『愛はひとり』(T.R. BASKIN)['71]
監督 ハーバート・ロス

 過日ボーイズ・オン・ザ・サイド['95]を観て、ハーバート・ロスの監督作は、半世紀前にテレビ視聴した『チップス先生、さようなら』に始まり、『グッバイガール』『愛と喝采の日々』『わたしは女優志願』『フットルース』と観ているが、わりと相性がいいような気がする。かねてより気になっている『ボギー!俺も男だ』['72]、『マグノリアの花たち』['89]を早く片付けておきたい気になってきた。と記していたら、本作を観たとのことで高校時分の映画部の部長が貸してくれた。

 富と名声を求めて大都会シカゴに出てきたとのセルマ・リッター(キャンディス・バーゲン)の独り暮らしの索漠とした虚ろを描いてなかなか味のある作品だったが、ラリー(ジェームズ・カーン)がセルマの電話番号を知っているということは、娼婦と誤解されて屈辱感に見舞われながらも、あの後、二人は付き合っていたことになる気がするが、そのうえで何ゆえ、忘れかけていた旧友ジャック(ピーター・ボイル)からの依頼に応えて「娼婦」としての紹介をしたのか不可解で、何とも釈然としないものが残った。

 だが、本作のキャンディス・バーゲンは抜群に好い。背後からチラリと乳房の見えたヌード場面はボディダブルなのだろうが、初対面のジャックと交わす対話のなかで重ねていく“言葉のセックス”によるインティマシーの獲得過程には絶妙なるリアリティがあって、最後の僕の望みが君に伝わってますようにとのジャックの台詞が沁みてきた。半世紀余り前の公開当時、T.R.バスキンの人物造形を人々は、どのように観たのだろう。

 また、YMCAではなく、YWCAというのがあったのかと今ごろになって初めて知った。そのYWCAを知っていたという映画部長は流石、かねてより作品タイトルを知っていたらしいが、観たのは最近とのことだった。ラリーとR.T.の出会いの後の関係をどのように観たかは記していなかったが、ラリーに紹介されたと電話してきたジャックの元を訪ねた動機についてお金の関係でも少しの安らぎと関係、そして物価の高いシカゴで軽くアルバイトと思ったのかと書いていた。だが、僕の目には、ラリーからの挑発的な試しに対する挑発返しの回答として赴いたように映っていた気がする。ジャックは言わば、当て馬のようなものだ。ところが肝心の当て馬が用をなさなかった拍子抜けが、あの大笑いに繋がっていたように思う。

 だから、あなたのことは笑ってないのというセルマの言葉に嘘はなく、映画部長もSNSにそれはジャックの「出来ない」に対してでなく、自分のしていることに笑ったのだろうと書いていたように、ある種の思い切りとともに、素っ裸になって初対面の男のベッドに潜っている自分の間の抜けた滑稽さを笑っていた気がする。そして、おそらくはラリーとも交わしたことのなかったような対話を重ねるなかで、“少しの安らぎと繫がり”を確かに得ていたのだと思う。

 セックスとは畢竟、心身を開いて交わり共有するコミュニケーションのことを言うのであって、着衣か裸体かとか、性器挿入の有無とか、エクスタシーの有無、避妊具などで隔てずに粘膜を直に接触させるか否かなどといった外形的なことによって行為の有無を分け隔てることに意味はなく、その核心からすれば、誰彼となく交わせるものではない深部において交わる“言葉のセックス”という関係性の捉え方というのは当然にしてあるというのが、若かりし頃からの僕の考え方だった。そんなふうなことを懐かしくも思い起こさせてくれる作品だった。
by ヤマ

'25. 7.25. DVD観賞



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