『お坊さまと鉄砲』(The Monk And The Gun)['23]
監督・脚本 パオ・チョニン・ドルジ

 邦題を「僧侶と銃」とはせずに『お坊さまと鉄砲』としていることに相応しいユーモラスなエンディングに前作ブータン 山の教室を想起させる懐の深さを感じると共に、昨今、アメリカのみならず、51番目の州ほどの独立性もない属国に堕してきたように感じる日本での選挙の惨状を目の当たりにするにつけ、実に時宜に適った秀作だと感心した。

 時は2006年、粗末な家屋にパラボラアンテナが据えられ、メディア放送の世界最後進国としてテレビ放送やインターネットがようやく導入されたというブータンが、国民幸福度ランクを上げるべく、国王が行政権を手放す民主化への移行を自ら決断し、選挙によって政府指導者を決めるようにしたことによる「選挙」制度の周知と翌年行なった模擬選挙なるものを国家事業として展開する姿を描いていた。自由と平等を第一に掲げる青色党、産業振興を第一に掲げる赤色党、伝統保守を第一に掲げる黄色党のいずれかに投じさせる模擬選挙でさえ、集まった支持者への豚汁のふるまいやら中古テレビの提供(買収)が起こり、運動員との癒着(利権漁り)を生じさせ、徒に対立と競争を煽る選挙なるものに住民の多くが選挙民名簿への登録に消極的で、古老が乱暴な争いはこの国に似合わないと零す姿が映し出されていた。

 劇中で偉大な民主国家自由国家のリーダーそしてリンカーンとJFKの国と称えられていたアメリカも、今やレーガン~ブッシュ~トランプの国となっているわけで、劇中でのアメリカ称賛の言葉には、作り手による揶揄が多分に含まれている気がしてならなかった。骨董的価値を有する銃の蒐集に訪れていたコレクターの名がロンことロナルド・コールマン(ハリー・アインホーン)だったりするところには、確実にその意が窺えていたように思う。

 高僧ラマ(ケルサン・チョジェ)の使徒タシ(タンディン・ワンチュク)がさしたる意もなく蒐集家垂涎の銃との引き換えに望んだのが、テレビで垣間見たダニエル・クレイグによる007の使っていたAK-47という破格に強力な銃器だったことによる顛末が何とも可笑しく、仲介するベンジ(タンディン・ソナム)にこすっからいところが微塵もないのが気持ちよかった。大金よりもラマの祈りのほうが遥かに価値があり、使えもしない手に余る大金を得ることの無意味を体得している賢さを伝え継いでいる文化の“強欲資本主義に毒されていない心性”が実に美しい。

 そのうえで、資本主義の毒としてのカネと同じような民主主義の毒として、選挙を問うている視座が実に鋭く正鵠を射ている気がした。人々の幸福において政府指導者を民が選ぶことよりも遥かに重要なことは、先立って殺傷兵器たる武器を葬り去ることであり、その正鵠を示していたラマの姿とそのラマの権威に浴する人々を虹の架かる村の姿として映し出していたラストが美しい作品だったように思う。

 そのようなラマを尊するウラ村における模擬選挙結果が歪なまでに黄色党に偏った得票だったことを訝る選挙委員にベンジの妻が黄色は、だって国王を思い出させる色ですからと応え、選挙委員の女性が、そのことは本選挙でも考慮しておかないといけないと自戒していたことも“普通選挙”なるものの心許なさを示すものとして実に的確で鮮やかだと感服した。

 また、ベンジが提供を受けた中古テレビがかつて定番だったソニー製ではなくサムスン製だったことや、AK-47が二丁入ったバッグを抱えたロンと並んでトラックの荷台に座っていた男の抱えていた男根を模した祭事用品と銃の対照が目に留まった。ベンジの機転で逮捕を免れたロンがブータン国軍ですら装備していない強力銃AK-47を供物に捧げて埋葬したことに釣られるようにして、警察官が腰に提げた拳銃を土中に投げ込んだ場面も印象深く、ロンが已む無く行ったことが功徳として称えられ、供物の代わりに授けられていたのが件の男根だったりしたことも愉快だった。

 実際に2008年に第1回普通選挙が実施されたというブータンでの選挙事情は、その後どうなっているのだろう。かつて闘争の末に民主制を獲得する礎の一助となった武器と同様に、現代の選挙制度も今や真の民主制の実現をむしろ損なうほうに作用していることが炙り出されているように感じられる作品だったことからは、大いに気になるところだ。
by ヤマ

'25. 2. 9. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター



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