『雨の中の慾情』
監督・脚本 片山慎三

 六年前に池袋シネマ・ロサで『岬の兄妹』を観、三年前に地元で『さがす』を観て、今どきの映画らしからぬ露悪的などぎつさへの果敢さに恐れ入りながらも、何とも釈然としない蟠りの残る些か味の悪い作品だなと感じ、どうも片山慎三作品とは、相性がよくないようだと記していた作り手の作品だ。同じようにどぎつい描写をあしらっていても、白石和彌作品には感じないような類の妙な味の悪さが拭えなかったのだが、並々ならぬ力を持っていることが窺えるものだから、機会あらば、やはり見過ごせない気になる。

 その『さがす』については『岬の兄妹』の警察官に当たるのが島暮らしの独居老人(品川徹)だった。山内照巳(清水尋也)を誘い込んだ後のあの日本刀の影は、13か月前だからってのジェイソンのナタかよと少々萎えた。前作もそうだったように、現代社会のリアルな闇の部分を照射しながら、己が「見せる力」の披露のネタにしている感じが、どうも観た後、釈然としない理由のようだと気づいた。最後の原田父娘(佐藤二朗・伊東蒼)が延々と続ける卓球ラリーの場面に漂う怖さとその運びには感心したけれども、この場面をやりたくてとしか思えない智の交信は、何とでも理由付けはできるものの、その展開はないだろ感のほうが強いように思った。かといって、300万手に入れてめでたしめでたしにもできないだろうし、300万が不意になったなか金蔓を求めての確信的交信だとすると、娘はともかく、観る側に与える意味合いがかなり異なって来ることから、そうもできずにといった作り手事情が透けて見えるような感じで興が削がれてしまった。とのメモを残しながら、映画日誌にはしていなかった。

 本作についても、最初は相性の悪さを感じていたのだが、原作ものゆえか、中村映里子が好演していた福子が覗かせる深淵と蓮っ葉という、女の両極端を包摂する得体の知れない魅力に惹かれて、すっかり観入ってしまった。中村映里子は、二年前にカケラを観、五年余り前に愛の渦を観て感心した覚えがあるが、彼女の出演した未見の片山作品『そこにいた男』['20]を観てみたくなった。

 つげ義春の漫画『雨の中の慾情』は、遠い昔に読んだような気がするものの心許ない。元傷痍軍人と思しき大家の尾弥次(竹中直人)の戦争体験へのつべ義男(成田凌)による追想や、水木しげるを想起させるような隻腕の漫画描きが、原作でも描かれていたのだろうか。本作は、福子と夢子(中西柚貴)の登場する“女なるもの”への妄執に彩られた、なかなかシュールな作品で面白かったが、少々反復が多すぎたきらいもあるように思う。100分内に収まる編集をしていれば、もっと締まりのある映画になったような気がしてならなかった。

 ♪アマポーラ♪の流れるなか、義男と福子が踊るダンスシーンから続く、同曲の変奏のなかで現れるバスタブシーンに至るシークエンスが気に入っている。雨中の不同意性交場面から始まったからといって、福子の勤める喫茶ランボウは“乱暴”ではなく、アルチュール・ランボウなのだろうが、歯型のついた尻を向けて全裸で横たわる福子を目にして義男が矢庭にデッサンを始めたことに対し、彼女が触るのかと思ったら、描くのね。なんで?と言った台詞に触発され、この歯型は彼女のほうから噛んで!と求めて付けたものなのだろうという気がした。だから、そのときの相手は、むろん伊守(森田剛)なのだろうが、彼とはもう終わっている筈の福子の背中に二つの歯形を見つけた義男がまだ伊守と会っていたのかと憤慨していたときの歯形は、おそらく伊守のものではないはずだ。と同時に、義男のその弁からすれば、福子は義男には「噛んで!」と求めなかったことになるわけで、それがまた何ゆえかが妙に感慨深かった。
by ヤマ

'24. 1. 8. TOHOシネマズ8



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