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『お早よう』デジタル修復版['59-'13] 『小早川家の秋』['61] | |||||
監督 小津安二郎
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今回の課題作は、一年半前の『晩春』『浮草』に続く二度目の小津作品からの二本だった。前回のカップリングテーマは“小津安二郎の世界-静と動-”とのことだったが、今回は-少年と老い-という対照のなかに浮かび上がる稚気というか、お馬鹿さが印象に残った。オナラ遊びもオンナ遊びも決して褒められたものではないけれど、今も書棚にある中公文庫の『ホモ・ルーデンス』の序説でホイジンガが述べている「われわれの種族である人類の名称として「ホモ・サピエンス」と並べて、…私は「ホモ・ルーデンス」すなわち遊ぶ人という言葉も…ある本質的機能を示した言葉であり、一つの位置を占めるに値するものである、と考える。」(P11)との一節を想起させるに足る、ある種の根源的なものを映し出していたような気がする。なかなかのカップリングだと大いに感心した。 先に観た『お早よう』では、高校時分の同窓生である近森眞史が川又昂とともに画調監修に名を連ねているデジタル修復版の色合いの美しさに観惚れながら、様々な触発を受けて実に愉しかった。'59年と言えば、僕がまだ一歳の時分なのだが、僕が小学生の頃になってもまだ、「屁こき虫」と呼ばれるオナラ遊びをやっていたことを思い出した。飲み屋街の看板に珍々軒と玉屋があって「うきよ」と並んでいるセットに笑みが漏れ、おはよう、こんにちは、の挨拶以上に巧みな使い方で「アイ・ラブ・ユー」をこなす林家次男の勇少年(島津雅彦)に『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』['32]の次男(突貫小僧)以上に惹かれた。 また、本作に登場する「一億総白痴化」という、大宅壮一が警鐘を鳴らしたテレビ文化のなれの果てを顕在化させたように感じる現今のSNS社会の出現を思い、本作中の誰が言ったものだったか、飲み屋での「世の中便利になると却ってあきまへんなぁ」を改めて噛み締めるような気持ちになった。僕が地元紙に「必要な不便・非効率」と題する所感雑感を掲載したのは、もう十六年前のことになる。 誰かに端を発したちょっとしたことが思わぬ波及を生むバタフライエフェクトを卑近なコミュニティのなかでコンパクトに見せていた脚本の巧さにも感心し、定年退職後の求職に難儀した挙句にようやく家電製品の訪問営業の職を得ていた富沢(東野英治郎)の姿を見て、ふっと夫(笠智衆)に不安を漏らす林民子(三宅邦子)が印象深く、国民皆年金の実現した'61年からの公的年金の充実がまだ到来していない高度成長による物価上昇との端境期にあった時代であることを思いつつ、それでもまだ“高くなったホウレンソウが20円”という時代に窺える長閑さが味わい深かった。駅のホームで電車を待ちながら、空を見上げて天気や雲の話を鸚鵡返しに繰り返すような会話が成立していた時代の物語だ。当然ながら、うちにはまだテレビなどなかった。 翌日に観た、ネオンサインが綺麗に映える夜景で始まった『小早川家の秋』は、先に観た『お早よう』と同じコンビの脚本【野田高梧・小津安二郎】による二年後の映画ながら、両作ともに出演していた子役の島津雅彦の活かし方の差に端的に表れているように、10分長い分だけ間延びした感じの否めない作品で、些か散漫に感じた。造り酒屋小早川家の長男の嫁秋子(原節子)の子持ち同士の再婚話の相手として登場する、町工場を経営するマルボロ男の磯村を演じていた森繫久彌に場違い感が強く、最後に現れる農夫夫妻(笠智衆・望月優子)に取って付けた感じがしてならなかった。 絵柄も色合いも美しく、当時のいわゆる五社協定を横断する豪華な出演陣に恐れ入ったが、充分に活かされていたようには思えなかった。二年前に三度目の観賞をした『浮草』['59]でも感心させられた中村鴈治郎は、色好みの旦兵衛を演じるのが実に似合っていて、道楽者の鑑のような風格だった。小早川家の次女 紀子(司葉子)と嫂 秋子の対照もよかっただけに、少々勿体ないような気がした。 それにしても、子まで成しながら十九年間もほったらかしだった小早川万兵衛(中村鴈治郎)と佐々木つね(浪花千栄子)の焼け木杭に火が付くとは、とても思えないのに、二人が演じて醸し出す空気に説得力があって大いに感心した。だが、これはやはり大番頭(山茶花究)が番頭の六太郎(藤木悠)に言っていたように、百合子(団令子)がつねと旦兵衛ならぬ万兵衛との間の子だと思っているのは、実は万兵衛だけなのだという話のほうが的を射ているのかもしれない。万兵衛の義弟である弥之助(加東大介)の吸っているのがハイライトであるなか、六太郎がピースを吸っていて贅沢だと言われたりしていたところに笑った。そのうえでの磯村のマルボロなのだ。1ドル=360円だった時代の話だ。 最後に煙突から煙が立ち上り始めるショットには見覚えがあるように感じたが、墓石にカラスが屯するカットがラストショットであることに覚えがなかったし、やはり初見だろうという気がする。「あぁ、もうこれで仕舞いか、もうこれで仕舞いか」との万兵衛の人生は、今の時代には全く通用しない代物だろうが、秋子に惚れる磯村などにはない鷹揚さが何処か羨ましくもあった。 合評会では、自分の小津映画のイメージと両作とも合わなくて今ひとつだったという意見から、この歳になって来ると小津映画の良さがしみじみと伝わってくると両作ともを堪能したという意見までさまざまだったが、そのなかでどちらを支持するかという採決をしたら三対一で『お早よう』が上回った。『小早川家の秋』のほうを支持した一名は、やはり色好みの万兵衛を演じた中村鴈治郎の至芸に惹かれたようだ。演者という点からは、両作のなかで抜きん出ていたのは、中村鴈治郎だったと僕も思う。おかげで、磯村を演じた森繫久彌は散々の言われようだったからか、それこそ森繫の巧さの証じゃないかとの擁護意見が出ていた。 また、『小早川家の秋』で最後に出てきた農夫夫妻は何だったのかとの提起があったので、道楽者の旦兵衛で生涯を全うした万兵衛とは対照的な生き方の提示だったのではないかと応えると賛意を得たが、さればこそ、万兵衛との対照が磯村と農夫の二人になって焦点がぼけるというか散漫になる気がするとも添えた。あの取って付けたような登場のさせ方は、いかにも唐突でこなれていないような気がする。 それに引き換え、『お早よう』のほうは隅々まで行き届いた脚本だったように思う。前回の二本も含めて四作とも同じコンビによる脚本だったわけだが、僕は『お早よう』が今の時代を照射して最も優れているように感じた。絵柄の良さを表明する意見も複数から出ていたが、僕も同意見だ。これまで『お茶漬の味』『東京物語』『秋日和』『浮草』『東京暮色』『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』『晩春』しか観ていないように思うので、もっと観てみたくなった。 主宰者によれば、今回のカップリングテーマは、前回の“-静と動-”に対し“-生と死-”すなわち「小津の描く「生きることの意味」と「死ぬこと」」だったようだが、僕は『お早よう』のバタフライエフェクトの部分も含めて、自分の受け取った“ホモ・ルーデンス”が気に入っている。 | |||||
by ヤマ '25. 3.30. BSプレミアムシネマ録画 '25. 3.31. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 | |||||
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