山形国際ドキュメンタリー映画祭'91参加リポート
ぱん・ふぉーかす No. 74('91.12.14.)掲載
[発行:高知映画鑑賞会]


 空港に降り立って山形市内へと向かうバスのなかで、見慣れない十月の東北の広々とした田舎の風景を眺めながら、幾分感慨めいた高揚感に包まれていた。昨年の十一月、自主上映フェスティバル開催の後、山形国際ドキュメンタリー映画祭の東京事務局長・矢野和之氏を迎えてフェスティバルの今後を模索する研修会を行ったとき、山形はまだ遠い街だったし、まさか自分がこうして訪れることになるとは思ってもいなかったからだ。しかし、矢野氏のどんな小さな人的繋がりも大切にする人柄のおかげで、僕たちのような地方の小さな自主上映サークルのメンバーも招待にあずかることができ、喜び勇んでやってきたのだ。
 早速予約してあった安宿に荷物を置き、メイン会場である市の中央公民館ホール&大会議室に向かう。市内5ヶ所に分散する会場周辺の町並みには、映画祭を標示する小旗がずらりと垂れ下がっているし、そこかしこに映画祭のために集まったであろう内外の人々が闊歩しているのが目につく。わくわくしてきた。
 初日は、開会式に続きオープニング・セレモニーとして、今回の映画祭のサブイベントのなかからの紹介プログラムとして数本のフィルムを上映することになっている。受付で映画祭のフリーパスにもなるIDカードと公式パンフレットほかの資料を受け取り、滞在中の行動スケジュールを決めることにした。
 今年のコンペ部門は、260本の応募作品から予備選考されたものを仏のジャン・ドゥーシェをはじめとする7人の国際審査委員で審査し、大賞ほかを選出することになっている。審査委員作品には、クシシュトフ・キェシロフスキ監督ほかの6本、特別上映作品には、西山正啓監督の『しがらきから吹いてくる風』ほかの6本が並んでいる。しかし、山形国際ドキュメンタリー映画祭は、それらのメインイベントもさることながら、サブイベントの面白さと企画力が大きな魅力なのだ。今年も、1:日米映画戦、2:日本ドキュメンタリー映画の興隆、3:アジア映画国際会議/アジア・シンポジウム、4:日本映画パノラマ館、と刺激的で中身の濃いものばかりで圧倒されてしまう。コンペ作品も観たいし、サブイベントも逃したくない。でも、総てのイベントに参加するのがそもそも物理的に不可能なスケジュールなのだ。しかも僕たちの滞在は三日しかない。滞在中のサブイベントについては同行の藤田氏と分担して参加せざるを得ない。

 おおまかにはそういうことにして、17:00 からの開会式に臨む。市長挨拶、ノミネート作家の紹介、審査委員紹介と続いて、サブイベント紹介プログラムの上映。上記1から『絵本1936年(Momotaro VS Mickey Mouse)』『大東亜ニュース(Air Attacks Over Hawaii)』『12月7日(December 7)』、2から『この雪の下に』が上映された。19:30 からは山形グランドホテルに移っての関係者による歓迎レセプション。見知らぬ人たちばかりのなかで気後れしてひたすら食いに懸かっていた僕たちも会場の和やかで対等な空気に次第に馴染んできて、少しづつ名刺交換などを始めた。映画雑誌編集者、批評家、シネクラブ、監督作家、山形市民による「映画祭ネットワーク」の関係者、十名を超える人と知り合い、大きな手応えと収穫に意気揚々と宿舎に戻ったのは、深夜になってからだった。

 翌10月8日から本格的にイベント参加。サブイベントについては、僕が主に日米映画戦、日本映画パノラマ館、藤田氏がアジア・プログラムということになった。朝10:00 から第5会場のミューズ2へ赴き、日本映画パノラマ館にて矢崎仁司監督の旧作『風たちの午後』を観る。矢崎監督はかつてムービークラッシュが高知に招いたこともある監督で偶然にも前夜路上で会っていたし、パノラマ館のコーディネーターである映画祭ネットワークの斉藤久雄氏とも前夜のパーティで話をしていた。よくもこれだけ個性的で気鋭の若手作家たちをラインナップしたものですねと羨望と敬意を表すると「自負するところもあるんですよ。」と素直に教えてくれた。『風たちの午後』は、その彼の自負を裏切ることなく、作家性に対する自覚と志を明確に持った好作品であった。
 正午からは前回の映画祭をドキュメントした『映画の都』(飯塚俊男監督)を本会場にて観る。コンペ作品では、バンコックの性風俗がちょっとスリリングな『グッド・ウーマン・オブ・バンコック』(デニス・オローク監督)、事実を追い求める執念とそれを阻む政治の壁を強く印象づけ、ベルリンの壁崩壊後のタイムリーな取材と告発がインパクトを与えた『閉ざされた時間』(シビル・シェーネマン監督)を観た。夜は、特別上映作品の『モデル』(クレデリック・ワイズマン監督)。

 三日目も午前中はミューズ2のパノラマ館にて椎名桜子に似た感じの計良美緒監督の『悩ましき東京タワーのもとで』『紫の部分』を観、コンペ作品では、取材資料や証言に加え、証言者の内面心理を女優による演技表現で補足した方法論の新しさと可能性が印象的だったブラジルの『生きて帰れてよかったね』(ルシア・ムラト監督)、大規模な労働争議の記録を通して人間と組織というものの限界と現実を深く落ち着いた眼差しで捉えた正統派ドキュメンタリーであるアメリカの『アメリカン・ドリーム』(バーバラ・コップル監督)を観た。夜は、審査委員作品の『核心を撃て』(トリン・T・ミンハ監督)。

 そして、それらの合間を縫って第4会場のヌーベルF1でサブイベントの日米映画戦に参加した。これは、戦前戦中に製作された記録映画、ニュース映画、宣伝広報映画などを中心に日米双方から収集し、比較上映するイベントである。一週間の全日程でパールハーバー/非常時日本/中国/銃後の生活/学徒出陣/暴力/敵のイメージ/上映禁止/ヒロシマ・ナガサキ/とに分かれたタイトルのうち、三日間でパールハーバー、銃後の生活、暴力、敵のイメージにより16本のフィルムを観ることができた。それらの大量のフィルムに総て字幕をつけることは叶わず、観客は同時通訳による音声を入場の際に受け取ったレシーバーから聞くという方法で鑑賞する。日本語は英語に、英語は日本語に、それぞれのチャンネルで必ず通訳がされていた。国際映画祭の面目躍如というところだ。そして、これらのフィルムのなかで、それまで何度か活字等で見聞きしていた「赤ん坊を放り投げて銃剣で突き刺す日本兵」というのを僕は初めて映像で観て、これが出典なんだなぁと変な感動を覚えた。思わず戦慄してしまうフィルムや戦意昂揚のための奇妙な滑稽さと涙ぐましさに満ちたフィルムを観ていると実にさまざまなことを考えさせられる。ドキュメンタリーフィルムの持つ力と可能性は本当に測り知れない。

 ところで山形の映画祭だが、自治体イベントでありながら画期的な成果を納めた原動力は、その運営を担う行政と企画会社そしてボランティアの市民グループ映画祭ネットワークの三者の連携がうまくいっているところにある。特に期間中、日刊でフェスティバル通信を出し続け、サブイベントの一つ日本映画パノラマ館を企画運営する市民グループのパワーと組織力には圧倒された。母体は県下の自主上映サークルだという。高知にそれだけの人的パワーと組織化が実現できるだろうか。予算規模に格段の開きがあるとはいえ、同じように二度目の開催を迎えた「高知自主上映フェスティバル」はどうだろうか。確かに去年よりは参加団体も増え、組織的な取り組みも見られるようになったものの、これ以上の拡がりは今のところ期待できる状況ではない。事実上、数人のスタッフで切り盛りしているのが現状だ。年が明ければ、早速来年の企画検討が始まる。スタッフを増やし、その人的パワーでフェスティバルの気運を盛り上げ、山形に半歩でも一歩でも近づいていきたいものだと思う。

 どうですか? あなたも一緒にやってみませんか。最寄りのスタッフに一声かけてください。僕たちは、あなたを待っているのです。
by ヤマ

'91.12.14. ぱん・ふぉーかす No. 74
山形国際ドキュメンタリー映画祭'91参加リポート



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