『きみはいい子』
監督 呉美保


 家族の誰かとハグすることが宿題になったことに張り切って帰った翌日から欠席をした児童の自宅アパートを訪ね、ノックをする小学4年生の担任である岡野(高良健吾)の姿で終えたエンディングの後、彼がノックの先に出会う現実は何だったのだろう。どう受け取るかは観る人によって異なるのだろうが、僕には最も悲劇的な現実が待っていたような気がしてならなかった。

 ラストショット以降の映画では描かれなかった部分に対して、僕が悲観的な予測を抱かずにいられなかったのは、前髪の生え際の額に幼時の虐待の痕跡を持つ大宮陽子(池脇千鶴)のハグによって救われる水木雅美(尾野真千子)や、独居老婦人(喜多道枝)の片手で肩を抱くハグに嗚咽を漏らす櫻井和美(富田靖子)のほか、岡野の宿題によって家族とハグをしてきた子どもたちの様々な喜びの表情がいくつも繰り返し映し出されていたからだった。特別支援学級を受け持つベテラン教員の大宮(高橋和也)が若い岡野を労わる「あんまり気張んないほうがいいよ」との言葉が暗示しているように、光の側面だけが待っているわけではない現実から作り手が目を逸らしたりはしていない気がしてならなかった。

 どこまでも絶望的な現実が広がっているわけでは決してないからこそ、ハグによって救われ、力を得られる人間もいれば、その一方で、ハグを課せられたことで姿を消してしまうことになる人間もいるというのが、現実世界なのだろう。

 だからハグがいいとか悪いということでは決してないのが真実なのだが、カンダくんが虐待を見過ごされて命を失くした児童だとなったときに、岡野は、雨の日に送って行ったカンダくんの自宅アパートで暴力的な物音を聞き留めながらその場を立ち去った教師として、更には、宿題とされた家族とのハグに張り切って帰ったカンダくんが翌日、学校に出てきていなかったことに即座に対応しなかった教師として、メディアのリポーターやコメンテーター、そして、メディアによって事件を知った世間の人々から、烈しくバッシングされるのだろう。まるで、自分の子が暴れたかどで呼び出されても姿を現さないくせに、自分の子が教室で失禁したのは担任のせいだと責め立てる母親のように、状況や経過を充分に把握もしないで、悪者に仕立てあげたがる点では、両者とも同じに思える。モンスター化しているのは、決してオノくんの母親だけではない気がする。

 そのように映ってきた僕にとって、本作のキーワードは“謝罪”だった。オープニングで岡野が主任と一緒に地域を回って繰り返していた謝罪、雅美の顔色が変わるたびに怯えながら娘のあやねが繰り返していた謝罪、息子の弘也が障碍を負っていることでずっと繰り返してきたと和美が零していた謝罪、そのいずれも本来かれらが謝らなければいけないようなものではなかった。

 仮にカンダくんが命を失くしていても、岡野が最も責められるべき人物では決してないことを本作は強く言いたかったからこそ、このエンディングになっているような気がしてならなかった。保健室での岡野の場面は、そういう意味でも重要だ。彼が、実に普通程度に善良で、普通程度に未熟な教員であることが利いていて、保健室でのエピソードが強く印象づけられていたように思う。今の教育現場では、子どもの身体に痕がついていないか確かめようとすることはタブーに触れる一大事だというのが本当に常識になってしまっているのかもしれない。教育現場にこのような異常なまでの警戒と委縮をもたらす圧力を掛けているものが何なのかを思うと、校長や教育委員会を悪者に仕立てあげることのできた時代は、既に遠くなっていることを痛感した。

 それと同時に、もしノックの先に岡野が悲劇的な現実を観たときには、世間からのバッシングを受けようが受けまいが、自分がハグの宿題を出したことについて、ちょうど雅美の手首に二つ付いていた煙草での焼き痕のようなトラウマとして岡野が抱え、繰り返し向き合わざるを得なくなるような気がして気が塞いだ。ちょうど、七年ほど前に観た青い鳥['08]で阿部寛の演じた村内先生のように。

 謝罪というのは、そのように当事者に対して抱くものであって、世間に対して行うものではない。少なくとも圧力を掛けて強いるようなものでは決してないという気がする。

 オープニングエピソードのピンポンダッシュのようなことは、今や6人の孫持ちである僕が子どもの時分にもあって、僕自身にも覚えのある悪戯だが、当時は、子どもの悪さに対して親に文句を言いに行くことはあっても、学校に苦情電話を掛けたり、ましてや学校の先生が被害地域を謝りに回るなどということがあったとは到底思えないのだが、今では実際に、このようなことで学校に文句を言うようになっているのだろうか。作中の岡野の台詞にもあったが、小学教員というのは本当に大変な職務だと改めて思った。

 そのようななか僕が最も心打たれたのは、量販店に勤める自分が万引きを疑ったことのある客の独居老婦人に心から息子を褒められて涙する櫻井和美の姿だった。障碍を負っている息子の弘也のことでは、ずっと謝ってきてばかりいたとの母親の弁が胸に迫った。僕が子どもの頃は、今ほど世の中に不寛容が蔓延ってはいなかったから、障碍のある子どもを持った母親が“謝罪”ということでここまでストレスフルに苛まれたりはしなかったものが、今の日本では確実に変質してきているのかもしれないという悲しい納得感があった。

 人々のなかに不寛容が拡がることで何でもかんでも矢鱈と謝罪を強いる文化が日本を浸食してきているような気がしてならない。その悪しき風潮の醸成を行ったのは、毎度のことながら、TVのワイドショーのリポーターやコメンテーターたちだと僕は思っている。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20150711
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1943659361
推薦テクスト: 「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/d2fe528c0a0fea0c5f96a4b7c89440ad?fm=rss
by ヤマ

'16. 1.15. 美術館ホール



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