三月のカレンダー小説

仔猫は春の季語

 歴史に「もしも」はない。
 それは自明なことだ。言われるまでもない。
 だけど。情けない話だが、人というのは後悔せずにはいられない。失われてしまったあの時。同じ日は二度と訪れない。そんなこと、わかっているはずなのに。まだ未熟だったあの頃。振り返る機会があれば、いつだって思い返してしまう。
 不思議だ。
 長い人生を歩んできたことを思えば、他にいくらでも蘇ってくる記憶の数々が、やり直したいと思う一瞬が、あるはずなのに。いつしか、そのことばかりが目に浮かび、わたしの頭のなかを占めている。
 それは、まだ冬の寒さを残した三月のこと。一八歳だった。

 せっかくの土曜日だというのに。
 季節外れの雪が、朝からずっと舞っている。二月末日の卒業式も終え、もう三月に入ったというのに、だ。一五時を過ぎても、雪はやむ気配を見せない。時より落ちてくる大きな雪の塊は、桜の花びらのようだ。
 天気予報によると、最高気温は七・四度。真冬の出立ちだったが、それでも寒く感じる。京都の街を、わたしは自転車で駆け抜けていた。冷気が頬を掠める度に、早く春の暖かな陽気を感じたいと思わずにはいられない。
 烏丸通に面した乾御門から、京都御苑へ向かう。かつて、西郷隆盛がこの場所を警備していた姿を想像して、少しばかり感心する。門をくぐるとそこには彼女がいて、門に軽く背を預けていた。
「おはよう」
 女にしては低い声。決して大きくはない声だったが、明瞭でよく通った。
 その相貌は理知的で、よく整っている。だが、どことなく近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。人々に近付きたいと思わせる、そんな魅力に溢れているのだが、肝心の彼女からは人との交わりを自ら拒絶するような気配を滲ませている。
 富士見藤乃(ふじみふじの)。同じ高校の同級生、だった。
 着脹れとは無縁な、随分と洒落たコートを着こなしている姿は実に、絵になる。腰の辺りまで伸ばした癖のない黒髪が左右に揺れた。それに合わせて、鮮やかな紫色の髪留めも動いて、周囲に紫の光を反射させた。
「傘は?」
「……フードで十分。京都で雪が降るなんて、なんか珍しいな」
 わたしはフードをめくりあげて、露を払う。一粒一粒が、とても小さな水滴が周囲に飛び散る。
「そう? 降る年はそれなりの量が降ってると思うけど」
 フードを弄り終えると、彼女の視線と真正面からぶつかる。
 力強さすら感じさせるその目を直視できなくて、わたしは弄り終えたはずのフードにまた手を伸ばしてしまう。
「本当は御苑を歩くつもりだったけど、変更」
 そう言うと、彼女は踵を返す。
 素早い動作で古風な傘を差して、唐突に歩き出してしまう。行先は告げてくれない。藤乃に置いていかれないように、わたしも自転車を押して彼女の後に続く。
 藤乃のポケットからぶら下がる、猫のぬいぐるみ型キーホルダー。それが彼女の歩みに合わせて、ぴょんぴょん飛び跳ねていた。右耳についている、明るい紫のリボンが目に焼き付く。率直に言って、あんまり可愛くない。
「入れば?」
 藤乃は腕を上げて、こちらに傘を差しだそうとする。
「……別にいい」
 彼女は何か言いたげな顔をしていたが、僅かの沈黙を挟んでまた前を向いてしまう。
 御苑を出て、烏丸通を南下する。その間、特に会話らしい会話もない。ただ黙々と、互いの足並みを揃えて歩く。喋るのは好きじゃない。だからなのだろうか、この沈黙は嫌いじゃなかった。静穏を噛み締めるようにして、歩いた。
 だけど、心地良い無言の時間は藤乃の家に着いたところで終わってしまう。
 見るからに重量感のある瓦屋根、特徴的な紅殻格子、光を浴びて白く輝く土塀、アーチ状の垣根である犬矢来、長い年月を経て味わいを増した虫籠窓。まるで老舗の旅館のような、立派な京町家だ。
「さ、上がって」
「お、おう」
 どうやら誰もいないらしい。家の中は静まり返っていて、人の気配がない。街のなかに建っていながら、遮音性が高いのか物静かでひっそりしている。藤乃の後についていこうとすると「客間はあっち」と指差される。
 わたしは頭を掻いた。彼女が相手だと、どうにも自分のペースが乱されてしまう。そもそも、今日彼女と御苑で待ち合わせていたのも、藤乃が電話やメールといった類で物事を済ますのが嫌いだからだ。
 京町家は間口が狭く奥行きが深い。民家にしてはやけに長い廊下を歩いていく。鴨居や天井がやたら低いので、時折軽く頭を下げなくてはならない。
「……ここか?」
 リフォームでもしたのだろうか、洋間だった。
「ここはダイニング。こっちよ」
 いつの間にか、藤乃に追いつかれている始末。彼女の手にはタオルが握られていて、ずいと差し出される。
「はい、これで拭いて」
「……何を?」
「上着を。風邪引いたら馬鹿みたいでしょ?」
 藤乃はそう言うと奥の台所へ進み、何やら作業を始めた。随分と細長い台所なのは、間取りが昔から変わっていないからだろう。戸棚を開け閉めして、忙しなく動き回っている。
「別に、気を遣わなくてもいいぞ?」
「あなたに気を遣ってるんじゃないの。わたしが紅茶を飲もうとしてるだけよ」
 いつもと変わらぬ藤乃節だった。その言い回しに、妙に落ち着いてしまった自分がいて、なんだか気持ちが悪い。
 台所の壁面に吊るされた、細かい字で予定がみっちり書かれたカレンダーを、見てしまったからだろうか。三月もまだ始まったばかりだが、この一カ月が終わってしまえば、お互い別々の生活が始まる。
 一人、ダイニングを抜けて隣の客間へ移る。
「明日はひな祭りね」
 台所から藤乃がやってきて、目線を部屋の奥へと向ける。そう言われ、つられて視線を動かす。部屋へ入った時には気付かなかったが、隅には年代物の木箱がうず高く積まれていた。
「……そうだな」
 会話終了。
 藤乃はさして気にする風もなく、温めたカップに氷砂糖を入れ、慣れた手つきで紅茶を注ぐ。
 わたしはと言えば、そんな彼女の横顔を黙って見ていた。わたしは沈黙に耐えかねて口を開く類の人間ではない。彼女の動きから生まれた音だけが、客間に響き渡っていた。それに規則性はないはずだが、何かを奏でているようだ。
 手持ち無沙汰だった。なので、テーブルの脇にさり気なく置かれたチェス盤の駒を、わたしは並べ始める。藤乃と話すようになったそもそものきっかけは、チェスだった。休み時間、教室の自分の席でチェス・プロブレムの本を読んでいたわたしに、声をかけてきたのが彼女だ。
 その時の姿は、今でも鮮明に覚えている。
「あ、甘いの平気?」
 何を今更。普段だったらそう答えていただろう。だが、わたしはその言葉を飲み込んで、かわりに頷いて答えた。
 カップを差し出される。
「……すまん」
「別に。わたしが飲みたかっただけだから」
 たまに「ありがとう」と言おうと思えば、こんな言葉が返ってくる。口を噤んで、しばしの躊躇。結局、どんなに思考を巡らせてみても他の言葉が思いつかなかったので、かわりに紅茶に口をつけた。
 濃くて、甘い。
 カップからほのかに伝わってくる温もりを、掌で感じていると妙に気が安らぐ。
「……飾るのか?」
「えっ?」
 藤乃は首を傾げる。
「ひな人形」
「ええ」
 藤乃は目を細めた。会話が途絶え、静寂が二人の間に横たわる。わたしは思った。
 自分が心地良いと感じているこの時間は、はたして彼女にとっても心地の良いものだろうか。そのことに思い至ると、胸が痛んだ。彼女も、この時間に価値を見出していてくれると、救われるのだが……。
「ひな人形、見に来てくれる?」
 藤乃の意味深な目線に、わたしは気圧されて目を逸らしてしまう。わたしはよく人の目を見て話す方で、その視線から相手に恐れられるような、そんな類の人間だった。なのに、彼女の視線にだけは、容易に屈してしまう。
「……今日は一体、どういう用件なんだ?」
 わたしは苦し紛れに聞こえない振りをして、本題に入ろうとする。胸のなかをじわじわ広がっていく心苦しさを明瞭に感じていたが、自分ではどうすることもできず、ただ耐えるばかりだった。
「ボディーガードと推理を頼もうと思って」
 あらかじめ予想していた範疇を、大きく超えた言葉だった。わたしは思わず、眉を顰めてしまう。
「どういうことだ?」
 わたしの問いに、彼女は笑う。品の良い笑い方だった。
 並べられたチェスの駒。白と黒のポーンを一つずつ取ると、藤乃は両手で握り拳を作って掲げた。チェスは先行が白、後行が黒と決められていて、コイントスで決めるのが一般的だ。あるいは、今の藤乃のように、握られた駒のどちらかを選ぶかだ。
 わたしはそっと、藤乃の手に触れる。
 ほんの一瞬しか触れてないのに、彼女の手の温もりや肌の感触が奇妙な現実感を伴って伝わってくる。指が感じた肌触りに、平常心がかき乱されそうになるのを、理性が必死に抑え込む。
 拳を解いて渡された駒は、白。先行だ。
「かなり待たなくちゃいけないから、ゲームを楽しみましょう」
 なるほど、悪くない。
 そう思った。

 日は落ちて、月が雲の隙間から輝いている。
 下弦の月よりも、少しばかり丸みをもって膨らんだ、更待月《ふけまちづき》。季節外れの雪はいつの間にかやんでいた。
 わたしと藤乃は、夜の烏丸通を北へ向かって歩いていた。南北約一・三キロ、烏丸線丸太町駅から今出川駅までの一駅分に相当する道のりだった。なので、本当は自転車に乗って行きたかった。が、藤乃は「二人乗りは嫌だ」と頑なに主張するので、仕方なく押していく。
「……裏文庫?」
「そう、裏文庫」
 京都御苑にはもともと、御苑内の「母と子の森」に、「森の文庫」がある。そこには、子ども向けの自然に関する様々な本が置かれていて、自由に読むことができた。貸し出しこそできないものの、近くのベンチやテーブルで読書を楽しめる。
「本来の森の文庫が開設されているのは雨の日を除いた四月一日から一一月三〇日までの間。九時から一四時まで。でも、今は三月だし、『裏文庫』は午前二時頃から午前二時三〇分頃までなの」
「なるほど。……明らかに『森の文庫』じゃない訳だ」
「大体、『森の文庫』は本の持ち出しを禁止しているのに、この『裏文庫』は本の持ち出しができるらしいわ。明らかに別のものね」
「だが、そんな遅い時間に何故? 屋台じゃあるまいし」
「それを確かめるために、あなたを誘ったのよ」
 わたしが訊ねると、藤乃は心の底から楽しそうに言う。普段から大人びている彼女にしてはやけに率直な感情表現で、わたしは珍しさを覚えた。平生は落ち着いているが、心の奥底では一体何を考えているか、わからないくらいなのに。
「ボディーガードと推理というのは……このことか」
 藤乃はこくりと頷く。髪が揺れて、ほのかにいい香りが漂った。
 門をくぐり、東側へ向かって砂利道をひたすら歩く。二人分の足音が周囲に木霊する。約七〇〇メートルの道中は想像していた以上に長く感じた。京都の街を囲む山々が視線の先には確かにあるはずだが、薄暗い視界のなかではその輪郭を見極めることはできない。
「……御苑って、二四時間開苑してるんだな」
「そうよ。意外でしょ?」
 意外だが、コンビニみたいでなんか嫌だ。
「だが、富士見。……何故そんな遅い時間に、御苑が開いてるって知っていたんだ?」
「猫ラーメンを食べたいと思って」
 藤乃の話はこうだ。猫ラーメンとは、猫の骨から出汁をとっていると噂の、ラーメン屋台だ。ただ、何度屋台の音を聞いて通りに飛び出しても、実際に辿り着いて「猫ラーメン」を注文できた者はいないらしい。
 話の真偽はともかく、その味は無類だそうだ。
「……というか、富士見ってラーメンが好きそうには見えないんだが」
「ええ。味がキツいのは苦手」
 間髪を入れずにそんな答えが返ってきたので、わたしは思わず声を荒げそうになった。ならば何故?
「でも、猫は好き。食べたいくらいにね」
 見る者をぞっとさせる、恐ろしい笑みを浮かべてみせる藤乃。
 急に、藤乃はわたしの腕を掴んで、自らへと引き寄せる。話の流れから、彼女に首筋でも噛まれるのではないかと思わず勘違いしてしまうくらいに、わたしを驚かせるには十分な動作だった。
「ねえ、あそこ。変じゃない?」
 そう言って、藤乃は内裏を囲っている壁面を指差す。
「……何がどう?」
「ここ、『猿ヶ辻』って言うのだけど、ここだけ他の四隅と違うの。角の部分が欠けてるでしょ?」
 確かに、言われてみれば角がまるで切り取られているかのようにして、凹んでいるのがわかる。
「……だが、何故?」
「それは、ここがちょうど北東に位置するから。北東の方向は鬼が出入りする『鬼門』、万事に忌むべき方角なの」
「なるほど」
「だから、今も京都には鬼門避けのために、北東の角を塞いだ建物が沢山あるの。平安時代の書物には鬼がよく登場するんだけど、鬼が出入りする方角は、この鬼門。だから、鬼門を意図的にはっきり作らず、あるいは本来入口の部分をあえて壁にすることで、鬼の侵入を防いでるの」
「ああ、鬼門に玄関や台所、風呂場を作らないって奴だな」
「そう。表鬼門の北東と裏鬼門の南西ね。他にも、駐車場みたいな曖昧な空間にしたり、稲荷を設けたりしてね」
「……万事に忌むべき、か」
 猿ヶ辻を通り過ぎると、木が所狭しと並んでいる一角が見えてきた。
 御苑内には欅や桜などの木々が、約五万本立ち並んでいる。葉を落とした木々からはえる太い枝は、今は夜空を覆うようにして高く伸びているだけだ。だが、新緑の季節ともなれば、「母と子の森」の名に相応しく、鬱蒼とした趣きに変わるはずだ。
「この小屋が、『森の文庫』ね」
 藤乃が「小屋」と評したように、今の姿からはここで読書が楽しめるなんて想像できない。率直に表現するならば、なんの変哲もない納屋という感じだ。そう見えてしまうのは、わたしが期待を膨らませ過ぎたからなのだろうか。
「じゃあ、探すわ……よ?」
 声のトーンが急落した。
 彼女の視線の先には、分厚い木の板を組み合わせて作られた本棚があって、暗がりに溶け入るようにして、ぽつねんと立っている。なるほど、こちらの佇まいの方がよっぽど「森の文庫」っぽい。
「……探すまでもなかったな」
「こうも呆気ないと、ありがたみというものがないわ」
 どことなく、悔しそうな藤乃だった。彼女は警戒しつつも、棚に並んだ背表紙を注意深く見つめる。
「一二冊しかないわね」
「ということは、本物の文庫の方はもっと沢山の本が?」
 藤乃は頷いた。彼女は躊躇うことなく本を抜き取ると、ぱらぱら捲り始めた。一通り捲り終わると、表紙や裏表紙を頻りに確認する。
「この本、ISBNがないわ」
「……なんだって?」
 脈絡のないアルファベットに、何を言われたのか咄嗟にはわからなかった。
「国際標準図書番号。世界共通で図書や書籍を特定するために割り振られた番号よ。……日本図書コードもないわ。どうやら、出版社から刊行されて書店へ流通してる出版物じゃなさそうね」
 澱みなく発せられる藤乃の言葉に、わたしは思わず目を剥いてしまう。
「……よく知ってるな、そんなことまで」
 わたしがそう言った時だった。
 不意に、音が消えた。
「なんだ?」
 急に、うるさく感じていた風の音が聞こえなくなった。
 それだけじゃない。枝が擦れ合う音が途絶え、辺り一面は唐突な静寂に包まれている。不気味なまでの、無音だった。普段は意識していない微かな音さえ、ここには存在しない。
 頭上を見上げてみれば、目まぐるしく動いていたはずの雲の動きがぴたりと止まっていた。遠くでほのかに灯る外灯の揺らぎもなく、そこに群がる小さな虫達すら羽を動かさず宙に留まっている。
 藤乃の姿を見た時、わたしは事態を把握した。彼女は本に視線を落したまま、微動だにしない。身動ぎも瞬きもせず、微かな息遣いもそこにはない。まるで人形のようだった。正直に言って、信じられない光景が広がっていた。
 腕時計を見てみると、秒針が動いていない。時間が、止まっている。
「あたしが、時を止めた」
 背後から、若い女の声がした。
 自分の動きとは思えぬほどの俊敏さで振り返ると、木々の陰から白い人影がこちらに向かって歩み寄ってくる。北東。万事に忌むべき、鬼門。目の前に立っているというのに、気配というか、存在感を感じさせない。
 短い黒髪は薄暗い夜の風景に溶け込んでいて、その詳細は掴めない。対照的に、端整な顔立ちは、まるで死人のように白い。化粧、という訳ではなさそうだった。顔色が冴えない、不健康という意味ではなく、そもそも生き物の息遣いを感じさせない、そんな危うい白さだ。
 薄闇のなかで辛うじて「四季ノ国屋書店」というロゴの入ったエプロンをしているのがわかる。白い名札には「シキ」という文字。それだけは視界の悪いなかで、はっきりと見ることができた。
「……どういうことだ?」
「ようこそ、『裏文庫』へ」
 そう言うと、シキという名札をした少女は深々とお辞儀してみせた。

「……何者だ?」
「あたしの名前は、シキ。四季ノ国屋書店の書店員」
 知らない本屋だった。シキも思わず微笑む。ただ、その笑顔は美しかったが、温かみに欠ける。彫刻のような計算され尽くした美しさであって、親近感みたいなものはすっぽり抜け落ちていた。
「無理もない。だから、あたしがこうして周知を図っている」
「……本当に、本屋なのか?」
 そんな問いが口から飛び出していた。少女はこくりと頷いてみせる。その所作はどこか機械めいていた。精巧に作られたロボットみたいな、そんな印象を彼女からは感じる。
「この本は?」
「ここにある一二冊の本は、我が四季ノ国屋書店が企画して集めた小説を書籍化したもの。それぞれ、一月から一二月を題材にした小説が収められている」
 道理で、国際標準図書番号やら日本図書コードやらがない訳だ。
「なるほど。一ついいか?」
「何?」
「なんで時が止まる?」
 わたしの問いに、シキは思わず、という感じで笑ってみせる。微笑とも苦笑ともつかない笑い方だった。その微苦笑を見て、わたしもつられて笑いそうになるのをぐっと堪えた。
「それが、あたしの能力。四季ノ国屋の店員は、各月に合う小説を探すために多くの『世界』を渡る。そして、辿り着いた世界を『物語』として持ち帰り、記述することができる。時が止まるのは、その能力のほんの一部分でしかない」
「……つまり、この一二冊の本が、その能力の集大成ってことか」
 シキは黙って頷く。
「あなたが読むべき一冊が、ここにあるかもしれない」
「……なんだって?」
 わたしの問いに、シキは答えなかった。
 やんでいたはずの風が、わたしとシキの間を駆け抜けていく。木々が揺れ始め、雲が動き出す。静寂が消し飛んだ。辺りに、音が――いや音だけじゃない、動きが戻って来るのを肌でひしひしと感じる。
 夜中の冷たい風が肌の上を軽やかに滑っていく。鼓膜を震わす無数の音が、わたしのもとへと殺到する。世界が、こんなにも多くの音や動きで溢れているのか、と再確認させられた。
 いつしか、シキの姿は消えていた。
 わたしは何度も何度も瞬きをして、先程までシキがいた場所を凝視し続けていた。しかし、シキはまるで最初からこの世に存在していなかったかのように、忽然と消えてしまった。
 だが、そんな馬鹿な話が現実にあるのか。目の前で起こった現実だったとしても、受け入れがたい。
「どうしたの? 怖い顔して」
 藤乃がわたしの顔を覗き込んでくる。びっくりするほど、顔が近い。半歩でも前に出れば、互いの顔がぶつかってしまうくらいだ。
「……いや、なんでもない」
「嘘ね」
「……嘘、じゃない」
 わたしは辛うじてそう言うと、藤乃から逃げるようにして本棚へ向き直る。目を瞑って、心に生じた動揺を必死に掻き消すよう努めた。シキは言った。この一二冊の本の中に、わたしが読むべき本があるかもしれない、と。
 わたしもいくつか本を抜き取り、ぱらぱら捲って、軽く目を通してみる。どの本も文庫本のサイズで、かなり薄い。作者もジャンルも、統一感がない。ただ、どれも真新しい。一頁一頁が尖っていて、新品ならではの鋭さが指先から伝わってくる。
 そのなかで一冊だけ背表紙に、タイトルも作者も、それどころか四季ノ国屋書店の文字すらない本があった。この本だけは、他の一一冊の本とは明らかに異なっている。風が何かを告げるように、わたしの鼓膜を震わした。
 わたしはその本に指をかけると、そっと引き抜いた。

「そろそろ、二時三〇分。店仕舞いに来る頃ね」
 時刻の表示された携帯の画面を見ながら、藤乃は素っ気なく言う。だが、その眼光の鋭さは隠せない。その目で、この『裏文庫』の首謀者の姿を見極めようとしているのが、どちらかと言うと鈍いわたしにもひしひしと伝わってくる。
 だが、それは無意味だろう。そして、その予想は的中した。
『裏文庫』の本棚は、わたし達の前から忽然と姿を消していた。なんの前触れもなく、次の瞬間にはなくなっていた。手品でも見ているような、そんな手際の良さには驚くというよりも、むしろ呆れてしまう。本当に、一瞬の出来事だった。
「なんなの?」
 藤乃は驚きを隠せないようだった。しかし、シキの姿を目の当たりにし、彼女の口から大体の説明を受けたわたしは、今では目の前で起きた不可解な現実の数々を、納得こそしがたいものの、そのまま受け止めようとしていた。
 未だ腑に落ちない様子の藤乃をどうにか促して、帰路に着く。その頃には、夜もすっかり更けてしまった。不思議と眠気は感じなかった。むしろ、今夜は目が冴えてしまって一睡もできないかもしれない。
 結局、あそこにある「わたしが読むべき一冊」とは、一体なんだったのだろうか。世界を跨いでやって来た、時を操る謎の書店員の少女。彼女は一体、誰に本を読んで欲しかったのだろうか。シキの白い顔が、脳裏にぼんやりと浮かんでいた。
「あ」
 急に、前を歩いていた藤乃が声を上げて立ち止まる。危うく、後ろからぶつかりそうになるのを、押していた自転車のブレーキを押し込んでどうにか踏み止まった。不意打ちだっただけに、肝が冷えた。
「何か落ちてる」
 そう言って、彼女は指差した。その細い指が指し示すものに、わたしは心当たりがあった。
「……富士見が付けてる、ぬいぐるみのキーホルダーじゃないか?」
「それって『八つ裂きにゃんこ』のこと?」
「そんな物騒な名前だったのか、あのキーホルダー!?」
「そうよ。……でも、違うわ」
「は?」
 一体どっちなんだ。藤乃は足早に駆け寄ると、その何かを拾い上げた。
「キーホルダーの猫の名前は『八つ裂きにゃんこ』で、今話してた落ちている何かは猫よ。……それも仔猫」
 彼女はそう言うと、抱えているものを突き出した。
 仔猫と言うものの、一見するとただのふさふさした丸い毛玉にしか見えない。なーん、という弱々しい鳴き声が上がり、微かにだが体を揺らして、はじめて生き物だとわかった。そう言われてみれば、藤乃のキーホルダーはちゃんとくっついている。
「……目、それに鼻もなんかおかしくないか」
 目も鼻も、粘土のような何かで覆われている。率直に言って、手で触れるのを躊躇うには十分な程薄汚れていた。注意深く見てみると鼠色の泥みたいな何かが薄く張り付いていて、この猫の地毛がはたして何色なのか、一瞥して判別できないくらいだ。
 だが、藤乃は逡巡しない。
「御苑内の児童公園、砂場にはネットで囲いがしてあるんだけど、なんでだと思う?」
「知らん」
「野良猫がそこで用を足すから。野良猫が苑内で結構繁殖してるそうよ。餌をやる人が後を絶たないから。でも、毎年何匹もの猫の死体が御苑では見つかってるわ。その多くは仔猫や若い猫で、死因は主に病死ですって」
 彼女はそう言うと、仔猫をハンカチでそっと包んで抱きかかえる。
「知り合いに獣医がいるの。そこまでとばしてくれる?」
「……こんな時間だが大丈夫か?」
「問題ないわ、そういう間柄なの」
「……まぁ、そういうお願いなら、な」
 わたしの自転車には前かごの他に、後輪の両側面にスチール製のラックが取り付けられている。普段は鞄やら何やらを置いている場所に、彼女はそっと足を乗せる。幸いなことに、重さやバランスの取りにくさと言ったものは感じなかった。
「こういう時、沢山荷台がある自転車って便利ね」
「そうだな」
「自転車の二人乗りは本意じゃないけど」
「……おれもだ」
 そうは言いながらも、わたしの身体に回った、彼女の細い腕の感触は悪くない。
 この時ほど二人でいられることの喜び、みたいなものを感じたことはなかった。わたし達は互いに気持ちを伝え合って、恋人になった訳じゃないのに。そんな親近感をわたしは感じずにはいられない。
 この時間が、長く続かないことはわかってる。
 でも。
 だったら、一秒でも長く続いてほしい。
 そう、その時は素直に思えた。

 ここに後日談を記そう。
 結局、ひな人形は見に行かなかった。藤乃と最後に会ったのは、三月末日のこと。まだ寒い日が続き、桜の開花は当分の間はお預けだった。辛うじて、日当たりの良い場所の梅は蕾が膨らんで、心地良い香りを漂わせていた。
「目は結膜炎で出た目脂で開いてなかっただけみたい。鼻についてたのは鼻水が固まったものだそうよ」
 藤乃の安堵した表情から、仔猫の状態はなんとなくだがわかっていた。それでも、間が持たなくなってしまうと思い、わたしは一応訊いておく。
「で、具合の方は?」
「経過は注意しなくちゃいけないけれど、今のところは大丈夫。お薬を打ったり塗られたりで本当に大変だったけど」
「……そうか」
 藤乃は仔猫を見せてくれた。初めて出会った時の印象とはまったく異なっている。真っ白な猫だ。鼻先や肉球の色は、薄桃色だ。その淡い色合いは、まさに桜の花びらのようだった。
 随分とか細い感じだが、青みがかった大きな瞳を熱心に向けている姿は、無邪気で好奇心旺盛だ。なんなん、なーん。わたしに何かを訴えかけるように、猫は鳴く。わたしが手を差し出すと、仔猫は目を細めた。
「まるで、別の猫だな」
「生後一カ月なんですって」
 仔猫はわたしを見上げると、なーんと言う。その鳴き声に藤乃は笑い、つられてわたしも笑みを浮かべてしまう。
「可愛いでしょう?」
「ああ、富士見のつけてる変なキーホルダーよりずっと可愛い」
 そう言うと、藤乃は微笑んだ。柔和な笑みだなと思った。
「仔猫って、春の季語なのよ。知ってた?」
 印象的な、実に印象的な笑みだった。

 深い後悔が残った。
 そうして、わたしと藤乃は別の大学へ進み、それぞれ別の人生を歩んだ。結局、わたし達が再び会う機会は二度と訪れなかった。この気持ちも、この感情も、時の流れとともに薄れて行き、いつしか消えてなくなってしまうだろう。
 あの時は、そう思っていた。
 だが、過去というものを振り返れば、わたしはいつだって藤乃のことばかり考えている。何事も遅すぎることはない、と世間では言われる。だが、わたしは歳を取り過ぎてしまった。
 それに、今どんなにこの気持ちを伝えたかったとしても、藤乃はもうどこにもいない。自らの気持ちを打ち明けるべき相手は、この世界には不在だった。だからなのだろう、わたしは未練がましく、こんな文章を綴り続けている。
 今までも。
 そして、これからも。
 ずっと。



 風が細い枝を揺らしていた。
 おれはゆっくりと目を瞑る。網膜に焼き付いた文字が、ぼんやりと目の前に浮かび上がっては消えていく。その言葉の連なりを、何度も何度も心のなかで読み上げていた。すっと胸の奥底へと溶けて、身体に染み込んでいくようだった。
 本の表紙を指でそっとなぞる。
 ここにあるかもしれない、おれが読むべき一冊。おれにこの本を読ませるために、シキは世界を跨いでやって来たとでもいうのか。藤乃に気付かれないようにして、おれは声を出さずに笑う。
 本を棚に戻す。
 相変わらず、風が吹いていた。それは、寄せては返す波の音に似ていた。風はおれの身体にまとわりついてきて、フードをはためかせる。ここには音があって、動きがあった。そして、時の流れがある。
「どうしたの?」
 こちらを向いた藤乃の顔。おれはその顔を、その相貌を、真正面から迫り来る視線を、黙って見つめていた。不思議なことに、目を逸らそうだなんて微塵にも思わなかった。むしろ、その瞳をずっと見続けていたいとすら感じた。
「……好きだ」
 前後の脈絡だなんて、考えなかった。いや、考えられなかった。思考よりも先に行動に移っていた。正直なところ、何かもう少しマシな言葉を考えるべきだっただろう。我ながら、単細胞にも程がある。
 ただ、こうすることが、たとえどんな結果を生んだとしても、最善なのだと思えた。
 藤乃は答えない。
 ただ、平生の取っつきにくい表情を崩し、柔らかな笑みを浮かべた。
「……知ってるか? 仔猫って春の季語なんだ」
 そう言うと、彼女ははにかむ。
 なるほど、悪くない。
 そう思った。




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