二月のカレンダー小説

怨恨痛快のアンプリファイア

 チョコレート。バレンタインデー。

 それは、種子を粉砕し、焙煎し、旨味の天秤を人の意思によってはかり、行く末に想いを馳せることだ。
 初めてもらった言葉とチョコレートは、絶妙にして痛快な味だった。怨念のようでありながら、爽やかな喜びを喚起させる。きっと、折に触れ、懐かしく、この二月を思い出してしまうことだろう。


<二月十四日(土) 十四時頃>
 苑田春子(そのだ はるこ)、と記載された社員証。彼女がコートを脱いだ拍子に、スーツの胸ポケットから飛び出した。慌てて掴もうとした、彼女の揺れる胸ポケットを、私は思わず凝視してしまった。失礼な行為だと猛省する。
「凪くんがきぐるみで踊った?」
 薄日に淡く透ける長い髪を、耳に押さえながら春子さんは笑った。
 彼女はOLだ。今日も休日出勤の帰りらしい。私が働くコンビニの常連さんで、その人懐っこさも手伝い、いつの間にか友達になっていた。
「そう、凪は囮だったわけだ。そして、俺は凪のスペアきぐるみを着用して! コンビニへ殴りこんだ」
 兄さんのスペアを着られたことを喜び、ことさら強調している金髪碧眼の外国人男性。彼は兄さんの友人であるグイン・S・ギャンビッド。そうは見えないけれど、兄さんとは同い年だ。ダウンジャケットの下は、冬だというのに半袖Tシャツ。ハイドレンジャーと記載されていて、意味は不明だった。見ていて飽きない人だ。
「踊り、密かに練習してたんです。まさか役に立つ日がくるとは」
 外ヶ浜凪(そとがはま なぎ)。私の兄さんは、被った猫の下で、ぼそぼそと小さな声で話した。
「練習してたんだ……」
 私の呆れ声に頷いた兄さんは、ぬぼっとした猫を文字通り被っている。左耳の赤いリボンが可愛らしく、焦点の合わない目と、垂れ下がった舌とが相まって、全体的に気持ちが悪い。兄さんはとても小柄だ。きぐるみを脱ぐと、私とさほど身長差はない。きぐるみじゃなくて、本人のほうが、赤いリボンは似合いそうだ。
「で、グインは凪くんのスペアを着て、思わず匂いを嗅いでしまったと」
 春子さんが悪戯っぽく言い、兄さんは肩をビクッと跳ねさせた。
 グインが兄さんに悪さしたりしないかと、気を揉んだ時期も実はあった。でも、兄いわく、彼は紳士的だから大丈夫なんだそうだ。
「深く呼吸しただけだ! ホントは春子サンがそうしたいんであろう!? って京(みやこ)も睨むなし!」
 必死に弁解するグイン。苦笑いを浮かべる春子さん。人間を襲う人型ロボットに見えなくもない。思わず睨んでしまった。
「とても嬉しかったけど、危ないからもうあんなことはしないで」
 ピシャリと叩くように私が言うと、彼らはしゅんとなってしまったが、心を鬼にした。兄さんとグインは、なかなか動かない警察官たちに業を煮やし、コンビニ突入を決心したらしい。あの時の二匹のきぐるみが、この二人だったと知り、私の肝は冷えた。
「ホント、警察に説教されただけで済んで良かったよ」
 春子さんも呆れた声を上げた。
「は、はい」
「今では少し反省しているのだ」


 窓が白く霞み始める。
 春に近づいているはずの二月。依然として雪は降り積もり、歩くつま先を白く尖らせる。この部屋の暖房器具が、きちんと機能してくれて助かった。
 春子さんを除く三人が通う大学の部室棟。その一室に私たち四人はいる。普段は使われていない部室で、長机とパイプ椅子が大雑把に配置されているだけだ。今日は私のために、皆が作戦会議だと集まってくれた。
「それで、その秋山サンという人は、好感の持てる人だったのか?」
 私に相談を受けてすぐ、春子さんは兄さんを連れ出して秋山さんに会いに行ったらしい。グインが尋ねているのはそのことだろう。
「好青年だったよ。見た目が怖いと損するね。凪くんなんて、恐怖のあまり、ペロー童話集朗読会のポスターに向かって、自己紹介してたよ」
 なるほど、とグインは深く頷いている。顔が怖いもの同士、共感できる部分があるんだろう。
「春子さんだって笑顔が引きつってましたよ」
 秋山さんの話になり、私の顔面が発熱し始めた。心臓が漬け物みたいに萎む感覚。そのくせ、普段の何倍もの仕事をする。
 バイト先のコンビニに強盗がやってきて、客と店員が人質となった。そのとき隣にいたのが、四季ノ国屋書店の店員、秋山さんだった。強盗犯はきぐるみに叩きのめされるという滑稽な終幕を迎えたが、恐ろしい体験であったのは事実だ。
 そんな状況下で、秋山さんの本の話に夢中になったのは、単に恐怖を紛らす為だったかも知れない。でも、それがなければ、今ほど熱心に本を読み、内容に感嘆する私はいなかった。そして、いわゆる吊り橋理論だったとしても、彼を好きになり、これほど焦がれる私はいなかった。人の縁の不思議さだけは、どんな特殊な物語にも、現実は決して負けていないらしい。
「お〜ぉ、京も赤面したりするんだな。なかなか可愛いではないか」
 グインの澄んだ碧眼が、私をマジマジと見つめる。
「ふ、ふざけるな! 兄さんはかなり可愛い!」
 思わず机をドンとしてしまう。
「京ちゃん落ち着いて」
 動揺してしまった。熱くて敵わない。全身にこもる熱を放出できるなら、今すぐそうしたい。歩道に積もる雪さえ溶かしてしまえると思うんだ。歩行者も助かるし、私も助かる。
「グインくん、侮るなかれ。言わば京ちゃんはまだ原石」
「ほ、ほんとうに……?」
 春子さんがそう言うなら、信じてしまいそうだった。
「凪の妹だしな、春子サンより美人になりそうだ」
「あれ? 言い返せない……。わたし、言い返せないよ」
 しかし、自称できるが、私は垢抜けない。
 整えていない眉、自分で切っている髪の毛、化粧気のない全て、飾り気のない全て。特徴のない黒いズボン、安物のパーカー、合皮の黒いライダースジャケット、テキトーに巻いたマフラー。全てびっくりするほど色気がない。改めて認識すると、恥ずかしさのあまり崩れ落ちそうになった。でも、どうにもできない。なんとかしようとすると、どうしてだか悪化する。今度、春子さんに色々と教えてもらう予定だ。
「んー……。しかし、春子サン、京はこうだから良いんじゃないのかな。京は恰好いいよ」
 グインに褒められた。そのことに、私は少し驚く。彼が好むアニメキャラは、私とは程遠く可愛らしいものばかりだからだ。
「それにはすごく同意。でもさ、そういうことじゃないんだよ。誰だって綺麗になりたいじゃん」
 私は激しく首肯して見せる。可能ならば、私だって春子さんみたいになりたい。柄じゃないことくらい知っている。それでも憧れはある。
「僕は両方に同意する。ロマンがある」
 ずっと静かに座っていた兄さんが、ぴょこっと肉球を天井に向けて言った。挙手して発言。なんか可愛い。
「兄さん、ロマンとは?」
 私が兄さんへ向き直ると、猫は慌ててイスから立ち上がり、足をひっかけて転んだ。
「ま、待て。僕は兄さんじゃない。悩みを切り裂く、闇の相談相手――切り裂きニャンコだ」
 ニャンコ・ザ・リッパー、とグインが流暢にはやし立てる。
 私は兄さんが好きだ。優しくて、いつも相談に乗ってくれる。真摯に話を聴いてくれる。その不敵な面構えは、猫に似たきぐるみだけれど。
「京、気を付けて欲しい」
「わかった」
 兄さんは恥ずかしがり屋で、普通よりも扉が堅牢だ。一定以上の距離には近づけたがらない。こうやって面と向かう時、他人のふりをしたり、別の理由をこじつける。それにさえ気付ければ、彼の奇抜な行動にも納得がいく。それなのに、まず大抵の人は第一遭遇で逃げ出す。いたわしいことだ。
 なんにしても、さんざん凪と呼ばれていたのに、とても今更であることは、そっとしておこう。
「どこからツッコミを入れればいいのか、お姉さん超悩んでる」
「いつもお世話になってます」
 春子さんも優しくて、頼りになる大好きな人だ。
「うん、そうだよね。京ちゃんも、わりとそっち側だったよね」
 そっち側とはなんだろうか。
 さておき、春子さんは兄さんに好意を抱いている。さすが春子さんだ。四人でいる光景も好きだけれど、兄さんと春子さんが二人仲良く並んでいる光景も、きっと素敵なことだろう。
 そして、とても面映いけれど、ここに秋山さんが加わり、更に私と並んでくれればと、どうしても想像してしまうのだ。


「私は伝えたいと思う。伝えられる時間は、もう少ない」
 秋山さんに好意を伝えるかどうか、という話だ。それには思い切りが要る。春子さんに相談する時も、相応の決意が要った。でも、伝えなければ何も伝わらない。
「迷うことなんてないさ」
「うん、私も賛成。でも、秋山さんは遠くの町に行っちゃう。それが不安といえば、不安だよね」
 月末までには自店に戻るのだと、秋山さんは言っていた。だからこそだ、とも思う。若年ながら、私は伝えるべきを伝えて生きてきた。
「凪くんは、どう思う?」
 春子さんが問う。
 私は兄さんの返答を待ち、買ってきたコーヒーで一息入れる。よほど緊張していたのか、熱いにもかかわらず、コーヒーは半分まで減ってしまった。
 兄さんはきぐるみの顔部分を少し持ち上げ、紙コップを口に運んでいた。がたん、とイスが鳴ったのは、たぶん熱かったんだと思う。咳払いを一つ、兄さんは話し出す。
「盛り上がっているのは僕らだけだ。僕らと秋山さんの間には、激しい温度差があるはず。そのことのほうが、よほど不安だ」
「う……」
 私の顔はまた熱くなる。
 身勝手に盛り上がり、逸る気持ちを抑えられず、私は馬鹿になっていた。兄さんの言うとおりだ。想いを拒否されるという未来も、当然考えたし想像もした。でも、それだって、結局は私だけの視点だ。
「確かに俺たちは京のことしか考えてなかったな」
 グインも兄さんに同意し、大きな背中をパイプイスに預けた。軋んだ音は、やけに耳に近かった。
 うな垂れた視界。足元に置いてあるカバン。中には勢い余って用意したチョコが入っている。照れ臭さと死闘しながら、それでも頑張って選び、買ったものだ。
 そうかもね、と更に春子さんも同意し、イスの上で膝を抱えた。なにやら私怨のこもった半目で兄さんを見つめている。煮え切らないものがあるんだろう。
「雪玉なんだ。きっかけなんてどうでもいいくらい、軽く転がりだす。そしたら、どんどん大きくなって、止まるところを知らない。冷める時は岩にぶつかって一瞬なんだけど、岩なんてどこにも見えない」
 そう言った春子さんの気持ちは、今でも転がり続けているんだろうか。私の気持ちはどうだろうか。
「…………」
 なんだ、止めるのか? 伝えることを止めるのか? 伝える必要のない想いなのか。なんなんだ、これは。
 逸る気持ちと急制動。その摩擦からか、鼻の奥がつんとなる。
 突如、湿る空気を裂くように、グインはイスを引っくり返して立ち上がった。兄さんが驚いて、「ふおっ」と小さく悲鳴を上げる。
「京、もっと自信を持つがいい。春子サンも、なんで凪なんかに言いくるめられてる? アホか!」
 尚もグインの朗々とした声は響く。彼の声には力があった。
「耳も目も半塞ぎで、人と係わるのを半分諦めているような男だ。凪の言葉は、最初から半分諦めている者の言葉だ」
 言うなれば、グインはポジティブの権化だ。そして、兄さんはその逆、ネガティブの権化を身にまとっている。
「僕みたいな人間がいたっていいじゃないか。僕にとって、世の中は狭いほうが何かと幸せなんだよ。ずっと夏みたいなポジティブさなんか、嘘くさい。リスクが見えなくなるよ」
 ぼそぼそと呟くような兄さんの声。その気持ちは、その言葉は、私にも理解できる。でも、私と兄さんは少し違う。
「凪はそれでもいいんだ。俺はそんな凪も好きだ。でも、京はたぶん少し違う。ポジティブを押し付けるのは確かにクソだ。つまり俺はクソだ。だが、無闇にネガティブなのも、同じくクソであろう? つまり凪は可愛いクソだ。俺たちの役目は、クソの相殺合戦さ」
「クソって言うな。けど、理解はしてるつもりだよ」
 ポジティブの熱気に中てられたのか、兄さんは大きく息を吐いた。猫の舌もぷらんと垂れる。二人が当たり前のように友人でいられる理由が、少し分かった気がした。
「兄さんの優しさ、ちゃんと受け取った。ありがとう。もう少し考えてみる」
 落ちた兄さんの肩に、私はそう声をかけた。いつか、兄さんもその中から出られたら、と願うのは、やはりポジティブの押し付けだろうか。
「京さんマジかっけぇ」
「だから、さっきもそう言ったであろうが、春子サン」
 ぐず、と急に鼻を鳴らし、兄さんは立ち上がって部屋を出て行こうとする。
「ぼ、僕は京を肯定したい。それだけだ」
「ちょ、凪くん、どこ行くの?」
「トイレです」と残し、兄さんは慌てて部室を出て行った。切り裂きニャンコというキャラ設定は、完全に忘れているようだった。
 さて、私はどうするべきか。身勝手な気持ちを、身勝手に秋山さんへ押し付ける。私にできるだろうか。
 伝えるべきを伝える。伝えなければ何も伝わらない。そう考えていたから、これまで私は素直な言葉を吐いてきた。だけど、経験したことのない事態を前に、少し揺れ始めている。


 兄さんが再び席に着いたのは、あれから二十分ほど経ってからだった。
「あ! 戻ってきた。遅かったね」
 バシバシと景気のいい平手。春子さんに丸まった背中を二、三度叩かれ、兄さんは半ば押されるようにしてイスに座る。気遣うような周囲の空気を感じたのか、猫背はどこか居心地が悪そうだ。
「で、バレンタインデーはいいとしても、さすがに当日だよ? 今からチョコを調達するの?」
 兄さん不在の間にも話は進み、バレンタインデーを利用しようということに決まっていた。
「春子サン、俺は手作りがいいです!」
「溶かして固めよう!」
 自分で作れ、ということですね。
 春子さんは意地悪な笑みを浮かべている。背徳的な魅力を感じる笑顔だ。
「グイン、兄さんは料理が得意だ。お菓子だって作れるかも知れない。まだ諦めないで欲しい」
 私の言葉に、おぉう、とグインは頭を抱える。
「み、京姉さん。とどめ刺しご苦労様です」
「え?」
 とどめを刺した覚えはなかった。
 春子さんが「哀れなり」と呟いて、グインの肩を叩こうとした時、彼の碧眼は夏の海みたいに輝きだした。
「凪がお菓子を作る!? 想像しただけでヤバイな。凪のキャラクター性は異次元か!」
 やはり、グインならば兄さんに危害を加えたりはしないだろう。それこそ、いつだってそうであるように、愚直に好きだと伝えるはずだ。彼を見ていると、その欲望にバカ正直な性格が、少し羨ましくなる。
「こいつ、たまにガチなんじゃないかって思う時あるわー」
 春子さんが半目でグインを睨む中、兄さんは俯いたまま動かない。セミの抜け殻みたいだ。それを、どこか戸惑った表情で、グインは見つめていた。
「話を戻そう。春子サン、京。この際、チョコが無いのは仕方ないんじゃないか?」
 実は浮かれ腐って用意してあります。
 そう言い出すのが少し恥ずかしくなってきたが、黙っている理由にはならない。春子さんはカバンを漁り始めていて、自分が買ったチョコを使えと、言い出しそうな雰囲気があった。それはきっと兄さんへ渡すもので、私が使っていい物じゃない。
「実は私! 数日前から用意してあります」
 語尾が弱々しく震えてしまった。恥ずかしい。
 二人はよほど意表を衝かれたのか、ごぶっとコーヒーを噴出して驚いていた。
「春子サン、こいつ浮かれてやがりますぜ」
「そ、そうね」
 自覚はしていたけれど、改めてそう言われると、込み上げてくる恥ずかしさが段違いだった。しかし、今は赤面を気にしている場合じゃない。私は意思を固めなければならない。そのために、こうして皆の意見を聞いているんだから。
 兄さんは消極的だった。
 春子さんとグインは積極的で、私もそうだった。
 今までも、自分の都合が他人を傷つけたことはあった。それでも、私は素直な言葉を伝えてきた。さほど悪いことだとは思っていない。自分の気持ちが正しく伝わらないというのは、とても怖い。そして、勘違いは仲違いを生む。だから、私は率直に伝える。そのせいで違えるような仲になれなくとも、私は伝えることを選んできた。
 それが、相手が秋山さんになった途端、怖くなってしまった。恋などというものが、私の考えを揺さぶる。相手の中で、私という人間が拒否される。今更、そんな恐怖を覚えた。伝わることは、怖いことでもあった。兄さんが自分の領域に閉じこもる理由を、少し肌で感じた。
 遠い町へ帰る間際に、面倒ごとに付き合わされる。秋山さんにとっては迷惑なことだろう。恨まれたっておかしくはない。
「あぁ」
 そうだ、恨みだ。
 大なり小なり、人の間には容易く恨みが生まれる。この世は私怨で動くんだ。恨みとはつまり、何かを求める心の行動だ。不満を解消しようという心の求めだ。惚れた腫れたも、斬った張ったも、政治も経済も、人の縁が絡む限り、全てはワタクシによる恨みで動いている。少なくとも、私の目にはそういう風に見えていた。
 ならば、その中で私はどうするのか。
「ん? 京ちゃん、いま良い顔したね。今ある感情は今だけのものだよ。いま手にあるだけで最後」
「うん、かっこいい京を、俺に見せてくれ」
 何かを満たそうとする心が求めるままに、二人は私の背を押してくれる。兄さんは相変わらず押し黙っていたけれど、さっきの優しい言葉は、兄さんの心が求め、私の背を押してくれた結果だ。たとえ方向が違ったとしても、三人は心の求めに従い、私の背を押した。それは強い恨みだ。心地よい恨みだ。
 ならば、私も心の求めに応じ、行動するべきなんだろう。玉砕しても、嫌な思いをさせてしまっても、私はこの恨みを、身勝手にも叩きつけるべきなんだろう。三人の強い恨みは、私の恨みを増幅させた。
「みんな、ありがとう。チョコを持って、秋山さんに伝えてきます!」
 とても魅力的な笑顔で、二人は頷きを返してくれた。
 人の縁が怨と糾えるなら、せめて気持ちのいい恨みを、晴れ晴れとした、とっておきの恨みを残そう。
 緊張か高揚か、脚が震えた。それでも、私はチョコの入ったカバンを握りしめる。転がる意思は岩のように固まった。
「で、アンタはどうする?」


<二月十四日(土) 十六時頃>
 全員の視線が猫のきぐるみに集まった時、切り裂きニャンコはイスをなぎ倒して逃走を開始した。
「あれを追うんだ、京!」
「え!?」
 グインは走り去る兄さんを指差す。私は大いに困惑したが、反して足の震えは治まった。
「春子サンはウサギのきぐるみを探してください!」
「い、意味わかんないんだけど!」
 同じく困惑する春子さんの声が遠くなった。体が走ることを欲していたように、私は廊下へ外へと駆けていく。
 太陽と月の配置交替。分厚い雲の隙間から、紺色になりつつある空が辛うじて見えた。風はなく、音もなく降り続ける雪。身を刺すような空気に、マフラーを置いてきたことを後悔した。
 兄さんは覚束ない足取りで駆けている。視界不良に加え、雪上というハンデがあるからだろう。とはいえ、遅いわけでもない。
「待って、兄さん!」
 どうして兄さんを追いかけているのか。やはりその困惑に反し、私の黒いブーツは雪を深く掴み、ぐんぐん猫背に迫る。部室棟を抜け、図書館に続くグラウンド脇の小道。そこで、追走劇は切り裂きニャンコの転倒で終わる。直滑降のスキーヤーが吹っ飛ぶ様を思わせた。
「だ、大丈夫……ですか?」
 雪に思いのほか体力を奪われて、乱れる息と上昇する体温。肩口で切った髪が首元に湿りつく。外気温に増幅された大量の白い息が、私と倒れた猫から立ち上っていた。
 湿る前髪を腕で押しのけ、私は切り裂きニャンコに近づく。幼少の頃から一緒にいる人間は、遠目から見ても、佇まいだけでそうだと判別できる。立ち方、ふとした動き、そして、走り方。
 あの時、グインは切り裂きニャンコをアンタと呼んだ。彼はもっと前に気付いていたんだ。
「あなたは誰?」
 落ち着いた呼吸。私の声は猫のきぐるみに届いたはずだ。雪に音を抑える効果があるのか、周囲は変に静まり返っている。心臓の音だけが、耳の中に太鼓みたいに響いてくる。
 そして、立ち上がる猫のきぐるみ。私は堪らず膝をついた。悲鳴すら出たかも知れない。全身が燃え上がり、周囲の降雪はなかったことになった。
「秋山、さん」 
「……はい」
 転がった猫の首。元々それがあった場所には、何度も何度も思い浮かべては不埒な妄想すらした、秋山さんの厳つい尊顔。
 目の前が白んだ。

 ◆

「なんなの一体……」
 グインの剣幕におされ、春子は若い活気がさざめく部室棟をさまよった。何度か来たことのある場所だが、彼女にとっては馴染みが少なく、オフィス街の無機質臭いビルに比べ、どうにも落ち着かないのだった。
 知らず知らず、春子は探索の足を狭め、上へ上へと階段をのぼっていった。廊下に雑然と置かれた物の中に、古びた大きな鏡がある。幽霊話の一つでも出そうな代物だ。
 春子の視線は、その鏡へ自然と向かった。白い何かが、横切るように映ったのだ。
 御伽の国。
 春子の頭にはそれが思い浮かんだ。ペロー童話集朗読会のポスターに挨拶をしていた凪。その時はきぐるみの顔部分は外していたが、やはり御伽の国みたいだと、彼女は思った。
 埃を湛えた鏡と、古めかしい階段と、暮れゆく雪の空。疾走する、ミサイルのような白ウサギ。
「凪くん!」
 思わず叫んだ春子。彼女には凪だとしか思えなかった。
 ウサギのお腹には、(仮)とマジックで書かれていた。きぐるみを着る、そんなことを書く、御伽の国、あの日の白。全てが凪を中心に線で結ばれた。
 そして、どうして、と思った。
 どうして凪がここにいるのか。あの部室にいた猫は誰なのか。と、春子の足は強く廊下を蹴った。ミサイルのように階段を駆け上る。それほど長い階段ではない。しかし、以前、ここをのぼった時よりも、彼女には到着地点が遠く感じられた。
 迷った暇つぶしに開けたあの日の扉。そこには、白い仮面をつけた小柄な彼がいた。おどおどとした、外ヶ浜凪。
 息を切らし、白ウサギを追って開けた今日の扉。果たしてそこには、手すりに寄りかかり、拳を突き上げる凪がいた。
「が、頑張れ。京! 頑張れ!!」
 鼓膜に響く、力強い凪の声。春子は部室にいた猫の正体を悟る。驚き、怒り、呆れ、その全てを一瞬で通過し、諦めた。そして、なんだか可愛らしさが込み上げたのだった。
「声、上擦ってるし」
 春子の接近にも気付かず、凪は必死に声援を送っていた。あちこちで点灯し始めた明かりが、雪の屋上をほんのりと照らしあげる。
 やがて、届いたと確信したのか、凪はぺたりと座り込んだ。汗と、上気した肌に溶ける雪とが、彼の髪と睫毛を濡らしている。目が醒めるような赤色をした唇から、乱れた呼吸が空に昇った。
「お疲れ様」
 春子はウサギの頭を拾って、おもむろにそれを被った。凪は驚いた様子で、倒れ込んだまま彼女を見上げる。
「暗くして遮断して。入ってこないし出てもいかない。まあ、快適だよね」
 半分になったウサギ。
「ねえ、見せてくださいよ。この、凪くんの領域。もっと、わたしに見せてください」
 春子は言いながら、握りしめていた小箱を渡した。綺麗に包装されたチョコレート。強く握りすぎて変形してしまっていたが、顔だけウサギが渡し、体だけウサギが受け取るものとしては、妙な相応しさがあった。
 もふっとした両手で、凪はチョコの箱を掲げた。おっかなびっくりとした手つき。
「作ろうかとも思ったんだけど、買ったほうが絶対おいしいからね。そっちのほうがいいよね」
 凪は上体を起こし、顔だけウサギを見つめた。生まれつき繊細なメイクが施されているような、凪の面立ち。京にも受け継がれている、宝石みたいに澄んだ目。その全てが、隠されることなく、春子に向けられていた。
「顔が見えないだけでも、ずいぶん話しやすくなりますね」と、凪は一度言葉を切り、照れた笑いを浮かべて続ける。「くれると言うなら、どちらにしろ拒否する理由は思いつかない」
 うふふ、と笑い声。
「まだまだ遠い返答ですね。お姉さん、次はもっと頑張ろうと思いました」
 そして、しばしの沈黙の後、春子は意地悪そうに笑う。
「そうそう、凪くんからは見えてなくても、こっちからは見えてるから。実はずっとガン見してるから」
「ちょ!」
 あわあわと、漫画みたいな動きをして、凪の顔は瞬く間に紅潮していった。
「それそれ、その顔。あの日も、仮面を取ったらそんな顔をしたよね。そういうの、もっと見たいです」
「くっ。あの心のゼロ距離射撃には泣いた。危うく財布を献上しそうになりましたよ」
「なにそれ、ちょっとショックなんだけど」
 半分ずつの白ウサギが、雪の屋上で笑っている。

 ◆

 頭を叩かれたような気がした。聴き慣れた、聴いたことのない、声が降ってきた。
『頑張れ』
 気のせいかも知れない。それでも、雪と薄闇をかきわけて、声の降る方向を探した。部室棟の屋上だ。自分の領域を投げ打ち、顔を外に晒した兄さんが、精一杯の声で叫んでいた。
「京、頑張れ!」
 大声を出すのは苦手なはずだ。上擦った声からもそれが分かる。苦手と決心を乗り越えて、微かでも私に届いた声。いつの間にか、白んでいた視界は鮮明さを取り戻していた。
 遠く届いてきた声援へ、私は強く頷きを返す。兄さんの求める心――恨みは、私の中に存在する恨みを更に増幅させた。秋山さんを呼び出し、きぐるみを着せて入れ替わった。兄さんがそれをやった。そう思えば、私の屈した膝は伸びた。
「秋山さん」
 無意識的にか後退する秋山さん。それを制し、私は大きく息を吸う。
「伝えたいことがあります」
「はい」
 重く頷き、秋山さんはきぐるみの中で背筋を正した。その恰好のお蔭か、緊張が少しだけ緩む。
「コンビニで、私は貴方を好きになりました」
 第一声は淀まなかった。
「恋などというものの存在を、初めて身近に感じました。一緒にいたいと思いました。でも、貴方は遠くに行ってしまうと言う」
 思わず俯きそうになる顔を必死で抑え、私は伝えるべきを伝える。増幅した恨みを叩きつける。
「そう、だったんですね……。はい、僕は遠くへ行きます。たぶん、もう会えないくらいの遠くへ」
 それは何処なのか。思っていたよりも遠いらしい。
 走り去る猫背。追いかけた猫背。もう届かない。その予感に怯む。だからこそ、私は笑うべきなんだ。ここで伝える言葉には、不敵な笑みこそが、もっとも相応しいんだ。
 鼻の奥に鋭利な痛みが走り、目蓋には重いものが載った。まだ、もう少しだけ待ってて欲しい。
「わかりました。それなら、このチョコレートを手土産にどうぞ」
 ふてぶてしい顔で、悲しさなど、寂しさなど、涙などないかのように、私は続ける。
「帰りの道中、もう私に会えない寂しさを噛みしめながら、美味しく頂いてください」
 できただろうか。清々しい皮肉を返すことが、痛快な恨みを残すことが、できただろうか。
 私が差し出しているチョコを、秋山さんは戸惑う手で掴んだ。上気した彼の顔を見ると痛みが走る。でも、その痛みは、どこか痛快で、苦いながらも、それなりの味を私の胸に残した。
「嬉しいです。外ヶ浜さん、ありがとうございました。……それでは!」
 秋山さんはきぐるみを引きずるようにして走り去る。その広い背中を見て、雪上に残された猫のきぐるみを見て、私の短い浮かれ話は終わったんだと、実感した。
 彼とすれ違い、グインがのそのそと歩いてくる。
「京、かっこよかった」
「ありがと。でも、ここで現れるのはちょっと卑怯だ。ごめん、少し泣く」
「いいよ」
 私は路肩の雪に顔を突っ込んだ。
「……。それにしても、号泣しながら走る男を、俺は初めて見た」
「そうなんだ? ふふふ、やってやったぜ」
 私はガバリと顔を上げる。やってやった。いっそ清々しい恨みを、私は私の中に、きっと秋山さんの中にも、残してやった。
「振られたのに、振ってやったみたいな顔してる京サン、マジこわい」
「はい、これあげる」
 私はカバンから小さめのチョコを取り出した。グインと兄さん用に買った、義理チョコというやつだ。
「――!? これで二つだ。とても嬉しい!」
 母国語で喚いてしまうほど、グインは喜んでいる。それは、なんだかこっちまで笑顔になってしまう光景だ。
「二つなの?」
「そうなんだ。部室の机に置いてあった。春子サンだ。“恩売りチョコ グイン用”って書いてあった。思わず吹いたで!」
 可笑しい。お腹の底から、晴れ晴れとした大笑いが込み上げてくる。さっきから溢れ出ている涙は、軽くさらさらと流れていく。
 私たちの大笑いに誘われたのか、兄さんと春子さんも現れた。顔だけのウサギと、体だけのウサギ。お腹に(仮)とマジックで記載されている。
 ここに、秋山さんはもういない。けれど、私の見たかったもう一つの光景が、そこにはあった。仮とはいえ、思った通り素敵な光景だ。
「新しいスタイルのペアルックだな」
 グインが冗談めかして笑った。
「二人とも、妙に似合ってるよね」
 こうして、私の周囲も、それぞれの私怨が回る。恨みは悪いものばかりじゃない。できれば、晴れやかで気持ちのいい恨みを打ち鳴らそう。そして、それが増幅され、響き合えば、心残りだって晴れやかだ。
 以前よりも、私は伝えることを恐れるようになった。それでも――、
「ところで兄さん。騙し討ちの必要はあったの? 返答次第では怒るから」
 素直な言葉は、これからも口をつくだろう。




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