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『戦場にかける橋』(The Bridge On The River Kwai)['57] 『ナバロンの要塞』(The Guns of Navarone)['61] | |||||
監督 デヴィッド・リーン 監督 J・リー・トンプソン | |||||
先に観た『戦場にかける橋』は、ちょうど三十年前に高知東映でスクリーン観賞して以来の再見だが、人の営みの叡智と愚かしさの対照と共に、リーダーシップとは何かを描いて、不朽の作品だと改めて思った。無音の空撮から始まるオープニングが暗示する無常感が印象深いエンディングだ。最後にニコルスン大佐(アレック・ギネス)が果した爆破は、彼の意思なのか偶然(劇中でも反復される「予期せぬこと」)なのか、観る人によって受け止めが異なりそうで、合評会が楽しみだ。 部下の士官たちに彼が言っていた「仕事に誇りを持たせれば、いい結果が出る」との台詞と、軍医クリプトン(ジェームズ・ドナルド)から利敵行為ではないかと指摘されて「もし君が斎藤に手術をすることになったとき、手を抜くか?」と返していた言葉が印象深い。 階級と規律、建前への拘り方に伺えるニコルスン大佐の英国軍人気質、同質の権威主義的な価値観に縛られながら、リーダーシップの発揮の仕方が対照的で過度に強権的に振舞ったり、懐柔策に出たりと右往左往する斉藤大佐(早川雪洲)に込められていた日本軍人気質、誇り高くも建前や形には囚われず伸び伸びと自己表出するモテ男として登場していたシアーズ少佐を名乗る米軍二等兵(ウィリアム・ホールデン)に窺えるヤンキー気質。それらの対照が鮮やかに活かされたなかで、状況を冷静に見ているクリプトンの姿が印象深かった。 手元にある、恐らくは '73年のリバイバル時のものと思われるチラシでは、ニコルスン中佐となっていて吃驚。斉藤とは大佐同士でないと駄目だろうと思う。シアーズもシャーズとなっていた。そのチラシに「この橋はハリウッドがつくったオープンセットのうちでも最大のもの」と記されている大橋梁が見事に美しく、さればこそ、その爆破シーンが効いてくる堂々たる作品だった。あれだけ立派な、何ヶ月も掛けて苦労して作り上げた大橋梁を今度は爆破することに命を掛ける人の営みの無常と虚しさが、クリプトンの発する「狂ってる、狂ってる」によって際立たされていたような気がする。クリプトンが誰の何を狂気だと言っていると受け取ったか、これもメンバーの意見を訊いてみたいと思った。あれこれとなかなか意味深長な作品だ。 ただ、12日までに現地に辿り着かなくてはいけないのに間に合いかねると言いながら、荷役を担う地元民女性たちとの水浴を楽しんでいるシーンには疑問が湧いた。若きカナダ人兵ジョイス(ジェフリー・ホーン)が殺人に怯んだことによって起こるウォーデン少佐(ジャック・ホーキンス)の負傷に繋げる戦闘なら、何もその場面を設けずともいくらでも配しようがあるもののような気がする。 翌日観た『ナバロンの要塞』は、十代時分にTV視聴した覚えがあるけれども二時間半超の全編を観るのは初めてのような気がする。『戦場にかける橋』と同じく第二次大戦下の1943年に材を得た作品で、こちらのほうは欧州戦線の対独戦だ。『戦場にかける橋』が英米加の混成による爆破隊だったことに対して、こちらは英希軍とレジスタンスの混成小隊だった。そして、爆破された大橋梁から落下する列車の絵が壮観だった『戦場にかける橋』に対抗するかのように爆破された断崖絶壁の要塞から二門の最終兵器的な巨砲が落下する場面が絵になっていたように思う。 他方で、作戦立案したジェンセン准将(ジェームズ・ロバートソン・ジャスティス)ですら任務遂行はほぼ不可能だと覚悟しつつ一縷の望みを託しているような状況のもとで、みすみす餌食になりそうな駆逐艦六隻を投じる作戦なんぞ、日露戦争の二百三高地攻略のような消耗戦になりかねず、補充の利く兵士と違って軍艦を使った消耗戦など仕掛けるものかといった疑念や、レジスタンスとの合流にリスクはあっても意味はなかったように感じられる迂回というか進軍をするのであれば、嵐に見舞われ難破もした挙句に指揮官ロイ・フランクリン少佐(アンソニー・クエイル)が骨折した断崖絶壁を登るルートとは異なる奥地からの合流方法があったはずで、何とも腑に落ちない。そういった点で見せ場づくりのためだけの作戦行動のように感じられるところがやや興醒めな作品だったように思う。 小隊の一等兵スピロ・パパディモス(ジェームズ・ダーレン)と何故か姉弟関係だったレジスタンスのマリア(イレーネ・パパス)が惚れてしまうアンドレア・スタブロウ大佐を演じたアンソニー・クインがなかなか好かった。キース・マロリー大尉(グレゴリー・ペック)がアンナ(ジア・スカラ)に不審を抱いたと思しき際に、キスを誘ってあっさりと篭絡することに成功していた彼女に対し、実はキースは見抜いていたかと思いきやミラー伍長(デヴィッド・ニーヴン)が暴き立てるまで気づいていなかったのが可笑しかった。「みんなと一緒だと強く戦えたのに、一人きりだと…」と零していたアンナが痛ましかった。マリアが信を寄せるだけの活動を、仲間とともにある時はきっと果たしていたのだろう。 合評会では、四年後の『ナバロンの要塞』が『戦場にかける橋』をまるでリライトしたかのようになぞっていることが判明した件での話が盛り上がり、なかなか面白かった。“レジスタンスとの合流にリスクはあっても意味はなかったように感じられる迂回というか進軍をするのであれば、…指揮官ロイ・フランクリン少佐が骨折した断崖絶壁を登るルートとは異なる奥地からの合流方法があったはず”とした部分も『戦場にかける橋』をなぞったからだと観れば、是非はともかく腑に落ちる。そのうえでの両作の違いは、先んじた『戦場にかける橋』に意味深長なテーマ性が折り込まれていたことに対して、後続の『ナバロンの要塞』はエンタメに徹していることのような気がする。後者はまさしく観たまんまであって、観客に問い掛けてくるような部分は殆どなかったのではなかろうか。まさにその点で好みが分かれ、三人のメンバーの支持は2対1で『戦場にかける橋』となった。 ニコルソン大佐による爆破は彼の意思か偶然かについては、逃亡したシアーズが決死隊に加わって戻ってきている姿に軍人としての正気を取り戻したニコルソンが、橋を爆破しようと駆け寄ったものの、予期せぬウォーデン少佐の投じた爆弾で致命傷を負い、前後不覚になったままに起爆装置に倒れ込んだという、言わば遺志の偶発的な実現のようなものではないかという意見が面白かった。意思か偶然かではなく、意思であり偶然だったというわけだ。確かに人の営みというのは、すべからく意思と予期せぬ事と偶然の複合体であると観るべきことを示していると解するほうが妥当だと思う。実に秀逸な場面だと改めて感心した。 また、クリプトンが言っていた狂気が何を指すのかについては、戦争に留まらぬ人の営みそのものなのではないかという僕の意見に添えて、巨大木橋の架かっていた線路脇から川辺にまで降りて来て惨劇の場を見渡すクリプトンの姿には、神の視座というか、オープニングだけでなく最後にも現れていた“飛翔する鳥の姿”が暗示していた俯瞰とも鳥瞰とも言えるものが込められているように思うとの意見があった。 また、両作を通じて最も目を惹いた人物は誰かという問い掛けがあって、僕はクリプトン軍医を挙げたのだが、加えてアンドレア大佐に言及すると、挙ってアンソニー・クインの存在感を支持する声が続いた。アンナをマリアに撃たせたのは何故だと思うかとの問いに対して、ハリウッドの加藤剛ともいうべきグレゴリー・ペックに女性殺しをさせるわけにはいかないからではないかと僕が応えると、ぐずぐずと引金を引けずにいる軟弱マロリーを見かねてマリアがやったのだと思うとの意見があった。至極真っ当な見解だと納得した。 両作の類似性に対しては『ナバロンの要塞』の原作者アリステア・マクリーンに疑いの目を向ける意見もあったのだが、原作小説は映画化作品ほどには映画『戦場にかける橋』をなぞってはいないのではなかろうか。アカデミー賞のノミネートも脚本賞ではなくて脚色賞だし、やったのは製作・脚本のカール・フォアマンのような気がする。 | |||||
by ヤマ '25. 2.11,12. NHKBS録画 | |||||
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