『Mommy/マミー』(Mommy)
『真夜中のゆりかご』(A Second Chance)
監督 グザヴィエ・ドラン
監督 スサンネ・ビア


 ともに“母なるもの”が題材となっているような作品を二日続けて観た。先に観た『Mommy/マミー』は、真四角に切り詰められた見慣れぬ画面サイズの窮屈さが実に息苦しい物語世界そのものを表しているような作品で、いささか応えた。それだけに、矯正施設から退所したばかりの15歳の少年スティーヴ(アントワーヌ・オリヴィエ・ピロン)が時おり開放感や喜びを得て本来の画面サイズに拡がると、その心地よさにシンクロできるところがみそなのだが、技法的に少々あざとい気がしなくもない。

 彼は、ADHD(多動性障害)だとされていたが、これを障害と観るのか、パーソナリティだと観るのか、という境界など、そもそも有って無きがものだという気がした。少年の我の強さと激しやすさが、母親ダイアン(アンヌ・ドルヴァル)の延長そのもののように見えるところが秀逸だ。境界というのは、気質そのものの度合いというよりも、結果や現象としての社会適合性というか起こすトラブルの度合いの問題であることを本作は示していたような気がする。

 息子をひとたび施設に入れてしまったことに対する強い自責の念があらばこそ、ダイアンは再度の送致を何とか避けようとしていたわけだが、スティーヴに手を焼き、持て余すさまに半端ない現実感があって、観ていてほとほと疲れた。もし我が子であったらどう向かえるのか、と思うなかで揺るがされたような気がするわけだが、その疲労感は、むろん彼との二人暮しに疲れ果てていくダイアンには、とうてい及ばないものでしかない。

 さらばこそ、彼女にとって隣家のカイラ(スザンヌ・クレマン)から得られるサポートは実に掛け替えなかったはずだし、カイラもまた、自身の家庭に甲斐を見出せない後ろめたさと自責を代償してくれる“ダイアン母子との関わりのなかで見つけた居場所”は、掛け替えのないものだったのだろう。人にとって“他者から必要とされている手応え”ほどに生きる力の得られるものはないわけだ。そのように観れば、スティーヴの晒されていた生の過酷さは、想像に難くない。

 そういう観点から目を惹いたのが、自身の望まぬ引っ越しをしなければいけなくなったものの、なかなかダイアンに告げられなかったカイラが、わずか二週間後にまで差し迫ってやむなく告げたときに、ダイアンがカイラを気遣ってか、強がってか、むしろ新天地への送り出しを祝福する対応を見せたときに覗かせていた寂しさだった。ダイアンが落胆しないことに気落ちするカイラと、彼女を見送ってから一人で声をあげて泣き出すダイアンの姿に、人の生と交感のままならなさを思わないではいられなかった。

 ままならないと言えば、スティーヴの放火事件により外傷を負った子供の親から請求されていた25万ドルの賠償金の件は、どういうことになったのだろう。被害者の親もまた、未成年の“障害を抱えた少年”の悪意なき暴走だとか、母子家庭の経済的苦境だとか、への斟酌に苦しんだ様子の窺える通告の仕方だったように思う。自ら赴いてきて、なじることなく手渡しする父親の佇まいにそれを感じた。トラブルが生じると直ぐに代理人を立てるようになった昨今の日本では既に失われているものかもしれないとも思った。

 誰もかれもがそういう苦しさに喘ぎながら生きている姿にしんどさを禁じ得ないで観ていたせいか、最後のスティーヴの駆け出しにも、どこかバードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)のようなネガティヴな影を感じないではいられなかった。何だかとてもしんどい映画だった。



 それからすると、生後7カ月で赤ん坊が死亡したり、糞尿まみれで放置されたりする『真夜中のゆりかご』のほうが遥かにしんどくなかったことが、我ながら興味深かった。過酷で悲惨な現実というものに対して、即座に単純な善悪をラベリングすることなどできないと思う者からすれば、赤ん坊のアレクサンダーが死んだのは悲劇ではあるけれども、彼の死があり、その父親アンドレアス(ニコライ・コスター=ワルドー)が過ちを犯したからこそ、彼の同僚刑事シモン(ウルリッヒ・トムセン)の再起があり、サネ(リッケ・メイ・アンデルセン)の解放とソーフスの生の好転が起こったことを思うと、アレクサンダーの死は功徳とも言えなくはなく、その命は短くとも存在意義と価値は比類なきものに結果的になっているように感じたからだろう。

 離婚による家庭崩壊に対する失意と不本意から酒浸りになり荒んでいたと思われるシモンが事件の真相をふと察知し始めたなかで、掛け替えのない友人たる同僚刑事アンドレアスのために自分の働きこそが必要なはずだとの思いが生じるや、それまで意識だけでは決して手を付けられなかったであろう部屋の片付けに矢庭に着手し始めた場面が感動的だった。やはり人は、個人的な関係性のなかでの自分の必要性、存在価値を得られなければ、まともに生きていく力が得られない生き物なのだと改めて思った。

 アンドレアスの犯した過ちも、ちょうどそれと同じ所から発露したものであるところが秀逸だ。さすがは、アフター・ウェディング未来を生きる君たちへと同じスサンネ・ビア&アナス・トーマス・イェンセンのコンビ作だ。

 いかにアンドレアスが刑事として凄惨な現場を潜り抜けてきていて、命を亡くした残骸というものに感情的に引き摺られなくなっていたとしても、また、手段を選ばぬ尋常ならざる目的のために涙しながらとはいえ、我が子の遺体に他人の糞尿をなすりつけて遺棄するなどということが果たせるのは、相当に心が壊れているような気がしてならなかった。それが職業柄もたらされたことなのか、思い掛けない息子の死と愛妻の錯乱がもたらしたものかはともかく、もはや異常とされるレベルにあることは間違いない。虐待されていると思しき乳児ソーフスの救出という善なる口実を与えているのが利いていて、悪意なき悪行という点では、アナ(マリア・ボネヴィー)のしでかしたことと、同じだったような気がする。おそらくアナは、余り感情体験を育まれることがなかったと思われる自身の成育歴のなかでもたらされていたと見込まれる“子育てに要する適性と耐性を欠いた情緒”と“自身に対する完璧主義”というものによって、ままならぬ赤ん坊に対処しきれない自身に抱いたヒステリックな苛立ちを引き起こしたのだろう。“真夜中のゆりかご”とはまた、英題とは対照的な容赦ない邦題だと恐れ入った。

 そもそも子育てに必要なのは、愛情以上に耐性であって、愛情はその耐性を生み出すうえで必要なものに過ぎないというのが、間もなく6人目の孫を得ようとしている僕の実感なのだが、その点では、アンドレアスの妻アナが気の毒な女性であることや、ろくでなしトリスタン(ニコライ・リー・コス)の妻サネがDV夫から離れた後に良き母親になっていることに、それぞれ納得感のある人物造形が見事だと思った。

 刑事といった職業のもたらす社会的役割とかではなくて、個人としてのプライヴェートな関係性のなかで得られる“自身の必要性と存在価値の手応え”というものから最も遠かったのは、5人の主要人物のなかでは恐らくトリスタンだろうが、彼にそれが得られていなかったのは何故だったのだろう。そして、次に遠い位置にいたのがシモンではなくアンドレアスだったように映る点が、なかなか厳しい作品だった気がする。赤ん坊の世話や妻への気遣いを人並み以上に行っているのに、むしろ妻を追い込んでいる形になっていたように思う。

 そして、ままならぬ人生に翻弄され、傷つく人々の姿を息詰まるような筆致で描き出しながら、最後には解放感のある救いがもたらされる見事な人間ドラマになっていた。大したものだ。少々あざとさの目立ったグザヴィエ・ドラン作品とはワンランク違っているように思った。



◎『Mommy/マミー』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20150506

◎『真夜中のゆりかご』
推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1942430155&owner_id=1095496
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1942478704
by ヤマ

'15. 5.22. ヒューマントラストシネマ有楽町
'15. 5.23. TOHOシネマズシャンテ2



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>