「高知アジア映画祭」に寄せて
学芸欄('93.10.16.)掲載
[発行:高知新聞社]


 毎年、秋に開催される「高知アジア映画祭」も今年で五回目になる。この映画祭が「こうち国際交流フェア」の一環行事として行われるのは、国際交流のための相互理解を幅広く進めるという点で、生活・風俗・娯楽から芸術・哲学・思想に至るまで、大都会も辺境の村も、今も昔も映し出す映画というメディアが、最も分かりやすくかつ雄弁だからだ。そのことに深い理解を示してくれた県の計画推進課国際交流班長田上氏(開始当時)や武政氏の力強い後押しで国際交流基金の提供するフィルムを利用する形でわずか二本の上映から始めたのだが、今年も含めると、計十四カ国、四十一作品を数えるようになった。

 自主上映活動を続けているとよくわかるのだが、アジアやアフリカ、南米などの国々の映画は、積極的に紹介していきたいとは思っていながらも、継続して上映していくのがとても難しい。本当は、ある程度見慣れてしまったアメリカやヨーロッパの映画と違って、作品の出来以前にそこに映っているものを観るだけでも興味深いという楽しみが保証されている上に、近年急激に力をつけてきて、いわゆる作家主義的な観点からも注目すべき監督を続々と輩出しているのだから、もっともっと関心を集めていいはずなのだけれど、残念ながらお客さんがあまり来ない。

 しかしながら、その一方で、毎年の開催を楽しみにしてくれる人々や思いがけない国々の映画に触れて得た新鮮な驚きを伝えてくれる人々も少しずつではあるけれど、確実に増えてきているという気がする。そういう点に関してなら、私自身を振り返っても、例えば、去年のフィリピン映画の中で軍の高級将校が電話で話している時に、同じ相手と話しながらも、職務に関する話題は英語で、個人的な話はタガログ語(多分)で話していたりするのを目撃して、何かフィリピンをとても近くで観たような気がした記憶がある。先ごろ、国際交流基金が行った調査では、高知のアジア映画祭は、少ないと言いながらも、観客動員実績の高い方だった。国際化の時代と言われながら、最も身近なはずの外国・アジアへの関心は、全国的に見てもまだまだ低いということだろう。そういう面からもこのアジア映画祭の果たしている役割は大きい。

 その上、今年は、これまで以上に意義深いアジア映画祭となった。それは、イスラエルとパレスチナが初めて相互承認を果たした年として歴史的に記憶されることになる年に、そのイスラエルとパレスチナの映画に加え、アラブ諸国の作品まで、八カ国十七本にもなるフィルムを一堂に会して四日連続上映するという、全国的にも例のない質量ともに充実した真の意味での中東映画祭になったからだ。

 昨年の東京では、外交筋を配慮してか、アラブの映画とイスラエルの映画は、それぞれ中近東映画祭、イスラエル映画祭として別個に上映せざるを得なかったし、国際交流基金の主催という形では、パレスチナの映画は上映されなかった。そういった意味からも、パレスチナのクレイフィ監督の作品は、ぜひ観てほしい映画の一つだ。劇映画のほうが好みなら、'87年カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞に輝く『ガリレアの婚礼』、もっとダイレクトに生の声が聞きたければ、彼のドキュメンタリーの二作品に注目していただきたい。そして、今、世界の映画人の注目の的となっているイラン映画というものにも出会ってもらいたい。四日間のプログラムの土日の最後を飾る作品には、主催者側の込める思いがそれなりに反映されるものだということを言い添えて、従来の枠を超えて今回このような形で実施するために尽力してくれた高知県国際交流協会の前田氏に感謝するとともに、一人でも多くの人々の目に留まることを願っている。
by ヤマ

'93.10.16. 高知新聞学芸欄 「高知アジア映画祭」に寄せて



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