一月のカレンダー小説

燃えよ本

 一年に一度しか参詣しないのに、初詣などと言っていいのだろうか。
 摩擦の少ない地面で滑らないよう細心の注意を払いながら、カンナはそんなことを考えた。神社へと続く階段は、多くの参拝客によって既に雪が踏み固められていた。
 彼女は初詣という風習を心底面倒に思っていた。祖母が行け行けとうるさく言わなければ、絶対に参加しないであろう行事の一つである。その祖母だって別に信心深いわけではなく、代表的な年間行事には参加するべきだというよくわからない義務感で催促しているだけ。新年の一日目からカンナの気力はだだ下がりだった。
「――ここは本の神様が祀られている神社なんだってね」
 ふいに後ろから声を掛けられた気がして、カンナは振り向く。大きなリュックサックを背負った無精髭の中年男性が、蛇のような笑みを浮かべてカンナを見ていた。
「え、っと……」
「うん、急に話しかけてすまない。うちは本屋でね、今年一年商売繁盛しますようにって、お参りに来たんだよ」
「そ、そうですか」
 先ほどの声は気のせいでなく、彼女に向けられたものだったらしい。近所の親しい子供と朝の挨拶でも交わすようなノリで、男は話を続ける。普段からあまり人と会話しないカンナには、迷惑極まりない行為である。
「そういえば学問の神様でもあったっけ、モトツチ様は。君は今年あたり大学受験かな?」
「来年、高校受験です」
 ため息を吐きたくなったが、できるだけ平静を装って答えた。彼女にとってはもう言われ飽きた質問で、返事も定型句みたいなものだ。
 しかし彼の言葉も決して的外れではない。中学生にしては高めの身長、黒縁眼鏡に三つ編みという古風な出で立ちは、傍目にも年相応とは言い難かった。
「へぇ、随分大人びて見えたから、てっきり。じゃ、良い本に出会えるようお参りに来た読書家ってところか」
「……本は好きですけど、別にそういうわけじゃないです」
「あ、そう」
 たまたま近くに家があって、今日が元旦だと言うだけの話。本の神様だということを知った以後も、カンナにとってこの神社は、祖母に焚き付けられ嫌々参拝する場所以上の何物でもなかった。本の神様は、本ではないのだから。
 いつの間にか隣を歩いている男から距離を取りつつ、注連縄で飾られた朱塗りの鳥居をくぐり、多くの人で賑わう境内へと足を踏み入れる。
「じゃあ君はどんな本が好きなんだい?」
 本屋はなかなか離れようとしなかった。こんなときに営業でもするつもりなんだろうか、とカンナは内心眉をひそめ、本は好きだなどと言ってしまったことを後悔した。自分の世界にズカズカと踏み込まれているような気がして、気分が悪い。
「太宰治、です」
 咄嗟にそれっぽい嘘をつく。半分だけ。くだんの作家による著作は、むしろ愛読していると言って過言でない。個人的には親近感すら湧く。ただ彼女が好きな作家は、なにも彼だけではなかった。
 カンナはなんでも読む。それこそ古典文学に限らず、現代文学、海外文学、大衆文学、ライトノベル、恋愛小説、SF、ファンタジー、ミステリー、学術書、啓発書、専門書、極端なことを言えば川原に落ちてるエッチな本(バリバリ)でもこっそり読む。そこに誰かの書いた文字があるなら、読む。家族や友人からは『活字中毒が服を着て歩いている』、『本を読むために生まれてきた』、『ザ・文学少女』などとからかわれるほどだった。
「太宰かぁ。じゃ、こういうのはあんまり好きじゃない?」
 本屋が背負っていたリュックから取り出したのは、男性同士が絡み合っている表紙のマンガだった。タイトルは『俺の腕の中で逝け』。
「…………」
 この人は拘置所の中で体育座りして鉄格子の外の世界をボンヤリ眺めるのが趣味だったりするのだろうか、とカンナは本屋を睨みつけた。本の中身は少し気になったが、そろそろ我慢の限界だ。
 助けを求められる人間はいないかとあたりを見回したその時、それなりに広い神社の一角で、小さな倉から煙が立ち上るのが目に入った。ややあって、火事だ、という叫び声が聞こえた。 



 騒ぎに乗じて境内を出、本屋をまけたのはカンナにとって僥倖だった。火事もボヤのような規模で、大事には至らないだろう。またいつ鉢合わせてしまうとも限らないから参拝は諦めるしかないが、元々そこまで興味はない。
 あの男はしばらく本堂から戻って来ないだろうし、参拝に行った証拠に鳥居前の売店でお守りでも買おうかと思ったカンナだったが、一つ千五百円という喪心禁じえない価格だったため、すぐさま踵を返した。あの神社に祀られているモトツチ様とやらも、あんなお守りより文庫本を二、三冊買ったほうが学の利になると言うだろう、と。
 坂を下った先にある駐輪場から自分の自転車を引っ張りだし、自宅へ続く雪道を慎重に駆けた。数分も漕げば自宅である。
 居間では母親が寝転がって正月番組を見ていた。
「おかえり。初詣どうだった?」
「人がたくさんいた」
 小学生の絵日記さながらに至極当たり前のことだけ告げ、カンナは自分の部屋へ向かう。
 防寒具を脱いでクローゼットにしまい、またぞろ本でも読もうとベッドへ腰掛けた。枕元に散らばっている内の一冊を開く。それは偶然にも、実際の放火事件を題材に書かれた小説だった。
「火事、か」
 ふと先刻の騒ぎを思い出し、あれはひょっとして放火だったのではないかと妄想する。がしかし、本堂ではなく倉に対して破壊衝動が湧くというのもなんだか間抜けな話だ。カンナは鼻で笑って自説を撤回し、次のページをめくった。
「ん……?」
 字が揺れたように感じたのは、その時だった。
 元々あまり良くない目が、寝不足でさらに悪くなったのだろうか。眼鏡を外して、目を擦る。
「えっ!?」
 今度ははっきりと揺れた。いやそれどころか、文字の揺れは未だ収まらない。
 本の読みすぎで頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも芥川龍之介の小説に書いてあった歯車というのは、まさかこれのことか。
 そんな思いを廻らしているうちに、それは揺れとかブレとか歯車どころの騒ぎではなくなっていった。いよいよ恐ろしくなり、悲鳴を上げて本を放り投げる。そのまま部屋を飛び出しかけたが、何よりも好きな本を投げてしまった罪悪感が彼女の肩を掴んだ。
 意を決して、振り返る。
「ひっ……!」
 それはまさしく息を飲む光景だった。本の表面を黒い粒が、飴玉に群がる蟻の群れのようにゾワゾワと這い回っているのだ。寒気とともに直感する。
 あれは、文字だ。
 本来紙上に印されているはずの黒インクが、どういうわけか縦横無尽に踊り回っている。これが本当のモンスターズインクか、と破滅的に下らないことを考えてしまうほど、カンナの思考は混迷を極めていた。
 そして、ピタリと。
 始まったときとは対照的に、文字達は突如動きを止めた。しばらく観察していた彼女だったが、もう何も起こる様子がない。
 恐る恐る本に近づき、ちょいちょいと指でつつく。当然のように、本はピクリともしない。勇気を出して手に取り、さっきまで読んでいた箇所を探そうとして、気づいた。
「えっ、これ……違う」
 吃音の少年も内翻足の少年も、そこには存在しなかった。まるで中身だけ差し替えられたように、文章が明らかにさっきまで読んでいたものとは、異なっている。
「私はもとつち……? なにこれ」
 さっきまでいた神社に祀られていた神の名前が登場し、狼狽える。一体何が起きているのか、半ば夢の中にいるような気分で、続きを読んだ。
『今君は夢でも見ているような気になっているかもしれないが、これは夢ではない。落ち着いて聞いてほしい。いや、読んでほしいと言うべきか』
 さらに彼女を驚かせたのは、その次に書かれていた言葉だった。
『私は今、君に取りついている』
 取りつく、の意味が分からず、一度本を閉じた。数秒間部屋の隅を見つめ、数分間部屋の中を歩きまわり、ようやく理解する。
 ――私は今、君に取り憑いている。
「なに……それ……」
 確かにお守りは買わなかったし、参拝もしなかったし、当然賽銭も投げなかったけれど、その報いがこれだとしたらあまりにも酷すぎる、とカンナは憤慨した。ひょっとして自分はこれからずっと、まともに本が読めない体になってしまったのだろうか。
『しかし勘違いしないでほしい。これは別に君に対して害をなそうとしているわけではない』
 続きを読んでホッとしつつ、この会話システムは同時性がなくてすごくめんどくさいな、と思った。
『むしろその逆だ。端的に言ってしまえば、私を助けてほしいのだ。君はずいぶんとたくさんの本を読んでいる。つまり、それだけ多くの人のおもいに触れている。加えて感受性も強い。あの場にいた人間の中で、一番ひょういしやすかった』
「そんな……」
 こんなことになると知っていたら、そもそも神社に参拝なんていかなかったのに、という言葉は飲み込む。伝達手段が文字のせいか、モトツチの言葉にはどこか無機質でうろんな雰囲気があった。下手なことを言ったら今度こそ祟られてしまいそうである。
『君がおまいりに来たとき、ちょっとした火事があったのは覚えているか。実はあのとき、倉の中にあったちんこんの札が燃えてしまったのだ』
 おそらく鎮魂と書くのだろうが、さっきの『ひょうい』といい、本の中にちょうどいい文字がないと平仮名を使うしかなくなるらしい。
 どこか卑猥だと思った。
『ちんこんの札というのは、ときの権力者によって禁書とされ、燃やされた本のおもいをしずめるために作られた札のことだ。それが失われてしまったためにふういんが解け、おもいが暴走して――』
 使える文字が少ないせいか、漢字が少し頻出単語から離れると平仮名が多くなる。内容といい、弟の書いた小説を読んでいるようだった。
『とにかく、逃げたおもいを再びふういんしなければならない』
 手伝ってほしい、と。文字列の最後にははっきりそう書いてあった。そこから先は無造作に文字が並んでいる。メッセージはここで終わりらしい。
「手伝う……何を、ですか?」
 カンナが疑問を呟くと、それに答えるように再び文字が動き出した。思わず悲鳴を上げそうになったが、こらえる。
『私をおもいのところへ連れて行ってくれ。おそらくおもいは火事を起こした人間にとりついているはずだ』
「ま、待ってください。火事を起こした人間って、あれ放火だったんですか?」
『火のないところに煙がたたぬように、因ないところに火はたたぬ。彼はお前と同じくらいの青年だった』
 中学生の自分と同じくらいなのに青年……。
 老け顔と言われている気がして、カンナとしては憤懣やるかたなかった。しかし直後に聞こえてきた町内の有線放送が、そんな感情を吹き飛ばす。
<――緊急放送、緊急放送。火災の、お知らせです。ただいま、北狭間地区、一丁目、市立図書館で、火災が発生しました。消防団員は、ただちに現場へ、向かってください。繰り返します――>
「図書館が、火事……」
 そこはカンナがあしげく通う図書館の一つだった。窓から図書館のある方角を見ると、確かに健康上害のありそうな黒煙がもくもくと上がっている。
「あれがオモイとかのせいだって言うんですか?」
『おそらく。正確にはおもいにつかれた青年の仕業だろう。早く対処しなければ、今以上に大変なことになる』
「そんな……。でも私、何もできません……」
『私を連れていけばいい。あとは何とかしよう。早く。今のままで被害がおさまることはない』
 文章はまだ続いていたが、カンナはそこまで読んで意を決した。再びコートを羽織って外へ飛び出し、市立図書館まで自転車を飛ばす。
 赤々と燃える図書館が見えてきた。今度はボヤどころの騒ぎではないようだ。死傷者が出ていてもおかしくない。そしておそらくあの煙の中には、何冊もの本が。
 ペダルを漕ぐ力は自然と増した。



 現場に到着すると、駐車場は火事を見に来た野次馬でごった返していた。あたりに放火犯らしき影を探すが、そんな人物は見えない。
「モトツチさん、その取り憑かれてる人の気配とか分かりますか?」
『ある程度近くに行けばわからなくもないが、私は今君に取りついている状態だ。君を通して世界を見、君を通して世界にかんしょうしている。だから君にわからないことは通常私にもわからない。自力で探してくれ』
「うわぁ」
『本の気配ならばある程度わかる』
「そのくらい私でもわかります」
 なんて役に立たない神様なんだろう。こんなのにお賽銭を払ってる人たちが可哀想だ。
「おい、今度は駅前の書店で火事だってよ!」
 誰かが叫んだ。犯人は移動しながら放火しているらしい。今度は東の本屋。またもカンナ行きつけの場所だ。
「新町の学習塾もだ! 適当に人割いて回してくれ!」
「やたら火事の多い日だねぇ。どんど焼きは来週なのに」
 全くその通りだ。
 カンナは隣の老婆の言葉に心の中で頷く。
『どうする。このまま当てずっぽうでは埒があかないぞ』
 埒があかないのはわかっている。本当に役に立たない神様だ。
 犯人だって闇雲に放火しているわけではないはずだ。その証拠に、今まで火事が起きている場所は全て本に関係している。最終目的が、きっとある。
 頭のなかの関連語を必死でかき回し、考える。
 青年、図書館、本屋、学習塾。青年、図書館、本屋、学習塾――受験生? 浪人生?
「わかり、ました。たぶん」
『次に狙われる場所がか』
「いえ、犯人の本当の狙いです。最初に火事が起きた市立図書館は神社から北に離れた場所。その後、駅前の書店は神社の東。そして今度は南の学習塾、次がたぶん西にある高校――神社から人間を遠ざけようとしてるんです」
『私の神体を燃やすのが真の目的か。それは少し、まずいな』
「最初に倉が放火されたのも、人が多くて本堂に近づけなかっただけだったとしたら」
 なんとなく辻褄が合う。いやもう、この予想に賭けるしかない。
 こうしている間にも、何冊もの本が燃えているのだろう。自分に読まれるはずだったいくつものオモイが、消えていっているのだろう。そう考えると胸を締め付けられるようだったが、全て我慢し、カンナは再度自転車に跨る。
『高校に先回りするのか』
「犯人の移動速度からして、きっと車か何か使ってます。今から高校に行っても間に合いません。だから神社で待ち伏せします!」
 自転車のギアを最大にし、しゃかりきになってペダルを漕ぐ。途中何度か転びそうになったが、それでも速度を緩めず五分足らずで神社の下まで来た。
 自転車を放り投げ、二段跳びで階段を駆け上がって神社を目指す。普段の彼女からは想像もつかない、瞠目すべき業だったが、幸か不幸か、彼女の知り合いでその姿を見たものはいなかった。
「着いたっ」
 肩で息をしながら、鳥居をくぐったところでカンナは呼吸を整える。
 神社の境内に人影はほとんどなかった。数人の関係者がいるだけで、参拝客は騒ぎにつられて皆ふもとへ下りてしまったらしい。放火魔の目論見通りだろう。
『本当に来るのか。ここへ』
「来ます」
 モトツチの問いに短く答え、鳥居の間からふもとを睨むカンナ。
 しかし、しばらくして異変が起きたのは彼女の後方だった。
「おい、裏で山火事だ!」
 誰かが叫び、残っていた人たちは全員神社の裏にある山のほうへ行ってしまった。最後の仕上げ、ということらしい。
 まさか自分以外の人間が一人もいなくなるとは思っていなかったカンナは、予想外の事態に焦った。モトツチの助言を仰ごうと本を見る。
『前からくる』
 振り返った途端、鳥居がわずかに震えた。二本の柱の間を通って現れた影を見て、勢いのまま神社まで来てしまったことを、心底後悔する。
「なんだ? お前」
 子牛ほどの大きさの黒い犬にまたがった青年が、カンナを凝視していた。数メートル離れていても赤く見えるほど血走った双眸は、明らかに正気のそれではない。
「あ」
「ここにはもう誰もいないと思ってたんだけどなぁ。はっきり見られたからには……どうすっか」
 全身から汗が吹き出し、目の前の超常現象に卒倒しそうになる。今までにない緊急事態だと、脳が告げていた。
「なにアレ! なんなんですかアレぇ!」
 カンナは必死でモトツチに問いかけた。
『荒御魂だ。おもいがあの男にとりつき、形を成したのだろう』
「なに呑気に解説してるんですか!? あんなの聞いてないんですけど!」
「本読んで何言ってんだ? 頭おかしくなっちまったか?」
「え……」
 青年に言われてハッとする。そうなのかもしれない。実は自分はとっくの昔に狂っていて、ここ数時間自分の身に降りかかったことはみんな幻覚だという可能性は大いにありうる。実はモトツチ様なんていないのではないだろうか。自分はただ妄想の果てに偶然放火犯を見つけてしまっただけなのではないだろうか。
 もはや冷静な思考すら成立せず、最悪のパターンを考えてカンナは絶望した。
「いや、気ぃ触れてくれたならそれでいいんだけどさ。念のためもうちょっとショック与えとくかな」
 青年は犬の背から下り、行け、とカンナのほうを指さした。
 カンナは半狂乱になりつつ、涙声で叫ぶ。目の前の紙束に、必死で縋る。
「あなた神様なんでしょ!? 私に取り憑いてるんでしょ!? なんとかしてよ!」
『承知』
 滲んだ視界の向こう、ほとんど無地の紙の上に、その二字だけがあった。
 視界が歪む。腕に無数の何かが纏わりつく感覚が、彼女を襲った。まるで手にした本から、文字が自分の体に移ってきているような。
「はぁっ……!」
 変な感覚は腕から全身へと徐々に広がっていく。同時に、自分の中からも何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。今まで読んだたくさんの文章が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
 すぐそこには鋭い牙を剥いて迫る、黒い獣。
 その顎が服に届く刹那、少女は渾身の力で獣の腹を蹴りつけた。
 丸めた敷布団を蹴ったような衝撃が彼女の足に伝わり、低いうめき声をあげて獣が吹き飛ぶ。その体は境内の石灯籠に激しく打ちつけられ、地面に伸びた。
「何!?」
 驚愕する青年を横目に、少女はゆっくりと黒い塊に近づき、その頭部に足を掛ける。そして躊躇せず、思い切り踏み潰した。
「どうした? お前のオモイはこんなものか?」
 三つ編みを解いてメガネを胸にしまい、少女は青年を睨みつけて言う。
 さっきまでの少女とは、どこか雰囲気が違っていた。
「なんだ? お前」
「さぁ、なんだろうねぇ。大量のオモイに影響されてきた片平栞奈と、モトツチが併さった『何か』ってとこかな」
「モトツチ……だと? そうか、神様直々のお出ましか」
「いやだからモトツチじゃないってば。まあいいや。これで終わりだし」
 腕を組んだ姿勢で青年を鼻で笑い、少女は口角をつり上げる。
「最後に聞いてほしそうだから聞いてあげるけど、なんで放火なんてしたんだ?」
「は? 聞いてほしそう? おれが? 馬鹿か。お前みたいな女に言っても、わかんねぇよ」
「ん? でぇっ!」
 余裕に満ちていた少女の顔が苦痛に歪む。
 足下で潰れたはずの獣はいつの間にかいなくなっていて、それに気づいてすぐその場から離れようとした少女だったが、一足遅かった。頭の復活した巨犬が、その大顎でもって彼女の腕に牙を立てていた。
「イダダダダ!」
「あれで終わりなわけねぇだろ。こいつだって神社の主ほどじゃあないが、神みたいなもんなんだぜ? おれの意志がある限り、何度だって甦る。ちょっと俺が合図出しゃ、そんな細腕一瞬で」
「痛いっつってるだろ!」
 激昂とともに少女の腕が爆発炎上する。獣の顎は四散し、地に落ちる間もなく燃え尽きた。
 突然の人体発火に今度は青年が驚く。
「な、なんだそりゃ……」
「人生に疲れたんだか社会に不満があるんだか知らないが、そんなもの自分で処理しろ。他人様に迷惑かけるんじゃない。百歩譲って他人はいいとして、この私に迷惑をかけるな!」
「いやいやいやいや、どうして体燃えるんだよ! お前、本の神様だろ!」
「確かにモトツチは本の神だ。しかし片平栞奈は本に対して熱いオモイを持つ少女。つまり、私の心が燃えているから、私の体も当然燃える!」
「なんでだよ! わけわかんねぇよ!」
 どだい理不尽としか言えない力に、青年はひきつれた叫びを上げた。
「ほらほらどうした! 私の! 細腕を! 一瞬で! どうにかするんじゃ! なかったのか!? え!?」
 青年を挑発するように、少女は燃える片腕だけで荒御魂を玩弄する。その身体はすでに首と胴体の半分を欠き、おぼつかない四肢で取れかけた首を揺らすだけの珍妙な生物になっていた。
「くそっ! 燃やしに来たのはおれたちのほうなのに、これじゃ逆じゃねぇか!」
「火遊びするなってお母さんに教わらなかった? 罰が当たったんだろう。神様の罰が」
「うるせぇ! 舐めるな!」
 一旦消滅しかけた獣は、再び青年の身体から流れ出る文字を吸収して膨張した。
 しかしその上から白熱した拳が炸裂し、またも獣は燃え上がる。
「う、おお」
 荒御魂へのダメージは、明らかに青年にも響いていた。少女はめらめらと燃えて小さくなるそれを、つまらなさそうに見ていた。
「ぐ……なんで」
 止めを刺そうとしない少女に向かって、青年は苦しげに呻く。そんな彼を真剣な眼差しで見つめ返し、少女は叫んだ。
「温度が低ぅい! アイス屋さんでも開く気かお前は! こんなので満足できるわけないだろ! こんなので納得できるわけないだろ! 何よりお前が納得できてないだろ!」
「うぅ」
「もっとくべろ! 私を燃えさせろ! 私に燃やさせろ! お前はまだ熱くなれる! 不満があるなら口に出せ! それが無理なら文字にしろ! 馬鹿みたいな方法で他人に理解してもらおうなんて、十年遅いんだよ!」
「っ! 理解してほしくなんか」
「理解させろっ!」
 反論は口にする前に荒御魂もろとも殴り飛ばされた。小さな犬は二転三転した後、青年を巻き込んで鳥居の柱に突っ込んだ。
「こ、このやろ」
 青年は犬をどかして立ち上がりかけ、しかしその場に崩折れた。
 満身創痍の青年に対し、少女はさらに求める。
「私はお前なんてどうでもいい! お前を苦しめる原因が何で、悪いやつは誰かなんてことにはカスほどの興味もない! だが、お前がそんな破滅的な行動を取るようになった過程と、その心境は興味深い! 是非! 知りたい! 教えろ!」
 その目は好奇の色に満ち、その言葉は青年に対する興味で溢れていた。
 場違いな空気と少女が初めて見せた顔に、決して理解など求めまいとしていた心が揺らぐ。
「はぁ……そこまで言うなら教えてやるよ! 後悔するな……! なんでおれが放火なんて下らない真似をしてるかって? そんなもん、それ以上に下らないことがあるからに決まってんだろうが!」
 青年が叫ぶと、獣は数倍に膨れ上がった。子犬ほどだった荒御魂の背丈が、一瞬で鳥居を越える。
「何がガクモンだ気取りやがって! 毎日毎日机にかじりついて周りと同じことやって評価されて、あんなもん工場の生産ラインに乗っかってるのとどこが違う!? その上何作ってるかと思えばその工場を増築する機械だとよ! ふっざけんな! なんでそんな意味ねぇこと飽きもせず馬鹿みたいに延々繰り返してんだ!? 一体何がしてぇんだよ! みんなどうかしてる! 作られてる奴らも作ってる奴らも作ってる奴らを操作してる奴らも! おれはお前らのようにはならねぇ!」
 巨大な荒御魂の前脚が、学問の神を少女ごと潰さんと唸りを上げる。彼女はそれを避けようともせず、真向から拳を見舞って爆散させた。
「いいぞ、出せるだけ出せ! 無駄なとこだけ燃やす! 燃やして燃やして燃やし尽くして、綺麗にまとめられたとこで読んでやる!」
 丁々発止、ぶつかり合う獣と人の影を見たものは、幸いにして一人もいなかった。ただ後々、戦いでボロボロになった神社を前にして失神する人間は何人も出ることになる。
 二人の攻防はほんの十数分間の出来事だったが、それは青年にとって那由多の時間にも思えた。それまで抱えてきた不満全てを出しきり、青年は神に挑んだ。
「次で……終わりだ、本の神。かなり、ああ、整理がついたぜ」
「いや、それだけまとまれば十分だよ。完璧なんて求めない」
 笑いながらあっさりとそう告げ、少女は口を開く。
 犬の化け物が子犬のような高い声を上げた。黒い塊は文字へと分解され、少女に吸収されていく。
 決着自体は、瞬く間についた。
「あ……」
 ごくり、と喉を鳴らして、少女は全て飲み込んだ。
「ご馳走さま」
「は、なんだよ、それ」
 雪のなくなった石畳の上に倒れこみ、空を見上げて青年は力なく笑う。
 しかし気分は良かった。市立図書館に火を点けたときよりも、火災に慌てふためく本屋の店主を見たときよりも、自分の起こした災害に集まる野次馬たちを見たときよりも。
「そこそこ面白かったぞ。また読ませてくれ」
「……悪いけどそれは無理だ。これから警察行かなきゃいけないしな」
「そんなの大して問題ない。知ってるか?」ニッと笑って、少女は青年に囁く。「物書きって、刑務所の中でもできるんだ」



「ワタシジャナイ……ワタシジャナイ……」
 まるで何かの責任逃れをするように、カンナはうわ言を繰り返していた。神社から家までずっとその調子で自転車を押し、帰ってきた。誰かに見られていたら放火犯と勘違いされても仕方ないような有様だったろう。しかし本来の彼女の性格を考えれば、その放心もやむなしと言えた。
 自分はクラスの誰よりも大人しい人間である。自他共に認める文学少女である。そして嫁入り前の女の子である。なのになぜ、何を間違って、天下の往来であんな熱血教師じみた戯言をのたまわなければならないのか。幸い周りに人がいなかったからいいものの、あの青年には確実に見られた。何か大切なものを失ってしまった気がして、泣きたくなった。
 ベッドに倒れ込んで深呼吸をしたのち、勇気を出して手元の本を開く。
 家に戻るまでは読まないでおこうと決めていたが、その判断は正解だったらしい。そこには本の神によって、辛辣な現実が書きつけられていた。
『そう自己否定するものじゃない。あれはまぎれもなくお前自身だ。正しくはお前のおもいが表に出た姿だが』
「あんな勝手なこと思ってない! 全部あなたが言わせたんでしょ!」
『口調がずいぶんぞんざいになったな。勝手、か。まぁ解釈は受け手の自由だ。ちなみに私はただの鍵にすぎない。人の意思をあやつるようなことはできない』
 神の言い草にカンナは歯噛みした。
 自分のことは自分が一番よく知っている。そして自分が違うと思うのだから、あのヤンキーみたいな女はカンナではないのだ。
「っていうか私、最後のあれ、何飲み込んだの……?」
『あの男のおもいだ』
「イヤァァァァァ! 気持ち悪い! 最低! 最悪! オヴェッ!」
 喉の奥からこみ上げてくるものを感じ、カンナはトイレへ走った。
『吐いて出てくるものじゃない。本質的には普通の読書と変わらないのだから』
「だったら普通に読ませてよ!」
『あのりょうを読み切るのにし覚処理では時間がかかり過ぎる』
 無駄な所で現実的な神だった。
「もう用が済んだなら早く私から出てって!」
 一刻もはやくこんな疫病神とは縁を切りたい。カンナは一心不乱にエンガチョを繰り返した。
『では要望に答えるとしよう。しかし文字あるところに私はいる。そのことを努々忘れるな』
 不吉な文章を読み終えると同時に文字が組み変わり、それは再び吃音の少年の物語を紡ぎだした。
 本の神様はとりあえず消えたらしかった。体が軽くなることはなかったが、気分が軽くなるのははっきりと感じた。
 全くとんでもない目に遭ったな、とカンナはため息を吐く。本というものはやはり、自分で喋ったりしないからいいのだ。
「……これはしばらくやめとこう」
 本棚の未読スペースの隅に半日を共にした本をしまい、別の作品を手に取った。その一ページ目をおもむろにめくりつつ、ふと考える。
 この本には、一体どんなオモイが込められているのだろうか。
 応えるように、文字が揺れた気がした。




  感想掲示板