『ふつうの子ども』['25]
監督 呉美保

 もとより“ふつうの子ども”とは、ある種の特異性をそれぞれが個性として抱えているものだと承知はしているのだが、それにしても、大人も子供も含めて少々作り過ぎの目立つキャラクター造形が妙にあざとくて、僕にはフィットしてこなかった。

 加えて、やたらと接近したカメラに、作り手の子どもたちへの心的距離の詰め方を誇示している感があってどうにも五月蠅く、最後の三宅心愛(瑠璃)の『風たちの午後』['80]【監督 矢崎仁司】ばりに聴き取れない台詞やら、心愛の母親(瀧内公美)の耳裏のタトゥーの覗かせ方にしても、何ともあざとく、それらもあってか、心愛に率いられた唯士(嶋田鉄太)と陽斗(味元耀大)のいささか度を越した“使命感にかこつけた悪戯”の描き方に、かつて過激派と呼ばれた若者たちの行為の本質は、この小学4年生三人組と大差ない邪気の無さと浅はかさにあったかのごとく訳知り顔に重ねている感じを受取った。

 だから、その描き方が何ともおこがましく映ってきてしまい、あざとさを通り越した不遜な厭味に思えて、さっぱりだった。勝手読みとは百も承知だが、心愛に重信房子を重ねているように感じた観客が僕だけだったとはとうてい思えない気がした。先ごろ「桐島です」を観たばかりだから余計にそのように感じたのかもしれない。

 呉美保監督の映画は、これまで『酒井家のしあわせ』『オカンの嫁入り』『そこのみにて光輝く』『きみはいい子』『ぼくが生きてる、ふたつの世界』と観てきているが、総じて悪くはないものの映画日誌にしているのは、九年前に観たきみはいい子だけで、あまり相性が良くない。それもあってのことかと思うが、今の時代だと只では済まないに違いない己が嘗ての悪行を思い返して、ノスタルジックな懐かしさに浸る気にはなれなかった。
by ヤマ

'25.10. 2. キネマM




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