かみは死んだ。そう言われて久しい。
2033年のゴールデンウィーク最終日。わたしは雑然とブースが立ち並ぶ、とあるイベント会場を訪れていた。扱っているものは紙の本。一昔前には同人誌即売会と呼ばれていたものだ。
全盛期には入りきれないほど多くの人が集まっていたらしいが、紙の本が廃れた今では人の入りは四割程度だ。どこか陰鬱な雰囲気漂う会場には見渡したところ若い女の子はわたしくらいだ。紙の本を買うのは年配の人ばかりだから当然か。
こんなところに来たくなかった。けど目的のBL本はここにあるのだから仕方がない。
すべては母のためと自分に言い聞かせる。
そう思って、暗く雑然とした場内に足を踏み入れた。
* * *
十五年ほど前。エコだ、効率的だとしてペーパーレス運動が盛り上がり書籍の電子化が進んだ。
そして紙の本はスキャンされて内容がコピーされてしまう一方で、電子書籍のコピーガード技術が発達し、また読みやすい端末が作られたため、著作者も出版界もこの流れを歓迎した。製紙業と印刷業の反対を押し切り、ついに紙の本は電子書籍に取って代わられた。
結果、生産量が落ちた紙の値段は高騰し、現代では紙の本は美術品同様、金持ちのマニアでもない限り見る機会はない。そのせいかつまらない作品でも希少価値からか、高い値段がついている。
ちなみに森林伐採に歯止めがかかったものの電力需要が跳ね上がり、ペーパーレス化はエコでも効率的でも無かったと授業で教わった。しかしそのことに気づいた時には製紙業界は大打撃を受けていて、もはや後戻りはできなくなって今に至っている。
紙は死んだのだ。
* * *
ここの会場内を歩き回って眺めてみても、多くは昔の作品ばかり。しかもそれだけでは広いスペースを埋められないため、書籍以外のものも並んでいる。
美少女フィギュア、アニメのおもちゃ、奇妙な衣装……。見慣れた最近の作品のものが並んでいないところを見ると、紙の書籍と同じように、懐古趣味的なものなのだろう。
ただ単に品物が欲しければネットで注文すればいい。宅配業者が届けてくれる。見本だって3Dで居ながらにして確認できる。もちろん無料でだ。ペーパーレス運動は失敗だったと分かっても、効率重視の風潮は決して後戻りすることはない。
わたしも絵は好きだけれど、デジタルデータとはどうも勝手が違う。モニター越しではない生の絵は、こう……何と言うか、違和感がある。普段、見慣れていないせいだろうか。
わざわざこうして会場に足を運ぶなんて物好きな人ぐらいだろう。
それは、まあ、私も同じだが。
しかし並んでいる書籍に付けられている値段を見ると、やはり場違いな気分になる。例えばあそこの紺色のエプロンを着たお姉さんがいるブースに並べられた本一冊なんて私の半年分の生活費と同じくらいだ。異世界の魔術書だなんて宣伝してるけど、どうだか。
趣味人の考えることは本当にわからない。なぜこんなものに大金を払うのだろうか。紙なんて燃えちゃうし、汚れるし、場所取るのに。中身をスキャンしてしまえば必要ないだろうに。
そんなことを考えながら歩いていると目的のブースに着いた。
席には青い服を着たおばさんが一人座っている。見た目は三十代後半か。実年齢はわからない。ブースの前には目印の赤いカーネーションが挿してある。
「花言葉は『母への愛』」
ブースの前に立って合言葉を口にした。
「若いのね」
顔を上げたおばさんは意外そうだった。さっきから自覚はあったけど、他人から言われるとやっぱり場違いなんだと納得。
「あなたが『BOTAN』さん?」
おばさんは黙って頷いた。
「例のモノは?」ちょっと危ない取引みたい。
「これよ」
おばさんは後ろの箱から本を一冊取り出す。タイトルは『俺の腕の中で逝け』。間違いない。本当にあったとは。しかしずいぶん薄い本だ。二十ページくらいしかないんじゃないか。
「条件さえ満たせば、ただで貸していただけるんですよね?」
BOTANさんはコクりと頷いた。
* * *
「BL本が読みたいの」
「は?」
私は何のことだかわからず間の抜けた声をもらした。BL本。ボーイズラブ。母の口から突然出てきた言葉の意味に気づくまで時間がかかった。
とある病院のホスピス病棟。終末期の患者が収容されているそこに、私の母が入院していた。
四月の終わり頃、中学からの帰りに見舞いに行った時のことだ。
わたしが「何かしたいこととか欲しいものある?」と訊いた。すると返って来た答えがBL本だ。
「『俺の腕の中で逝け』っていう、まあ……男と男の恋愛漫画ね」
「それなら、すぐにダウンロードしてあげる」
気を取り直して、私はタブレットの検索機能を起ち上げる。
母の両手は動かない。筋萎縮性の神経症を患っていた。
最初は軽く考えていて放っておいたこの病は、母から生きる力をどんどん奪い、ついにはベッドから動けない状態にまでなってしまった。
だからBL本などという言葉にも意外だとは思っても呆れたりはしなかった。
母は話すにもゆっくりと一語一語を絞るように紡ぐ。
「電子化はされてないの」
母の言葉と同時にタブレットに表示された検索結果は0件。
「0件って……それ、本当にあるの?」
「ええ、二十年前に」
母は優しく微笑み、
「わたしがあなたと同じ年くらいの頃にね」
懐かしい思い出に浸るように言った。
「えー、お母さん。紙の本なんて高くて買えないよ」
わたしはうっかりそう口を滑らせてしまった。
「いいのよ。わがまま言ってごめんなさい」
母は穏やかにそう言って、それでその話は終わった。
* * *
しばらくして、わたしはその時のことが気になって本のことを調べてみた。そこでネットを彷徨ったあげく、たどり着いたのがハンドルネーム『BOTAN』のブログだった。『BOTAN』が本を持っているという。コメント欄に譲ってくれるように書き込んでみたら、あっさり断られた。私が出せる精一杯の金額を言ってみたが「話にならない」との返事。一冊しか無いので、どんなにお金を積まれても売るつもりは無いという。他に頼むあてもないので、つい病気の母が読みたがっていたことを書き込んだら、「条件次第ではただで貸してやってもいい」とのコメントをもらった。で、この場と合言葉を教えられたわけだ。
「それで条件ってなんですか?」
ネットでのやり取りでは教えてくれなかった。面接して判断したいという。
「この本が欲しい理由を教えて」
それならコメント欄でやり取りをしたではないか。そう言おうとすると、
「もっと詳しく知りたいの。この本は私にとっても大切な宝物だから。まずはこの本のことをどこで知ったの?」
BOTANさんは身を乗り出して興味津津といった様子で尋ねてきた。
「病気の母が読みたがったのです」
ブログに書き込んだのと同じ回答。
すると彼女は腕を組んで考えるそぶりを見せる。
「この本のことは関係者以外誰も知らないはずなのよ。お母さんはどうして知っていたのかしら?」
それはわたしにもわからない。母は話してくれなかったのだから。そう答えると、
「お母さんの名前は?」
と訊き返された。
わたしは言葉に詰まる。というのも、わたしもまたBOTANさんのことを知らないのだから。こちらの事情をどこまで話していいものやら。病気の母が読みたいと口にしていたとまでしか書き込んでいない。信用という点ではお互いに手探りだった。
躊躇していると、BOTANさんはじっと見つめて、
「もう一度言うけどこの本はね、私にとって、ううん、私たちにとってすごく大事なものなの。信用できない人には絶対に貸さない。対価としてそちらの事情を語ってちょうだい」
と迫ってきた。
それでもわたしは下を向いて俯く。沈黙が流れた。
ややあってBOTANさんは根負けしたように肩をすくめる。
「慎重なのはいいけれど、使いどころを間違えればただの臆病よ。けど、いいわ。年長者として助け舟を出してあげる。もしかしてお母さんの名前は鈴木蘭ではないかしら?」
わたしは驚いた顔を上げる。それは確かに結婚前の母の名前だった。
「どうして……?」
困惑してそれだけしか口にできなかった。
「それはね」
BOTANさんはいたずらっぽく笑う。
「この本を知っているのは書いた私たちしかいないからよ」
昔々、あるところに三人の夢見る学生たちがいました――。そんな風にBOTANさんは懐かしそうに昔話を語り始めた。
* * *
「ボタン、ここは別のアングルの方がよくない?」
「いやいやショーブさん。こっちの方がいいですぜ」
「スズランは変なこだわりがあるよね」
三人は『May'z(メイズ)』という同人漫画サークルを作っていたの。五月の花の名前をペンネームにしてね。私はボタンという名前で参加していたわ。
時にぶつかりながらも三人は創作活動に励んでいたの。売れたいという思いがあったのだけれど、何より楽しかった。
描いていたものは主にアニメの二次創作。こうしたイベントに合わせて本を作っていたの。売る時に女賢者のコスプレをしたりしてね。コスプレを知らない? ああ、今で言うバーチャルドレッシングよ。あんな感じで実際に服を作って着るのよ。リアルで楽しむの。
それで最初の頃はちっとも売れなかったけど、技術と経験を重ねてだんだんと売れるようになったわ。初めて百冊完売した時はすごく嬉しかった。そんなに驚いた顔をしないで。あの頃は紙の値段なんて安かったのよ。
自信をつけた三人は二次だけでなくオリジナルも描くようになったわ。自分たちが考えたキャラクターを使って、自分たちだけのストーリーを描く。本当に楽しかった。
最初のうち、シナリオは三人で話し合って決めていたわ。絵もみんなで描いていた。
けれど出来上がった作品の売れ行きには明確に差が出てくるようになったの。
ショーブの考えたシナリオ、ショーブの描いたデザインが一番支持された。そんな状況が続くと三人の中に対立が生まれてしまった。
「黙って言う通りに描けばいいんだよ!」
「『May'z(メイズ)』はあなただけのものじゃない! こんなのわたしがやりたいことじゃない!」
「やめてよ……こんなのやだよ……もっと楽しくやりたいよ……」
その頃は単なる方向性の違いだと思っていたけど、根っこには一人売れ続けるショーブの才能への嫉妬があった。ショーブも売れたことで自分一人でやっていけると思うようになっていたわ。
別れはある日突然訪れた。それもつまらないことでね。
スズランが書いたシナリオをショーブが気に入らなかったのがそもそもの発端なんだけど、ショーブがスズランに「飲み物買ってきて」って言ったの。それにスズランが「わたしはあなたのアシスタントじゃない!」って怒鳴って、私が「ケンカするくらいなら私の飲み物買ってくればいいのよ」後は売り言葉に買い言葉。長きに渡った友情もそれでおしまい。迷路(mazeメイズ)に入っちゃったのよ。
* * *
この本はね――
BOTANさんは本を広げて見せて、
「未完なのよ」
最初の数ページ以外は白紙だった。
「だからね、この本のことを問い合せてきた時は、まさかって思ったわ。スズランが仲直りを持ちかけてきたんだと思ったの。嬉しかった。私もきっかけが欲しいって思ってたから」
BOTANさんはすっきりとしたような面持ちで微笑する。「表紙もスズランが描いたのよ」と付け足して。
「お母さんがこれを……?」
わたしは困惑していた。母は自分が漫画を書いていたことなどまったく口にしなかった。もちろんBL本なんてものを娘に言うのは気恥ずかしいというのもあっただろう。
けれど、記憶の中の母は創作について語るようなことはなかった。元気だった頃もペンタブレット一つ握ったことはない。
わたしが絵を勉強したいと相談した時も、母は何一つ口出しせず賛成してくれた。黙って優しく見守ってくれていたように思う。
わたしから見た母は絵と関係のない人生を歩んでいた。
「それでスズランは確か病気だって言ってたわね? お見舞いに私がこの本を持って行っていいかしら?」
長年のわだかまりを解消できるチャンスだと思ったのだろう。BOTANさんの言葉は弾んでいる。けれど対称的にわたしの心は重く沈んでいく。罪悪感に胸がきつく締め付けられる。
わたしはまだ重要な真実を語っていなかったのだから。
「どうかしたの?」
陰鬱さが顔に出てしまっていたようだ。BOTANさんに見とがめられる。
これ以上隠すことはできない。わたしはようやく決心する。
「母は……母は……亡くなっているんです」
BOTANさんの表情が固まってしまう。何を言われたのかわからなかったのだろう。さっき、わたしが陥ったであろう困惑したような表情だ。
「一年前のことでした。病状が急に悪化して治療できずに亡くなりました。BL本のことは母の意識がある時にぽつりと洩らしたことでした……」
つい母のことを意識して眼に涙がたまる。
「……当時のわたしは母の気まぐれだと思い、探そうなんて思いませんでした。母が亡くなった後、ずっと忘れていたくらいです。けれど母の一周忌が近づき、わたし自身の事情もあって探してみようと思ったんです……」
溢れ出した涙が一すじ頬を伝う。
「あなたの事情って?」
BOTANさんにハンカチを差し出される。
わたしは促されるように語りだした。
* * *
かみは死んだ。
母が死んだ時、そう思った。
わたしにとって母は女神のような人だった。
「この壁いっぱいに落書きしていいのよ」
幼い頃、渡された水性クレヨン。嬉しくて返事もせずに描き出していたと思う。
母はわたしが絵を始めるきっかけを与えてくれた。
何の絵を描いたのかは思い出せない。たぶん絵と呼べる代物ではなかっただろう。ただむやみやたらに線を引っぱった。すると白い壁紙にいろんな線が生まれる。そのことがただ楽しかったのだと思う。自分の行動で世界が生まれる。大げさに言えばそんな感じだ。
壁一面にでっかい丸を描いた時は得意げになって自慢していた。
母が笑いながら壁を背景にデジカメで私を撮る。幼い頃のわたしの思い出の一つだ。
ペーパーレス運動が盛り上がり、紙の値段が高くなっていた時代だ。クレヨンだって壁紙だっていくらしたかわからない。けれど母はデジタルデータよりも手描きを好んだ。紙からはみ出してもあまり怒られなかったように思う。
時代の流れに従ってペンタブレットに変えた時の母の残念そうな顔が思い浮かぶ。
わたしの方はやっと人並みになったと喜んでいたのだけれど。
それでも、わたしが描いた絵ならどんなものでも褒めてくれた。お世辞だと思っていても嬉しかった。母に褒められたいがために絵を描き続けたとさえ思う。
しかし母が病気になると絵どころではなくなり、わたしは絵を描かなくなった。
母はひどく落胆していたが、諦めとともに受け入れた。無理をしていたのだと、今にして思う。
やがて母が亡くなる。
わたしを襲ったのはかみをなくした喪失感。あまりに虚脱して涙すら流れなかった。絵はおろか勉強も、生きることすら無気力になった。高校に入れたのが不思議なくらいだ。
同じように悲しむ父がいなかったら多分わたしは後を追っていただろう。
けれど高校に入っても無気力な状態は変わらない。入学仕立てなのに五月病のよう。学校を辞めようと思った。けれど――
「母さんは何か望んでいたことがあったかな?」
一周忌を前にふと父が洩らした言葉。そして思い出した。闘病中の母の言葉を。
一つ母の冗談に付き合ってみようか。それがわたしをここまで動かした。
まるで――かみに導かれたように。
* * *
語り終えたわたしは口に手を当てて悲しみに耐える。何事かと他のブースの人たちが訝しんでいるのを感じた。
ブースの席から立ち上がったBOTANさんにわたしは抱きしめられた。慰めるように背中を撫でられる。
「辛かったでしょう」
そして体を離し、わたしは正面から見据えられる。
「私たちの方から探すべきだったのかもしれないわね。ごめんなさい」
BOTANさんは深々と頭を下げた。
瞬間、それまで堪えていたものが堰を切ったように溢れ出す。
止まらない。止めようとすればするほど、視界は涙に滲み、喉は勝手に声を震わす。
どうしてだろう。母の葬儀の時も泣くことはなかったのに。仕方のないことと、この一年ずっと耐えてきたのに。
今まで我慢していた分を取り戻すかのようだった。
しばらくして落ち着いたわたしはここに来た目的を思い出す。
わたしは全てを語り終えた。語ってしまった。聞き終えたBOTANさんも苦しそうな表情だ。過去の仲違いを母が生きている間に解消したかったのだろう。
けれど母はもういない。
かみは死んでしまったのだ。
ならばその死を弔うしかない。
「それではこの『俺の腕の中で逝け』を貸していただけますか?」
再度、提案する。一緒にお墓参りすれば同じことなのだが、わたしは自分の手で供えたかった。母と喧嘩別れしたままだったBOTANさんたちへの反発が少しあったのかもしれない。
しかし、すぐにでも返事がもらえると思っていたのに、BOTANさんは思案の後、首を振った。
「どうして……!?」
わたしはうろたえた。まさか断られるとは思っていなかった。わたしは思わずくってかかる。
「それだけじゃいけないような気がするの」
BOTANさんはまたも黙考する。
何を考えることがあるのだろう。その本を読むことが生前の母の望みだった。そしてBOTANさんも後悔しているはずだ。
「菖蒲さんの許可もいるんですか?」
BOTANさんは一瞬戸惑ったような素振りを見せる。が、首を振って否定する。
「それは大丈夫だと思う。あの人、今は私の夫だから」
「え……? 菖蒲さんって男だったんですか!?」
BOTANさんはキョトンとした顔になる。
「あ、ああ……言ってなかったわね。ごめんなさい。わたしと菖蒲は偶然出会った時に仲直りしてしまったのよ。私は今、菖蒲のアシスタントをしているの。菖蒲は現役作家になって『サツキ・ザ・ギャンビット』を描いてるのよ。ああ……そうね……私たちはスズランに対して後ろめたい気持ちがあったわ。恋愛でも、仕事でも。だから私たちからは探さなかったのかもしれないわ。……改めてごめんなさい」
またもや深々と謝罪された。
なぜだろうか。わたしの中で沸々と怒りがこみ上げてきた。
母と喧嘩した一方は創作の道を歩み成功している。母を切り捨てて。二人の成功は母の耳におそらく入っていただろう。母の心に嫉妬はなかったのだろうか。恨みはなかったのだろうか。あんな笑顔で生きていた裏には押し殺した気持ちがあったのだろうか。
母がわたしに絵を描かせたのは後悔からだったのだろうか?
「……もういいです」
拳を握りしめて、そう口にしていた。
二人は母を裏切ったのだ。
……帰ろう。母が読みたいと言ったのは弱気になったからだ。気の迷いだ。そう思うことにした。裏切られた母を思うと不憫でならなかった。
「待って」
背中を向けて立ち去ろうとすると、BOTANさんに腕を掴まれた。
「なんですか? 今さら貸したいと言っても遅いですよ。それに母のお墓参りには来てほしくありません」
「一つ聞きたいんだけど」
グッと腕を引っ張られる。振り向いた先には真剣なBOTANさんの顔があった。
「スズランは『読みたい』と言ったのね?」
「それがどうかしましたか?」
「さっきも見せたけどこれは未完結なの。読みたいと言っても最初の数ページしかないわ」
例の本を突き出された。白紙のページがパラパラと開かれる。
「そしてスズランが病気になって、あなたは絵をやめていた。そうよね?」
「だからそれが何を……」
BOTANさんの迫力に気圧されるように思わず言葉に詰まる。
「提案があるわ。この本の続きを三人で描いてみない? それがきっとスズランの願いだったと思うの」
何を言っているのだろう。どうして、それが母の願いだったというのか。
「この話は元々スズランの原作だった。どんなものだったと思う?」
「どんなものって……」
なんだろう、見当もつかない。
「バッドエンドにしかならないような状況をひっくり返して、ハッピーエンドに持って行くの。素敵でしょ?」
確かに母が好みそうな話だ。母はバッドエンドに涙し、ハッピーエンドに拍手喝采するような人だった。いつだって優しく心温かな気持ちにさせてくれた。
「だから、ね。私は思うの。スズランはあなたにもう一度絵を描いてほしかった。そしてこの作品を完成させたかった。自分のバッドエンドをひっくり返して、ハッピーエンドに持っていきたかった。私たちと仲直りするしないよりも、あなたにこれを託したかったんだと思う」
そう言ったBOTANさんから本を手渡される。
「決心がついたらブログに連絡して、待ってるから」
* * *
ブースを離れて会場内を歩く。胸の内を去来するのはBOTANさんに言われたことだ。
母の願い……私の望み……自分は何がしたいのだろうか。また描きたいのだろうか。母を喜ばすことはできるのだろうか。本を持ったまま自問しつつ、フラフラと会場内をさまよう。もやもやした気持ちで、なぜか真っ直ぐ出口に向かう気になれない。
『どうですか? この魔術書。今ならこの本にまつわる物語もお付けしますよ?』
『いや、こんなわけのわからないもの勧められても。普通のマンガはないんですか?』
見れば活気のあるブースも中にはある。暗くて冷たい会場内でもそこだけ熱がこもっている。売り手も買い手も楽しそうにやりあっている。
紙の本を描く人がいて、欲しがる人もまだまだいるのだ。
表紙絵の二人の男性をじっと見る。綺麗な瞳で見つめ合う美少年だけど、母が描いたのだと思うと、なんだか不思議と可笑しかった。
電子データとは違う、紙の手触り。ただコピーするためだけの媒体ではなく生命の温かさがある。人の想いも伝えるように。
母の前で壁に落書きしていた記憶が本を持つ手に蘇る。
中をめくると数ページで白紙のページがずっと続く。そこには何も綴られていない。
未だ物語になっていない物語。白紙のページを見ているとふと疑問を感じた。BOTANさんたちはどうして白紙のままで製本したのだろう? どうして未完成のままのこの作品を母は知っていたのだろう。
もしかしたら――May'zの三人はとっくに仲直りしていたのかもしれない。形の上ではなく心理上では。BOTANさんも菖蒲さんも後悔しており、その気持ちが未完成のままのこの作品を作ったのではないだろうか。
母はそのことをおそらくは知らなかったのだと思う。読みたいと言ったのはあくまで願望であり、存在していたらいいなと口にしたのだろう。
この本は三人の友情と青春の結果なのだ。夢が潰えて反省と悔恨が白紙のページを埋めている。
見つめているとなんだか胸が熱くなる。こんなバッドエンドはあんまりだと思えた。
BOTANさんと菖蒲さんには問いただしたいことが山ほどある。この続きを教えて欲しい。母が描きたかった物語とはどんなものだったのか?
この続きを描きたい。もう一度、絵を描いてみたい。
急げば母の日の一周忌に間に合うだろうか。母のバッドエンドには遅れたけれど、わたしまでがバッドエンドになるわけにはいかない。
白紙のページが、そうわたしに訴える。母の気持ちを代弁するかのように。
手に抱えたかみの教えに導かれるように、わたし夢唯(メイ)は踵を返してBOTANさんの待つブースへと引き返す。
May be(もしかしたら)――
母はこうなることを望んでいたのかもしれない。
かみは決して死んだりなんかしない。
そう、
――大切に思う人がいる限り。
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