| |||||
| 『太陽が知っている』(La Piscine)['69] | |||||
| 監督 ジャック・ドレー
| |||||
| 二年前に『離愁』['73]を観て、映画日誌に「ロミー・シュナイダーは、その出演作をあまり観ているわけでもないが、公開時に観たっきりの『追想』['75]が印象深い。本作では三十路半ばだが、四十路半ばのときの『サン・スーシの女』['82]も併せて再見してみたい気になってきた。」と記していたら、高校時分の映画部の部長が手元のロミー特集のディスクを貸してくれた。その『サン・スーシの女』のほか、三十路に入ったばかりの時分の本作、翌年の『過ぎ去りし日の…』、'72年の『夕なぎ』と三十代前半のロミーの未見作が並んでいてニンマリ。 最初に観た本作は、奇しくも前日に観たポランスキーの『水の中のナイフ』['62]を思わせるところのある作品で、ろくでもない男二人の張り合いのなか、『水の中のナイフ』とは違って、マリアンヌ(ロミー・シュナイダー)の前の恋人でプレイボーイの中年男ハリー・ラニエ(モーリス・ロネ)が溺死していた。 お話は余り冴えなかったように思うけれども、'60年代らしい“男たちのろくでもなさ”がよく現れており、何と言っても水着や下着に素っ裸と、きちんと服を着ている場面のほうが少なかったように思われる前半の只管“ロミーの肢体と色香を愛でるような画面”に魅せられた。かつての婚約者であり、四十路半ばに至らぬ内に没した際には葬儀の手配もしたという因縁のアラン・ドロンとの共演だけあって、観ていて「好きにしろ」と言いたくなるようなデレデレの濃厚な親密感が漂っていたような気がする。なかでも素肌に一枚まとったドレスをジャン=ポール・ルロワ(アラン・ドロン)が引き下ろした後、戸外に出て手折った枝葉を持って戻り、露わになった乳房を一撫でしてからマリアンヌのウィークポイントである背中を向けさせ、枝葉で愛撫して昂らせたうえで打擲に替えた興奮に、堪らず彼女が男のシャツを剥ぎ取り抱きつく場面に目を奪われた。プールサイドで仰向けに寝そべる、作家志望の夢破れた広告屋であるジャン=ポールの目に映った光景と思しき、天地が逆さまになった木にとまる鳥たちの姿から始まった物語の倒錯感が、最後まで続いていたように思う。 七年先立つ『水の中のナイフ』は青年がナイフを持っていたばっかりにという話だったが、本作は、マリアンヌが久方ぶりと思しきハリーからの電話に、バカンスで滞在中の別荘に寄るように招待したばかりか、年頃の娘ペネロープ(ジェーン・バーキン)を連れて訪れた彼に滞在を求めたばっかりにという話だった。そのときのマリアンヌには確かに奢りがあったような気がする。男たちを惹きつけ手玉に取っているようでありながら、大きなしっぺ返しを食らった話のようでもあった。同様のことがジャン=ポールに対するハリーにも言える気がしなくもない。彼がルロワを蔑ろにしてマリアンヌをよろめかせようとしなければ、ジャン=ポールもハリーの連れてきた小娘を使ってマリアンヌに面当てするようなことはしなかったのかもしれない。ことほど左様にマリアンヌがハリーを招き入れたばっかりに、という話だった。 音楽が先ごろ『ミシェル・ルグラン 世界を変えた映画音楽家』['24]を観たばかりのルグランだったが、所々彼らしいフレーズを聞かせてはいたものの余り魅せられなかった。また、元々好みではないジェーン・バーキンの演じる小娘ペネロープにマリアンヌへの面当てばかりとは言えない心変わりを見せるルロワの気が全く知れず、僕にとっては、ひたすらロミー・シュナイダーを観るためだけの映画だった。だが、恐らくそれだけに却って偏愛者を誕生させていることだろう。 | |||||
| by ヤマ '26. 2.26. スターチャンネル2録画 | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
| |||||