『たしかにあった幻』['25]
監督・脚本 河瀨直美

 前作劇映画朝が来る['20]で大いに感心させられながらも、東京五輪とそれに続く大阪万博がらみですっかり味噌をつけたように感じていたが、臓器移植のなかでも飛び切り易々とは是非を問えない心臓移植の問題を描いて、とても感慨深い作品になっていたように思う。

 自然の摂理・営みとは対極にあるとも言うべきものとして映し出される心臓移植という医療技術の先端を、最もセンシティヴな小児医療の現場で捉えるなか、西洋文化とは異なる死生観をひとつの文化衝突として炙り出し、死とは何かを問うていたような気がする。脳死、心停止といった医学的な死に加えて、失踪宣告による社会的死をも射程に入れていた視座の大きさが、大自然の営みを映し出すスケール感とも見合っていたように思う。

 そういう意味で、仏人移植コーディネーターのコリー(ヴィッキー・クリープス)と謎めいた写真家の鳴海迅(寛一郎)の配置が利いていたけれども、同じようにして、自身の出生が母親の死と直接的に繋がっていた二人におけるアイデンティティ危機のデリケートな部分が、壊れていたカメラの件も含めて、すっぽり観る側の想像に委ねられていたことの物足りなさを覚えなくもなかった。だが、立ち入り過ぎると主題が拡散してしまいそうにも思え、なかなか難しいところだ。

 感慨深かったのは、明るく溌溂としていた瞳(中野翠咲)の急逝によって順番が繰り上がったと思しき久志(中村旺士郎)のドナーになった少年、羽響の父親(永瀬正敏)が叫んでいたどこでもいいから、しっかり生き続けるんだぞ!との見送りの言葉だった。死を決めるのは脳か心臓か、生を担保しているのは脳か心臓か。死と記憶、消息との問題も含めて、自然の営みに比して、人間というものは実に複雑だと改めて思わずにいられなかった。

 普通に耳に当てる手の向きを逆さまにして、聞き慣れた一方向の音とは異なる響きを傾聴する仕草のシンボリックに示していたものが、今の一方向にだけ傾きがちな世の中に流されずに抗する大切な構えだという気がした。四十路にあると思しきコリーにとって迅が重要な存在になったのは、彼の若々しさ以上に、その仕草を教えてくれたばかりか生き方として体現して、別方向からの生き方をコリーに見せてくれていたからなのだろう。ドキュメンタリータッチの劇映画という些か使い古されたフレーズには馴染まない筆致で難病児の小児科病棟がよく描き出されていたことにも感心した。
by ヤマ

'26. 3. 2. キネマM



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>