八月のカレンダー小説

自由研究 −砂森風子の生態−

 下校時刻を告げるチャイムが夕暮れに響く中、僕は屋上へ続く階段を登る。呼び出しを食らう、というのは初めての経験だった。
『今日の放課後、屋上に来てください』
 それが僕の引き出しに入っていた手紙の全文で、差出人は不明。文字はなぜか新聞の切り抜き。甘酸っぱい青春の幕開けを期待するには、何かが足りない気がした。
 誰かの恨みを買った覚えはないのになぁと思いつつ、ドアノブをひねる。
「来てくれたんだ、皆川くん」
 若干間延びした、はにかむような声が聞こえた。
「……砂森?」
「うん、そうだよ」
 長く伸びた黒髪をなびかせて僕を待っていたのは、クラス委員長の砂森風子だった。
「えっと、何の用?」
 テストはいつも高成績で、先生達からの評判も良く、控えめな性格ながら友人も多い、そんな優等生を絵に描いたような女子。こういった行為からは一番縁遠い人物だと思っていた。
「皆川くん、今年の自由研究はなにするの?」
「え? なんで?」
 さらに予想外の質問に、僕の頭は疑問符だらけになる。
 うちの学校は中学にしては珍しく、夏休みの自由研究がある。みんなはめんどくさいと不平を漏らすけど、元々そういったことが好きな僕としては、アイデンティティーを示す絶好の場だ。
 でもどうして砂森は、そんなことを気にするんだろうか。
「皆川くんの去年の研究面白かったから。粘菌のやつ」
「ホントに?」
「うん。だから今年は何するのかな、って」
 砂森の言葉に感動し、僕は嬉々として研究の予定を話す。
「今年はね、隣町の山でヘビノネゴザっていう面白い植物が群生してるのを見つけたから、周りの地質を調査して、関係性を調べてみたら面白いかなぁ、なんて思ってるんだけど……」
「そんな難しそうなことできるの?」
「僕がやりたいと思ってできなかったことなんて一度もない」
 今まで実際そうだった。だからこれからもそうだろう。
 僕の大言に砂森はふぅん、と言って、少し口元を歪めた。
「だったら皆川くん、それよりもっと面白い研究があるんだけど」
「え、なんだよ」
 本当は僕の研究に興味なんてないんじゃないか、と怒る前に告げられた言葉は、僕の口を開きっぱなしにするのに十分な威力を持っていた。
「今年の自由研究は『女の子の観察』なんて、どう?」



 ******



<八月二日(金)晴れ>

「さっき砂森さんの親御さんから電話があったのですけれど」
 朝食の席で、そう切り出したのはばあちゃんだった。食卓には僕とばあちゃんしかいないのだから、発言するのは二人のどちらか。でも、無口なばあちゃんのほうから話し出すのは、なかなか珍しいことだ。
「……へぇ、何かあったの?」
「あなたのクラスの砂森さん、昨日からお家に帰っていないそうです。ノリヨシさん、何か心当たりはありますか?」
「いや、別に」
 ばあちゃんは僕のことをさん付けで呼ぶ。昔は大和撫子と呼ばれるような女性だったのかもしれない。
「どんな子なんですか?」
「砂森のこと? 優等生だよ。成績が学年トップのクラス委員長。今度生徒会長に立候補するって」
「へぇ。普段から仲良くしているんですか?」
「特に話したことはなかった、と思う……」
 それきり僕もばあちゃんも黙った。二人だけの食卓はいつもこんなものだ。
「ごちそうさま。午前中は離れのほうにいるから」
 テーブルの隅に集めてあったキャベツの芯とニンジンの皮を掴み、縁側から庭へ飛び出す。そのまま、向かいの建物へ。引き戸を開けて中へ入ると、いろんな動物の匂いが鼻をくすぐった。
 物置兼動物小屋の離れは、僕の秘密基地である。父さんがどこからか手に入れてきた般若面やら、巻貝形のオカリナやら、よくわからない言葉で書かれた本やらが置いてあったりして、ちょっと不思議な雰囲気が醸し出されている。
「ナインチェおはよう、ご飯だぞ」
 持ってきたキャベツとニンジン、それから常備のペレットを一掴み皿に入れ、柵に囲まれた土間の隅に置く。床に掘られた巣穴からミニウサギが一匹飛び出してきた。彼女の食事風景は見ていて飽きない。
 畳敷きの座敷に上がり、ショウナイキンギョのピーチとミシシッピアカミミガメのクッパに餌をやる。マリモのマリオは水槽ごと日当たりの良い窓際に移す。
「パロール、おはよう」
「オノレジシンワイキンガタメニクウ。イキンガタメニクウ!」
 食に快楽を求めないと豪語しているヨウムには、野菜豆類果物ナッツ等をミキサーにかけた完全栄養食を与える。離れの住人のなかでコイツが一番贅沢な物を食べていることは言うまでもない。
「さて、と」
 本来ならこれで全員の食事が終了し、僕は山へ出掛ける準備をする、のだけれど。
 一階よりもずっと狭い二階へと続く階段を昇る。ここで本当に最後。低い鴨居に頭をぶつけそうになりながら、戸を開けて中に入った。部屋の隅に転がるタオルケットにくるまった物体を揺する。
「朝だぞ、起きろ」
「んぅ……」
 蠢く布をめくると、桃色のパジャマを着た少女が姿を現した。
 砂森風子。
 絶賛行方不明中の優等生が、なぜ僕んちの離れでミノムシよろしく眠りこけているのか。知れるものなら、僕が知りたい。
「ほら、君の分」
 早朝のうちに作り、一階に隠しておいたサンドイッチを差し出す。砂森はくしくしと目を擦りながらそれを受け取り、天に掲げるようにうんと伸びをした。膨らみかけの胸が一瞬強調されて、思わず目を逸らしてしまう。
「おはよぉ。もう朝?」
「七時半だよ。ぐっすり眠れた?」
「あちこち蚊に刺されたぁ……」
「だろうね」
 こんな場所で寝たらそうなるのは当たり前だろう。僕も父さんにこの離れをもらったばかりの頃、嬉しくて一夜を過ごしたら虫刺されだらけになったことがある。
「それ以上刺されたくなきゃ帰りなよ。さっき君んちから電話がかかってきた。心当たりないかって」
「書き置きはしてきたから、問題ないよ」
 サンドイッチを食べながら、砂森は呑気に言った。
「それで問題ないわけないだろ。家の人たちも心配してるよ。何よりバレたら僕がどうなるか」
「もう少ししたら、帰るから」
「もう少しって……」
 この『家出計画』を手伝ってくれるよう頼まれたのは、夏休み前のことだ。僕が離れを持っているという情報をどこかから仕入れてきた彼女は、頭を下げて言った。
 八月になったら家出する。もしそうなったら匿ってほしい、と。
 正直冗談だとしか思っていなかったのだけれど、果たして彼女は八月一日――つまり昨日の夜、僕の部屋の窓ガラスに大量の輪ゴムをテチンテチンと飛ばしてきた。有言実行とは恐るべし。さすが優等生。
「ごちそうさまでしたー。喉渇いちゃった。水は?」
「ああ、飲み水忘れてたな。水道水でよければここの一階にあるよ。トイレの前」
 いっそなかったほうが、砂森も潔く諦めてくれたかもしれない。なまじ設備が整っているせいで、食べ物さえあれば十分生活できてしまう。
「これから何するの?」階段を下りながら砂森が僕に聞いた。「私の観察?」
「馬鹿か。今日は山に出かける」
「自由研究しないの?」
「自由研究しに行くの。まだそんなこと言ってるのか。君の研究したところでどこにも発表できないから」
 それを人は犯罪の自白と言う。
「発表することが研究の全てじゃないと思うなぁ」
「学校の課題なんだからそういうわけにもいかないだろ」
「ウサギの観察ってことにすればいいんだよ」
 砂森が土間で寝ているナインチェを指さす。お腹いっぱいで幸せそうだ。
「やだよ、そんな隠喩のかたまりみたいな研究。だいたいウサギと人間じゃ生態が違うから」
「そこは都合よく書きかえちゃえば?」
「研究の捏造はしない」
「固いなぁ。匿ってもらってるんだし、皆川くんの言うこと何でもきくよー?」
「……帰ってほしい。いや、帰れ」
「それはダメー」
 ニコニコしながら手でバッテンを作る砂森。
 こいつ、こんなに奔放な性格だったのか。今まで学校で見てきた彼女とキャラが違いすぎる。女子って実はすごく怖い生き物なんじゃないだろうか。
 水を飲み終えた砂森は、ご飯を食べているパロールの前で足を止めた。
「この大きいオウム……パロールくんだっけ? 飛べないの?」
「飛べるよ。クリップ――えっと、羽切りしてないし。でも飛ぶより喋るほうが好きなんだ、そいつ。ちなみにオウムじゃなくてヨウム。アフリカ生まれのデカイ種類」
「わはぁ、喋るんだ! 噛まない?」
「最近は大分落ち着いたかな。頭撫でても大丈夫だよ」
「へぇー」
 おっかなびっくりといった様子で、パロールに手を伸ばす砂森。餌を食べていたヨウムは、そんな彼女のほうを向いたかと思うと、突然呟いた。
「クサ」
 ビクッとして砂森は手を引っ込める。
「えっ? わ、私匂う?」
「いや、何か言いかけたんだと思う」
「クサリヲアザワラウモノガ、スベテジユウトハカギラナイ」
 小首を傾げながら、パロールが今度ははっきりと言った。
「……何?」
「父さんが面白がっていろんな偉人の格言を覚えさせたんだ。僕はあんまり好きじゃないけど」
 そもそも鳥にお説教されたいなんて物好きはそんなにいないだろう。
「へぇ、頭良いんだね!」
「鳥の中ならたぶん一番知能高いんじゃないかな」
 三歳児並だという話も聞いたことがある。
 砂森は目を輝かせてパロールに話しかけた。その都度パロールも適当な言葉で返事をする。
「じゃあ僕は行くから、適当に暇つぶししてて」
「うん、パロールくんとおしゃべりしてる」
「もし何か困ったことがあったら、家に帰ってくれ」
「……いじわる」
 睨む砂森を無視して外へ出る。
 ちょうどそのとき、玄関のほうでマロンの吠える声が聞こえた。滅多なことでは吠えないやつなので、心配になって見に行く。
「マロン、どうかした? うお!」
 牙を剥いて唸るマメシバの視線の先に、黒くて大きな毛むくじゃらのカメがいた。それが黒猫だと分かるまで数秒かかり、さらに四角い甲羅ようなものが紐で縛りつけられたハードカバーの分厚い本だと分かるまで数秒かかった。
 おいおい、なんでこんな可哀想なことするんだ。
 急いでマロンを家の中に入れ、犬用の煮干しを片手に黒猫に近寄る。
「ほーら、取ってあげるからおいで」
 猫は煮干しに全く手を出そうとせず、ただ僕を興味深げに見上げていた。変なやつだ。まぁ紐を解いている間大人しくしててくれるのはありがたい。
「ん?」
 本を取ったところで気づく。影で見えなかったけれど、猫はエプロンみたいな服を着ていた。いったいどういう趣味の飼い主なんだ。
「あ、おい」
 黒猫はまるで本を渡すことが目的だったように、こっちを見てニャアと一声鳴き、軽やかに塀を飛び越えて行ってしまった。
 いや、置いてかれても困るんだけども。
「うーん、これ交番に届けたほうが……っ!?」
 思わず息を飲んだのは、その本の表紙に書いてあるタイトルが目に入ったから。
『ヒトの飼い方』
 随分とパンチが効いているというか、エキセントリックなタイトルだ。交番なんかに持っていったら事情聴取されてしまいそう――という点はさして問題じゃない。こんな題名の本が、今、ここにあることが大問題だ。
 砂森のことを知っているやつがいるのか。
 思わずキョロキョロと辺りを伺ってしまったが、外へ出せとガリガリ玄関の戸を引っかくマメシバ以外、怪しい影は見当たらなかった。



『ヒトは飼育が非常に難しい生き物です。身体は丈夫なのでそう簡単に死にませんが、総じて我が強く、気難しい子や素直に言うことをきかない子が少なくありません』
『記憶力が良いため、過去の失敗や印象的な出来事を後々まで覚えています』
『ヒトを飼うのに広い部屋は必要ありません。暇にならない程度の娯楽と、お腹が空かない程度の餌さえあれば長生きしてくれます。むしろ多くの個体と関わることでストレスを感じ、病気になってしまう子もいます』
「なんなんだ、これ」
 猫が置いていった本は、内容的にはかなり興味深かった。結局、山に行く予定は中止し、半日かけて一気読み。読み終えた本の表紙をもう一度眺め、ため息を吐く。
 ヒトの飼い方。
 父さんの書斎にある文化人類学の本とは少し違って、あくまでも生物としてのヒト――ホモ・サピエンスについて、飼育の観点からまとめてある本だった。章立てはヒトの生態、体のしくみ、育て方、しつけの方法、習性、個性、病気など。何に対する配慮なのか、繁殖方法のページは破けていて読めない。
 これを僕にどうしろと。砂森のしつけにでも役立てろというんだろうか。
 砂森のしつけ。
 自分で考えておいてなんだけど、そこはかとなく倫理観に欠けていてヤバい言葉だ。
 もう一度パラパラとめくってみたところで、ある文章が目に入った。
『ヒトは基本的になんでも食べますが、他の動物に比べて細菌に弱いので、古くなった食材はなるべく使わないようにしましょう』
「あ、砂森のえ……晩御飯忘れてた!」
 本の影響か、またも危ない言葉が飛び出しそうになる。いけないいけない。
 適当な食事を用意し、離れへ急ぐ。
「ごめん、ご飯遅れちゃって――」
「ひゃっ!」
「……あ」
 上がり框に足をかけ、お盆から目を離したところで、濡れタオルで体を拭いていた砂森と目が合った。
「ご、ごめっ! っと!」
 慌てた拍子にコップを落としてしまう。しかしおかげで彼女から目を反らせた。
「その……そんなに見えなかったから!」
 思わず声が大きくなってしまう。大してフォローになっていないのは自分でもわかった。
 心臓が早鐘を打っている。なんでノックもせずに入ってしまったんだ、僕は。
 砂森は女の子なのだ。そう、あんまり気にしてなかったけれど、気にしないようにしてたけれど、彼女は彼女なのだ。それは何よりも、たった今見た光景が証明している。
「もういいよー、皆川くん」
 頭の上から声が降ってきた。言葉に怒気が含まれていないことにホッとして顔をあげると、そこには裸の少女が立っていた。
「よ、よくないじゃん! 全然全裸じゃん! 早く服着てよ!」
「いいよ、見ても。研究するんでしょ?」
「しないって言っただろ! ご飯、ここに置いとくからね!」
 それだけ告げて、離れを飛び出す。
『ヒトのメスは生後十年から十五年で性的成熟が始まります。外見的な変化として、乳房が発達し、臀部にも脂肪が蓄積されます。生殖能力を獲得した後――』
 こんなときに限ってあの本の内容を思い出してしまう、自分の記憶力の良さが恨めしかった。



<八月三日(土)雨>

 昨日の一件に関しては触れない方向でいこう。話を振ってきても無視しよう。そう心に固く決め、離れ二階の戸を叩く。今度は間違いがないように。
「ふぁーい」
 気だるげな声が聞こえてきた。
「風子、入るぞ」
 ああ、なんかこれも変に意識してるみたいでやだな、と微妙な気持ちになりながら中に入って、目が点になる。
「おはよー、皆川くん。おおー今日の朝ごはんは純和風ですな」
「砂森さん、それは、なんの真似ですか……?」
 口調が丁寧になってしまったのは、彼女の首に倫理上あってはならないものがつけられていたからだ。
「首輪だよ。その戸棚の中に入ってたの。ほら、このほうが皆川くんのペットっぽいかなぁと思って」
 優等生だと思ってたけど、こいつ絶対馬鹿だ。
「やめてよ! もし見つかったら僕の人間性が疑われるじゃん!」
「女の子を飼ってる時点で十分疑われると思うけどなぁ」
「もう帰れよっ!」
 本気で僕を少年院送りにする気なんだろうか。実は家出とか全部ウソで、僕はとんでもない組織の陰謀に巻き込まれているのではなかろうか。
「男の子としてなんかこう、グッとくるもの、ない?」
「ないよ! っていうか君学校と全然キャラ違うよね!?」
「学校だと作ってるから。昨日ので一層吹っ切れちゃった」えへへ、と笑って恥ずかしそうに頭をかく砂森。「裸を見られちゃったら、もう家族だよね」
「どんな理屈だ……!」
「セイネンハ、オシエラレルコトヨリ、シゲキサレルコトヲホッスル」
 テーブルの上でパロールがほざいた。ちょっと黙っててほしい。
「ところでこの首輪って、マロンちゃんの?」
 砂森が首輪についたネームプレートを撫でながら聞いてきた。
「いや、たぶん先代番犬のやつだよ。クラウンラチェット号って名前の秋田犬」
「へぇ、カッコいい名前だね」
「ちなみにマロンも本当の名前はエスカレアマロン号」
「カッコいい!」
「父さんのセンス褒めるやつ初めて見た……」
「なるほどー。このネームプレートに書いてあったのって名前だったんだぁ。あ、私のネームプレートも作ってよ。風子って」
「作るかボケ!」
 そんなことしたら今よりもっとレベル上がっちゃうじゃないか。なんのレベルかわからないけど。
「セイシュンハ、ナニモカモジッケンデアル」
「ほら、パロールくんも言ってるよ?」
「鳥畜生の言うことなんて気にするな。適当に鳴いてるだけなんだから」
「エンジャクイズクンゾ、コウコクノココロザシヲシランヤ」
 タイミングよく鬱陶しい言葉を使うんじゃない。
「エンジャク、ノリヨシ、エンジャク」
「こいつ焼き鳥にしてやろうか」
 僕とパロールのやり取りを見て、砂森はお腹を抱えて笑った。何かがツボに入ってしまったらしい。
「あは、あは……おかしー。あのさ、私も皆川くんのこと、下の名前で呼んでいい? っていうか、なんて読むか知らなかっただけなんだけどねぇ。先生もみんなも皆川くんとしか呼ばないから。ノリヨシくんって言うんだ?」
「……ああ。可能の『能』に方角の『南』で、能南(ノリヨシ)。読みにくいよね、本当にネーミングセンスどうにかしろって話だよ」
 なんとか号じゃなかっただけまだマシかもしれないけど。
「ノリヨシくん、かぁ。うん、やっぱりお父さん良い名前つけるね! ノリヨシくん、私のことも風子って呼んでよ」
「やだ」
「えー、なんでなんでー?」
 砂森が僕の肩を掴んでガクガクと揺らす。本当に別人のようだ、というかこれはテンション上がって発言に歯止めが効かなくなっているだけか。
「それより、さっき君んちの両親が来た」
 彼女を落ち着かせるため、話題を変える。途端、砂森は笑うのをやめた。さすが効果てきめんだ。
 今朝の話。砂森のお父さんとお母さんが駐在さんを伴って訪ねて来て、僕も二、三質問を受けた。あの砂森風子のご両親とは一体どんな曲者だろうと身構えていたけれど、至って普通な、むしろ娘を心底心配する理想の父母だった。うちの放蕩親父にも見習わせたい。
「ふぅん。どうだった?」
「何が?」
「うちのお父さんとお母さん。見た感じ」
「とても家出したくなるような家族とは思えなかった。君、あの人達にどういう不満があるの?」
 砂森の家出から二日経ち、騒ぎはにわかに広まっていた。どの友達の家に問い合わせても彼女がいないのだから、親だって心配するどころの話ではないだろう。二人の真摯な態度と憔悴した表情に思わず、おたくのお嬢さんはうちの離れに不法侵入しています、と白状したくなってしまった。
「たぶんノリヨシくんに言ってもわからないんじゃないかなぁ。私がただ我儘なだけって思ってもらっていいよ」
「実際は違うみたいな言い方だね」
「あはは、確かにそうだね。卑怯な言い方でした。砂森風子は我儘な子です。だから家出とかしちゃうんです」
「……じゃあもう理由は聞かないけどさ、親御さんたち、本気で心配してたぞ。早く帰ったほうがいい」
「ダメ」
 僕の助言を砂森はピシャリと跳ねのけた。
「イヤじゃなくて、ダメなのか?」
「うん。これは私の挑戦だから」
 よくわからないことを言って、砂森は水場のほうへ歩いて行く。そしておもむろに服を脱ぎだした。
「ちょ、何する気だよ」
「何って、夏の暑さで火照った体を拭くんだよー」
「あの、僕」
「見ても良いってば。私はノリヨシくんの研究対象だから」
「……終わったら呼んで。服きてからね」
 僕はため息を吐いて、離れを出た。



<八月五日(月)晴れ>

 砂森の家出から五日目。思ったよりも事態は深刻化していなかった。彼女の両親が警察に相談したという話は聞いたけれど、事件が起きなければ向こうとしても動きようがないのだろう。もっと大規模な捜索が行われると思って恐々としていた僕には都合のいい話だ。
 ただ、家の前の電柱に貼られた彼女の顔写真を見たときは、やるせない気持ちになった。
「なんかご飯の量多くない?」
 炊飯器を覗いて、台所にいるばあちゃんに聞く。二人分の朝食にしては少し多かった。
「そうかしら? 最近もの覚えが悪くなってきましたから、分量を間違えてしまったかもしれません。歳は取りたくないものですね」
「そ、そうだね」
 お年寄りの老化ネタはどう反応したらいいかわからない。本人としては笑ってほしいんだろうか。
 朝食を済ませた後、いつもと同じように離れの住人たちにご飯を上げ、二階の新入りを起こしに行く。
「砂森ー、入るぞ」
 挨拶ももはや恒例だ。ただ彼女の返事は待たなくていいということになったので、ほとんど便宜上のものだけれど。
「おい、起きろって。朝ごはんだぞぅっ!?」
 ミノムシを小突いていたら、突然出てきた手に服の裾を握られた。かと思うと、次の瞬間には引き倒されていた。
「ノーリヨーシくん」
 砂森のおでこが目の前にあった。
「何のつもりだよ、おい」
 温かい息が首筋に当たる。
「すごくドキドキしてるね」
「いきなり引っ張るからびっくりしただけだ」
 砂森からはシャンプーのいい匂いがした。タオルで体を拭いているとはいえ、三日以上風呂に入っていないはずなのに、女の子の体というのは不思議なものだ。
 そんなことを考えて必死に雑念を振り払っていたら、意外にも彼女のほうから離れていった。
「ありがと、もういいや」
「なんなんだ……よ?」
 でへへと笑う彼女はもう、いつものパジャマではなく、首輪もつけていなかった。数日前、ここに来た時と同じ私服だ。
「これでおしまい」
「え?」
「長い間お世話になったけど、今日で帰るね」



「私ね、二年生の中で成績トップなんだ」
 上がり框に腰掛けた彼女と、会話する。どちらかが最後に何か話そうとか言い出したわけではなく、靴を履くタイミングで偶然そうなった。
『ヒトはコミュニケーションの際、メッセージを受け取ることよりも送ることを好む傾向があります。これを上手く利用することで、ヒトとの仲を深めることができるでしょう』
 話し始めて、既に一時間が経っている。
「知ってるよ。知らないわけないだろ」
「お父さんとお母さん、二人共頭いいから勉強教えてもらってて、もう中学校の分は全部終わってるの。これは知らなかったでしょ?」
「へぇ、じゃあ学年どころか校内でも一位なんじゃない?」
「うん、たぶん。それからねー、ピアノのコンクールでも優勝したんだ」
「それは素直にすごいと思う」
 僕の賞賛に、彼女は自嘲気味に唇を歪めた。
「しかもね、しかもだよ? いろんな作文で賞状もらってるの」
「羨ましいな。僕は文章下手くそってよく言われるから」
「……ノリヨシくん、本気で私のこと羨ましいと思う?」
「いや、別に」
 研究で表彰されるなら少しは嬉しいけど、やっぱり野山で変な生き物を見つけたときの興奮に勝るものはない。
 でもそういう楽しみは人によって違うものだ。努力が認められたとき、砂森は嬉しくないのだろうか。
 僕の言葉に砂森は、そっか、と言って笑った。
「私はここのみんなが羨ましいなぁ。何もしなくても毎日ご飯を貰えて、危ないこともなくて」
「でも、広い世界で自由に生きることはできないよ?」
 僕の言葉を砂森は鼻で笑う。少し怖かった。
「だったらノリヨシくんはどうして、この子達を自由にしてあげないの?」
「そんなことしたら生態系壊しちゃうじゃん」
「そういう問題がなかったら、この子たちを逃してあげる?」
「いや、それは……」
 しない、だろう。
「分かってるよ、ノリヨシくんが優しいこと。外の世界には、たくさん不自由があるもんね。みんな自分のためだけに生きるわけにはいかなくなっちゃう」
「……ああ」
 今の言葉で、砂森が家出した理由が少しだけわかった。
 日常世界にいる限り、彼女は自分を優先することができないのだ。みんなの意見に従い、みんなの顔色を伺い、みんなが望む優等生を演じ続けるしかない。
「私ね、一つだけすっごい特技があるの」
「いや、君の特技は一つ二つじゃないと思うけど……どんな特技?」
「何をすればみんなが喜ぶか、何が一番善い選択か、わかるんだ。友達とお喋りするときどういう反応をすればいいか、大人が読む文章にどんなことを書けばいいか」
「僕のことも?」
「ノリヨシくんは違うと思ってた。でも今はそこまででもないかな」
「僕だって人間だよ。違うわけない」
「うん……そうだよね。みんな同じなんだよね」
 でも、だったら――と。砂森は何かを言いかけて、やめる。
「発言キャンセルするなよ。他にも我慢してることたくさんあるだろ。もっと自分が言いたいこと、はっきり言えばいいんじゃないか?」
「ノリヨシくんの前では言ってきたつもりだけどなぁ。それに、言うか言わないかはあんまり関係ないんだよね」
「そんなの、言ってみなきゃ分からないだろ」
「分かるよ。だって結局、私はみんなの最善を選ぶもん」
 みんなの最善。
 その『みんな』に、彼女は含まれているのだろうか。
「じゃあ、この家出は?」
「これはかなり最悪な選択だったねぇ。なんでできたのか自分でも不思議。お父さんとお母さんのこと大好きなのに、家出なんてして、心配かけて。だから帰って謝らないと。もう二度としませんって約束しないと」
 最善の選択を告げると、砂森は決心したように立ち上がる。僕も立ち上がり、彼女の荷物を持った。
「またいつでもおいでよ。僕もばあちゃんもマロンもパロールもナインチェも、みんなここにいるからさ」
「……うん、ありがとう。みんな、じゃあね」
 土間で靴を履いて日傘を差し、砂森は離れの住人たちに手を振る。そして僕から荷物を受け取ると、久しぶりに広い世界へ踏み出した。
「はぁー、夏だぁ!」
「そりゃ、八月だからね。一人で大丈夫?」
「だいじょぶだいじょぶ。それに行方不明の子とノリヨシくんが一緒にいたら、おかしいでしょ?」
「まぁ、そうだけど。でも理由なんていくらでも……」
「いいの。心配しなくても、道なら分かるから。迷うことなんてないから」
 自分に言い聞かせるような口調で、どこか諦めを漂わせて、砂森が言った。
 まだ何か隠している気がして、このまま帰らせるべきなのか、僕は躊躇する。
「あのさ」
「ん?」
「家出して、良かったと思う?」
「うん、とっても楽しかった」
 引き止めることはできなかった。
 そんなことをしたら、今度こそ本当に、僕は彼女の面倒を一生見続けなければならなくなる気がした。彼女をこの狭い離れの中に、監禁し続けなければならなくなる気がした。
 僕には、何もできない。
「カミハシンダ! カミハシンダママダ!」
 パロールの嘆きを最後に、僕らの自由研究は終わりを告げた。



 ******



 夏休み中、結局僕らは一度も会わなかった。そして砂森が東京へ引っ越したことを知ったのは、夏休みが明けた直後だった。
 きっと彼女が家出する前から決まっていた話だったんだろう。中学校の勉強を全て終わらせた彼女が、こんな片田舎で燻っている理由などない。少なくとも、彼女の両親にしてみれば。
 だとしたら、彼女があんな行動に出た理由もなんとなく分かる気がした。自分を信頼してくれている人たちに対して、引っ越しなんてしたくないと、面と向かって伝えることができなかったのだ。
 水槽の循環器が微かな音を立て、生意気なヨウムがときたま虚勢を張る、安全で自由な、僕の世界――いつもの静けさを取り戻した離れを掃除しながら、あの奇妙な住人がいた数日間を思い出す。
「ココ、コ、コ」
 パロールは僕が知らないうちに鶏みたいな声を出すようになっていた。おおかた彼女が面白がって覚えさせたんだろう。意味のわからないヒトの鳴き声よりよっぽど洒落が利いていて、僕好みだ。
「土間は終わり……っと」
 さて、あとはテーブルの上の首輪と、例の本だけ。
 片付ける前に、もう一度だけ首輪を眺める。
 こんなものを身につけてまで人に匿ってもらおうとする心境とは、いったいどんなものなのか。今思えば、あれは決してふざけていたわけじゃなくて、彼女なりの覚悟だったのかもしれない。彼女にとって日常は、そのくらい不自由なものだったのだ。
 本と首輪を戸棚へしまいこむ。もう二度とそれが目に入らないように、もう誰もそれをつけることがないように、暗闇のずっと奥の方へ。
 僕らには守らなきゃならない法律も、道徳も、世間体もある。どんなに窮屈だろうと、どんなに納得いかなかろうと、縛られなければならない。自由に生きることなんて、不可能だ。僕らはただの動物じゃなくて、人間なんだから。
 もう自由研究は終わった。結論は出た。世の中にはどうしようもないことがある。僕にもできないことがある。
 だからもう、彼女のことは忘れるべきだ。
「ココニ」
「え?」
 離れを出ようとしたところで、聞き覚えのある声がして、振り返る。
 隠し続けた本音を絞り出すように。
 僕の無能を責めるように。
「ココニイサセテ」

 狭い鳥籠の中で、誰かが呟いた。




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