『黒部の太陽』['68]
『海峡』['82]
監督 熊井啓
監督 森谷司郎

 今回の課題作には、国家的大プロジェクトのトンネル工事を描いた作品が並んだ。先に観たのは、高度経済成長期に製作された『黒部の太陽』で、今を時めく国宝のような映画だなと思った。『国宝』の175分をも上回る196分を飽かせず一気に見せる画面の力といい、歌舞伎役者ならぬ土木屋のアナクロヒロイズムに隅から隅まで彩られた語り口といい、配役陣の豪勢さといい、まるでそっくりな気がした。聞くところによると、当時、大ヒットしたらしい。それはそうだろう。

 それにしても、なぜ「黒部の風」とせずに「黒部の太陽」なのだろうという映画化だったように思う。トンネルのなかでそよぐ十字の安全旗に岩岡(石原裕次郎)が見ろ!と叫び黒部の風だと呟く場面が印象深い一方で、太陽のほうはピンとくる場面がないままに最後の最後エンドマークの出るショットに取って付けたように現れていた。

 熊井啓は朝やけの詩['73]でも、派手な環境破壊工事を映し出していたが、本作を観ると比べ物にならない気がした。すると、旧知の映友がこれ、私は石原裕次郎と三船敏郎の「立場の逆転」が面白いと思いました。当初石原は戦争中の「勝つためならなんでもする」的メンタリティに反発する人物で、三船は「過去は過去として、未来を切り拓く」側の人物なんですが、黒部ダムが完成した後は石原は「さて、次に行くか」という感じで去っていって、三船は工事で多くの犠牲者を出したことで「自分がしたことは過去の戦争と同じだったのではないか」と内省し、その場に立ち尽くしてしまうんですよね。この辺りに、本作が単純な企業礼賛、発展礼賛の物語でないことが感じられます。と寄せてくれた。

 岩岡が序盤でフォッサマグナを理由に工事に反対していた本音は、兄を見殺しにした父親(辰巳柳太郎)に対する反発であって、上が決めたからといって工事をするのはズルズルと戦争に引き込まれていったようなものだという言葉のほうは方便だったわけだ。だから、(とっても威勢のいいことを仰っていたけれどもすっかり)貴男は変わってしまいましたわと婚約者の北川由紀(樫山文枝)から指摘される場面が登場する。

 他方、岩岡の忌憚なき意見表明に内心は同感だった関電の北川次長(三船敏郎)のほうは、彼の直言を鷹揚に受け留める度量を持ち、実のところ本当に断層地帯への懸念から工事に反対だったものの、社長(滝沢修)から直接懇願されるなか、社としての翻意はあり得ないとみて、出るに違いない犠牲者を最小限に抑えることができるのは自分しかいないとの覚悟でもって受けたのであろうことが、最後に明らかになる構成にしてあったように思う。僕が高校の修学旅行で訪ねた際に通ったトンネルが最後に出てきて、途中の破砕帯のところで北川がバスから下車していた。「尊きみはしらに捧ぐ」と刻まれた見覚えのある殉職者慰霊碑も映し出されていたが、くろよん建設工事の犠牲者は171名なのだそうだ。

 戦時中の黒三ダム建設の現場という“本当の地獄”を実体験している者と、大学で学問的に理念を学んでいる者との違いを映し出していた'60年代作品だから、そこには当時の学生による反戦・反体制運動に対する作り手の所感が込められていたのだろう。戦争経験者たちの作った昭和映画の金字塔の一つだという気がする。

 今の時代からすれば、まるでアナクロなのだが、『国宝』と違って昭和映画だから当然のことだ。その意味で、まさに『黒部の太陽』を繰り返している令和の『国宝』よりも、本作のほうを僕は評価したい気がする。今の若い人たちが観ると、みんな頭がどうかしている、気が知れないというふうに映るのかもしれない。いや、思いのほか従順な若者が多いから、下請け労務者たちを含めてあんなもんだろうとあっさり受容できるのかもしれない。

 映友は、製作前・製作中のゴタゴタ等が当事者目線で書かれているとの『黒部の太陽 ミフネと裕次郎』を読むと面白いと教えてくれた。あれだけ壮絶な撮影現場の偲ばれる映画なれば、さぞかしトラブルも多かったことだろうが、僕としては読むならのほうを先にしなくては、と思っている。


 続いて観た『海峡』は、これが『八甲田山』の森谷司郎の『海峡』かと些か驚いた。『黒部の太陽』と続けて観たことで、いかに同作を意識していたかがよく判ったのは収穫だったが、それだけに『黒部の太陽』との差が際立っていたようにも思う。東宝創立五十周年記念作品としての製作だっただけにいろいろ興行的注文が入ったのだろう。公開こそ東宝だったものの製作が三船プロダクションと石原プロダクションというワンマン会社のタッグとは大きく違う。

 本作で親しみ深く“トンネルさん”と呼ばれていた阿久津剛(高倉健)は、黒部の岩岡(石原裕次郎)と同じ京大出の地質屋だし、阿久津が口説き落として津軽海峡に連れてくるトンネルおやぢの岸田源助(森繁久彌)は、今わの際に『黒部の太陽』のラストカットを思わせる西表島の太陽を目にし、黒部の岩岡の呟きを偲ばせる風が抜けたとの言葉を残して死んでいく。劇中でも序盤の会議で学者(滝田裕介)が直接黒四ダムの断層破砕帯に言及していた。本作の阿久津も黒部の北川(三船敏郎)も辞令を拒む硬骨漢ぶりを発揮していた点でも共通している。

 そのうえで大きな違いを見せていたのは、“本当の地獄”だったという黒三ダムの現場を背負った黒四ダムの北川と、昭和二十九年の洞爺丸事故での1430人の犠牲者を背負った青函トンネルの阿久津との違いのなかに窺える“犠牲者を出さぬ難工事”と“難工事を完遂しての貫通”との差だったが、それ以上に大きかったのは、本作における“日陰の身に耐える多恵(吉永小百合)の存在”の邪魔くささだったような気がする。

 手元にある公開時のチラシの裏面に記された源助、阿久津、仙太。竜飛には津軽の海を掘ることに憑かれた三代の男たちがいた。そして多恵、峡子、その母おれん。トンネル男たちを見守る女がいた。と阿久津の妻佳代子(大谷直子)には言及しない昭和アナクロヒロイズムに隅から隅まで彩られた語り口は同じでも、なぜ多恵?との疑問がつきまとった。さすがに多恵と阿久津が二十五年越しの恋を実らせての結末とはしていないものの、佳代子が阿久津から藤田に姓を戻す選択を考えている様子が描かれる。彼女の台詞にあった男が一つのことを為し遂げる以上、家族の宿命が直接的に指していたものは、それではないはずなのだが、そのようにも映ってくる配置の多恵が『黒部の太陽』には一切なかったことの差は大きいという気がした。現場の所長になった夫が単身赴任している竜飛のアパートを佳代子が訪ねて、お茶でもどうぞと勝手知ったる多恵の挙動と男の一人住まいとは思えぬ片付きように目を配り、夫が食事を何処で摂っているかを訊ねていろいろお世話になるんでしょうねと声を掛けるとそれがちっとも行き届きませんで…と返す場面など、やたらと思わせぶりな気がした。

 昭和三十年に阿久津が調査のために滞在して出会った二人がいったん離れる昭和三十二年に阿久津にねだって貰った海底から採掘した青石を握りしめて見送る、終戦の年に十歳だったという二十二歳の多恵の風情にしても、青函トンネルのパイロットトンネル開通を受けて現地を離れることになった阿久津が訪ねた四十路半ばの多恵の営む居酒屋で、十一年間の禁酒を解禁させて、固めか別れかの盃を交わす場面にしても、多恵を演じた当時、三十七歳の吉永小百合自体は、なかなか好かったのだが、それだけに却って映画作品を損なう結果になっていたような気がする。もっと愚直な古き男たちのドラマとして撮ったほうが、ずっといい作品になったのだろうが、昭和も五十七年になった、角川映画以降の'80年代となれば、そうはいかなかったのだろう。十四年前に大ヒットした『黒部の太陽』にあやかろうとしながら、建付けの肝心部分を壊していた気がする。


 今回は男三人しか集まらなかったせいか合評会での意見交換があまり盛り上がらず、専ら『海峡』の見劣りについての意見表明が続いた。公開時に観たときはそれなりに感動したのに、再見すると見劣りがしたとの意見に対しては、比べ観たことの影響が大きかったのだろうという気がする。自殺未遂の多恵を引き取ったおれん(伊佐山ひろ子)の娘である、峡子を演じた女優の名も峡子だったとの指摘があったが、新人だったからだろう。青木峡子にその後の活躍はないようで、三國連太郎のようにはいかなかったようだ。それはともかく、峡子の名付け親になった阿久津がノートにしたためた海峡と書いて子をつけ、海子か峡子かにしていた場面での阿久津の安直さが可笑しかった。

 台詞で面白かったのは、本四架橋に係る明石海峡の調査への異動発令に不満を漏らしていた阿久津に君の手の内に一枚でもたくさん駒を持っておくことだよと諭す岡部先輩(大滝秀治)の言った「駒」で、今やすっかりアメリカナイズされた我が国では“ディールのためのカード”としか言わなくなっていることに気づかされた。“勝負するための駒”ではなくなっているのは、まさに漢が気概を張る“勝負”よりも、専ら損得勘定をする“取引”が主流になってしまったからなのだろう。また、洞爺丸遭難事故で生き残った成瀬仙太(三浦友和)によるサウナは乾いてるんだろう。ここは湿度が高いんだからトルコ風呂かな ハハハハハとの昭和五十一年時の台詞が耳に残った。ちょうど僕が大学進学をした年で、あの頃は確かにまだトルコ風呂と呼んでいたことを想起した。
by ヤマ

'25. 9.27. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画
'25.10. 1. DVD観賞




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