 またメッセージが変わった。
「いよいよだよ。ほら、ちゃんと見てて」
 ジーラが言った。
「いよいよって……何が」
「いいから!」
 ……。
 表示されたメッセージが変わる。

『……愛するジョージへ。いつもあなたを思っています。リンダ』

 ……これは。
「個人宛のメッセージ!?」
 ジーラが横でうなずいた。
「そう。……ほら、あっち。今のは、あの人みたいだよ」
 上体を起こして見ると、私たちの足のほう……誰かが立ち上がって歓声をあげていた。両手をあげ、ガッツポーズをしている。……きっと彼がジョージ、なのだろう。

『レイラへ。ママの手術は成功しました』

 また、どこかで歓声が上がった。小さな子どもの声だ。
 ……そうして。
 一件、十五秒ほどの短い時間。次々、星の表面の文字が変わっていく。
 英語だけじゃない。フランス語、ロシア語、中国語、その他読めないどこかの言葉もあった。
 家族から。友達から。恋人から。同僚から。
 誰かから、誰かへのメッセージ。今日このドームに集まっている皆は、これを見に来たんだ。……ううん。ここだけじゃない。この星中のあちこちでこうして空を見上げている人がいる。その誰かへのメッセージ。
 メッセージが表示されるたびに、ドームのあちこちから歓声が上がる。
 私はメッセージ一つ一つを目で追っていた。
 ……。
 …………。
「……!!」
 そして私は、その日本語のメッセージを見つける。

「寂しがりやの美代ちゃんへ。私たちはいつまでも友達だよ。byアキとチエミ。あと3年2組のみんな」

 *

 私は……それはもう大変なほどに大泣きしてしまったのである。まったく、あいつらときたら。あいつらときたら。
「やられた……。完全に不意打ちだった」
 まだ頬が熱い。
「寂しがりやの美代ちゃん」
 ジーラがニヤニヤしている。
「うっさい」
「おまけに泣き虫さんなのね、意外」
「ヤンまでー。ほんとに不意打ちだったんだから」
「無理してたんだね。いいじゃん泣いたって」
「うー」
 明日からしばらくからかわれそうだ。
 あんなのやるなら連絡くれればいいのに。メールだって送れるのに一通もよこさないで。あっさり忘れられたのかと思ったじゃんよう。
「……アッキとチエのバカ」
 ……私のつぶやきが聞こえたらしくジーラとヤンがニヤニヤしていた。
「今度紹介してね。むこうの友達」
 ふくれっ面のまま、それでも頷く私。もちろんだ。
「でも……凄いわこれ。全然知らなかった」
「やっぱ都会の人は違うねー。ここの人はずっと皆楽しみにしてたんだよ」
「そりゃそうだろうけどさ……」

 その時、すぐ近くで、とんでもない悲鳴が聞こえた。
 そして見上げた空には、こうメッセージが出ていた。

『ラルフよりダイスへ。結婚しよう』

 ……。
「え……ダイス?」
 ……その名前って……。
 いや、人違いであろう筈がない。だって、さっきから狂ったような悲鳴をあげながら全身全霊でジャンプして喜びを表現しているのは、あのクールビューティー、ダイス・リリー先生なのだもの。
「うっそ。プロポーズ?」
 ジーラが目を丸くしている。
「やだ。超ろまんちっく」
 ヤンが頬に手を当てた。

 *

 そして、星間メッセージ・タイムは終わった。
 誰からともなく、拍手。拍手。口笛。拍手。そのうち、空に向かって手を振る人たちが現れ、皆同調していく。ドームは歓声を上げながら空に向かって手を振る人で溢れかえった。
 私も、手を振っていた。

 空を見ればいつだってそこにある、母なる星、地球に向かって。

 *

 9月最後の日。
 私は学校の帰り道、公園で、あのおじさんを見つけた。
「あー!! おじさん。久しぶり!」
「……どこかでお会いしましたか?」
「覚えてないの? 9月1日、星間船で隣だったじゃん」
「……ああ、転校生のお嬢さん」
 私は微笑む。
「うん」
「学校は慣れましたか?」
「うん。歩くのにもね」
 おじさんも笑った。
「私もなんとか慣れました。なにせ……重力が地球の六分の一ですからね」
「おじさん、静海県には何の用で来たの?」
「いえ……もう用事は済みました」
 ……相変わらず質問に答えない人だ。
 私がポリポリ頭をかいていると、おじさんは言った。
「その静海県の名前の由来である、静かの海……私達が今いるこのあたりは、最初に人類が降り立ったところだそうですね。アポロ11号でしたか」
 私は頷く。
「別名、うさぎの頭。地球からこの月を見てうさぎの姿を描いた時、ちょうど顔のあたり」
「日本領になっているのも面白いですね」
「……いいじゃない。だから東京から来るのにパスポート要らないんだし」
 星間なのに国内線なのだ。
「月というものは」
 ……おじさんが語り出した。
「自転周期と公転周期が同じなんです。だから、地球に対して、ずっと同じ面を向けて回り続ける」
「知ってるよう。だから私達はいつでも空に地球を見ることができるんだよね」
「ですが……地球の自転周期は違います。ずっと速い。三十倍くらいのスピードでぐるんぐるん回っている」
 おじさんは指を立てて回した。
「言ってみれば、月が地球をずっと見ているのに、地球は月のことだけ見ているわけではない……月は片思いをしているということですね」
 ぷっと私は笑った。
「おじさん、無駄にロマンチック」
「ですが……地球の自転はだんだん遅くなっています。潮汐力によって、次第次第に自転速度は遅くなり、いつかは月の公転速度と同じになるのだそうです。だからその時は、今まで他の色んな天体のほうに目移りしていた浮気な地球もやっと気づくという訳です。月がずっと近くで自分を見続けてくれていたことに」
 いい加減こっちが恥ずかしくなる。
「……もう、それ以上言うとチョップするよ」
 私が手刀を頭の上にかかげると、おじさんは両手を胸の前に挙げて待ったの姿勢をした。
「今回の十五夜が、なぜ特別だったのか……それは月食の日でもあったからです」
「らしいですね」
「ええ。地球と月の公転面がブレている関係で、毎回ではありませんがたまに満月に地球の影に月が隠れる現象が発生します。これが月食」
「そうだね。月からは太陽が見えなくなる。だから……あんなことができたんだよね」
「凄かったですねアレは。……地球から月までの距離は約1.28光秒。あのメッセージは地球を1.28秒前に出発した光です。太平洋を東西全幅で使用した巨大なスクリーン、浮かべた船は一万隻以上だそうです。そのどれも強力なライトを装備してね。エネルギー問題が深刻な頃なら考えられない無駄遣いです」
「今だって無駄遣いだよ。メールあるもん。でもいいじゃない。無駄遣いをやめたら生きる意味がないよ」
「その通りです」
 おじさんは笑った。
「高出力の指向性光源と雲海制御技術……科学技術の発展あってこそ可能な壮大な無駄遣い。月も月から見た地球も太陽光に照らされていない時間、すなわち月食の間だけに可能なんです。……日食では月食と違い地球のごく一部が暗くなるのみで、大きさが足りないですしね」
「貴重な時間だね」
 おじさんは頷いた。
「言ってみれば」
「……」
「月食とは、太陽の見ていないところで地球と月がコッソリ見つめ合う時間だってことなんです」
 おじさんは、ウィンクした。
 私はおじさんのおでこにチョップした。




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